訪問者
翌朝の早くに、川田は茶の間の固定電話から電話を掛けていた。
トントントンと台所から俎板で野菜を刻む音が部屋の静寂を破るように轟き渡ってきた。
川田は、受話器を耳に当てたまま相手が出るまでの間その音を聞いていた。
「もしもし」
と、突如、受話器の向こうから電話の相手の声がした。
「朝早くにすまんな」
と、川田はハッとしたように言った。
「構わんさ」
「寝てたのか?」
「いや、そこらを歩いて来て、今、帰ってきたとこさ」
「朝の散歩兼運動か?」
「ああ」
「老人の朝は早いからな」
と川田が言って、二人は笑った。
「今日は予定はあるのか?」
「いや、別に何もないが」
「何もないなら、わしに付き合ってくれんか。……どうだ?」
「どうかしたのか?」
と、電話の相手が返してきた。
茄子や胡瓜や枝豆などの夏野菜を溢れんばかりに満たした籠を持った郁磨と大野と斉藤と富樫と上杉と他の四人の少年達が、農道を歩いてきた。
「伊吹先生と矢吹先生が喜ぶぞ」
と誰に言うでもなく呟いて、郁磨は振り返った。
「おばあさんも喜んでたな。どうだった?初めての畑仕事の手伝いは。気持ち良かっただろう」
郁磨が言うと、大野が嫌そうに眉を顰めて欠伸をした。するとそれを見た斉藤が、透かさずに、
「はい、先生。気持ち良かったッス」
と、笑みを浮かべて言った。
「格好つけてんじゃねえよ!ただ働きは御免だぜって言ってたのはおめえじゃねえか!」
と、大野が斉藤の胸を小突いた。
「そう言ったのはてめえだろうがよ!」
と、斉藤が大野の胸を小突き返した。
「やめないか!」
と、郁磨が慌ててそれを止めた。
二人の争いに合せるように他の少年達も真っ二つに割れて睨み合い、一発触発の状態となっていた。
大野と斉藤を長にして、少年の間でも派閥が出来上がっていたのだった。
ガックリと肩を落とす郁磨であった。
玄関の中に入ると、土間に男物の革靴が二足揃えてあった。
「新入りか?」
と大野が言うと、斉藤が返した。
「俺が貰った」
「俺のもんだ」
と言いながら、二人はまたしても小突き合っていた。
「おかえり」
盆を手に持った伊吹が、廊下の奥から戻ってきた。
「おばあさん、たくさんお裾分けしてくれたのね。今夜はこの野菜をつかって」
と、伊吹が顔を顔を綻ばせて言った。
「お客さんですか?」
郁磨が言うと、大野と斉藤が声を揃えて言った。
「新入りなの?矢吹先生」
「矢吹じゃなく、伊吹」
と、伊吹が怒ったように言った。
「すんません」
大野と斉藤が揃ってペコっと頭を下げた。
少年達は、男先生の郁磨には強気にでるが、女先生の伊吹と矢吹にはめっぽう弱かった。
「郁磨先生に用があるみたいよ」
「俺に?」
「川田のお爺さん」
「えッ?」
籠をダイニングキッチンのテーブルの上に置いて、キッチンで手を洗い、慌てたように郁磨は部屋から飛び出していった。
足取り重く歩きながら、郁磨はどうすべきかと考えていた。
「俺にはやっぱり無理だよな」
郁磨は断りの意志をはっきり示した方がいいだろうと思いながらも、やってみたいという思いもすてきれないでいた。
廊下の奥角にある勘治の書斎の前で立ち止まって、
「校長先生。ただいま戻りました」
と、郁磨が声をかけると
「郁磨先生、入って、入って」
と、川田の声が返ってきた。
「失礼します」
と障子を開けると、川田が満面の笑みを浮かべて郁磨を見ていた。
「いらっしゃいませ」
と言って、郁磨は一礼した。
「ご苦労さん。そんなとこに突っ立ってないで、お入んなさい」
と、勘治が言った。
「はい」
と郁磨が入室してくるなり、勘治が促すように言った。
「ここへお座りなさい」
勘治の横に座ると、川田の隣に座っている見知らぬ老人が、ニコッと微笑みかけてきた。