第21話 少年と過去 6
事件から翌日。普段通りに学校に登校すると、いつもと変わらない騒がしさがそこにはあった。数人のグループで固まって談笑している女子生徒。教室の後ろで野球ごっこを始める男子生徒。呆れるくらい、いつも通りだ。
そのせいか、ひときわ浮いてしまっている一人の女子生徒が余計に目立つ。普段なら気にも留めなかったはずだが、今は違う。片桐は席に座って静かに本を読んでいた。たぶん、これが普段の彼女なんだろう。
「お、おはよう」
ばれない程度にちらちらと彼女を観察していると、後ろから頼りない声が聞こえた。振り返るとそこには少しばかり笑顔のぎこちない龍太が立っていた。
「おはよう、龍太。なんだか元気がなさそうに見えるが、大丈夫か?」
「き、昨日の部活がちょっとハードでさ」
「あ、そういえば昨日は一緒に帰ってやれなかった。すまん」
「き、気にすんなよ。俺も実は部活が長引いちゃってさあ、あはは……」
乾いた笑いをこぼす龍太。正直事情が事情なだけに説明することはできない。龍太もそんなに気にしていない様子だったのが幸いだった。
他愛無い話をしていると、チャイムが鳴って、担任の田島先生が入ってきた。昨日とは打って変わって今日も笑顔の仮面を振りまいている。その姿がひどく滑稽に見えて、思わず笑いがこみあげてくる。
――嘘だ。そんなに笑い話にできるほど俺の中で消化しきれていない。今も怒りと失望がごちゃ混ぜになっている。
そんな気も知らずに淡々と朝の報告を済ましていく先生。HRの終わりがけ、先生と目が合った。俺にしかわからない程度に口の端をゆがめた。
「神谷君、放課後に職員室に来るように」
そう言い残して先生は教室を出て行った。
☆
授業を受けているとき、休み時間になった時、そして今、昼休みになった途端にクラスからの視線を感じた。原因はおそらく朝の呼び出し。田島先生はめったに呼び出しを行わない。というのも彼の性格的にいい話も悪い話も流れでさらっといえる教師だからだ。いい話なら大仰にほめ、悪い話なら深刻にならず、それでいてふざけない程度に注意をする。そういうのも彼の魅力なんだろう。
だからこそ、クラスの前で言うのを憚られるほどのことをしたと思われている俺に好奇の視線が集まるのも仕方がないことだと思う。ただ当人の俺も呼び出される意味が分からない。もちろん、昨日の片桐がらみなのは予想がつくが、俺に話となると、口封じのための交渉ぐらいしか思いつかない。
このまま考えても無駄だと感じた俺は思考を打ち切り、龍太と机を合わせて昼食をとる。龍太こそ人目もはばからずに根掘り葉掘り聞いてくるかと思ったが、珍しく今日は何も聞いてこなかった。
そういえば片桐はどうしてるんだろうか。そう思って彼女の席に目を向けると、背筋を伸ばして、凛とした姿で前を見据えていた。その背中が、いじめに屈しないという決意だと、俺だけは理解していた。
☆
放課後になった途端にずるずると沈むこむように椅子にもたれかかる。肩の力が抜け、そこでようやく自分がいつもより気を張っていたことに気づいた。授業中の間、ずっと田島先生の呼び出しのことで頭がいっぱいになり勉強にも手がつかなかった。
周りを見回すと、もう教室の中は数人の生徒しかいなかった。呼び出しがあったとはいえ、今日も陸上部は活動しているはずだ。あまり時間をかけていられない。
そう考えて俺は勢いよくかばんを掴んで教室を後にした。
「失礼しまーす」
元気よく挨拶をしながら職員室のドアを開ける。中に入ると、意外にも田島先生以外は不在の様だった。そういえば、今日は月の一度の職員会議があると言っていたはず。さすがに職員室をもぬけの殻にするのは防犯上まずいと判断したうえでの処置なのだろう。ただ俺にとっても、そしておそらく田島先生にとってもこの状況は都合がいいはずだ。
「やあ神谷君。待ってたよ」
「……ここまでするとはずいぶんと用意周到ですね」
偶然にしてはあまりにも場が整いすぎている。
「何の話だ?まあそれより、ちょっとした話がしたくてな」
「俺にはないですね」
俺が挑発するようにそう言う。だが先生はあくまで笑顔を崩さない。
「まあちょっとしたお願いがある。片桐の件は君には黙っててもらいたい」
……ずいぶんとストレートに来たな。もうちょっと遠回りに脅迫をしてくるかと思ったが。
「……いやだと言ったら?」
「いや、君はそうするしか手段がないんだよ」
余裕綽綽の顔で彼はそう言う。何か策があるのか?いや、あの場面をみられて困るのは明らかに先生側だし、その件で俺を脅迫するようなネタもないはずだ。
「君、この学校での俺の立場を知ってるか?」
「はい?」
一瞬、話の流れが見えなくなった。片桐の件と、彼の学校の立場がどう関係するのだろうか。
「誠実で、人望厚く、生徒教師問わず信頼を寄せられている。教師の鑑の様な人物像。それがこの学校での俺の評価だ」
「とんでもなく自己評価の高いナルシストですね」
「ああ、これは自慢でも何でもないからな。ただの事実だ」
先生はいたってまじめな口調でそう言い切った。
「それで、なにがいいたいんです?」
「簡単だよ。信用の差だ」
彼はまるで小さな子供に諭すようにそう言った。
「生徒や教師たちは、俺と君、どちらの話を信じると思う?」
「っ!!!」
彼の言葉に背筋が凍りつくのを感じた。改めて目の前に立ちはだかるのが、醜悪な笑みを浮かべる強大な『怪物』であることに気づいたのだ。
「この人間社会は信用で成り立っている。学歴、地位、名誉、その他諸々がその人間の世間的評価を形作る。その人の今までの行動が、その人の評価を決める。善い行いをすれば、よい評価が得られる、当たり前のことだ。逆に、信用さえあればその人間の行動はすべて肯定される。発言の正しさは内容で決まるんじゃない、その人間の信用によって決まるんだ。何を言ったかよりも、誰が言ったかが重要だ。それが、この世界の常識だ」
それがこの世の真理だとでも言わんばかりに。ひとかけらも自分の正しさを疑わないその姿にひどく怖気がした。
自分はえらい人間だから何を言ってもいい。何をしてもいい。今までの自分の実績が、成果が、自分の行動を肯定してくれる。すべての行いを、世間が認めてくれる。それに慣れてしまうと、自分のやってることが正しいのか間違っているのか、それすらも分からなくなる。
「君が片桐の件を暴露しても、私が誠心誠意事情を説明すれば上の人たちは一にも二もなく信じてくれるだろう。そのうえで、君に過失があったことを報告すればいい。そうだな、例えば部活のレギュラーに選ばれなくて苛立って片桐に八つ当たりしてしまった、とか。それすらも彼らは信じてくれるし、生徒たちも俺の味方になってくれるだろう。なんせ君は、小学生のころから暴力を起こすことで有名だからな」
「そんなの、まかり通るわけが……」
そう言いながらも、俺の頭の中は冷静に物事を処理していた。おそらく、全て彼の言う通りになるだろうと。過去の俺の行いが今の俺を苦しめていたことを、今更ながら痛感した。
「君も、自分が大事だろう?なら、何をすればいいかわかるはずだ」
我が身可愛さに、見て見ぬふりをする?
先生に媚びへつらって、自分だけでも助けてもらう?
……泣いている女の子を、見捨てる?
――そんなの、まっぴらごめんだ。
俺は、ゆっくりと先生のほうへ歩く。体一つ分の距離まで近づいてから、俺は先生の目を正面から捉える。
「……ごめんな、片桐」
そのつぶやきに満足したのか、先生は右手を差し出してきた。
「交渉成立だな」
その言葉に俺は頷いて、先生の握手に応じるべく、ゆっくりと肩の高さまで右手を持ち上げた。
ごめんな、片桐。約束、守れなくて。
心の中でそう思いながら、俺は――
――先生をぶん殴った。