第24話 少年と少女
カラン、とグラスに入った氷がぶつかる音がした。その音に意識を引き戻されるように、目の前に座っている北見君に意識を向けた。見れば彼は手に持っていた飲み終わったグラスをテーブルの上に置いていた。
「以上が、一連の暴力事件の真相だ。とはいえ、ほとんど本人から聞いた話だけどな」
その言葉を受けても、私はいまだ言葉を発することができないでいる。頭の中でぐるぐると北見君の言葉がリフレインする。ただ、私は当時の出来事がまるで昨日のことのように想像することができた。だって片桐琴音は――
「やっぱり、君が、あの時の片桐さん、だったのか」
私の思考を先読みしたかのように言う北見君。そう、彼の言う通り、片桐琴音とは紛れもなく私のことだった。当時、両親の都合で地方に転校してから、彼らは離婚した。私は母に引き取られる形で旧姓の白石を名乗り二年間を地方で過ごしてから、今年またこの地に戻ってきた。
「どうりで見覚えがあるわけだ。圭は全く気付いてないみたいだけど」
苦笑いしながら懐かしそうに話す北見君。それからふと笑いを収めて、
「白石さんは気づいてたでしょ?」
と問いかけてきた。私はどうこたえようか迷った末に正直に答えることにした。
「実は、初めて会った時からうすうすそうじゃないかとは思っていたの。ただ確信は得られなかったから、こうして事情を聴きに来たの」
「なるほどな」
彼は得心が言ったようにうなずく。そして、苦々しい表情をした。
「……圭は今も、あの時のことで頭を支配されて思うように行動できてないんだと思う。過去にとらわれて、自分を見失っているんだと思う。だから、君がその呪縛から解き放ってやってくれ。君だから、片桐琴音だから伝わる言葉があると思う。頼む」
そう言って再度頭を下げる北見君。その姿からは本当に親友の身を案じているのが十分に伝わってくる。
「任せて。私だって、あんな神谷君は見たくないもの」
そう言って勢いよく立つ私に、彼は安堵した笑みを浮かべるのだった。
☆
「……何しに来たんだよ」
俺は授業が終わるや否や、さっさとかばんを掴んで教室を出て通学路を歩いていた。白石と顔を合わせないようにするためだ。だが、彼女は俺を追ってここまで来たようだ。
「話があるの、付き合ってもらえるかしら」
「だから無理だって言ってるだろ」
「大事な、話なの」
声が震えてる。見れば彼女は目に意志が宿ったように真剣な表情をしていた。何が彼女をそこまで駆り立てているのかはわからない。だが、なぜか、これを断ってしまったらきっと後悔するだろうことはわかった。根拠はない、おそらく直感だろう。
「わかった」
「ありがとう。ついてきて」
そう言って白石は長い黒髪を翻して歩いていく。それがいつもの彼女らしい行動だったことに、場違いではあるがほんの少しだけ懐かしく思いながら後を追った。
「ここは……」
俺はその場所にすぐに踏み入ることができなかった。それは俺と『彼女』が言葉を交わしあったあの公園だったからだ。あの日、彼女の独白を聞いた場所だった。子供たちの元気な声が響いていた公園も、今は遊具が少しずつ取り壊されていて、あのころの面影はだんだんと薄くなっていた。だがあのベンチだけはまだ健在だった。
白石はためらいなく、そして偶然にもあの日彼女が座っていた場所から寸分たがわぬ位置に正確に腰を下ろした。その姿があの日の『彼女』と重なった。
「神谷君」
俺が一歩も動けないでいるのにしびれを切らしたのか、彼女はせかすように俺の名前を呼んだ。その声にはじかれるように動いて、白石の隣に座る。俺と彼女の距離は、ほんの数十センチしか離れていない。
「それで、何の用だ、ここまで連れてきて」
俺は本題を思い出してそう問いかける。彼女が俺に話したいこと。十中八九、中学時代のことだろう。それを知って白石はこの場所を選んだのか?いや、仮に龍太から話を聞いたところでこの場所までは正確にあいつも知らないはずだ。ただの偶然だろう。
「私と初めて会った時のこと、覚えてる?」
「あ、ああ」
その言葉に俺はすこし拍子抜けした。てっきり俺の話について聞かれると思ってたから、この流れは想定外だ。とはいえ、俺にとってはそっちの方が都合がいい。
「私が地図とにらめっこしてた時、貴方は声をかけてくれたわ」
「あのままだったら永遠に迷子ちゃんだったからな」
「余計なお世話よ」
可愛く頬を膨らましながら若干不機嫌になる白石。
「その日の放課後、今度は夕日を眺めてた私をストーカーしてたわよね、神谷君」
「だから違うって何度言えばわかるんだよ……」
もう訂正するのもめんどくさくなってきた。それを知ってか知らずか彼女はくすくすと忍び笑いをする。
「そのあとスーパーに行って、貴方の夕食を奢らされたわ」
「お前が勝手にやったことだろ……」
呆れてものも言えない。
「ゲーセンにも行ったわね。あれはぼったくりよ」
「あれはそういうもんだからな、諦めろ」
白石が必死に頑張っていた姿はいまでも鮮明に浮かぶ。
「それから図書館で勉強会もしたわ。あなたは打ち上げやカラオケばかり楽しんでいたけどね」
「その節はどうもありがとうございました」
これについては彼女に頭が上がらない。
「夏祭りにも行ったわ。といってもつい最近のことだけどね」
「まあお前が楽しんでて何よりだったよ」
「……あなたは楽しくなかったの?」
再度不機嫌になる白石。だがもちろん答えは決まってる。
「新鮮で楽しかった。……浴衣も、似合ってたと思うぞ。うん」
「……それならいいわ」
白石は少し顔を赤らめて視線をそらした。ただ俺も俺で自分の言葉に恥ずかしくなって彼女の顔をまともに見れなくなっていた。
「ま、まあそれはおいといて。本当に、いろんなことがあったわね」
「そうだな」
まだそんなに経ってないはずなのに、白石がそんな風に話すせいですべてが遠い昔のことのように思えてくる。彼女はもうじき沈みそうな夕日を眺めながら、懐かしむようにそう言った。その姿が、あの日一緒に見た花火の時の姿と重なる。
それから彼女はこちらを向いて一言、
「貴方はかわらないわね、昔から」
そう言った。その言いぐさは、まるで俺の昔の姿を知っているようだった。
「聞いたわ、あなたの過去を」
その言葉に、意外にも俺は動じなかった。彼女が再び俺の前に現れた時点で、大方の予想はついていた。
「……そうか」
だというのに、俺はかろうじて絞り出すようにそう言うことしかできなかった。
「彼女は、幸せだったと思うわ。貴方に助けてもらえて」
その言葉に、俺は顔中が熱くなるのを感じた。
「そんな安っぽい同情なんてこれっぽっちも欲しくない。お前に分かるか?彼女が苦しみもがいて助けを求めてくれたのに、何一つ彼女の想いに報いることができなかったときの無力さを。中途半端に助言をしたせいで、余計に状況が悪化した時の後悔を。愚かなことにその時、俺は間違えたことにすら気づかず、あまつさえ自分が彼女を救ったんだと自己満足にすら浸っていたんだ。俺が、彼女を苦しめてたんだよ!」
「違う!」
俺の心の叫びを、彼女は否定する。
「貴方が手を差し伸べてあげなかったら、彼女はずっと一人で苦しんでいた。どうすればいいかわからず、彼女の心は壊れていた。貴方がいたから、彼女は立ち上がる勇気を持つことができた。貴方は、彼女の心の支えだったはずよ!」
白石は優しい。彼女は俺がやったことが正しかったと、間違ってなんていなかったと言ってくれている。いっそのこと、その甘い言葉に身を委ねてしまえば、こんなにも苦しくなることはないだろう。
――でも、俺はこれからも苦しまなければならない。彼女に顔向けできるように。




