再々会
『扇谷郁磨選挙事務所』と書かれた看板の文字を眺めている郁磨の後ろで、
「先生、おはようございます」
2~3人の小学生が、挨拶をしてきた。
「おはよう。ラジオ体操か?」
「はい」
「気をつけて行くんだぞ」
「いってきます」
小学生達が通り過ぎて行くと、次に
「先生、おはよう」
と、由紀の声がした。
「おはよう。君もラジオ体操か?」
「ええ?まさか、子供じゃあるまいし」
「応援していた候補者は」
「無事に、当選したわ」
「そうか。おめでとう」
「先生もね」
「ところで、何をしてるんだ?こんな朝早くに」
「ウォーキング。挑戦したいなら、この地域のことをもっと知りなさいって、大俵さんに言われたの。だから」
「見つけたのか」
「何れは先生と相見えることもあるかも……。だからそれまで頑張ってね、先生」
「ああ。先生も負けずに頑張るさ」
「じゃね、先生」
歩み去って行った由紀を見送っていると、
「先生」
と三度呼びかける声がして、大場が門から飛び出してきた。
「どうした?」
「校長先生が手伝えって」
郁磨と大場は、看板を取り外した。
「支援者や支持者の皆に、これは誰が書いたの?って聞かれる度に、先生は自慢げに言ってやったよ。うちの大場が書きましたってな。そしたら」
「書道家になったら、って言われました」
「どうだ?そうしてみないか?」
「先生、僕……。高校へ戻ります。いろんな多くのことを学びながら、もっともっと上手に書けるように」
「決心したのか?」
「はい」
「先生は、いつも見守っているからな。だから、この看板は先生が貰う」
と言って、郁磨は小脇に抱えている看板を大場から取り上げた。
「僕の物です」
と言って、取り返そうとして大場が看板を掴んだ。
「依頼したのは誰あ?」
「先生です」
「だったら先生の物だろう」
「書いたのは誰ですか?」
「お前」
「だったら僕の物です」
郁磨と大場は、看板の取り合いをしながら言い合っていた。
「世話になったから先生に差し上げますって言うのが、普通だろう」
「記念のためにお前が手元に置いておけって言うのが、普通でしょう」
「お前が有名な書道家になったら、これを高値で売ってだな」
「先生の考えることって、その程度ですか」
「その程度とは何だ。その程度とは」
「その程度だから、その程度と言ったんです」
看板を巡って取り合い言い合いをしながら、二人は玄関先に戻っていった。
プルプルプル!
携帯電話のベルがけたたましく鳴った。
「もしもし。……!?……うん、俺、郁磨」
思いもよらぬ長兄の喜和からの電話だった。
「母さんが教えてくれてな。おめでとう」
「ありがとう」
兄ではあっても何となく長い間の蟠りが、捨てきれない郁磨であった。
「お父さん、個人演説会に行ったそうだな」
「えッ?」
「知らなかったのか?」
「うん」
「帰ってやれ。お父さん、喜んでたぞ」
「うん」
と曖昧に返事して、郁磨は電話を切った。途端に、再度、携帯電話のベルが鳴った。
「もしもし。……!?……うん、俺、郁磨」
「兄さんから、電話があったのか?」
「うん。おふくろが教えたの?」
「うん。おめでとうな」
「ありがとう」
「報告に帰ってやれ。お父さんが喜ぶぞ」
「うん」
郁磨は、次兄の敏志にも曖昧に返答して電話を切った。
事務所の長テーブルに飾られた大輪2本立ちから大輪3本立ちの当選の祝いに贈られてきた胡蝶蘭の中に、一際豪華な大輪7本立ちの胡蝶蘭があった。その鉢にさされた木札には、
扇谷郁磨様
祝御当選おめでとう
父・扇谷喜一
母・扇谷和恵
と、書かれてあった。
電車に揺られながら感慨無量に窓外を流れる風景を眺めている郁磨ではあったが、その表情は、緊張しているのか強張ったように引き締まっていた。
門前のインターホンを押すと、
「はい」
と、和恵の声がした。
「お母さん。俺、郁磨」
と言った瞬間、
「お父さんッ、郁磨ですよッ。郁磨が帰ってきましたよッ」
インターホンから歓喜の声を上げている和恵の声が、流れてきた。
「おかえり、郁磨」
「ただいま」
「そんなところに突っ立ってないで、早くお入りなさい」
と、和恵は門扉を開けた。
門前に突っ立っていた郁磨は、コックンと頷いて、遠慮がちに中に入っていった。
「あなた達お二人も」
「はい。お邪魔します」
と、付き添ってきた大野と斉藤が、郁磨の後を追うようにして入っていった。
「お父さん。長い間留守にして、申し訳ありませんでした」
「今夜は、二人で飲み明かそうじゃないか」
「はい」
「すぐに用意しますね」
と、和恵は台所へ跳ねるように入って行った。
喜一は、郁磨のグラスにビールを注いだ。返して、郁磨は喜一のグラスにビールを注ぎ入れた。
「お二人は、ジュースでいいわね」
「はい」
と言って、斉藤と大野がグラスを和恵の前に差し出した。
「乾杯!」
喜一と郁磨と和恵と大野と斉藤が、グラスを合わせた。
「挫けずに、よく頑張ったな」
「お父さんに、いつもそう言われてましたから」
「君達も、郁磨のために頑張ってくれたそうだな。ありがとう」
「おれ、いえ、僕達は先生の」
「秘書ですから」
斉藤と大野が言うと、郁磨が反論して言った。
「自称」
「自称でも秘書なら、そのための勉強を疎かにしてはいかんぞ。いいな」
「はい、教授。わかってます」
「わかってるか。ハハハハハ」
喜一は、さも楽しそうな顔をして笑った。
「変わらないな、お父さんは」
そっと口の中で呟いて、郁磨は嬉しそうに笑った。