二人の兄
家を出たがっていた郁磨を引き留め続けたのは、和恵だった。家に留まっても、家を出ても同じ苦しみを味わうのであれば、留まって眼の届く所に居てくれている方が、母にとっては安心というものだった。
そんな折り、
「太田の奴、自宅でフリースクールをやってるそうだぞ。彼奴らしいとは思わんか」
喜一にその話を聞かされた和恵は、藁にも縋る思いで、美佐に電話をかけた。総体出場を拒否されてから、郁磨の決意は更に堅固なものになっていた。和恵が涙ながらに訴え説得しても郁磨がそれを変えることはなかった。子のためにできることは、母の意に従わせること。和恵にできることはそれしかなかった。
あの日から、和恵は後悔しない日はなかった。郁磨のためだと思いそうさせた事が、本当に良かったのであろうかと。
「太田のフリースクールで?」
勤務先の大学から帰宅して、着替えを済ませた喜一が、リビングの壁に貼られた選挙運動室内用のポスターと下方の角に書かれた郁磨を見ながら訊いた。
「はい。この12年の間、ずっとお世話に」
ポスターの前に佇んでいる喜一の傍らに立っている和恵が、済まなそうに答えた。
「その間、連絡し合っていたのか?」
「いえ。時折、美佐さんから連絡が」
「太田の?」
「はい」
「……」
喜一は責めようともせずに、その口を閉ざして沈黙したままポスターの郁磨を、安堵したような眼で凝視していた。
「すみません」
和恵は、その眼を喜一から郁磨に移行して謝罪した。
「電話が来たのか?」
「はい。郁磨が市議選に出馬することになったって。それで、居ても立っても居られずに、あの子に会いに行ったんです」
「郁磨に言われたのか?」
「いえ。あの子には内緒で、私の一存で」
「どうしてだ?」
「あなたに気付いて欲しかったんです。期待に応えようとして、郁磨がどんなに頑張っていたのか。そのことに」
喜一が何か言おうとしたその時、玄関扉が開閉する音がして
「お父さん、いるの?」
と、廊下を駆けてくる足音がした。
喜一はソファに座り、郵送された選挙運動用の葉書を裏から表に返して、テーブルの中央から片隅に端に置き直した。
部屋のドアが開いて、長兄の喜和が慌てたように入ってきた。
「仕事の帰りか?」
「うん。マンションに帰ったらこんなものが」
「どうした?」
喜和が、ダイニングキッチンを駆け抜けてリビングへやってきて、喜一の前に座った。
「郵送されて来てたんだよ」
と、選挙運動用の葉書を叩き付けるようにテーブルに置いた。
「長い間何の音沙汰もないと思ってたら、いきなりこんな物をよこして。……どうでもいいんだけどさ、どういうつもりなんだか」
と、喜和が立腹したように言った。
「いいじゃないの。安否がわかっただけでも」
と、和恵がむっとして言った。
「母さんは昔っから、郁磨の味方だったからな」
「そう言う言い方はやめなさいッ」
「馬鹿な子ほど可愛いって、諺にもあるじゃない。そうじゃないの?」
「学校の成績は確かに悪かったけど、郁磨は」
その後の言葉を遮るように
「止めないか、二人とも」
と、喜一が言った。
「兄さん、いるのッ?」
「ああ、いるぞッ」
次兄の敏志が、忙しげに飛び込んできた。
「兄さんの所にも」
と、卓上の葉書を手に取る。
「お前の所にも」
「うん。郵送されてきたよ」
と手にした葉書をテーブルに戻して、その横に宛名の書かれた方を表にして置く。
「郁磨、こんなに字が上手かったっけ?」
ドキッとする、和恵。
「そう言われれば、そうだな」
「お母さんの字だ」
「ええッ?」
喜一が、片隅に置いた葉書を二枚の葉書の上に置く。
「知ってたの?」
責めるように和恵を見遣る、喜和と敏志。
「お前達、夕飯は済ませてきたのか?」
と、話を逸らすように喜一が言った。
「お母さん。二人の分も頼むぞ」
「はい」
喜一に言われて、和恵はその場から逃げるように立ち去った。
「兄さん、先を越されたね」
「地方議員だからな。郁磨程度の能力しかない奴でも勤まるのさ」
「大事なのは、国政」
「そういうことだ」
喜一と敏志が、嘲るように笑った。
「兄さんにもそろそろ、国家議員からお声が」
「そろそろじゃなく」
「そうなの?」
「誰にも言うなよ」
「わかってるのよ」
「郁磨の応援でもしたらどうだ?」
二人の虚しい会話を聞いて、咄嗟に喜一が言って、ソファから立ち上がった。
「郁磨のために乾杯でもしてやるか」
「良いこと言うね、兄さん。母さん、取り敢えず、ビール」
喜一と敏志はソファから立ち上がって、ダイニングテーブルの椅子に座り直した。