挑戦者
川田の横に座っている老人は、川田の幼馴染で、川田家の塀に貼られていたポスターの市議会議員の父親だった。
「長年勤めてきたが、今期をもって辞職することにしたんだ」
途端に、二代目がその年齢に達した三代目を、その後釜に据える準備を始めたという。
初代が敷いたレールに、後継者の二代目は乗っかり、今度は守り続けてきたレールに三代目を乗っからせて守ろうとしている。
「政治家ではなく家業になってしまった」
と、座卓を挟んで斜め前に座っている市議会議員の老人が嘆息を漏らした。
「孫には、親の庇護の元でも既得権を守るためにやるのではなく、君のような同年代の者達と切磋琢磨しながら学び、自分がやりたいこと、自分がやるべきことを見つけて欲しいと思っておるのだ。家業を継いだ者としてではなく、一人の政治家としてな」
「で、そのことを彼から相談を受けた、わしの出番となったわけだよ」
と、川田が補足するように言った。
川田は、二代目の市議会議員の後援会長だ。
「どうだ?彼は」
「全て君に一任する」
「うん、任せておけ」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
と、郁磨が声を荒げて制止した。
やるともやらぬとも言ってもいないうちに、トントン拍子に事が運ばれていくことに、郁磨はパニック状態になっていた。
「何も心配でもいいと、昨夜、お前さんには言ったはずだが。全て自治会長のわしに」
「俺も。……昨夜も言ったように」
「君のことは調べさせてもらった」
と、市議会議員の老人が言った。
父の喜一は大学教授。兄の喜和は財務省のキャリアで、次兄の敏志は大企業のエリート。
「でもそれは家族の経歴であって、俺には関係ないことです」
と郁磨が反論すると、市議会議員の老人が言った。
「高校を中退して家を飛び出したそうだな」
「そんな経歴しか持たない俺よりも、兄達のような」
「キャリアとエリートか」
「はい。有権者の信頼は厚いと思います」
「私から言わせれば、そんな輩達は、肩書に乗っかった、頭のいいただの凡人に過ぎんよ」
「ええッ?」
郁磨は、そんな風にあっさりと言い除けるその老人に対して驚きを隠せなかった。郁磨はそんな兄達に対して幼い頃から劣等感を持ち続けていたからだ。
「政治家は時には酷にならねばならぬときもある。そんな輩達は、そういう時には八方美人になって、言葉で相手を丸め込み、その難から逃れようとする。苦ではなく楽を選ぼうとするんだ」
「……」
「だが君は、現状に甘んずることではなく、家をでるという苦を選んだ。君のその反骨精神は政治家には必要なんだ」
「でも俺は母の意向に従って、校長先生宅に身を寄せました。それは苦ではなく楽を選んだ。そういうことなのでは」
「いや。親孝行だよ」
「親孝行?」
と、頭を下げて片口を上げてクスッとニガ笑いした。”さすが政治家だな。美味い言い訳を考えるもんだ”と郁磨は思った。
「君は、母親の悲しみ苦しみを見てきたんじゃなのか?だから……、母親に更なる悲しみや苦しみを味わせたくはなかった。そういうことではありませんかな?校長先生」
「はい、その通りです。郁磨先生は、いつも子供達のために懸命に」
「政治家には、情というものもまた必要なんだ。君はその二つを兼ね備えておる」
老人は、卓上に置かれた目の前の客用の湯呑の蓋を取って、それを手に取り、冷めた茶を飲み干した。
「受け入れるかどうかは、君の判断に委ねる」
と言って、受け皿に湯呑を戻した。
「はい」
と、郁磨は首を縦に振った。
「君は、政治家の弱点を知っておるか?」
湯呑に蓋をして、老人が唐突に問い掛けてきた。
「いえ」
郁磨は即座に答えた。お金ではと言いたかったが、それを言うのは失礼なような気がして。
だが、老人の答はそれと違っていた。
「一票だ」
「一票?ですか?」
まさかの意外な答えだと、郁磨は思った。
「当落を決めるのは、一票が多いか少ないかだ。だから、政治家達は投票しませんよと言われるのを、最も恐れるんだ。恐れるが余り、一票のためにやってはいけないことまで、やってしまうんだ」
「ご老人も、そのようなことが?」
と、勘治が訊ねた。
「あははは。この期に及んで、そんな無粋なことを聞かれるとはな。アハハハハ」
と、老人は高笑いしてそれを交わした。
「あ、どうも、すいません」
勘治は、顔を赤く染めて謝罪した。
「失敗は、反省の元になる。そうだろう」
と、川田が老人に言うと
「ああ、そうあ。この事を決して忘れるでないぞ。肝に銘じておけ」
老人が、郁磨に言った。
郁磨の中で、突然、何かが弾けて吹っ切れたような感覚、感情が襲ってきた。
「承諾するか否かに関わらず、一両日に返事をくれ」
そう言って、川田と老人が立ち上った。
「あのー」
と、郁磨も立ち上って言った。
「俺、挑戦します」