第20話 少年と過去 5
夢だったらよかったのに。
夕暮れの教室、いたいけな少女に手をかける教師。悲鳴を上げて逃れようとする少女。田島先生によく似た人と、片桐によく似た人。ああ、まるで漫画かドラマの出来事じゃないか。現実なわけがない。
多分別人なんだろう。あの人は田島先生じゃない。田島先生はもっと熱く、誠実な先生で、誰にでも分け隔てなく接してくれて、教師の鑑みたいな人だ。あんな人間として最底辺で、愚かな行為をするような人じゃない。
ああ、これは悪夢なんだ。早く覚めてくれ。こんな夢、一秒だって見たくない。田島先生に似た人がこんな行為を犯すなんて、風評被害もいいとこだ。
――鼻をすする音が聞こえた気がした。
その音の所在を探そうと目を向けると一人の少女が泣いていた。衣服がところどころ乱れているのをかき集めるかのように胸に手繰り寄せている。その人は紛れもなく、俺のクラスメイト、片桐だった。
「だいじょうぶ、か?」
慎重に声をかけると片桐は肩をびくっと震わしてこちらをみる。その双眸には大粒の雫がとめどなく流れている。それに気づいた彼女は急いで袖で目元をぬぐって、
「うん」
と一言だけ言った。ただその声には微塵も元気が感じられなかった。
「……さっきはありがとう。じゃあ」
警戒の色を解かぬまま荷物をまとめて彼女も教室を出ていこうとする。
「待ってくれ!」
俺はとっさにそう叫んでいた。その声の大きさに驚いたのか彼女は恐る恐るといった感じで振り返る。
「その状態だったらまたいつ襲われるかわからない。せめて、離れててもいいから俺と一緒に帰らないか?」
我ながら相手のことを何も考えてない言いざまだと思う。今しがた襲われた事実を鑑みても彼女は当分の間は異性と一緒にいることだけでも苦痛に感じるだろう。
……ただ、このまま彼女を一人にしてしまうことはどうしてもできなかった。教師にすら、いや、あの教師だからこそ相談できない内容を一人で抱えてしまったら、彼女は壊れてしまう。
「……ダメ、か?」
正直断られる可能性のほうが高いのは覚悟していた。俺の言葉を聞いて、彼女は顔を俯かせて黙りこくってしまった。だがすぐに顔を上げると意外な返答が返ってきた。
「……じゃあ、お願い」
俺の提案に、彼女は静かに了承した。
☆
校門を抜けると、頬を撫でる程度の風が吹いていた。その風からはもうじき静かな夜が訪れるだろうことが予感できた。
学校の外に出てから片桐はずっと黙ったままだった。意外だったのは彼女が俺の隣を歩いていることだった。彼女の心情的にもっと離れて歩くかと思ったからだ。
「その、さっきはすまなかった」
「え?」
俺の謝罪に彼女は不思議そうな顔をする。ただ、これだけは言っておかなければならない。
「無理に付き合わせてすまなかったな。本当は俺と一緒にいることすら嫌なはずなのに」
彼女はおとなしい性格だから、おそらく人からの頼みごとを無碍にできないのだろう。そこに付け込んだわけではないが、不必要な心労を煩わせてしまったのは俺の責任だ。
そのことについて誠心誠意頭を下げて謝罪をすると、
「頭を上げて」
と、上から声が降ってきた。頭を上げると彼女は真剣な顔でさっき俺がしたように頭を下げた。
「助けてくれてありがとう」
逆に感謝されてしまった。正直迷惑になっていないかと。本当は嫌なんじゃないかと。
片桐のその言葉を聞いて、ほっとした。
「私、怖かった。まさか、田島先生にあんなことされるとは思わなくて。それで、それで……」
彼女の目元に涙が浮かんでいる。さっきの光景を思い出してまた怖くなってしまったんだろう。
「でも、神谷君が助けに来てくれた」
そう言って彼女はこちらをじっと見つめる。その顔にはいまだ怯えは拭いきれないが、それでも先ほどよりは柔らかな表情になっている。
「……なにがあったか、聞いてもいいか?」
彼女は何も言わず俺よりも数歩先進んだ後、振り返った。
「じゃあ、聞いてもらってもいい、かな?」
今にも泣きそうな顔で彼女はそう言った。
☆
帰り道の途中にある公園のベンチに俺たちは腰を下ろしていた。辺りはだんだんと暗くなって、ぽつぽつと街灯がつき始めた。
話を聞いているうちにどうやら片桐を取り巻く環境は、俺が想像をしていたよりもちょっとだけ深刻な状況だったらしい。殴る蹴るなどの直接的な暴力ではないにしろ、彼女はクラスで軽度のいじめにあっていたらしい。主犯はどうやら女子グループのトップ層に位置している奴らだった。気まぐれに無視する、ものを隠す、掃除当番を押し付ける、など。時にはパシリに使われていたこともあるらしい。俺が気付かないくらいだから、ばれないように徹底していたのだろう。
きっかけはおそらくこのおとなしい性格と、美人でどこか大人びた感じが同級生のやつらには気に入らなかったのだろう。
そのせいで友人もいなかった片桐は本当に頼れる人間がいなかった。更には不幸が重なるように片桐の両親もあまり仲が良くないようで、いよいよ彼女の居場所はなくなっていた。それで彼女は担任の田島先生に相談した。だが田島先生は『教育的指導』と称して彼女に淫らなことをしようとした。確かに片桐はそこらの芸能人にも引けをとらないレベルの可愛い女の子だ。
けど、田島先生がやったことは明らかに犯罪だ。自分の教え子に対して不埒な行為をして逮捕されているニュースも最近は多くなってきている。
だが、話を聞いて俺は『自己』というものがどんどん歪んでいくのを感じた。彼女が嘘をついているとは思ってないが、俺が尊敬し、憧れた先生が、犯罪まがいのことをした?俺の目標だった人はどこに行った?あれだけ信頼しきっていた人間が、実は犯罪予備軍でした、なんて信じられるわけがない。
「ちょっと、すっきりした」
彼女のその言葉で意識が強制的に引き戻される。そちらの方を見ると彼女は晴れ晴れとした表情で空を見上げている。
「田島先生はすごく怖かったけど、こうして誰かに悩みを打ち明けるだけでも、心が軽くなったよ」
「あ、ああ」
正直俺も気が気ではない。今すぐにでも田島先生に事情を聴きに行きたいぐらいだ。だが、今は目の前の少女のケアが先だ。
「ありがとね、神谷君。話を聞いてくれて」
「いや、特に俺は何もできなかったし。ただ、田島先生が今度そんなことしたら、俺がぶん殴ってやるよ」
片桐は驚いた表情で俺を見る。それから目をつむって、何かを噛み締めるようにつぶやいた。
「うれしい。すごく、うれしい。けど……」
「?」
不自然に言葉を切った片桐。それを不思議に思って彼女のほうを見ると、彼女は突然両手で俺の右手をやさしく包み込んだ。びっくりした俺はその手を振りほどこうとして――できなかった。彼女の真剣な表情に呑まれてしまったから。
「殴ることだけは、しないで。それじゃ、神谷君も、あの人みたいになっちゃう、から」
彼女は泣きそうな声でそう言った。
「……たぶん、な」
俺はそういうしかなかった。確約はできない。俺は今まで、あらゆる問題を、拳で解決してきてしまったから。
「私、明日から頑張ってみるから。自分を変えるために」
「……具体的には、どうする気なんだ?」
「まだ、わかんない。けど、がんばってみる」
そう言って彼女は俺の右手から手を放し、遠くの月に目を向けた。その姿は凛々しく、美しかった。
「じゃあ、また明日」
「……おう」
彼女は手を振ってすたすたと公園から出ていく。彼女が見えなくなるまでその後ろ姿を目で追い続けた。すっかり暗くなってしまった公園に俺だけが取り残される。
……悪夢は、まだ、覚めてくれない。




