母の思い
リビングの応接用の小テーブルに茶を入れた喜一専用の湯呑を置いて、和恵はソファに座った。
喜一は、湯呑を手に取って、ズルズルと音をさせて茶を啜った。
「どうかなさったんですか?」
と、和恵が訊いた。
「うん?」
と、喜一は向かい側に座っている和恵を見た。
「何かあると、いつもそんな風に音をたてて」
「そうだったか?」
「ええ、そうですよ」
喜一は苦笑して、湯呑をテーブルに戻した。
「何があったんですか?」
和恵に問われて、喜一は一瞬、躊躇ったが
「郁磨とバッタリとな」
「えッ?……郁磨とですか?」
「うん。信号で停まったタクシーの中から。郁磨も横断歩道で信号待ちしてた」
「元気そうでしたか?」
「うん、元気そうだった。随分と逞しくなってた」
「あの子もあなたと」
「気付いたようだった。私をじっと見つめておったんでな」
「お話しはなさらなかったんですか?」
「うん」
「どうしてですか?」
「二十歳前の、若い男女と一緒だったんでな」
「だからって」
「当時のままの目付きで、私を蔑むように」
「あなたを蔑むなんて……。あの子はあなたの期待に応えようと必死に頑張っていたんです。でも、その期待に応えられない自分が情けなくて。あなたに申し訳なくて」
「……」
喜一は、聞きたくなさそうに沈黙したまま窓の外を見ていた。
「許せないのですか?郁磨を。だから、声をかけなかったのですか?」
喜一が、顔を正面に戻して、再び和恵を見た。
「帰って来ようとしないのは、郁磨だ」
「帰って来てもいいんですか?」
「もちろんだ」
「あの子が、郁磨が、喜びます。それを聞けば」
「何か知ってるのか?」
「何かって?」
「あの子の居場所」
「えッ?」
「そんな言い草だったぞ」
喜一は、探るように和恵を見据えた。
「もし郁磨から電話が掛かってきたら、そう思って言っただけです。私は、何も」
と、和恵は目を泳がせながら狼狽したように言った。
暗く沈み込んで、郁磨は廊下を歩いて行った。
「おかえりなさい、先生」
ふざけ合いながら広い庭を掃除している4~5人の二十歳前の少年達が、声をかけてきた。
「サボらずにしっかり掃除しろよ」
と、郁磨が少年達に声をかけると
「ただいま」
と、大野と由紀が正面玄関から回り込んできた。。
「おかえり」
と、少年達は二人に駆け寄った。
「どうだった?東京は」
「楽しかったぜ」
と、大野が言うと
「次は俺の番だからな」
「俺だよ」
少年達は、口々に言いながら互いに互いを小突き回した。
「サボらずにちゃんとやれ」
怒鳴るように少年達に言って、郁磨は奥角にある部屋の前で立ち止った。
「校長先生。ただいま戻りました」
と言うと、部屋の中から声がした。
「入りなさい」
障子を開けると、文机の前に座って本を読んでいた校長の太田勘治が、こちらを向いて言った。
「ご苦労さん。本はありましたか?」
「はい」
と中に入って、郁磨は小脇に抱えた数冊の本を勘治の前に差し出した。