第22話 少年と過去 7
手にわずかな痛みと熱を感じながら、俺は前方で倒れている田島先生に怒りの目を向けた。先生は一瞬何が起こったのかわかっていなかったようで、目を白黒させて左頬に手を当てていた。
「彼女が、どんな気持ちで相談したのか、わかるか!?いじめに必死に耐えて、耐えて、耐えて!それでも耐え切れなかったから、お前のところに来たんだぞ!?もう心が限界なところまで来ていたのに、お前はそれにさらに追い打ちをかけるような真似をしたんだぞ!?」
彼女は心の中で泣いていた。誰にも助けを乞うことができず、ただ一人孤独と戦っていた。心の叫びをだれにも打ち明けることができず、一人で抱えていた。それは、まだ思春期真っ最中の中学生にとっては受け止めきれないほど辛いはずだ。
だが、俺はそれに気づけなかった。小学生の頃の俺は、自分を顧みず助けを求めている子のところへ向かったはずだったのに。俺は弱い者の味方だと思っていたのに。人の気持ちを汲んでやれる奴だと、思っていたのに。俺はついぞ、彼女の異変に気づくことができなかった。それが、何よりも恥ずかしく、許せなかった。俺は先生に、というよりは自分に言い聞かせるようにそう叫んでいた。
俺は、正義のヒーローを気取っている自分に酔っていたんだ。テレビに出てくるヒーローが、悪役を退治するかのように。そのことに、幼いころの俺は気づくことができず、散々間違えてきた。
――だから、今度は間違えない。
先生はいまだ尻もちをついて倒れていたが、殴られたことを理解すると、口の端が歪み、憐れむような眼でこちらを見た。
「殴ってしまったら、終わりだな」
そう言って先生はゆっくりと立ち上がる。
「暴力を働いたものはその理由にかかわらず、例外なく悪者のレッテルを貼られる。これも、この世の常識だな」
先生は愉快そうに笑いながらそう言った。だが、俺も煽るように笑いながら言い放つ。
「俺が悪者になることで片桐を助けられるなら、願ったりかなったりだな」
その言葉に先生は驚いて、恐ろしいものを見るような眼をした。
「君は、世間体や体裁を気にしないのか?人から奇異な目で見られることを厭わないのか?」
「そればかり気にして先生みたいな人間になるのは死んでもごめんなので」
俺は今まで自分勝手に生きてきた。助けを求めている子がいればそこまで行く。だが、今考えてみればそれも全部自分のエゴなんだろう。本当に助けたい気持ちがあるならまずは事情を聴いてその子がどうしたいかを聞くべきだ。現にことが終わった後の処理はすべて俺が知らないうちに龍太が何とかしてくれていた。
いま俺がやっていることも、もしかしたら片桐は望んでないことなのかもしれない。あの時、片桐は殴ることだけはしてほしくないと言っていた。先生と同じ人になってしまうと。だが、俺は我慢できなかった。あそこで殴らなかったら俺は先生の言葉が正しいということを肯定するのと同じだから。
小学生のころから何一つ成長していない。今ももしかしたら自己陶酔しているのかもしれない。それでも、『片桐を助けたい』というその言葉は、偽らざる本心だ。
「片桐に一言謝れ、そして今後、彼女に近づくな。本気で助けを求めた彼女の心を踏みにじるな」
「……いやだと言ったら?」
さっき俺が言ったことを真似るかのように先生はそう言った。だが俺はそれには答えずポケットをまさぐると一つの小さな機械を取り出した。
「今の俺たちの会話を録音したものだ。先生が喋っていたことはもちろん、俺が殴った時の音も録音されている」
俺はひらひらと録音機を振りながらそう言った。
「確かに、これだけじゃ先生が片桐に対して何を行ったかなんてのはわからない。もしかしたら大した効果もなく俺の暴力沙汰だけが取り上げられるかもしれない。ただ、先生がこういう思想の持ち主と知られるだけでも、先生にとっては大きな被害になるだろう?」
「……なるほど。教師を相手に脅迫とはね」
先生は怖いくらい平坦な口調でそう言った。その抑揚のない声が静かな怒りを秘めていることを表していた。だが、俺はそれに怖気ることなく先生のほうを見て不敵に笑った。
「さ、どうします?」
張り詰めた空気が部屋中に漂う。俺の言葉を吟味するかのようにあごに手をやりながら考えている先生。だがしばらくすると、ふっ、と息が漏れたような音がしたかと思うと、先生は顔を上げてこちらを向く。
「リスクリターンを考慮した結果、今回は身を引くことにするよ、神谷君」
その言葉に俺は腰が抜けそうになるのを懸命に踏ん張りながら不敵な笑みを浮かべる。どうやら脅迫、もとい交渉は無事に成功したようだ。
「君はその録音を証拠として提出しない代わりに、私は片桐に謝罪して今後二度と近づかないようにする、ということでいいかな?」
俺は小さくうなずく。
「では、今後とも良好な関係を築いていきましょうね、田島先生」
そう言って俺は傍らに放置してあったカバンを掴んで職員室を後にした。
☆
件の脅迫から二日後。三時間目の授業を終え、終業式も終えるといよいよクラスは夏休みムードとなった。一斉に席を立って夏休みの予定などを友人たちと計画しながら教室を出ていく生徒たち。しばらくすると、教室の中には数人の生徒しか残っていなかった。その中には、片桐の姿もあった。
今日から夏休みで部活が休みだった俺は、久しぶりに羽を伸ばそうかとどこに行こうか考えながらかばんを持つと、それを見計らったように片桐もかばんを持ってこちらに向かってくるのが見えた。俺の目の前までやってきた彼女の瞳からは期待と不安の色が感じ取れた。
「すこし、付き合ってもらってもいいかな」
……俺は、片桐からデートに誘われたようだ。
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