幸運を運ぶ猫は、雨の日に傘をさしてやってくる
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小さなスーツケースとキャリーバッグを抱えた奈々美さんは、公園のベンチに座って小さくため息をつきました。
「これからどうしようかしら」
奈々美さんは、何年もの間お父さんの介護をしていたのですが、お父さんが亡くなった途端、お姉さんとお兄さんに家から追い出されてしまったのです。
奈々美さんのお姉さんは、家族のお姫さまでした。お父さんが遺したお金はお姉さんが全部持っていってしまいました。
奈々美さんのお兄さんは、家族の王子さまでした。お父さんが遺した家と土地は、お兄さんが全部売り払ってしまいました。
奈々美さんには、お父さんが飼っていた黒猫が一匹、遺されただけだったのです。
「ペット可のアパートなんて、簡単に見つかるものかしら」
奈々美さんは悲しくなりましたが、猫を手放す気はありません。お姉さんとお兄さんに任せたら、すぐに保健所に連れていかれてしまうことがよくわかっていたからです。
奈々美さんは、キャリーケースの猫を見ながらつぶやきました。
「お前が長靴をはいた猫なら、わたしも幸せになれるのにね」
黒猫はキャリーの中で、ぐっすり夢の中です。奈々美さんは猫相手に愚痴をこぼしたことを恥ずかしく思い、またため息をつきました。
困ったことに急に雨が振りだしてきました。
ペットを連れたまま、コーヒーショップに入るのはいやがられるでしょう。それにあまり無駄遣いのできない身の上です。
奈々美さんは慌てて雨に濡れないように、遊具の中に潜り込みました。
朝からいろいろなことがあったせいでしょうか、なんだか眠たくなってきます。うつらうつらしたその時です。
「いっしょに、あまやどりさせてください」
はっと前を向くと、不思議なふたり組が立っていました。雨具をばっちり装備した完全猫型の男の子と、猫耳と猫しっぽを付けたJKな女の子です。
「あら、まあ。最近の猫は、長靴をはくだけでなく、傘にレインコートも持ってるのね」
感心した奈々美さんは、もちろん一緒に雨宿りをすることにしました。
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奈々美さんは缶コーヒーを、猫たちは同じく缶に入ったコーンスープを飲みながらおしゃべりをしています。塩分が心配でしたが、男の子と女の子はとても嬉しそうです。
コーンスープを買ってくれたお礼なのか、ふたりは奈々美さんの話をうんうんとうなずきながら聞いてくれました。
「やっぱり、やられっぱなしっていうのは良くないと思うニャ」
コーンが出てこないのでしょうか、缶のおしりをとんとんと叩きながら男の子が言いました。
「『長靴をはいた猫』の三男坊も、公証人を呼んで、遺留分くらいはぶんどるべきだったのよ。あなたも、こんな公園じゃなくって法テラスに行きなさい」
やっぱりコーンが取れないのでしょうか、缶のおしりをとんとんと叩きながら女の子が言いました。
世の中の酸いも甘いも噛み分けたような言葉が身に染みます。やはり猫の世界も人間と同じくらい世知辛いようです。
男の子と女の子はそのまますらすらと、奈々美さんがやるべきことを挙げていきます。
正直なところ、奈々美さんは困ってしまいました。奈々美さんは、お金がほしいわけではないのです。ただみんなで仲良く暮らしたかっただけなのです。
けれど、生きていくためにはお金が必要なことも、誰もがみんな仲良くできるわけではないことも、奈々美さんにはよくわかっていたのでした。
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奈々美さんはまず、男の子と女の子のアドバイス通りに大事な猫を預けることにしました。信頼のおける保護団体に事情を話し、ペット可のアパートが見つかるまで面倒を見てもらうことにしたのです。
もともと奈々美さんは看護師をしていたので、職場には困りませんでした。夜勤もありますが、こちらはお仕事ですからちゃんとお金がもらえます。お父さんの介護をひとりでしていた頃とは、大違いです。
数ヶ月もすれば、奈々美さんは黒猫をちゃんと引き取り、一緒に暮らすことができるようになりました。
看護師のお仕事は、とても大変です。体力だって必要ですし、食事をとることができない時もあります。病気の患者さんやそのご家族に八つ当たりをされることもたくさんあります。
けれど、優しい言葉をかけてもらうことも同じくらいたくさんありました。目をあわせて、ありがとうと言ってくれる人がいます。みんな、奈々美さんを見てくれているのです。
当たり前のことが当たり前でなかった奈々美さんは、嬉しくて涙を流しました。そして、奈々美さんはどんどん綺麗に明るくなっていったのです。
お父さんのお世話をしていた時は、美容院に行く暇もありませんでした。今は、ゆっくりお化粧をする時間もあります。お洋服だって好きなものを着ることができます。お休みの日は、黒猫と一緒に好きなだけお昼寝だってできるのです。
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黒猫と一緒にアパートで暮らすようになってから、奈々美さんはいろいろな男の人に声をかけられるようになりました。
もともと奈々美さんは、いわゆるダメンズと呼ばれる男の人ばかり好きになっていました。そのせいで、お金を騙しとられたり、他の女の人と浮気をされたり、たくさん嫌な目に遭ってきたのです。
ところが、男の子と女の子に会ってからというもの、奈々美さんはダメンズに引っかからなくなりました。
きらきらした奈々美さんには、気がつかないうちに良くない男の人を跳ね返す力ができていたのかもしれません。
そんな奈々美さんは、本屋さんで素敵な男の人に出会いました。びっくりするくらい趣味があう男の人で、ふたりはどんどん仲良くなりました。
奈々美さんが冷蔵庫の残り物でご飯を作ってあげると、魔法みたいだねと喜んでくれます。貧乏くさいと嫌がっていた、奈々美さんのお姉さんやお兄さんとは大違いです。
男の人は奈々美さんが何をしたいのかを聞いてくれます。奈々美さんがちゃんと言えるようになるまで、しっかり待ってくれます。奈々美さんのことを、ワガママで気がきかないと怒ってばかりいたお父さんとは大違いです。
奈々美さんは、どんどん男の人のことが好きになりました。
けれど奈々美さんには、ひとつだけ心配なことがありました。男の人が、黒猫と仲良くできるのかわからなかったのです。
初めて男の人を家に招待したとき、黒猫は、怖がって物陰に隠れてしまうこともなく、ちゃんと挨拶をしてくれました。そして、男の人の上で丸くなりちゃっかり昼寝までしたのです。
それからとんとん拍子で、奈々美さんと男の人は結婚することになりました。ふたりは、男の人のご両親と、大切な友人を招待して、こぢんまりとした式を挙げました。
奈々美さんの結婚式の日は、少しだけ雨が降りました。一日お天気の予定だったのにです。
神社の参道を歩いていた白無垢姿の奈々美さんは、鳥居の影にいた男の子と女の子に気がつきました。参列できなかったはずの黒猫も、ご機嫌な様子で女の子の腕に抱かれています。
奈々美さんは、この幸せを運んでくれた男の子と女の子、そして黒猫にしっかり頭を下げたのでした。
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長い長い時間が経って、奈々美さんはすっかりおばあさんになりました。
黒猫はずっと前に虹の橋を渡ってしまいましたが、おうちには別の猫が一緒に暮らしています。
とある急などしゃ降りの日に、家のお庭に迷い込んできたのです。ちらりと、おんぼろの雨傘と派手なレインコートが見えたような気がしました。
奈々美さんは今でも、突然の雨を楽しみにしています。
雨宿りのお客さまがいつ来てもいいように、おいしいお茶とお菓子、それから缶に入ったコーンスープを準備しているのです。