要請
夕飯を済ませて、ダイニングキッチンから出て行った少年達の食べ残しを見ている、伊吹と矢吹。
「近頃、食べ残しする生徒達が多くなったと思わない?」
「うん、思う。栄養と美味さのバランスを考えてメニューを作ってるのにね」
「口が肥えてるのね」
「うん。美味しいものが溢れてるから」
栄養士の免許を取得している伊吹と矢吹は、世の中に溢れている美味しいものを越えるような料理を作るにはどうすればよいのか、いつも頭を悩ませていた。
伊吹と矢吹は、テーブルの上の食器を片付けて、それを台所に運んで洗った。
「郁磨先生、遅いですね」
と、テーブルの椅子に座っている勘治の湯呑に茶を注ぎながら言った。
「川田のお爺ちゃんは、お喋りが好きだから」
「川田のお爺ちゃんとこの孫、うちのスクールにかよってるわよね」
伊吹と矢吹が、台所から顔を覗かせるようにして言った。
「川田のお爺ちゃん、怒ると怖いから」
と、伊吹が不安を煽るように言うと
「子供の頃、怒鳴られたことがあるの」
と、矢吹がゾッとしたような面持ちで言った。
「何をやらかしたの?」
「何をって……」
「お父さん、矢吹がね」
と言った伊吹の口を、矢吹が塞いだ。
「郁磨先生は心配ないと思うが」
「その逆だと思いますよ」
「逆?」
「昨日、スーパーで買物してる時に、偶然、川田のお婆さんと出会ったんですよ」
「川田の?」
「はい、お婆さんと。その時、言ってたんですよ」
「何を?」
上座の自席に座っている勘治が、斜め横の自席に座って茶を啜っている美佐の方に身をのりだすようにして訊いた。
「消極的だった孫が、太田先生の自由な学び舎に通うようになってから、少しずつ積極的に何でも聞いたりやったりするようになったって。父親と母親がとても喜んでましたよ」
老婆が、嬉しそうに鼻を啜り上げ、目頭を素早く拭って言った。
「どうだ?これでわかっただろう。お前さんは、この地域のために貢献しておるということがな」
川田の老人がそう言うと、郁磨は首を横に振ってこう言った。
「しかし……。俺はこの町で生まれ育った者ではないですし」
「それがどうした?」
「高校中退ですし。それに、家出してこの地にやってきた……」
と言って、グラスに残ったビールを一気に呷った。
「歴史が物語ってるように、そこに風穴を開けるのは、若い連中なんだ」
と、川田老人は郁磨のグラスにビールを注ぎながら、説得するように力強く言った
「……」
だが、郁磨は何も答えられず沈黙したままにビールを飲み干した。
郁磨の頭の中を、川田の老人の言葉が回り灯籠のように駆けまわっていた、酒は強くない郁磨は、この日初めて知った。どんなに飲んでも酔えない酒があるということを。
家の玄関扉を開けると、ダイニングキッチンの明かりが、ドアのガラスから洩れていた。
郁磨は、慌てて靴を脱いで廊下を駆けて行ってドアを開け、部屋に飛び込んだ。
「おかえり」
「校長先生」
こちらを向いて自席に座っている勘治が、郁磨の帰りを待っていた。
「遅かったですね」
「すみません。お茶だけのつもりだったんですが……。世話になっている孫への礼がしたいからって言われて」
「酒を振る舞われたのですか?」
「はい。酒には弱いのに、今夜は酔うことすらできませんでした」
と、郁磨は済まなそうに頭を垂れた。
「そういうこともありますよ」
「突っ立ってないで、お座りなさい」
「はい」
と、勘治の斜め横の空席に座った。
「何かあったのですか?」
郁磨が、勘治に聞いた。
「郁磨先生の、帰りを待ってたんですよ。川田のお爺さんに、何か言われたのですか?」
「はい」
「お爺さんは自治会長だから、この地域のことには人一倍気遣っているんですよ」
「はい、そう言ってました。自治会長だから、心配せんでもいいと」
「心配?……何を心配いらないと?」
勘治の表情が、不安そうに曇った。
「俺は断ることができませんでした。何故かわからないけど、断れなかったんです」
と言って、郁磨はテーブルに突っ伏した。
「郁磨先生?」
郁磨は、小さな鼾を掻いて眠っていた。