未来と約束
何だか世の中が嫌になった。何の為に僕は今、生きているのだろうか。そしてこれからどうやって生きていくのだろうか。そんな漠然とした不安と疲れが僕の背中に鉛のように重くのしかかる。自然とため息が口からこぼれる。
子供の頃は良かった。一日一日を全力で正直に生きていられたのだから。眼に見える物の全てが鮮やかで世界は新しい発見に満ちていた。それが今ではどうだろう。日々は姿の無い明日の犠牲として消費され、やってくる明日は期待外れなものばかり。世界は無味乾燥な灰色をしていて心躍るような何かはどこにもない。そんな世界を僕はこのまま、死ぬまで行かなければいけないのだろうか。
「戻りたいな、あの頃に。」
……そういえば、この間家に帰ったときに見つけた昔のゲーム機を家から持って来ていたはずだ。久しぶりにやってみようかな。少しはあの頃のような気分に浸れるかもしれない。僕は押入れを開き段ボール箱を持ち出した。
「あ、これ。」
僕の手にしたカートリッジには『ヴィトルテイル』と書かれたラベルが貼ってあった。魔王の魔手から世界を救うために勇者が旅をするというありきたりな作品だったが、あの頃の僕が一番好きだったゲームだ。よし、これにしよう。
僕は『ヴィトルテイル』のカートリッジとゲーム機を箱から取り出してテレビの前まで持って行く。幸いテレビとゲーム機とをつなぐコードは揃っていて端子もうまく接続できた。カートリッジをゲーム機に差し込めば準備は完了、これでゲームができる。
僕ははやる気持ちを抑えながらそっとゲーム機の電源を入れた。けれどもテレビには何も映らない。それから何度か僕はゲーム機の電源を入れたり切ったりしたが結果は変わらなかった。
僕はゲームを起動するのを諦めようとしていた。きっと機械かコードがもう駄目になってしまっているのだろう。この次に起動してみてダメだったら諦めて来週の粗大ごみにでも出してしまおう。僕は殆どあきらめたような気持ちでゲーム機の電源を入れる。すると今まで真っ暗なまま何も移さなかったテレビが真白な光を放ち始めた。
「繋がった!」
僕は思わず声を上げた。そして、同時に僕はおかしなことに気が付いた。今、誰かの声が僕の声と重なった。僕とは違う少年の声。驚いた僕が辺りを見回していると、再び少年の声が聞こえた。
「ああ良かった。これでダメだったら諦めようかと思っていたんだ。」
そこにいたのは真白な光を湛えたテレビ画面から半身を乗り出したひとりの少年だった。
「やあ。」
少年が僕に微笑みかける。僕はその少年を知らないはずがなかった。
僕は自分の目の前にいる少年の存在が信じられなかった。そこにいたのはゲームの、『ヴィトルテイル』の主人公、ヴィトル以外の何物でもなかったからだ。
テレビ画面の縁に足をかけ部屋へと入ってくるヴィトル。僕は何か言葉を発しようとする。けれどもそれを上手く言葉には出来ずにとぼけた声をあげていることしかできない。
「ヴィトル。」
やっとの思いで僕は彼の名を呟くと、テレビから出たヴィトルが僕に尋ねた。
「ボクの名前、知ってるの?」
僕が頷くとヴィトルは僕の肩を掴み、輝くような瞳で僕を捉えて言った。
「だったら話が早いや! ボクをしばらくここに置いてくれない?」
僕は僕の耳にした言葉が信じられなかった。けれども、僕はとった反応は首を縦に振ることだった。大好きだったゲームの主人公と同じ時間を過ごせるという機会を逃すわけにはいかないと思ったからだった。
彼は背負っていた荷物を降ろすと腰を下ろし、嬉しそうに体を揺らした。
「ありがとう! ボクはヴィトル……というのはもう知っていたんだよね。これからよろしく。キミの名前は?」
「僕は実蕾。よろしく、ヴィトル。」
僕がそう言うとヴィトルは僕に向かって手を伸ばした。僕も手を伸ばす。するとその手をヴィトルの手は固く握りしめた。僕もそれに応えるように彼の手を固く握りしめた。
それから僕は予想だにしていなかった来客について考えを巡らせていた。ゲームのキャラクターが現実の世界に現れたというのは本当の事なのだろうか。僕は不思議に思う気持ちと喜びにかき回されるばかりで今日の疲れのことなどすっかり忘れてしまっていた。
僕が考え事をしているとヴィトルが部屋に入ってきた。身体に湯気と淡い石鹸の香りをまとわせ、心地よさそうな顔をしている。
「ああ良いお湯だった。それに服まで貸してもらって。ありがとう。」
「どういたしまして。僕の服とサイズが合うようでよかったよ。」
「それにしても、ここはすごい国だね。レバーを一つひねるだけで無限にお湯が湧いてくるなんて!」
ヴィトルが驚いたような声を上げて嬉しそうに話した。無理もない、彼の世界の技術では魔法とも見分けがつかないだろう。シャワーのひとつでも彼にとっては十分にマジックアイテムだ。
「ところでさ。」
幸せそうにため息をつくヴィトルに僕は尋ねた。
「ヴィトルはどうしてこっちの世界に?」
幸せそうな表情から一転、ヴィトルの表情は見る間に曇る。
「聞いてくれる?」
僕が頷くとヴィトルは自分がこの世界へとやって来た理由を話し始めた。
「何だか嫌になっちゃったんだよね、あの世界が。」
彼は始めにそう口にした。
「そう、疲れたんだ。寝ても覚めても勇者だ魔王だって言ったり言われたりするのに。そりゃあ世界を放っておくわけにいかないのは分かってる。でも僕は魔王を倒すための兵器なんかじゃないんだ。それなのに皆は二言目にはユーシャユーシャ。ボクのことなんか考えてない。まるでボクの人生が、ボクのものではないみたいで。」
それからもヴィトルは日々の不満について話し続けた。僕は黙ってその話を聞いていたがどこか彼の人生が羨ましいように感じていた。
「ねえ実蕾、酷い話だと思わない?」
突然、ヴィトルが僕に尋ねた。僕は思わず感じたままのことを言ってしまう。
「羨ましいよ。先の見えない世界を灯りもなしに歩かされることに比べたら、その方がずっとましだと思う。」
「どういうこと、それ。」
ヴィトルが尋ねる。僕も尋ねた。
「聞いてくれる?」
ヴィトルが首を縦に振った。僕は今、自分の身に起こっていることを話し始めた。
「もう、疲れたんだよ。充実した生活だ望みのある未来だなんて言われたりするし言うこともあるけれども、望みのある未来のためには毎日を犠牲にしなければならないし、そんな未来は何時まで待ってもやってこない。それなのにいつまでも幻のような未来に毎日を費やしていかなければならない。そんな現実に疲れたんだよ。」
それから僕はいろいろな不満をヴィトルにぶちまけた。自分でも信じられないくらいにたくさんの不満を彼に吐きつけていた。それでもヴィトルは僕の愚痴を真面目に聞いていてくれた。
「でもさ、やっぱり自由でいられるのは良いことじゃないか。キミの努力次第で道は開けるという事なんだから、ね。」
愚痴を聞いていたヴィトルが口を開く。
「いや、使命があってその先に未来がある君の方が恵まれていると思う。未来がどこにあるのかさえ分からないのだから。」
僕はヴィトルに反論する。愚痴を言った後なので言葉には熱がこもっている。
「そうは言っても、その使命に外れることは決して許されないことなんだよ。キミはそのことを分かってない。」
「努力に対する報酬が一銭もないことよりはマシだろう。」
言葉が熱っぽくなってきたのはヴィトルも同じだ。やがて僕たちのぶつかり合った愚痴は互いにそれを熱し合い、口げんかも同然の様相を呈するようになってきた。
「分かっていないんだよキミは! ボクの使命がどれだけ重いか!」
叫ぶヴィトル。応戦するように僕も声を荒げた。
「分かっている、分かっているとも。何度、僕がゲームで君を操作して世界に平和を取り戻してきたか!」
その時、ヴィトルの頭に上った血の気が一瞬にして引くのを僕は目にした。僕は言ってはいけないことを言ってしまったということをすぐに理解した。
彼は僕の言っている意味を理解していない様子だった。けれども彼の表情からはそれが何か恐ろしいものであるということを感じているように見える。僕は自分の失言をどう取り繕おうかを考えた。けれども僕にはどうすれば良いか分からなかった。
「その、実はヴィトルの世界は、何というか、作られた世界なんだ。僕たちの世界で。」
僕は半ばヤケクソだった。ヴィトルの顔が見る間に青くなる。身体が小刻みに震えている。
「ウソ、だよね。実蕾?」
ヴィトルが僕に尋ねた。何も言うことはなかった。僕は何も言えずに、俯いていた。重い沈黙が部屋を包む。七畳の空間が静寂に呑まれた。小さなテーブルを隔てた二人の間にはとても険しい壁があった。
あれからどれだけの時間が過ぎたのだろう。僕は何も言えず机の傷を数えていた。ヴィトルの方はと言うと、窓の向こうを虚ろに眺めていた。
僕は空を見つめるヴィトルへと視線を移す。そこにいるのは一人の少年。着古したTシャツとジャージを身に着けている。少し乱れた呼吸と涙の跡の残る顔。僕はヴィトルがゲームの世界の存在であることは十分理解しているつもりだった。けれども僕は視線の向こうにいる少年がフィクションの存在だという事が少し信じられないような気がした。
自分を見つめる視線に気が付いたのか、ふと僕の方へ顔を向けるヴィトル。僕は思わず顔をそむけてしまう。胸の高鳴る音が聞こえる。僕はヴィトルの顔を見ないようにしていた。けれどもヴィトルの目は僕を捉えて離さない。まるで僕が真っすぐに彼と向き合うのを待っているように。
僕は彼の視線を横顔に受けながら今、自分がどうするべきか迷っていた。
自分の犯した過ちの責任は自分で取らなければいけない。僕がヴィトルと正面から向かい合うべきなのは当然だ。だとしたら僕は彼に向かって何と言えばよいのか。嘘だと言ったところでヴィトルは信じるような馬鹿じゃない。「それでも頑張れ。」というのはどうだろう。いや、論外だ。僕はヴィトルを馬鹿にしたいんじゃない。
いっそ何も言わずにヴィトルの好きなようにさせたらどうだろう。彼は自由になりたがっていたのだから。僕はそんなことさえ考えたがすぐにそんなことを考えた自分を恥じた。自分の過ちの片付け方が分からないからと言って開き直るだなんて最低だ。結局、僕にはこの場をどう収拾させるか分からなかった。
ヴィトルは僕の横顔を眺め続けている。僕はどうすれば良いか分からない。僕は死んでしまいたいような気分だった。自分の傷を舐めさせるために僕は大切な人を傷つけて、傷ついたその人を始末しかねた僕はその人を見捨てようとしている。最低だ。幼い頃に憧れていた存在は決してそんなことはしなかった。強さと優しさと勇気と、そして正しい心を持った勇者なら。
「ヴィトルなら、そう。」
言葉が零れた。
「ボク、なら。」
ヴィトルが言葉を響かせた。僕は考えることをやめた。
「ヴィトルなら決して逃げたりはしない。例えそれどれだけ困難でもヴィトルは絶対に投げ出したりしない。自分の力で精いっぱいの努力をするに決まっている、少しでも明るい未来に近づくために。だから、だから僕は絶対に投げ出さない。自分の言葉で、出来る限りのことはする。そうしたところで僕の過ちが許されないのは分かっている。それでも僕は諦めない。僕は、小さい頃からずっとヴィトルと一緒にいたから。ヴィトルは僕の大切な人だから!」
それは僕の、彼への精いっぱいの思い。例え滅茶苦茶でも、僕がヴィトルに送る、心からの言葉だった。ヴィトルは真っすぐに僕を見つめている。僕は言葉を続けた。
「ごめん。酷いことを言って。けれども君たちの世界が僕たちによって作られた世界なのは紛れもない事実なんだ。それを知って君がどうするかは君次第だ。けれども僕は必ず君を助ける。君の選んだ道がより良い道であるように、僕は君の為に手を尽くすよ。約束する。」
結局は人の決めたことについて行くだけ。けれどもそれが今、僕がヴィトルに出来る精いっぱいのことだと僕は考え、彼に約束を持ちかけた。
黙って僕の目を見つめるヴィトル。彼は真剣な眼差しで僕の目を覗く。そして、口を開いた。
「大丈夫、僕は一人でも行ける。」
その声は優しくも強さを感じる声だった。
「僕もいろいろ考えたんだ。けど決心したんだ。ボクは帰るよ、ボクたちの世界に。」
ヴィトルが僕の隣に座る。
「それはもう驚いたよ。ボクが背負ってきた使命も自分たちの世界さえもキミたちの遊びの内のひとつだという事だろう。だったら使命なんて投げ捨てたって良い、元いた世界から抜け出してこの世界で自由にやっていこう、そう考えたりもした。でもやめた。」
そこまで話したところでヴィトルが深く息を吸う。そして再び話し始めた。
「やっぱりあそこがボクたちの世界だから。例え、キミたちにとっては小さなオモチャでもボクの故郷だから、みんなの故郷だから放っておけないよ。」
ヴィトルが僕の顔を見た。その顔には輝くような誇りが浮かんで見えた。
「それに、ボク自身はキミのオモチャでも良いと思った。ボクが頑張ることでキミが正しい心を持っていられるのならボクは嬉しい。」
そう言って僕の手を握るヴィトル。彼の手は柔らかくて温かい。
「ありがとう、実蕾。キミのおかげでボクの人生が見つかった。ボクは戦う。勇者として、キミのために。ボクを大切な人だと言ってくれた、ボクの大切な人のために。それがボクの人生だ。」
ヴィトルが微笑む。僕の目の前にいた少年は紛れもなく、憧れの勇者その人だった。
「そろそろ帰らなくちゃ。」
ヴィトルが言った。外を見ると東の空が白んでいる。ヴィトルは立ち上がると、荷物を手に取りゲーム機の前へと向かった。
「これを使えば帰れるんだよね。ありがとう実蕾。」
そういってヴィトルはテレビとゲーム機の電源を入れる。僕が電源を入れたときは全く言うことを聞かなかったゲーム機はヴィトルが触れると素直に彼の世界への扉を開いた。
「ありがとうヴィトル。」
僕は彼の肩を掴んだ。
「僕も頑張る。いつかまた君と会うときに、今度は幸せな話がしたいから。」
頬に涙が伝うのを感じた。
「それじゃあお互い頑張ろう。またボクたちが会えるその日まで。約束だよ」
そう言ったヴィトルの声はわずかに震えていた。僕は喉を振り絞ってヴィトルに答えた。
「約束する。」
その時、彼は決心したように光の中へと身を投げ出した。テレビから放たれた光が部屋を包み込む。眩しくて何も見えない。僕は光に中てられて倒れ込む。遠のく意識の中で僕が最後に耳にしたのは僕の名を呼ぶ遠い叫び声だった。
どこからともなく行進曲が聞こえる。勇壮で、それでいて優しさも湛えた曲調。シンセサイザーの懐かしい音色、これは確か……。
ぼんやりとした意識が少し晴れていく。ゆっくりと瞼が開いた。そこにあったのは七畳の少し汚れたアパートの一室、見慣れたいつもの部屋だ。
体を起こして窓から外を覗く。青い空の下、太陽に照らされた家並みが見える。どうやら昼過ぎらしい。
テレビを見る。視線をテレビの方へと動かすと、テレビはゲーム画面を映しながら行進曲を流していた。画面には『ヴィトルテイル』の文字。僕は昨夜の出来事を思い出した。あれは現実に起こった出来事だったのだろうか。疲れた僕のみた夢だったのではないだろうか。僕はそんな風にも思った。けれども僕の手はヴィトルの手の温もりと力を確かに覚えている。どちらとも言い切れないような気がした。
ああ、頭が痛い。くらくらと目眩がする。僕はひとまず冷えたお茶を飲むことにした。おぼつかない足取りで冷蔵庫へと向かい、全身で冷蔵庫のドアを開く。そして冷蔵庫にあったの見かけのお茶を飲み干すと僕は手近な椅子に力なく腰かけた。
意識はまだはっきりとしない。僕は昨夜の出来事を思い出していた。テレビゲームからヴィトルが出て来たこと。身勝手な理由で彼を傷つけてしまったこと。そして、二人で交わした約束。信じられないような出来事だった。
そんなことを考えながらふとテーブルに目をやる。そこには綺麗に折りたたまれた一組のTシャツとジャージがあった。ヴィトルの着ていたものだ。僕はTシャツとジャージを手に取り、抱きしめる。どうしてそうしたのかは分からない。けれども僕はそれらが愛おしくて仕方がなかった。着古された衣類からは淡い石鹸の匂いと、この世のものではないような柔らかくて甘い匂いがしていた。