陣中見舞い
公職選挙法に定められている選挙事務所の看板は、350センチ×100センチ以下の大きさと定められている。
そのサイズの板を前にして、
「お父さんが書くんですか?」
「いけませんか?」
「いけなくはないんですけどね。表の看板の文字は酷いものですから」
「言いますね、お母さん」
「はい、言わせてもらいます」
「それじゃ、どうしますか?」
と勘治が言ってきたので、美佐は見守っている少年達を見廻して、少年達の中に隠れるように自信無さげに小さくなって立っている17歳の大場に呼びかけた。
「大場君」
「えッ?」
呼ばれた途端、大場は目を泳がせるように少年達を窺った。
「あなたが書いて」
「ぼ、僕が?」
「お習字、得意でしょう」
「でも……」
大場は、俯いたままその場から動かなかった。
「先生。大丈夫なんですか?ルールに違反してはいないんですか?」
上杉が、案ずるように尋ねた。
「大丈夫よ。川田のお爺さんがそう言ってたから」
美佐は答えて、勘治の手から筆を取り、大場に歩み寄った。
「あなたのお習字の腕を、皆さんにお披露目するのよ」
「……」
美佐にそう説得されても、大場は自信なさげに俯いていた。
大場の手を取り、美佐はその手の平に筆を置いた。
勘治と少年達は、口を添えることはせずにその成り行きを眺めていた。
「好きこそ物の上手なれ」
「先生……」
「郁磨先生を応援しましょう」
「……はいッ」
大場は、暫く板を眺めて、徐に墨を手に取り硯を磨って、筆に硯の墨をつけて、一気に文字を書き上げた。
「ごめんください!」
二人の卒業生らしき女子大生が声をかけると”はーい”と声がして玄関の引戸が開き、矢吹が顔を出した。
「いらっしゃいッ」
「こんにちは」
「久し振りね」
「お久し振りです」
「大学でしっかり、学んでる?」
「はい。しっかりと」
「学業に勤しんでます」
と二人の女子大生が返答して、手土産の西瓜を差し出した。
「母から子供達にお裾分けです」
「私は祖母から。おやつの時間にでも」
「子供達にね」
と、矢吹が念を押すように言って
「はい、子供達です」
と女子大生が言って、矢吹とともにクスクスと笑った。
「ありがとう。子供達が喜ぶわ」
と、矢吹は二人が差し出した二個の西瓜を受け取った。
「校長先生は?」
「ガレージにいるわよ」
「挨拶してきます」
と、二人の女子大学生は事務所に変貌したガレージの方に駆け出した。
嬉しそうに二人を見送っている矢吹が、
「おかえり」
「ただいま」
郁磨と大野と斉藤が、足取り軽くにこやかに帰って来る。
「どう?出来具合は」
「バッチリだよ、先生」
「校長先生に見せてからね」
と矢吹が言うと、手にした西瓜を見た郁磨が返した。
「お客さんですか?」
「卒業生の二人が、陣中見舞いに来てくれたわよ」
「西瓜を土産にですか?」
郁磨が、ルール違反ではないのかと言いたげに言った。
「郁磨先生にではなく、子供達に」
「子供達に」
「ええ、子供達によ」
と言って、矢吹は丸々とした大きな西瓜を重そうに持ち上げた。
「手伝います」
と、大野と斉藤はその西瓜を矢吹の手から取り上げて、玄関の中に飛び込んだ。