挑戦
水の張られた田んぼに沿って走っている舗道を、会話もなく歩いて行く郁磨と由紀。
「田植えの時期だな」
と、郁磨が口火を切った。
「伊吹先生と矢吹先生に聞いたんだけど」
「うん?」
郁磨は、横目で由紀を見た。
「二人のお兄ちゃん達のせいで、先生は家出したって。……そうなの?」
「いや、そうじゃないさ」
「じゃ、何で?」
由紀が、問い詰めるように郁磨を見上げた。
「勉強嫌いな俺でも、挑戦できる何かがある。それは何なのか。それを探そうと思って家を出ただけさ」
「で、見つかったの?」
由紀の目線を避けるように田んぼの方に顔を向けて言った。
「いや、まだだ」
郁磨は悟られたくなかった。嘘をついたことを由紀に。
由紀は真面目な優等生だった。学校を欠席したことは一日たりともなく、小学校、中学校と二度に渡って皆勤賞を受賞した。それは高校生になっても変わることなく続けられた。二年の秋まで。
昼休みの時間だった。級友達と駄弁っている時に、一人がこう言った。
「明日、学校、休もうかな」
「私も。休みたい」
級友達の誰もがそれについて反対意見を言うわけでもなく逆にそれに賛同し、どんな理由をつけてサボろうかと話をしていた。その話の腰を折るように由紀が言った。
「駄目だよ、ズル休みは」
級友達はびっくりして、由紀を見た。
「サボったことないの?もしかして」
「うん、ない。小中と皆勤賞を貰ったのよ」
級友達は、言葉もなく唖然として由紀を見つめていた。
「どうしたの?私の顔に何かついてる?」
と、由紀が訊くと
「変だよ」
「可笑しいよ」
「休まずにクソ真面目に学校にくるなんて」
級友達は、そう言って笑い転げた。
その日以来、由紀は学校を休みがちになった。
「今週は何日、学校をズル休みしたんだ?」
「ズル休みだなんて。人聞きの悪い言い方しないでよ」
「ズル休みでなければ、何なんだ?」
「何って……。そう、挑戦よ。先生と同じ挑戦」
「挑戦か。はははは」
由紀は、学校を休むことに罪の意識を感じていた。だが、級友達に笑われたくないという意識もあった。学校を休むことは罪でもないし、休まずに行くことも罪ではない。しかし、高校生の郁磨がそうであったように子供にとって大事なのはプライド。由紀はその狭間で心のバランスを失いかけていた。
「先生も見つけるから」
「うん。私も見つける」
由紀に言いながら、
「見つけられるのか?俺に」
郁磨は、己自身に問い掛けていた。
壁に立てかけられた折り畳み式のテーブルを広げて並べている、長女の伊吹と次女の矢吹の双子の姉妹。
「お父さんの声だったわよね?」
「うん。お父さんの声だった」
「珍しいこともあるものね」
「うん。珍しいわね」
テーブルを並べ終えて折り畳み式の椅子を並べる、二人。そこへ、
「夕飯の支度か?」
と言いながら、勘治が疲労の色が濃く滲み出た面持ちで入ってきた。
「もう、そんな時間か」
と、椅子に腰かけて
「お茶をくれないか」
「は~い」
伊吹と矢吹が声を揃えて返事をして、台所へ駆けこんだ。
ふ~と溜息をつく、勘治。
「何があったの?」
伊吹が、勘治の前に湯呑を置いて言った。
勘治が、話を逸らすように尋ねた。
「お母さんは?」
「スーパーに。買い忘れがあったんだって」
「何があったの?お父さん」
そう言って、伊吹と矢吹が勘治の前に座った。
「何もないさ」
「だって、庭の方からお父さんの怒鳴り声が」
「郁磨先生の声もね」
「熱ッ」
勘治が、茶を茶を一口啜って言った。
「お父さんは猫舌なんだぞ」
「え?」
と、伊吹と矢吹が言って顔と顔を見合わせた。
「そうだったっけ?」
声を揃えて言った伊吹と矢吹を見ながら、勘治は平然と茶を啜っていた。