街頭演説
選挙運動開始の午前8時になると、郁磨と大野と斉藤と二人の女子大生の乗った選挙カーが、門から飛び出していった。
門先で見送っていた上杉と大場と富樫と他の少年達の八人は、率先して門前と前庭の掃除を始めた。ある者は箒で掃き、ある者はゴミを拾い、ある者は草むしりをした。
「おはよう。毎日、ご苦労だね」
川田が、幾人かの支援者を連れ添って訪問してきた。
「おはようございますッ」
少年達は手を止めて、元気よくその挨拶に応えた。
「新しい支援者ですか?」
と、上杉が川田に聞いた。
「ああ。事務所は?」
「伊吹先生と矢吹先生が、中にいます」
と、大場が答えた。
上杉と富樫と大場と他の少年達が、川田と新しい支援者達を見送っていると、その後ろを、横断幕に大俵静果市議会議員選挙候補者、と書かれた選挙カーが
「大俵静果候補を宜しくお願いします」
と、若い女性の訴える声を残して走り過ぎていった。
その声にハッとして、少年達は走り去った車を眼で追うように振り返った。
「今の声」
「お前もそう思ったのか?」
「俺も」
「何で、敵側の陣営の応援を?」
「郁磨先生の応援するって」
「報告するか?」
「いや、言わない方が」
「いや、言った方が」
少年達は掃除もそっちのけで、一塊になって言い合っていた。
「どうしましたか?」
正面玄関から出てきた勘治が、雁首揃えて話し合っている少年達に声をかけた。
「校長先生」
と、八人の少年達は一斉に勘治に駆け寄った。
「由紀さんが?」
と、勘治が意外そうに言った。
「はい。大俵静果候補を宜しくお願いしますって」
「そうですか」
と勘治が言うと、富樫が由紀を咎めるように言った。
「郁磨先生を応援するって」
「由紀さんは、大俵静果候補に、応援するだけの何かを感じたのでしょう」
「郁磨先生には」
「言うもよし。言わぬもよし。皆さんの思うようにするといいですよ」
と、勘治は少年達を優しく包み込むような眼差しで見廻して言った。
「校長先生。今日の日程は?」
「日程ですか?」
と言って、勘治は手に持っていた日程表を上杉に手渡した。
「自転車で出かけてもいいですか?」
「気をつけて行くんですよ」
と言い残して、勘治は選挙事務所の方へと歩み去っていった。
「二手に分かれて行こうぜ」
と、先輩格の上杉が少年達に言った。
玄関脇に駐輪してあるシティーサイクルに跨って、八人の少年達は二手に分かれて門の前の道を走っていった。
朝の通勤、通学の会社員や学生達で混み合っている駅前で、郁磨は小型のスピーカーを足元に置いて、マイク片手に雄弁に語り、街頭演説で訴えていた。
郁磨の両側に立っている大野と斉藤は、行き交う人々に手を振りながら
「おはようございます」
と、声をかけていた。
訴えかける郁磨を横目で見ながら通り過ぎる者はいても、足を止めてまで演説をきこうとする者は誰一人としていなかった。
その様子を隠れるようにして物陰から、上杉と三人の少年達が窺っていた。
「扇谷郁磨候補をどうか、どうか、宜しくお願いします。若い力を皆さんの一票で市政に送り込んでください」
選挙カーは駅前周辺を流しながら、二人の女子大生が喉を嗄らして訴えていた。
表通りの繁華街で、買物客の主婦達にマイク片手に街頭演説をしている、郁磨。ここでも、駅前と同様に立ち止まってまで訴えを聞こうとする者はいなかった。
痺れを切らしたように郁磨は、歩行者の中に飛び込んで
「扇谷郁磨です。応援して下さい。僕を勝たせてください」
と、訴えた。
走っては道行く人に握手をし、話をし、郁磨は精力的に動きまわっていたが、その反応はいま一つであった。
大野と斉藤と二人の女子大生は、郁磨の後ろを付いて回って
「宜しくお願いします」
と、有権者達ににこやかに会釈をして訴えた。
大場と富樫と二人の少年達が、物陰からじっとその様子を眺めていた。
選挙運動終了の8時になると、選挙カーが戻って来て、門から入ってきた。
すぐさま、玄関前で待っていた上杉と大場と富樫が、他の少年達とともに降車してきた大野と斉藤に駆け寄った。