第5話 少女の寝顔
「もう帰りたい」
「まだ十分もたってないわよ」
翌日の放課後、昨日と同じく図書室で白石と勉強していた。今日は数学の日らしい。白石が用意したらしき自作の問題集と教科書とを交互ににらめっこしていたが、もう飽きた。英語は割と興味がある教科だったけど、数学はダメだ。公式とかどうやって使えばいいかわからん。点P頼むから動かないでくれ。そこの兄弟は一緒に家を出発してくれ、なんで10分後とかずらすんだよ。
心の中で数学に対する恨みを吐いていたらいつの間にか心の声が漏れていたらしい。白石は呆れた表情を浮かべているが、こればっかりは仕方ない。中学のころから数学だけはからっきしだった。
「まだ全く進んでないじゃない、昨日の集中力はどこにいったのよ」
「仕方ないだろ、俺は数学が大の苦手なんだよ。数字を見たら死ぬ病にかかってるかもしれない。ちょっと病院で診てもらうわ」
「訳の分からない理由で逃げないで頂戴。留年したいの?」
「くっ……」
それを言われると弱い。というかそれを引き合いに出してくるとかこいつ何気に性格悪いな。
「でもまじで意味わからん。かろうじて簡単な方程式が解けるレベルの俺にはこの問題は難しすぎる」
「ここは、この数字をこの文字に代入して解くのよ」
「ふむふむ」
いわれた通りに計算してみると、すらすら―っと解くことができた。なんだよ、やればできんじゃん、俺。
「おまえ、教えるの上手いな」
「言いにくいけれど、貴方のレベルが低いのよ」
「満面の笑みで言うな」
楽しそうな表情をしている白石。こいつ俺をからかうときだけは全力だな。
「でもやっぱり難しいな。なんかコツとかはないのか?」
「そうね。こういうのは割と反復練習だから、間違えてもいいからいろんな問題を何回も解いていればそのうち似たような問題が出て解けるようになるわよ」
「そういうのはいいよ。裏技とかないの?これ一つ覚えとけばすべての問題が解けるとか」
「そんなの考えるの貴方くらいでしょ……」
裏技とかはなさそうだ。学問に王道なしとはよく言ったものだ。
そんなこんなで愚痴を続けながらも俺はひたすらに数学の問題を解き続けた。白石に少しずつ解き方のコツを教えてもらいながら、そのあとは俺一人で同じ問題を反復練習した。だんだんと問題の解き方が理解できて、初見の問題にもすぐにあきらめることなく立ち向かうことができた。
ちょうど一区切りついたところで顔を上げると、いつの間にか対面に座っていた白石は舟を漕いでいた。よく考えれば、昨日の英語も今日の数学の問題も全部白石が一人で用意しているんだろう。5教科すべての問題を作るとなると、相当な時間が必要になるに違いない。彼女は俺が留年をするのは放っておけないから面倒を見ているとは言ったがそれにしては力を入れすぎている。ありがたいと思う反面、彼女の真意がわからない。あの事件以来、俺に近づいてくる人間はいなくなった。それ以来、俺は人を簡単に信じなくなった。どうしたって裏があると勘ぐってしまう。悪い癖だ。
これ以上考えるといやな気分になってきたので、思考を打ち切るために白石の寝ている姿を眺める。改めてみたが、やっぱり整っていると思う。きれいな黒髪に長い睫、陶器のように白い肌はまるで人形のようだ。普段はきつい印象を受ける彼女も、今は安心した顔ですやすやと寝ている。俺とは別ベクトルで目立つ彼女は、彼女なりに気苦労があるのだと思う。たぶん彼女も並々ならぬ悩みを抱えて生きてきたんだろう。彼女からは俺と似た雰囲気を感じる。だからだろうか、俺は彼女に興味を抱いている。
思考を巡らせているとだんだん冷静になってきて、今の状況を理解し始めた。客観的にみると俺は美少女の寝顔を凝視する変態にしか見えない。気まずくなって白石から目をそらそうとしたとき、ちょうど彼女の体がぶるっと震えた。そのままゆっくりと瞼を開いた彼女の瞳が俺を捉える。寝顔を見られたことに照れるかと思いきや、白石は半眼でこちらを睨んできた。
「私の寝顔を見てる暇があったら、一問でも多く問題を解いたら?」
相変わらずの鋭い指摘にげんなりした。ずっと寝ていたら可愛いのに……。負けじと白石の顔を眺め続けていると、次第に白石は頬を赤らめて顔を両手で覆ってしまったので、言われた通りに勉強に戻るとしよう。
「今日もありがとな」
「どういたしまして」
空が暗くなり始めるのを合図として、俺らは帰り支度を始めた。結局俺が勉強している間、終始白石は頬を赤くして俺を睨んでいた。俺に寝顔を見られたことがかなり恥ずかしかったようだ。俺としてはいいものが見られたので良かったが白石的には記憶から消し去ってほしいレベルの出来事のようで、今もまだ引きずっていた。
「寝顔は案外可愛かったぞ」
「今日あったことは今すぐ忘れてください。もし今度その話を持ち出したら…」
「持ち出したら?」
「…もう勉強見てあげません」
「それは困るなぁ~」
「にやにやしながら答えないでください!」
べしっとかばんで俺の背中をたたく白石。それすらも照れによる行動だとわかっている俺はますます笑いをこらえるのに必死だった。そのせいで交差点で別れる直前まで、白石は不機嫌なままだった。
遅くて申し訳ありません