朝の準備
梅雨時のジメジメとした小粒の雨が、シトシトと降っている。
勘治は、パジャマ姿で縁側に座って庭を眺めていた。
「紫陽花や、藪を小庭の、別座敷」
「松尾芭蕉ですね」
廊下をやってきた美佐が、勘治の横に座って言った。
「おはよう」
「今朝は早いんですね。どうしたんですか?」
「音が煩くて」
「音ですか?」
勘治が首を縦に振って、階上を指差した。
美佐が耳を澄ますと、目覚まし時計の音が聞こえてきた。
「若い頃は気にもならなかったんですがね。耳が遠くなったせいなのか、言葉は小さく聞こえて、音は大きく聞こえるんです。歳を取ったんですね」
「お父さんだけじゃありませんよ」
「お母さんもですか」
「はい。お茶、お持ちしましょう」
「いえ。暫く庭を眺めて」
「はい」
と手にした朝刊を置いて、美佐はその場を立ち去って行った。
日本原産の額紫陽花の小さな蕾のような花弁に雨粒が降りかかっていた。その外側で花弁を守っている花びらのようが咢に降りかかる雨粒は玉になって滴り落ちていた。
「静けさや、花にしみいる、時計の音」
勘治は一句詠って、階上を見上げて叫んだ。
「郁磨先生!起床!!」
勘治の声を耳にした郁磨が、ビクッと眼を覚ました。途端に、けたたましく鳴り響いている目覚し時計のベルに気付き、慌てて音を止めた。
郁磨はパジャマ姿のままスクッと立ち上って、引手に両手を当てて、勢いよく襖を全開にした。
隣室の大広間には、大野と斉藤と16歳から18歳までの8人の少年達が、両側に五人分ずつの蒲団を並べて眠っていた。
「起床!」
と叫んだが、郁磨の声が聞こえない程に熟睡中なのか、誰も起きようとはしなかった。
「起きろ!お前ら!」
と言いながら、郁磨は少年達の掛布団を一枚ずつ剥がしていった。
大野が目を覚まして、眠い目を擦りながら
「何時だよ、先生」
「六時だ!」
「六時!?」
少年達が、一斉に叫んだ。
「こんな朝早くに何でだよ」
斉藤が言って、郁磨が答えた。
「朝飯の支度の手伝いをしてこい」
「ええ~~ッ!」
「俺は二度寝するから、準備が終ったら起こしてくれ」
「先生はやらないんですか?」
16歳の富樫が、不満そうに言った。
「俺は先生だぞ」
「卑怯っすよ」
17歳の上杉がしかめっ面をして口を尖らせて言った。
「ごちゃごちゃ言ってないで、早くしろ」
と、郁磨は言うなり踵を返した。
大野が、斉藤に目配せをして
「かかれ!」
と、叫んだ。
「何だ?」
振り返った郁磨に、少年達が一斉に飛びかかってきた。
「パジャマを剥ぎ取れ!」
普段着に着替えた郁磨が、階段を下りながら
「こんな時だけ結託するんだよな、此奴らは。とんでもねえ奴らだ。俺は仮にも先生だぞ」
とぼやいていると、後から下りてくる大野が
「先生は、手伝ってたの?」
と、訊いてきた。
「いや、全然。俺は一人だったからな」
「何もしなかったのに、俺達には」
と、斉藤が文句を垂れた。
「俺は一人、お前達は?……その人数分を、奥さんと伊吹先生と矢吹先生の三人で賄ってるんだぞ。率先してやれ」
「先生もな」
「何で俺が」
「先生だからだよ!」
少年達が、声を揃えて言った。
郁磨と少年達が食堂に入ると、台所で朝食の準備をしている美佐と伊吹と矢吹が
「おはよう」
と、同時に言った。
「おはようございます」
「どうしたの?こんなに朝早くに」
と、伊吹と矢吹が台所から顔を突きだすようにして訝しげに訊いた。
「手伝いたいと、生徒達が言いましてね」
郁磨が言うと、伊吹と矢吹が不信な目付きで返してきた。
「先生が言ったんじゃないの?」
「手伝え!って」ま
と、大野が答えて
「蒲団を剥ぎ取られて無理矢理」
と、斉藤が訴えかけるように言った
「ええ?まさか、違いますよ」
と、郁磨が反論すると
「私達は生徒達を信じるわ」
伊吹と矢吹が、言った。
「俺が信じられないとでも」
「生徒達が率先してやるとは」
「ねえ~~」
伊吹と矢吹が、顔と顔を見合わせて言った。
「あ~あ、そっちですか」
と、郁磨が言った。
美佐が台所から出てきて、
「テーブルを出して、箸や茶碗を並べてちょうだい」
と、少年達に指示した。
問題を抱えた少年達を太田家で寝泊まりさせるようになったのは、郁磨が始まりだった。
ブツブツとぼやきながら美佐の指示に従って手伝っている少年達を眺めながら、郁磨は思った。どうして、少年達のような子供が増えることはあっても、減ることはないのだろうか。