第23話 少年と過去 8
「……神谷君が、何かやってくれたんだよね?」
片桐に誘われる形で俺たちは教室を出てそのまま前回訪れた公園に来ていた。遊具エリアでは小学生たちが声を上げながら楽しそうに遊んでいる。それを横目に俺と片桐はそこから遠く離れたベンチに腰を掛けると、彼女は躊躇いながらもそう問いかけた。
「昨日の放課後、田島先生に呼び出されたの。また何かされると思って怖かったけど、行ってみたらあの件のことで謝罪をされたの。びっくりして何も言えなかったけど、もう二度とやらないって言われたから許しちゃった」
軽い感じで言う片桐。俺はその場面を見ていないが、俺の目論見通り先生はきちんと片桐に謝罪をしてくれたらしい。二度と近づかないことも明言しているからその件に関しては一応は解決したようだ。
「実は私、まだ完全に田島先生を許したわけじゃないんだよね。自分が何をされそうになったか、ていうのは理解しているから。今も田島先生だけじゃなく、男の人が、怖い」
そういう彼女の目には怯えが見える。多少は信頼していた大人の男性に思い切って相談したら襲われた、なんて一生もののトラウマにならないほうがおかしい。そして、今の状況も彼女にとっては油断ならないはずだ。なんせ――
「……俺も男なんだけどな」
自嘲気味に言う。悲しいことに、俺も同じ男性だ。今もきっと怖いだろうに、それでも話をしてくれる片桐に申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
だが、彼女は静かに首を左右に振った。
「ちがうの。確かに神谷君は男の子だけど、田島先生とは違う。あの時の神谷君は本気で私を助けてくれた。私が叫んだら、助けに来てくれた。そして今も、私が知らないところで私を助けてくれた」
そう言いながら俺の目を見つめる片桐。ただ俺は一点のみ、片桐に対して罪悪感を感じていたためまともに片桐の顔を見ることができなかった。
それを不思議に思ったのか片桐は視線を下に落として、少し驚いた顔をする。なんだろうと思ってその視線を追うと、そこには一昨日、先生を殴った時にできたこぶしの傷を隠すための絆創膏が貼られていた。
「い、いや、これは……」
そう言って俺は右手を背中側に隠して片桐から見えないようにする。だがしっかりと見られていたようで、彼女の顔が少し曇る。
「……それはもしかして、先生を殴った時にできた傷?」
「……これは、俺が自分で考えてしたことだ。お前のせいじゃない」
実際、あの時俺は誰のために殴ったのか自分でもわかってない。尊敬していた田島先生に失望したから?片桐の異常に気づけなかった自分に苛立ったから?多分、様々な想いがあったからだと思う。
「……けど、お前との約束は破ってしまった。すまない」
だが、理由があるにしろ、『殴ることはしないで』といった片桐との約束を破ったことはかわらない。許してもらえるとは思わないが、俺は目をつむって謝罪をした。半ばうなだれるような形で頭を下げていると、俺の右手にふわりと温かい温度が伝わってくる。目を開けると、片桐の両手が俺の右手をやさしく包んでいた。
「ありがとう」
ちいさく、けどはっきりとした声音が響いた。頭を上げるとそこには目を閉じながら何かに思いを馳せる片桐の姿があった。
「確かに殴ってほしくはなかった。神谷君が傷つくのが一番嫌だった。けど、多分それは私のために怒ってくれたんでしょ?」
「いや、俺は自分のために……」
「それでも、結果的に私を助けてくれた」
そう言って目を開ける彼女はやさしい表情をしていた。
「傷を負ってまで私を守ってくれたこと。すごく、すごく、うれしい」
そう言われては俺からは何も言うことができなかった。しばらくして俺は女の子から手を握られている状況に気恥ずかしくなってするりと片桐の両手から右手を抜くと、話題を変えるために話しかけた。
「俺のことはいい、そっちはどうなった?」
「……」
彼女の表情が露骨に曇る。その表情からあからさまにうまくいってないことが分かった。
「……私、疲れちゃった」
「……え?」
そういう彼女の顔には諦観の念が浮かんでいた。
「勇気を振り絞ってやめてって、もうこんなことしないでって、言えたところまではよかった。けど、それくらいでいじめが収まると思ってた私が甘かった。ちょっとずつ、いじめがエスカレートしてた」
「なっ……」
その言葉に俺はひどく狼狽した。俺が田島先生と交渉している間にそんなことが?
「だんだんとモノを隠される頻度が多くなって、上履きまでなくなることもあったしね」
片桐は乾いた笑いを漏らす。その声音は隠されたことに対する怒りというより、もうどうにもならないという諦めの色が強かった。
……俺は、何をしていたんだ?自分の人生の方向を決めた恩師を殴ってまで片桐を助けたとこまではよかった。でも、そこで満足していなかったか?先生との確執を解決することで片桐の環境がすべていい方向に向かうと思っていなかったか?根本的な問題を、見失っていなかったか?
また、俺は自己満足に走っていたのか。片桐を助けるという大義名分を振りかざして、正義のヒーローになった気分を味わって、でもその実、片桐の問題に対して何一つ成果をあげられていない。つくづく、自分が嫌になる。
「それと、ごめんね、神谷君」
いつのまにか下を向いていた俺に申し訳なさそうに謝罪する片桐。
「私、一週間後に引っ越しするんだ」
「……は?」
続けざまに明かされた衝撃の事実に、一瞬何を言われたのかわからなかった。
「クラスのみんなには伝えてないよ、どうせ言ったところで興味もないだろうし、先生にも言わないように伝えたから」
「ま、まてよ。学校はどうするんだよ。夏休みあけたら戻ってくるのか?」
「ううん、戻らないと思う。転校するんだ、私」
頭の中が真っ白になる。今、片桐から放たれた言葉を理解することができない。焦点の定まらぬまま片桐のほうを見ると、彼女は無言でこちらを見つめ返してくる。
「……いじめが原因、なのか?」
「ううん、違うの。実は、私の両親の都合でね」
そう言って再度乾いた笑いをする片桐。触り程度には知っていたが、片桐の両親はあまり仲が良くないらしい。いじめのことを相談すらできない状態だとも聞いていた。それも遠因となってか今のいじめ問題を引き起こしているのかもしれない。
「……ごめん」
「なんで、神谷君が謝るの?」
理由はわからないが、知らず知らずのうちに謝っていた。その言葉を受けた片桐は心なしか悲しそうな声を出す。
「いや、すまない。そうか、引っ越しするのか。寂しくなるな」
「うん……」
だんだんと口数が少なくなってくる。互いに何を話せばいいのか分からなくなっている。そのまましばらくすると五時を告げる鐘が町中に鳴り響いた。
それが合図のように、片桐はベンチから立ち上がると、座っている俺を見下ろす。つられて俺も立ち上がる。
「じゃあね、神谷君」
「……またな」
そう言って彼女は公園を去っていく。その後姿はいつも以上に悲し気な雰囲気が漂っていた。俺は最後まで彼女に言葉をかけることができず、ただ見送ることしかできなかった。
一週間後。
クラスで本を読んでいたおとなしい彼女――
――片桐琴音は、この地を去った。
もうすぐ最終話です。今までお付き合いいただきありがとうございます。もう少しお付き合いいただけたらなと思います。




