来訪者
緊張感漂う美佐のその雰囲気で、誰が来訪して来たのか、聞かずとも勘治にはわかっていた。案の定、受付のテーブルの傍に佇んで待ち受けていたのは、喜一と和恵だった。
「よ」
「お」
喜一と勘治は、気まずさを隠すように素っ気のない挨拶を交わした。
「今朝は、態々のお電話、ありがとうございました」
「いいえ。よく説得なさいましたわね」
「ええ。大事な我が子のことですから」
「ええ、わかります。その気持ち」
美佐と和恵は、まるで喜一と勘治に聞かせようとしているかのように会話を交わしていた。
喜一と勘治は、美佐と和恵の話など気にもかけず、互いに目を合わせぬように背けていた。
「行きましょうか」
「ええ」
美佐と和恵もまた、まるで喜一と勘治の存在など気にもかけていないかのようにスタスタと歩き出した。
「郁磨の」
「ええ。既に始まっていますよ」
絶え間なく会話を交わしている美佐と和恵の後から、喜一と勘治はその口を堅く結んだまま黙然と並んで歩いてきた。
会場の中に入ると、郁磨がステージの中央で熱演し、観客席の参会者達に訴えかけていた。
「俺の応援のために駆けつけてくださった、元市議会議員の先生と自治会長の川田さんには、とても感謝しています。先生と川田さんに立候補しないかと言われた時には、正直、俺にはそんなの無理だと思いました。高校を中退して、家を飛び出した俺に出来るわけがないし、そんな資格も能力もないと思ったからです。でも、お二人は、子供達のために、この地域のために、君は貢献しているではないか。それを市政のために、市民のために活かして欲しいと言われた時、こんな俺にでも出来ることがあるのならやってみたい。そう思って出馬することを決意しました」
喜一は、観客席の後方で、照明の余り当たっていない薄暗い片隅で隠れるように佇んで郁磨の演説を聞き入っていた。
「i will challege!! 俺だけでなく、皆さんにも挑戦して頂きたいのです。苦難は誰にでも、年齢や性別に関係なく襲い掛かってきます。その苦難に打ち勝つために、俺ができることをやっていきたい、そう思っています」
観客席から盛大な喝采と拍手が沸き起こる。
「扇谷郁磨に一票を投じてください。彼を勝たせてください。宜しくお願いします」
元市議会議員の老人が、郁磨の横に駆け寄ってきて、そう叫んで深々と頭を下げた。
続くように、ステージの袖から大野と斉藤が飛び出してきて、郁磨の横に立ち止まって、
「扇谷郁磨先生を、宜しくお願いします」
と叫ぶように訴えて、同じように参会者達に向って深々と頭を下げた。
「……」
喜一は、押し黙ったまま誇らしそうな顔付きをして参会者達を見渡していた。
「彼は、君の自慢の息子になろうと、懸命に生きてきたんだ。その事をわかってやってくれ」
と、勘治が囁くように言った。
「……」
だが、喜一はその事に対して何も応えようとはしなかった。
「帰るぞ」
「お父さん」
和恵は、眉間に皺を寄せて制止するように言った。
「郁磨には黙っててくれ。私達が来たことは」
「ああ。何も言わないさ」
「じゃな。改めて礼に伺う」
「ああ。そうしてくれ」
喜一は、勘治と素っ気なく言葉を交わして、会場から出て行った。
和恵は、済まなそうに詫びを入れてその後を追って会場から出て行った。
「お父さん、宜しいんですか?」
「構わないさ」
「でも」
「自慢の息子に気遣ったんですよ。郁磨先生を前にすれば、扇谷は、きっと、ダメ出しをするでしょうからね」
と笑みを浮かべて、廊下を去っていく喜一のか細くなったその肩を見送っていた。
郁磨は、壇上から下段して、参会者達と話をしたり、握手をしたりしながら参会者達の席を歩き廻っていた。
投票時間は、朝の7時から夜の8時まで。
朝食を済ませた後も、勘治と美佐と伊吹と矢吹と郁磨、そして、大野と斉藤と上杉と大場と富樫と他の少年達は、テーブルの席に着いていた。
投票所整理券を掲げて、
「投票所整理券は、持ちましたね」
と、勘治が言った。
美佐と伊吹と矢吹と郁磨と大野と斉藤が、投票所整理券を掲げて、大きく頷いた。
「一番乗りに、投票所に行きましょう」
と勘治が言って、一同が立ち上った。
上杉と大場と富樫と他の少年達は、郁磨達を門前で見送って、選挙事務所へ向かい、ひっそりと静まり返った事務所の中で、その帰りを待った。
投票を終えた、勘治と美佐と伊吹と矢吹、郁磨と大野と斉藤が晴れ晴れとした表情で投票所から出てきた。
郁磨は、どこまでも青く澄んだ空を見上げた。その顔は遣り遂げた充実感で満たされていた。