書類
駅前で、『本人』とだけ書かれた襷を肩から腰のあたりに斜め掛けしたノーメイクの二十代後半の女性が、マイク片手に街頭演説をして道行く人々に訴えかけていた。
ショッピングに行った帰りなのか、由紀が母親と弟とともに駅舎から出てきて、必死に訴えかけている女性の傍を通り掛かった。
とその時、ほろ酔い気分の中年男が、演説中のその女性に歩み寄ってきて
「ブスはあっちに行け」
と管を巻き、女性を払い除けるように手を振った。
「美人なら投票してやるぞ」
と言って、ほろ酔い気分の中年男が道行く人を意識したかのようにゲラゲラと嘲って哄笑した。
由紀は、足を止めてその成り行きを窺っていた。
すると、その女性が地面に置いた大きなバッグから化粧道具を取り出して、男の目の前に手鏡を掲げて、その場でハイスピードで化粧をし始め、ものの数分でバッチリメイクの化粧を施した。
「!?」
由紀は、驚嘆した。
「どこがブスなの。綺麗な女性じゃないの」
横で窺っていた母親が、由紀の耳元で囁くように言った。
「うん。綺麗だね」
と、由紀も囁きかけるように言った。
化粧をしたその女性は、とても美人だった。
道行く人達が、足を止めてその女性の周りに集まってきた。
「綺麗に着飾れば誰でも美しくなるのです。こんな風に化けた美しさが剥がれた時、あなたはそれでも認めることができますか?バケの皮が剥がれても。美しいと認められるのですか?」
と、女性はほろ酔い気分の中年男に言い放った。
瞬間、由紀はその女性に感動して思わず拍手した。
群集の中にも、その拍手が連鎖して沸き起こった。
ほろ酔い気分の中年男は、惨めそうにコソコソとそこから立ち去って行った。
鳴り止まぬ拍手を聞いて、
「ありがとうございます」
と、女性は深々と頭を下げて礼を言って、再び、何事もなかったかのように演説を始めた。
由紀は、金縛りに合ったようにその場を動かずに女性の演説を聞き入っていた。
「帰るよ」
母親の声で、由紀は我に返ったように
「うん」
と頷いて、歩き出した。
女性の周りから、一人、また、一人と群れ集まっていた人々が、その場から立ち去って行った。
由紀は、歩き去りながら幾度となく後ろ髪に引かれるように振り返っては、その女性を見遣った。
周りから群集がいなくなっても、女性は変わらずに力強く熱弁をふるっていた。
<必要書類>
立候補届出書類
候補者の印鑑(届出書に押した印鑑)
選挙公報掲載に必要な原稿と写真
選挙事務所設置届
出納責任者選任届
報酬支給者の届
選挙立会人の届(届出書・承諾書)
選挙運動用通常葉書(試し刷り)
選挙運動用ポスター(試し刷り)
川田が、そう書かれてある資料を見ながら
「まずは選挙事務所の設置から始めましょう。選挙事務所がなければ何事も始められせんからね」
と、言った。
「選挙事務所ですか……」
と、勘治が言った。
「わしに任せてくれれば」
「この家では駄目ですかね?」
「この家?」
川田が、戸惑ったように鸚鵡返しに聞いた。
「はい。通ってくる子供達の学び舎ですから」
「子供達の親御さんも訪ねてくるのかね?」
「はい、そんなこともありますが」
「あるッ。それじゃ、ここに選挙事務所を構えよう」
と、川田が勘治の意見を受けて賛成した。
「事務所は、誰でも入りやすい場所がいいから……。そんな部屋はあるのかね?」
「そんな部屋ですか……」
勘治は、即答を避けた。事務所にできるような広い空き部屋はなかったからだ。
「お父さん。あそこがいいんじゃない」
「うん。あそこなら事務所にできる広さがあるわ」
伊吹と矢吹が、続け様に言った。
「どこだ?」
勘治が、小首を傾げて言った。
「あそこよ」
と、伊吹と矢吹が声を揃えて言って、ダイニングキッチンから出て行った。
その後を追って、ダイニングキッチンに集合していた勘治と美佐と郁磨と川田が出て行った。
それに続けとばかりに、大野と斉藤と他の8人の少年達が飛び出していった。