スルトの子 第六幕 蛇神降臨
夢を見た
死ね
死ね
死んで
死ねよ
死んでください
死んでくれ
何で、お前ばかり生きている
過去という名の亡霊が私の死を望み、恨みを込めて囁く。
いや、違う
死を望んだのは、ほかでもない私自身ではなかったか
犯してしまった罪への、大罪として
なあ、友よ
もしこの身を滅ぼせば、救われるのだろうか
私は
神奈川県横須賀市、ここは日本有数の軍港として発祥してきた。おそらく、滅びるときも軍港として滅びるだろう。
この軍港に数多くある海軍基地の一つは、今大きな混乱に包まれていた。
「状況はどうなっている!!」
「はい、やはり二時間前から、太刀浪市との全ての通信が途絶えたままです!!」
基地司令であり、太刀浪市監視責任者でもある緒方隆三大佐は、部下の発した声に深いため息を吐いた。
「とにかく通信の回復を急いでくれ。あの都市には日本人だけでなく、多くの外国人観光客がいる。もし彼らに何かあれば、皇国は世界中から非難を浴びることになるぞ」
「は、全力を尽くします!!」
頼むぞ。敬礼をする部下にそれだけ言って敬礼を返すと、緒方はデスクに戻りコーヒーを飲んだ。三十分前に入れたコーヒーはすっかり冷めてしまっている。それをまずそうに飲み干すと、不意にドアがノックされた。
「失礼します。大佐、皇都から通信です」
「ああ、すまない」
副官から渡された書類をぱらぱらと捲る。だが、やがてその手は止まり、体はぶるぶると震え始めた。
「あの、大佐、どうかなさいましたか?」
「今回の件、我々は手出し無用、監視するだけという命令だ。すでにこれと同じ文章がこの基地だけでなく、自衛軍、全ての基地に届いている。ご丁寧に、政府最高機関である枢密院からな」
「そ、それは、現状維持というわけですか!?」
部下の言葉を聞きながら、緒方はガッと机を殴りつけた。
「これではあの時と同じじゃないか!! 十五年前の災厄の、あの時と!!」
漆黒に染まった空を、聖亜は旧校舎の屋上でぼんやりと眺めていた。
エイジャの姿はない。そして、澄んだ白髪を持った少女も、ここにはいなかった。
どれぐらい時間が過ぎただろうか。不意に、頬を叩かれた。
「・・・・・・か、おい、しっかりしないか、星」
「あ・・・・・・鍋島、先生?」
世のろのろとした動きで頬を抑えて振り返ると、見知った厳しい顔が自分を覗き込んでいる。聖亜が気づいたことで安心したのか、鍋島は地面に倒れている三人の頬を叩いて回った。
「教頭先生、これって」
「駄目か・・・・・・星、何故お前が“この状態”で動けるのかは聞かない。だが動けるなら今すぐこの学校、いや、この都市から逃げろ」
三人の意識が無い事を確認すえると、鍋島は暫らく自嘲気味に眼を瞑っていたが、やがて出入り口に向かって歩き出そうとした。
「け、けど先生、彼女が、ヒスイがあいつらに!!」
「あいつら、だと? 星、お前一体何を知っている? そして一体何を隠している?」
「そ、それは・・・・・・」
この空間でこうして動けている限り、鍋島も無関係ではないのだろう。だが彼の鋭い視線が自分を詰問しているように感じ、聖亜はぐっと喉を詰まらせた。
『ふむ、ならばそこにいる未熟な小僧の代わりに、我が答えてやろう』
不意に、足元で聞きなれた黒猫の声が響いた。おそらくあの時咄嗟に投げ捨てたのだろう、ヒスイがいつも胸ポケットに厳重に入れていたペンダントが、そこにはあった。
「あ・・・・・・キュウ!!」
『嬉しそうな声を出すな、まったく。だが鍋島とやら、この状態で動けるのであれば、そなたも高天原の関係者なのだろう?』
「ああ。だが守護司ではない。そして呪術師にもなれなかった単なる構成員だ・・・・・・まあ私の事はどうでもいい。それより、何があった?」
『うむ、実はな・・・・・・』
キュウが鍋島先生と話している間に、聖亜は準の傍らに歩み寄った。彼女は眼を見開き、まるで石のように動かない。その瞳には、何も映ってはいなかった。
「なるほど、大体の事情は分かった。星、本来ならすぐに話しておくべきだったな」
「う・・・・・・す、すいません」
「まあ、過ぎたことは仕方がない。それより先程も言ったが、今すぐこの都市から逃げろ。危険だが、山中を通っていけば近道になるはずだ。街全土を覆う結界だ。所々穴は開いているだろう」
相変わらず厳しい声でそう言って、再び建物の中に入ろうとした鍋島先生の動きを遮るように、聖亜は慌てて彼の前に立ち塞がった。
「ちょ、ちょっと待ってください。それって準達を見捨てろって事っすか? それにヒスイだって、あいつ、俺達を助けるために、あいつ等に抵抗もせずに捕まって」
「星、辛いのは分かる。だが奴らはお前が今まで遭遇した鵺や人形、そして道化師とはまるで違う。見ろ、この状態を」
彼は、両手を一杯に広げた。
「奴らは町全体を覆える空間を一瞬で作り出せる。恐らくはエイジャの中でも上位に位置する存在なのだろう。お前では到底太刀打ちできん。無論、私にもな」
「・・・・・・鍋島先生も、逃げるんすか?」
自分の言葉に反論できないのか、俯いて呟いた聖亜を彼にしては珍しく優しげな表情で見つめると、鍋島は小さく、だがしっかりと首を振った。
「いや、私にはやることがある。だから逃げられ・・・・・・いや、もう逃げることはやめたんだ。私は
「・・・・・・」
「だが星、お前は違う。まだ逃げることが出来る。だから逃げろ・・・・・・いや、頼む、逃げて、そして生き延びてくれ。ではな」
厳しい表情を一度だけ緩ませると、鍋島は呆然と立っている聖亜の脇をゆっくりと歩き、やがて建物の中に消えていった。
それから、一体どれぐらいの時間が経っただろうか。
先程と同様、聖亜は呆然と漆黒の空を眺めていた。先程と違う所があるとすれば、その手に少女が残したペンダントが握られていることぐらいだろう。
『小僧、いい加減正気に戻れ。これから一体どうするつもりだ』
「どうするって・・・・・・分からないっす」
『ふむ、ならば質問を変えよう。小僧・・・・・・星聖亜よ、そなた何故逃げぬ』
「・・・・・・」
『鍋島とやらの話を聞いたであろう。確かに奴の言ったとおり、先程の石人形達はヒスイが倒した人形とは格が違う。それらを率いる、あの黒衣のエイジャもな』
「・・・・・・」
『それなのに、なぜそなたは逃げる事を選択しない? 簡単なことだろう。逃げればよい』
「戦えって、言わないんすか?」
少年の呟きに、ペンダントの向こう側で、黒猫は小さく笑った。
『言えぬさ、そんな事は。本職である魔器使ですら適わぬ相手に、“ただ”の人間であるそなたでは、抵抗すら出来ずに殺されるだろうからな』
「・・・・・・“ただ”の人間では、抵抗すら出来ない?」
『・・・・・・小僧?』
不意に、聖亜は靄がかかった頭の中に答えが浮かんでくるのを感じた。始めのうち、それは靄の中にかすかに見えるだけだったが、やがて一つの形となって浮かび上がった。そして、それが何であるか分かった時、少年はペンダントを握り締め、建物の中へと駆けだしていった。
ビシッ
鋭い音と共に、頬に強烈な痛みが走る。
その痛みで、ヒスイはぼんやりと意識を覚醒させた。
「誰が寝ていいといった、玩具使い」
その途端、白い頬にびしりと鋭い痛みが走る。腫れ上がった瞼を上げて声をしたほうを見ると、目の前で趣味の悪い王冠を頭に載せた石の人形が、にやにやと笑いながら自分を見上げているのが映った。
その手に持っているのは、黒い皮製の鞭だ。どうやらあれで強く殴られたらしい。
学校の屋上で捉えられてから二時間ほどが経過しただろうか。今彼女は天井から垂れ下がる鎖に縛り付けられていた。暗闇で何も見えないが、きついかびの臭いがする。どうやら長い間使用されていない倉庫のようだ。
この場所で、彼女は目の前で下品な笑みを浮かべている石人形に、さんざん痛めつけられていた。
「いやぁ、だが安心したぞ玩具使い。まさかルークに殴られただけで気を失うとは思っていなかったものでな。まあ単なる家畜なら、先程の一撃で腹が真っ二つに裂けていただろうから、なるほど、そこそこの実力はあるようだな」
「・・・・・・」
人形の背後に、塔のような頭部を持つ巨大な石人形の姿がある。腕を組み、不機嫌そうに沈黙を続けていた。
「さあて、尋問を続けようではないか、ん?」
「ッ」
鞭の先端が、先程殴られて出来た頬の傷にぐりぐりと押し込まれる。吐き気を伴う激痛に、ヒスイは眼を閉じ、耐えた。
「では同じ質問を繰り返させてもらうが、第一に、貴様ら玩具使いの穢れた巣である“ヴァルキリプス”は、一体どこにある!!」
「・・・・・・」
ビシッ
「第二に貴様ら玩具使いの総数は!! 第三に貴様らの指導者の名は!! 第四に、そやつの能力は!! そして!!」
ビシッ、ビシッ、ビシッ!!
質問と共に黒い鞭が振るわれ、少女の体を容赦なく蹂躙し痛めつける。もはや彼女が身に纏っていた服は襤褸に変わり、振るわれる黒い鞭は彼女の白い肌に赤い傷を付けていった。
「そして何より、貴様らに加担している氏民は、何者だ!!」
最後の質問と共に鞭の先端が延び、少女の首に巻きつく。だが、彼女は首を絞められてもなお、薄く笑った。
「・・・・・・だ」
「ほう、ようやく喋る気になったか。それで? 何者なのだ?」
わざとらしく顔を近づけてくる石人形に、ヒスイは掠れた小さい声で、だがはっきりと答えた。
「哀れだと、そう言ったんだ。お前達エイジャを憎悪する私達が、憎むべきお前達の力を借りることなど、絶対にありえない。まったく、そんな事も分からないのか、この・・・・・・うあっ」
首筋から脇腹にかけて、今までに無い痛みと衝撃が走った。そしてそれが納まらない内に、今度は彼女の顔を石の手が強く握った。
「貴様・・・・・・きさまキサマ貴様!! 手を抜いてやればいい気になりやがって!! よかろう、それほど苦痛を望むなら、その体、使徒共に辱めさせ、魂を肉体ごと喰らってや「待て」ひっ!!」
その時、倉庫の扉が、ギギギッと軋んだ音を立て、左右に開いた。
外から入ってきたのは、三体の石人形、その最後の一体を従えた黒衣のエイジャだった。背は人形と比べ幾分小さいが、発している気の重圧は彼らの軽く十倍はある。
「やりすぎだなキング。この者は主を呼び出した後の主食となる。あまり痛めつけるな・・・・・・ルーク」
「グ」
主人の声に短く答えると、巨大な石人形は少女に近寄り、彼女を縛っていた鎖を掴んでぐっと力を入れた。その途端分厚い鎖はまるで薄紙のように引きちぎれ、彼女の体は地面に投げ出された。ドンッという衝撃に、ヒスイはわずかに呻く。
「で、ですがお館様、こいつは我らをエイジャと蔑み、そして哀れだとさえ言ったのですぞ!!」
「黙れ、キング」
「で、ですが」
「キングよ、何度も言わせるな。黙れ。クイーン、手当てをしてやれ」
「はい」
黒衣の男に付き従っていたクイーンは短く答えて少女に近づく。それを見て、今まで彼女を痛めつけていたキングは、ぎりぎりと歯軋りをした。
「さてキング、ルーク、お前達には儀式の準備が完了するまで、ここの守りをしてもらう」
「・・・・・・グ」
「了解致しましたお館様。ですが、本当に玩具使いの仲間が来るとお考えで?」
恭しく尋ねてくる石人形を、黒衣のエイジャはその隙間から僅かに覗く金色の瞳で見つめた。
「これが三度目だ。“黙れ”次はないぞ」
「ぐ・・・・・・は、はい」
震えながら引き下がる人形を一瞥すると、男は一度外に出た。漆黒の空に笑う紫色の三日月が浮かんでいる。
「ひ、ひひひ、随分と待たせますなあ」
黒衣のエイジャが紫色の月を、どこか懐かしげに眺めていると、不意に横の暗がりから笑い声が響いた。
「ふん、もうすぐだ。楽しみに待っているがいい」
「ひ、ひひ・・・・・・忘れないでくださいよ? 私があなた様を呼び出し、ここまで協力してきたのは」
「分かっている。しかし貴様も奇妙な契約者だな。不老不死も、まして富みもいらないとは」
「ひ、ひひ、私は善良な人間でしてねぇ。ただ、もう一度見たいだけなんですよ。あれを・・・・・・ああ、それからもう一つ」
「・・・・・・何だ」
「ええ、出来ればでいいのですが・・・・・・その、あなた様のご主人さまがこられて食事をされる前に、あの小娘、ちょっと“味見”してもよろしいでしょうか」
「まあ、主が許せば良いだろう。それより・・・・・・むっ」
「ひっ!?」
突然、エイジャは前方に腕を突き出した。何かが当たったような音と共に黒衣が弾け飛び、中から現れた手がぶすぶすと煙を上げる。だが男は眉を変えることなく、緑色の鱗がついた腕を振るう。すると、彼らのすぐそばの地面に、先端がひしゃげた鈍色の弾丸が転がった。
「ぐ・・・・・・ぐがははははははっ。早速来てくれたようだ。キング、ルーク、さあ出番だ。入り込んだ客人を、丁重にお招きしてやれ!!」
その時、一陣の風が吹き、エイジャが纏っていた黒衣が宙に舞った。それを見ることなく、巨大な牙を何本も口の中に持つ、蜥蜴に似た顔を持ったエイジャは、声高々に告げた。
戦闘の、その始まりの合図を
「小僧、そなた何か考えがあるのだろうな」
「あるから、ちょっと黙っててくださいっす」
学校から出た聖亜は都市の外に逃げるのではなく、旧市街にある自分の家に向かった。所々人が倒れている道路を駆けて家に着くと、出迎えた黒猫から早速詰問される。
「えっと、確かこの辺に」
小松によってきれいに掃除され、今はヒスイの私室となった部屋に入り、隅にあるバックに手を掛ける。といっても物がそれほど入っていないのか、目的の物はすぐに見つかった。
「小僧、そなたそれを使って、一体何をするつもりだ?」
聖亜が荷物の中から取り出したもの、それは三本のチェスが乗っている一つの台座だった。万が一を考えペンダントに入れずに布でぐるぐる巻きにしてここに放置されていたそれを持ち上げ、慎重に布を取りはずし、同じく布に包まれていたチェスを一つずつはめていく。だが、
「あれ? 何も起きないっすね」
だが台座は沈黙したままだ。今はもうこの世にいない道化師が使役していた人形達は、その姿を現すことはない。
「当たり前だ小僧。これはエイジャの道具だぞ。そなたに使えるはずが・・・・・・む?」
愚痴を零していたキュウは、不意に口を閉ざした。台座に向けごく微量ではあるが、少年の指先から何かが流れ込んでいる。彼自身はまったく気づいていないが、それでもそれは絶え間なく注ぎ込まれていき、やがて台座は光り輝いた。
「え? な、何すか?」
両手で持っている台座がぶるぶると震える。その動きは段々強くなっていき、聖亜はとうとう台座を床に下ろした。
その途端、ボンッという音を立て、目の前につい先日死闘を繰り広げた三体の人形が、傷一つない姿で具現した。
「・・・・・・あ、あら?」
ナイトはふと辺りを見渡した。自分は確か絶対零度に敗れたはずだ。だが身体には傷一つ付いておらず、疲労感もない。いや、それどころかドートスに使役されている時より、よほど調子がいい。
左右を見ると、ポーンとビショップがいる。彼らも傷一つない自分の体を、不思議そうに触っていた。
「ナイト、これは一体どういうことだ。我々は確か絶対零度に敗れたはずだ。なのにこの体には傷一つ付いていない。それに、この重苦しい空気は、考えたくはないが、まさか」
「さあ? 今がどういう状況なのか私にも分からないけど、それを知っている人は、どうやら目の前にいるみたいよ。ね、お嬢ちゃん」
「や、やっと出た・・・・・・それと、訂正させてもらうっすけど、自分は女じゃなくて男っすよ」
「あら、そうなの? まあいいわ。それで坊や、これは一体どういうことかしら?」
ナイトは、目の前に座り込んでいる少年に顔を向けた。にっこりと笑みを浮かべている、その仮面を。
「なるほど、やっぱりお館様が出張ってきたってわけ」
聖亜から説明を受けたナイトは、苦々しく呟いた。聖亜とキュウ、そして具現化した人形達は今茶の間にいる。ヒスイの部屋で話をしても良かったが、あそこは一人が使う分には広すぎるが、一人と一匹、そして三体の人形が座るには少し狭かった。
「えっと、あんた達は今どういう状況か知ってるんすか?」
「もちろん。けどその前に、私達の目的を教えておく必要があるわね。ビショップ、お願い」
「は、はい。私達の目的、それはお館様の主を現界に呼び出すことです」
「やはりの。それでドートスに魂狩りを命じたのか」
「はい。ですが私達が港・・・・・・と、これは門を開く場所のことで、こちらでは鎮めの森というのでしたね・・・・・・で敗れたこと。そしてドートスが倒された事を考えますと、別の計画が発動したのだと思われます」
「と言っても、計画は二つしかないけどね。私達が家畜・・・・・・ごめんなさい、要するに人間の魂を使って門を開けるか、それとも」
「強引にでも主をこの世界に呼び出すか、そのどちらかだ。だが、一つ解せぬ点がある」
組んでいた腕を離すと、ポーンはその怒りの仮面を聖亜に向けた。
「少年、そなたなぜ我らを呼び起こした? 敵の数が増えるとは考えなかったのか?」
「いや・・・・・・それはもちろん考えたっすけど、けど、こういう話を知ってるっすか?」
「何?」
「だから、呼び出された人形は、呼び出した人に、服従しなければならないって話」
「貴様っ!!」
激昂したポーンは、背負っていた剣を引き抜くと、少年の首筋にぴたりと当てた。少しでも押したり引いたりすれば首は一瞬で飛ぶだろう。だが、聖亜は黙って彼を見つめ返した。
「呆れた。坊や、あなた私達に裏切り者になれってわけ? 従う相手ぐらい選ぶわよ、私達だって」
「なるほど、ならあんた達は心からあのピエロに忠誠を誓っていたってわけか」
口を歪ませた聖亜を、ナイトは暫らく見つめていたが、やがてくつくつと静かに、だが遂には堪えきれないというように笑い出した。
「あはははははははっ!! いや、笑わせてくれるわねぇあなた。首筋に剣を当てられて、まだそんな口がきけるなんて。人形になってからこんなに笑ったのは初めてよ。ええ、確かに私達はドートスに心から従っていたわけじゃない。いいえ、むしろ恨んでいたと言ってもいい。分かったわ、笑わせてくれたお礼。坊や・・・・・・いえ、聖亜と言ったわね。あんたに味方してやろうじゃないの」
呆然としている少年にそう答えると、ナイトは左右を見渡した。
「それで、あんたたちははどうするの? ポーン、ビショップ」
「私は・・・・・・そうですね。お供いたします。といっても、私にはせいぜい結界を張るぐらいしか出来ませんが・・・・・・ポーン、あなたは」
「正直に言えば反対だ。成功する確率は限りなく低い。だが」
聖亜の首から剣を離すと、ポーンはゆっくりとビショップの手をとった。
「だがビショップ、お前がこの少年に味方をするというのであれば、伴侶である俺が味方をしないわけにはいかない」
「あなた・・・・・・」
「はいはい、一生やってなさい。それで、そっちで何か考え事をしている黒猫も、それでいいわね」
「・・・・・・まあいいだろう。だが奴らの住処に付いたら、我は別行動を取らせてもらう。一刻も早くヒスイを助け出さねば成らぬからな。その間、小僧、お主はこやつらと共に、暫らく陽動に徹しておれ」
「は、はいっす」
決戦前なのか、自分を見つめる黒猫の瞳がいつもより険しい。すこしおびえながら聖亜が頷いたのを確認すると、ナイトはゆっくりと立ち上がった。
「それじゃ聖亜、案内してあげる。決して楽には死ねない・・・・・・地獄の四丁目にね」
そう言って振り返ると、人形は意地悪そうに笑った。
「本当にここっすか?」
「あら、疑ってるわけ? あいつらが移動していないなら、住み家は間違いなくここよ」
二時間後、ナイトの背に乗った聖亜がたどり着いたのは、復興街の中でも治安の悪い地区、崩れた工場や廃墟が立ち並ぶ復興街北部、通称工場区と呼ばれる場所だった。
彼らがいるのは、その中でも特に巨大な廃工場の前だった。暗闇の中、気配もなくしんと静まり返っている。
「ま、来た当初は巨大な猿だとか、灰色の人間だとかがぞろぞろと出てきて鬱陶しかったけど、何人か見せしめにぶっ飛ばしたら、もう誰も寄り付かなくなったわ」
「は、はあ。けどやっぱり何の気配もしな「しっ」っ」
不意に、前方を警戒していたポーンが剣を抜いた。じりじりと前に出て、いったん立ち止まると、すぐに脇に飛び退く。
次の瞬間、暗闇をひゅっと何かが通り過ぎた。同時に白刃が閃く。暗闇からごとりと出てきたのは、狼に似た頭部だった。だが、すぐに異臭を放つ黒い液体に変わる。
「ちっ、囲まれたわね。いい聖亜、使徒っていうのはね、弱い代わりにそれ自体が気薄だから、気配が薄いの。それに、黒いから暗闇じゃ見えにくいしね」
「え、でも囲まれたって、俺達が来たこと、いつから分かってたんすか?」
「さあ。ま、それはあそこで高笑いしている奴に聞けば分かるんじゃないかしら」
そう言って両腕の槍を構えたんナイトの視線の先には、高く積まれた機材の上で笑う、石人形の姿があった。
「むははははははっ!! まさか鼠を追いかけて、別の鼠に遭うとはな。しかも貴様ら、ピエロの下僕ではないか。とうの昔に倒されたと思っていたが、鼠と一緒にいる所を見ると、どうやら命乞いして裏切ったようだな」
「はっ、裏切ったんじゃなくて、勝ち目のある方についたって言って欲しいわね」
左右から襲い掛かってくるスフィルを払いのけながら、ナイトは軽口を叩いた。そんな彼女に、石人形―キングはよりいっそう大声で笑った。
「むはははは、は~はっは!! 勝ち目のある方だと? 阿呆か貴様ら。貴様らに勝ち目などどこにもないではないか。ふん、まあいい。先程の鼠はルークに取られてしまったからな。貴様らの相手はこの俺様と、三百の使徒がしてやろう。光栄に思うがいい!!」
ひゅんっと音を立てて、上空から黒い鞭が飛んでくる。それを避けたナイトに、今度は四方八方からスフィルが襲い掛かる。その第一陣を、ナイトは左右の槍を突き出し、体を回転させる事で倒したが、次の第二陣に意識を集中させたとき、再び鞭が飛んできた。
「痛っ」
「だ、大丈夫っすか?」
「これぐらい平気。それより頭出すんじゃないの!! ビショップ、聖亜のお守りは頼んだわよ!!」
「はい。承りました」
ナイトの声に応え、傍らで杖を振っていたビショップが、聖亜の前に進み出る。小さく何かを唱え、地面に杖を強く突き立てる。すると、襲い掛かってきたスフィルが二体、彼らの周りを覆った青白い膜に弾き飛ばされた。
「結界」
「ええ。私には、これぐらいしか出来ませんから・・・・・・ポーン、そちらはどうですか?」
「今のところ問題はない。だが、数が多すぎて捌ききれん」
剣を振るいながら、ポーンは怒りの仮面で答えた。その言葉通り、彼の周りには数十体のスフィルが群がっている。ナイトが加勢に行こうとしているが、その度にキングが振る鞭に阻まれていた。それに気を取られていると、新たなスフィルに囲まれ、再び鞭が飛ぶ。その繰り返しだった。
「キュウはいないし、せめてあの鞭がなくなればいいんすけど」
家の中で取り決めたとおり、ここに着いた途端、黒猫はペンダントを加え、自分達とは別行動を取った。一刻も早くヒスイを助けたいのだろう。反対はしなかったが、大多数の敵に対しては、同士討ちさせる黒猫の光る目が、何よりも効果的だった。
「ん? 光る・・・・・・か」
少し頭を捻ると、聖亜は背負っていたバッグを開けた。中には万が一のために持ってきた薬や食料が入っている。台座は置いてきた。離れていても、エネルギー自体はきちんと供給されるらしい。その他に小振りのナイフなどがあるが、どうせスフィルには効かないだろう。彼が取り出したのは、武器ではなかった。
「えっと、ビショップさん、火、着けて欲しいんすけど」
「すいません、今手が離せないので、ご自分でお願いします」
「はい」
取り出したマッチを擦ろうとして、聖亜はぶるぶると震えだした。火は苦手だったが、こんな時にそんな事は言っていられない。ぶるぶると震える手で、何とかマッチをシュッと擦る。
ポッと小さい火がともった。途端に吐き気が込み上げてくる。逃げ出したいが、そんな事は出来ない。なるべく火を見ないようにしながら、聖亜は取り出したそれに火をつけた。
「そんじゃ、いくっすよ・・・・・・それ!!」
少年のかけ声と同時に発射したロケット花火は、しゅるしゅると上に向かって飛んでいき、
「ん? ぐ、ぐおおおおっ!!」
丁度覗き込んでいたキングの左目に見事にぶち当たり、ぱあんっと、漆黒の空に大きな花を咲かせた。
「ぐあああああああっ!!」
左目に来た衝撃と激痛に、キングは地面を転げまわったが、そこは生憎と足場の悪い機材である。当然ながら、キングはバランスを崩し、ガラガラと崩れる機材と共に、反対側に消えていった。
「・・・・・・え、え~と、あれ?」
その様子を、聖亜はぽかんと口を開けて見ていた。周囲では、いきなり眩しい光を見たためか、あちこちでスフィルが地面に這い蹲って呻いている。
「あははははっ、聖亜、あなたやるじゃない!!」
その一体一体に止めを刺しながら、ナイトが嬉しそうに歩いてきた。
「ほんと、こんなにおかしいの、生まれて初めてよ。どうしましょう、あなたの事好きになっちゃいそうよ」
「へ? いや、まあ、自分もナイトさんの事、好きっすよ」
聖亜が何気なく言った言葉は、そちらの方面に疎い彼女に対し、絶大な効果を発揮した。ばっとすごい勢いで聖亜から離れると、ナイトは仮面の顔を背けた。だが、時折こちらをちらちらと見てきて、恐る恐る擦り寄ってきた。
「え? あの、ナイトさん?」
「へ? い、いえ、なんでもないわ。さ、さあ、使徒は粗方片付けたし、キングも逃げた。この調子でどんどん進みましょう!!」
外から聞こえてきた、バアンッと何かが弾ける音に、少女に薬を塗っていたクイーンは、ふと顔を上げた。
「なんでしょう、さっきから」
扉を開け、外の様子を伺う。だが、周囲には何の変化もいない。
新たな侵入者が来たことは分かっていた。だが、キングが大量の、それこそここを守っていた使徒すら連れて出て行ったのだ。性格に多少どころではなく難があり、実力もそれほど無いが、以前は騎士長をしていたと言っていた。まず負けはあるまい。
扉を閉め、再びしゃがみ込んだ彼女は、暗闇のためか、完全に閉じる瞬間、僅かな隙間から飛び込んだ黒い小さな影に気づけなかった。
「おい、小娘」
「なっ!?」
いきなり声をかけられ、ばっと後ろを振り向く。だが、それがいけなかった。光る紫電の瞳とばっちりと眼があった。途端に、ざわざわと自分の体を何かが這い上がるのを感じた。恐る恐る下を見ると、
無数のグロテスクな虫が、自分の体を這い上がってくるのが見えた。
「ひ、ひいいいいいいっ!!」
絶叫を上げ、必死に虫を振り払っている彼女の横を、一匹の黒猫が通り過ぎていった。
「・・・・・・イ、おい、ヒスイよ、いい加減に起きぬか」
「う・・・・・・キュ、ウ?」
自分を呼聞きなれた声に、ヒスイはふと顔を上げた。ぼやけて見える視界の中、見知った黒猫の顔が映っている。
「ふん、随分と手ひどくやられたようだな。まったく、これが終わったら、また修行のやり直しだ」
「・・・・・・ぜ?」
「ふむ、なぜ来たと? 未熟者で、半人前以下の小僧が、半人前のお主を助けるためにここに乗り込んだのだ。三匹の共を連れてな」
「・・・・・・いあ?」
そういうことだと呟くと、黒猫は少女の傍にペンダントを押しやった。震える手でそれを掴むと、ヒスイはぎゅっと握り締める。すると白を通り越して青くなっていた頬に、ほんのりと赤みが差してきた。
「・・・・・・くっ、心配かけたな」
「かまわん。お主が無茶をするのはいつもの事だからな。それより」
黒猫は、少女の格好を見て、ふんっと鼻を鳴らした。
「傷が癒えたのなら、さっさと服を着ろ。まったく、そんなぼろきれ一枚の恰好では、小僧に襲われてもおぬし、文句は言えんぞ」
暗闇の中、窓から差し込む僅かな光を頼りに、ヒスイはペンダントの中から予備の服を取り出して着替えると、今度はペンダントから太刀を引き抜き、ぎゅっと力強く握りしめた。
「そういえばヒスイよ、お主あの時護鬼を引き抜いていたな。小松はどうしたのだ?」
「わからない。たぶん奴らに捨てられたんだろう。この暗闇の中で、泣いていなければいいけど」
「・・・・・・男になることを望む魔器に対し、泣いているかどうかの心配などしてどうする」
「いや、やっぱり心配はする。小松は私にとって弟や妹のような存在なんだ。もちろん、どちらになってもな」
「やれやれ、報われんな、あやつも」
ヒスイを慕っている生真面目な魔器の顔を思い浮かべ、黒猫は微かに首を振ったが、ふと傍らで自分の体を必死に掻き毟っている人形を見た。
「それでヒスイ、“これ”はどうする?」
「討つと言いたいが、今はこいつに構っている暇はない。すまないが監視を頼む。私は小松を探しに行く」
「うむ」
黒猫が頷いたのを確認し、扉に向かって歩き出した丁度その時、少女が目指していた扉は、外から勢いよく開いた。
「はあっ、はあっ、はあっ、に、逃がさんぞ玩具使い」
「・・・・・・ヒスイよ、こやつは」
「・・・・・・」
「むはははははっ、恐ろしくて声も出ぬか。奴らが陽動だと考えた我が目に狂いは無かったわ。そのため、こうして急ぎ戻ってきたのだ。そうそう、クイーンが貴様に塗りこんだ薬だが、あれには若干の痺れ薬が混ざっている。どうだ、満足に動けんだろう。うげほ、げほっ、げほ」
「・・・・・・・・・・・・」
「むはっ、むははは!! せめてもの慈悲だ。一撃で葬り去ってや「邪魔だ」うぺ?」
腰の剣を抜こうとした時、目の前にいる少女が斜め上に移動した。いや違う。これは少女が移動しているのではなく、自分が斜め下に移動している?
「お前の質問に一つだけ答えてやる。私達の訓練には毒に対する抵抗を強める物がある。さすがにドートスの毒は効いたが、これぐらいの毒効くはずが無いだろう。人形の中で、お前が一番惨めで、そして無様だったな」
ずしんと音を立てて、石人形の上半身が上に落ちる。それを見ることなく、ヒスイは開いた扉から外へと駆け出していった。
ヒスイが倉庫を抜け出したころ、聖亜と三体の人形は、周囲を警戒しながら暗闇の中を奥へと進んでいった。といっても時折スフィルが飛び掛ってくるだけで、危険はほとんど無い。
「こんなに順調でいいんすかね」
「いいんじゃないの? キングは逃げて行ったし、ルークは別の侵入者を追いかけていったんでしょ? 残っているのは、お館とクイーンだけだけど、絶対零度の監視に、クイーンは必ず必要よ。つまり相手の駒が尽きたってわけ。けどそうね。キングの実力はたかが知れてるけど、ルークは警戒したほうがいいかしら」
「もう一方の侵入者って、間違いなく鍋島先生っすよね」
「あら、知り合い?」
「そうっすけど・・・・・・あの、何でそうくっついてるんすか?」
先程からナイトは何故か聖亜にべったりとくっついていた。自分を守るためだと言っているが、その表情はとても嬉しそうだ。
「あら、あんな激しい告白をしておいて、照れなくてもいいじゃない」
「は・・・・・・はあ、そうっすか?」
軽口を叩く余裕すら出来た、そんな時だった。
不意に、ポーンが立ち止まる。それを見たナイトは話すのをやめ、真剣な表情で槍を構えた。
「えと・・・・・・ポーン、さん?」
「静かにしていろ。次の角を曲がった所で、誰かが戦っている」
耳を澄ますと、確かに前方で物音がする。どうやら、一方がもう一方を追い詰めているらしい。
「キング?」
「いや、残念ながら違う。戦いが一方的過ぎる。恐らくルークと、その鍋島という男だろう」
「そう・・・・・・それでどうする? 聖亜」
「どうするって・・・・・・何がっすか?」
「迂回するか、加勢するかということだ。だが、相手はルークだ。恐らく我らの数倍は強いぞ」
「・・・・・・あの、ナイト」
十秒ほどうつむいていた少年が、言いにくそうにつぶやいたのを見て、ナイトははいはいと仕方なさそうに肩をすくめた。
「分かったわ、加勢する。聖亜、あなたはその辺に隠れてなさい。ポーン、ビショップ、行くわよ。どうやら三人がかりでないと、手に負えない奴みたいだから」
「分かった」
「はい、分かりました」
ポーンとビショップが頷いたのを確認すると、ナイトは一度だけ聖亜を振り返った。すまなそうにしている彼に笑いかけると、そのまま振り返ることなく、前に駆け出して行った。
「俺、何すればいいっすかね」
壁に寄りかかって、聖亜はぼんやりと漆黒の空を見上げた。戦闘に加わりたかったが、正直自分が加勢しても何の役にも立たないだろう。むしろ邪魔になるだけだ。
自分の無力さに軽くため息を吐いた聖亜の耳に、ふとに誰かの泣き声が聞こえてきた。
やっぱり自分は無能な臆病者だ。
顔を膝の間に埋めながら、小松は暗闇の中、必死に嗚咽と涙を堪えていた。
ここに連れてこられてすぐ、小松はにたにたと笑う石の人形に、自分の体である小太刀を遠くに投げ捨てられた。暫らく痛みと衝撃に耐えていたが、それが収まると、小松は敬愛する主人を助け出そうと、倉庫の窓から中の様子を覗いたのだ。
だが、その眼に飛び込んできたのは、
黒い鞭で打たれ、殴られ、傷だらけになった主の姿だった。
それを見て、小松は逃げた。怖くて怖くて、どうしようもなく怖くて、もしかしたら、自分も同じような目に遭うかもしれない。そう考えただけで、怖くて。
それから、小松はずっとここで震えていた。ずっとずっと、長い間。
ガタッ
「ひっ」
すぐ傍で物音がして、小松は見つからないように必死に体を縮ませ、目をぎゅっと瞑った。だが、
「えっと、大丈夫っすか? 小松ちゃん」
聞こえてきたのは自分を心配する声で、触れるのは頭をやさしく撫ぜる手だった。
聖亜は、自分を涙でぬれた目で、呆然と見つめる子供の、その黒髪を優しく撫ぜてやった。
「・・・・・・な、き、貴様、な、なぜここにいる!!」
「なぜって、ヒスイと小松ちゃんを助けに来たんすけど」
「助け? 助けだと!?」
立ち上がって怒鳴ろうとするが、先程の光景が恐怖と共に蘇って足ががくがくと震えて立ち上がるができない。悔しさで体を震わせていると、今度は優しく両手を握られた。
「な、何をする、貴様っ!!」
「怖かったんすね。でも、もう大丈夫っすよ。助けに来たから」
悔しさと怒りと、そしてそれを上回る今まで感じたことのない何かに怯え、小松はその手を振り払った。
「うるさい、私の事など放っておけ!! どうせ私は無能な臆病者だ。男になって、男になってヒスイ様を守ると決めたのに、助けなければならないのに、怖くて、どうしようもなく怖くて逃げ出したんだ、私は!!」
再び膝に顔を埋めて震える。聖亜は小松のそんな様子を暫らく見つめていたが、やがて、ぎゅっと抱きしめた。
「あ・・・・・・」
「ゆっくりでいいよ。そんなに焦らなくても、好きな女の子がいるなら、いつかちゃんと男になれるから」
「け、けど私は弱くて、何も、何もできなくて」
「いや、料理とか掃除とか、ちゃんとできるじゃないか、とても助かってる」
「そ、そんなの、男のすることじゃない」
「いや、俺の友達に、福井って奴がいるんだけど、あいつ、熊みたいな大男のくせに、お菓子作りがすごく上手なんだ」
笑いながら話す聖亜を見て、小松は思わず想像してしまった。大柄で毛むくじゃらな熊が、料理人の格好をしてお菓子を作る、その光景を。
「ぷ、あはは、変なの」
思わず笑ってしまった。まだ怖い気持ちは無くならず、震えも全部は止まらないけど、取りあえず目の前にいるこの男の事は信じて見てもいい。そう思えたから。
「うん、いい顔だな」
「う、うるさいっ!!」
その時、小松はふと、聖亜の顔があまりに近い事に気づいた。
よく考えれば当たり前だ。なぜなら、自分はこの男に、抱きしめられているのだから。
「う、うわっ」
どくんと胸が鳴った。同時に体中が軋む。まるで、自分が自分でなくなるそんな感覚だった。先程とは違う恐怖に、小松は自分を抱きしめる聖亜に必死に縋り付いた。
「へ? 小松ちゃん? うわっ」
聖亜は、腕の中の子供が、いきなり大きくなった気がして、慌てて抱き直した。手に当たる感触が、先程とはまるで違う。柔らかく、そして頬をくすぐる甘いにおいがする。
「これは・・・・・・え?」
「・・・・・・れ」
「はい?」
腕の中にいる、豊かな胸を持つ少女はぶるぶると震え、泣きながらぽかぽかと殴ってきた。
「私を“女”にした責任を取れ、馬鹿ぁ!!」
「ぐ、くそっ!!」
物陰に隠れながら、鍋島は迫ってくる塔の様な巨大な石人形に、手に持った猟銃で必死に銃撃を繰り返していた。
効果が無いのは分かっている。並みのスフィルならまとめて四,五体を粉砕する銃弾が、無様に弾かれているのだ。
「グ」
巨大な拳が振り下ろされる。横に飛び退くことで直撃は避けたが、衝撃で壁に叩きつけられた。
「ぐはっ!!」
ぬるりと冷たい何かが額を伝った。どうやら切ったらしい。だが、それでも
「・・・・・・ぐらいで」
「ガ?」
「これぐらいで、負けられるか!!」
転がりながら素早く弾丸を込めて連射する。硬い人形の肉体が、わずかに削られた。
「ゴ」
業を煮やしたのか、人形が腕をこちらに向けた。嫌な予感はしたが、もう避けられるほどの体力は残っていない。
巨大な石のい拳が向かってくる。自分に振り下ろされるそれを、だが鍋島は、目を閉じる事無く睨み付けた。
「あら、駄目じゃない、ちゃんと逃げなきゃ」
不意に体を持ち上げられた。その直後今まで自分がいた場所を、石人形の巨大な拳が文字通り粉々に粉砕した。
「お前は・・・・・・人形か、ぐっ」
「騒がないの。出血がひどいわね・・・・・・ビショップ、この命知らずの手当て、頼んだわよ」
「はい。簡単な手当しかできませんが」
傷口に手が添えられる。ぽうっと暖かい光が灯り、痛みが徐々に引いていった。横たわりながら鍋島が目をやると、前方で二体の人形が、巨大な人形の動きを牽制しているのが見えた。
「ちっ!! めちゃくちゃ硬いわね。さすが黒石で作られているだけの事はあるか。そっちはどう、ポーン」
「駄目だ。まるで刃が通らん。関節を狙うしかないな」
「同感ね・・・・・・行くわよ!!」
「お前達は、仲間ではないのか?」
「仲間でした。少なくとも昨日までは。けど」
傷口を粗方塞いだビショップは、今度は取り出した布で、こびり付いた血糊を優しく拭き始めた。
「けど、聖亜さんに言われてしまったんです。お前達は、心からドートスに忠誠を誓っていたのかって」
「星が・・・・・か」
「ええ。さ、これでお終いです。暫らく安静にしておいてください」
自分に優しく声をかける悲しみの仮面を着けた人形に、だが鍋島はふるふると首を振った。
「いや、それは出来ない。私は、戦わなければならないんだ」
「なぜです? 失礼ですが貴方では」
「違う、適う適わないの問題ではない。私はこの地で、奴らに負けるわけにはいかないんだ」
「・・・・・・理由を聞いてもよろしいですか?」
「・・・・・・・・・・・・十五年ほど前まで、私は県の教育委員会に勤めていた。将来を有望され、子供の頃から好きだった幼馴染と結婚し、娘も出来た。それは素晴らしい人生だった。いや、素晴らしい人生になるはずだった。あの時までは」
「あの時・・・・・・聖夜の煉獄ですか?」
「当時妻は妊娠して、県内でも有数の病院である太刀浪総合病院に入院していた。まだ幼い娘と、私の両親が付き添っていた。だがあの日」
鍋島は、両手で顔を強く抑えた。
「クリスマスの日、あの赤い景色は、私から全てを奪っていった。父も母も、愛する妻と娘も、何より、生まれてくるはずだった、息子の命すらも!!」
「・・・・・・」
「その後、災厄を巻き起こしたのがエイジャと呼ばれる化け物であることを知り、私は対エイジャ組織、高天原に入った。訓練は年を取った私にはきつかったが、そんな物はどうでも良かった。私の中にある、決して消えることの無い憎悪に比べれば」
「・・・・・・私達に対する、憎悪」
「いや、それならば話は簡単だった。だが・・・・・・だが私が心の底から、それこそ狂うほど憎んでいるのは、エイジャではない」
傷口が開いたのだろう、彼の頭は流れる血と、内側から溢れ出る憎悪の炎で真っ赤に染まっていた。
「私が本当に憎んでいるのは、地獄の業火の中、私から全てを奪っていった赤い景色を、憎むどころか、美しいと感じ、見惚れてしまった自分自身なのだ!!」
「……」
血と涙を流す男に、ビショップは何も言わない。いや、何も言えなかった。彼女に出来るのは、ただ黙って、開いた傷口を癒す事だけだった。
幾度と無く同じ場所に攻撃を加えた成果だろう。ようやく、人形の右肩ににびしりと亀裂が入った。
「ぜっ、まったく、はっ、硬かったわね」
「ああ、だが、ぐっ、あと少しだ」
強敵との戦闘で二体の体力は消耗しているが、それは台座から送られてくるエネルギーで回復する。だが武器が疲弊していた。ナイトの槍は片方がひしゃげ、ポーンの剣にも所々亀裂が入っている。恐らく次の一撃で砕けるだろう。
「一度台座に戻れば回復できるけど・・・・・・」
「台座は今少年の家だ。無いものねだりを言っても仕方ないだろう。それに、もしあったとしても、そんな暇は与えてくれそうに無い」
上空から降ってきた拳を左右に飛ぶことで避ける。だが、
「グハッ」
「なっ!?」
動きが読まれていたのだろう。ナイトが気づいた時には、巨体に似合わぬ速さで、ルークが自分のすぐ傍まで迫っていた。
「くっ」
咄嗟にひしゃげた槍で体を守る。だが、
「ハッ」
「そ、そんな・・・・・・槍、が」
笑うように吐き出された息とともに人形が振るった拳は、無事なほうの槍に当たる。巨大な拳による一撃を防ぎきれず、槍は無残に砕け散った。
「ナイト!!」
「く・・・・・・なんとか、平気。けどまずったわね。武器が無い」
「・・・・・俺が、何とか後一撃で片を付ける。すまないが、陽動を頼む」
「しょうがないわね。そんな役回りだけど、槍を失った私にも責任はある。ぐだぐだ言っていられないか!!」
巨体の正面に向かって駆ける。当然拳が振り下ろされるが、最初から相手を引き付けるのが目的なのだ。回避に専念していれば、疲労しきったこの身体でも何とか避けることはできる。だがあえて離れず、相手の攻撃できる範囲にとどまる。先程の速度をもう一度出されても困るし、ポーンを標的にされても困る。
「さあさあ鬼さん手の鳴る方へ・・・・・・っ!?」
振り下ろされる拳を何度か避けた時である。偶然か、それとも相手がこちらの動きを読めるようになったのか、巨大な石の拳が彼女の右前脚を掠めた。
「く・・・・・・ポーン、これ以上はもたないわよ!!」
「ああ、分かっている!!」
全身の力を剣に込め、狙いを亀裂が走っている右肩に定める。そこを切断すれば、少なくとも片腕は使えなくなるはずだ。
「・・・・・・ふっ」
軽く息を吐くと、ポーンは塔のような巨体に向かって駆け出した。幸いなことに、相手はナイトの方を向いており、こちらに気づく気配はない。
「うおおおおおおおおおっ!!」
狙い済ました一撃は、ひび割れた肩の部分に直撃・・・・・・するはずであった。
「おいおい、後ろから襲ってくるなんて、随分と卑怯じゃねえの」
「な」
だが、渾身の力を込めて振り下ろした一撃は、背中からいきなり飛び出してきた小さな手に軽く取り押さえられていた。
ばきりと剣が二つに折れる。同時に彼に気づいたルークの拳が、ポーンの腹部に直撃した。
「があっ!!」
「ポーン!! ちっ、まさか両面だったなんて」
人形の後頭部が開き、中から別の顔が現れた。それは醜悪な顔つきをしており、口の端を耳まで釣り上げ、どこまでも卑し気な笑みを浮かべていた。
「ひゃはははははっ、最高にいい気分だぜ。何の抵抗も出来なくなった相手を、散々いたぶってぶっ殺せるんだもんなあ!!」
「グ」
「おいおい、そう不満げな顔をするなよ兄弟。ちゃんとお前の分も残しておいてやるからさあ!!」
笑いながら、人形は腹部に巨大な皹が入り、地面に膝をついたナイトを見下ろした。
「さあ、まず誰から死にたい? ひゃははは「なら、まずお前が死ね」へ?」
その時である。人形の笑い声を遮るように、少女の冷たい声が聞こえたかと思うと、一筋の光が暗黒を貫き、高笑いを続ける人形の口に、一本の太刀が差し込まれた。渾身の力を込めて突き入れられた太刀は固い人形の内部を、反対側の顔にまで突き抜けた。
「きゃ・・・・・・げっ」
「グゴ、ガ」
ずしん、と大きな音を立てて、巨大な石人形は崩れ落ちた。
「あ、あんた・・・・・・絶対零度」
「・・・・・・」
ナイトの震える声に、崩れ落ちた石人形の上に立っていたヒスイは彼女に太刀を向けた。だがその顔に殺意は見当たらない。やがて、少女はため息と共吐くと、ナイトに向けていた太刀を下ろした。
「はあっ、まったく、びっくりさせないでよね。助けに来た相手に殺されるところだったわ」
「私が助けてと頼んだわけじゃない。ところで」
ふと、ヒスイは辺りを見渡した。
「聖亜の馬鹿はどこにいる? あいつ、人がせっかく人質になったというのに・・・・・・一発殴ってやる」
「あ」
少女の問いに、ナイトは慌てて周囲を見渡した。巨大な人形に全神経を集中させていたため、彼の行動まで把握していなかったのだ。
「ま、まさか聖亜、やられたんじゃないでしょ「お~い!!」あぁ、いた」
暗闇の向こうからやってくる少年を見て、笑みを張り付けた仮面で安堵したナイトは槍を上げようとしたが、その途端、びしりと固まった。
「ヒスイ、良かった。助かったんすね!」
「ああ。だが聖亜、お前」
「はい、何すか? っと」
聖亜は、ずり落ちそうになった“豊富な胸を持つ”少女を、優しく抱えなおした。
「聖亜・・・・・・あなたの腕の中で泣いているその子、一体誰かしら」
「え? ああ、この子は「・・・・・・ヒスイ様?」あ」
不意に、少女がヒスイを見た。自分の名を呼ぶ少女の声を聴いて彼女の正体に気づいたのか、ヒスイは目を丸くして少女を見返した。
「お前・・・・・・もしかして小松か? 無事だったか。それより、その姿は」
「こ、こいつに、無理やり“女”にされたんです!!」
少女、小松の一言で、再び辺りがびしりと固まった。
「聖亜・・・・・・お前小松に手を出したのか」
「え、いやその」
右からヒスイが詰め寄れば、
「あら、私も詳しい話をぜひ聞きたいわね」
左から、むっとした表情のナイトが迫る。
「大丈夫とは言えませんが、犬に噛まれたと思ってあきらめてください」
ビショップの、小松に対する優しい言葉で、
「この、変態がぁ!!」
「ぶべえっ!!」
敵陣だというのに、聖亜は助けに来たはずの少女に、思い切り殴り飛ばされた。
「なるほど、そういうわけだったのか」
「あら、私は信じてたわよ。ね、聖亜」
頬が腫れ上がった少年の代わりに小松が事情を説明すると、納得したのか、ヒスイは優しく彼女の頭を撫ぜた。
人形を倒し、当初の目的である少女の救出に成功したためか、彼らは今近くの物置小屋の中で小休止を取っていた。ナイトとポーンの傷をビショップが治している間に、聖亜とヒスイ、そして鍋島は、聖亜が持ってきたパンをぼそぼそと食べていた。
「そんな事はどうでもいい。それより、これからどうする?」
「どうする、とは?」
腹部に入った大きな亀裂が修復され、辺りを警戒していたポーンの言葉に、ヒスイは冷たく聞き返した。
「我々は絶対零度、つまりお前を助けるために少年と手を結んだ。目的が果たされた以上、長居は無用だろう」
「そう・・・・・・だな。聖亜、お前は逃げろ」
パンを食べ終えた鍋島が、ゆっくりと立ち上がった。だが血を流しすぎたのか、時折苦しそうに息を吐いている。
「せ、先生はどうするっすか?」
「これ以上、家族の眠るこの都市で勝手な真似はさせん。ここで決着をつける」
「その体では無理だ」
ため息を吐いて立ち上がると、ヒスイは鍋島の前に立ち、彼の鳩尾に拳を軽く突き入れた。
「がっ」
疲労していた鍋島は、その一撃で崩れ落ちた。少女は彼の肩を支えると、そっと物陰に寝かせてやった。
「後は私がやる。人形、お前達も手伝え」
「あら、どうして私達が?」
面白そうに、ナイトはヒスイの前に立った。
「お前達が聖亜に味方をした事は事実だ。ここで改めて向こうについても、粛清されるだけだろう」
「ま、ね」
「それに、人を襲った罪は消えないが、手を貸せば罪一等は何とか免じてやれる。まあ、私たちの監視下に置かれることになるだろうが」
「それもやだけど・・・・・・ポーン、ビショップ、どうしたらいいかしら」
ナイトが振り返ると、二体の人形は暫らく顔を見合わせていたが、やがてそろって頷いた。
「決まりね。それじゃ、行きましょっか」
「そうだな・・・・・・小松」
「は、はい」
名前を呼ばれ、聖亜に小言を繰り返していた少女は、びくりと肩を震わせ立ち上がった。
「いけるか?」
「はい。もちろんです」
ヒスイが手を伸ばすと、小松はその手に触れた。途端に彼女の姿は掻き消え、代わりに一本の刀が現れる。今までの小太刀より幾分長いが、太刀よりは短い。その中間ほどの長さだ。
「少し使いづらいが、まあその内慣れるだろう。聖亜、お前はもういい。避難していろ」
「へ? いや、俺も行くっすよ。このままじゃ準達も危ないっすから」
「そうか・・・・・・勝手にしろ」
吐き捨てるように答えると、ヒスイは振り返ることなく物置小屋を後にした。
魔器使としての役目を、果たしに行くために。
「そういえばナイト」
「あら、どうしたの?」
暗い通路を進んでいるとき、ヒスイはふと、隣にいる人形に顔を向けた。
彼らは別に闇雲に進んでいるわけではない。遠くからでも分かるほど、黒衣のエイジャが発する気配は強かった。まるで、こちら誘っているかのように。
「なぜあの黒衣のエイジャは人を狩ろうとしない? 都市全体が強力な狩場に包み込まれたんだ。狩り放題だろう」
「あら、そういえば、何でかしらね」
「我々はドートスの配下だったからな。計画の詳しい点は何も聞かされていなかった。ただ、主を呼び出すといわれただけだ」
「・・・・・・何か、嫌な感じがするっすね」
「ええ・・・・・・と、どうやら到着したようです」
不意に、目の前に鉄の扉が現れた。恐らくは集積所か何かだろう。ヒスイが押すとゆっくりと開く。鍵はかかっていない。入って来いということだろうか。
「とにかく、全ての答えはこの奥にある。行くぞ!!」
二本の刀を構えると、ヒスイは足で扉を蹴り、その中に一気に踏み込んだ。
薄暗い部屋、魔方陣が描かれた中央に、それはいた。
「ようやく来たようだな」
部屋の四方に所々肉片がこびり付いた骸骨が立っており、頭蓋骨の上から蝋燭が不気味に灯っているのを見て、聖亜は思わず口に手をやった。
「ふむ、どうやらこの場所はお気に召さなかったようだ」
「黙れ。儀式の最中のようだが、どうやら間に合ったようだ。お前の部下はもういない。ここで討たせてもらう」
刀を構えるヒスイに対し、だが肌に緑色の鱗を持つそのエイジャは呆れたように首を振った。
「やれやれ、せっかちな事だ。だが間に合ったとはこちらの言い分だ。それに、よくぞ我が下僕を倒してくれたな」
「・・・・・・なに?」
「ふむ・・・・・・出でよ」
エイジャが緑色の鱗が付いた手を一振りすると、キングとルークの残骸、そして
「む?」
「キュウ!!」
体を震わせているクイーンが、胸の辺りに黒猫を乗せ、突然現れた。
「聖亜か、ここは」
「ふん、随分と痛めつけられたものだ。目覚めよ」
黒猫の問いに聖亜が答える前に、エイジャが緑色の足で床をトンッと叩いた。すると、キングの二つに立たれた身体が一つに融合し、ルークの傷が癒え、クイーンがぱちりと目を開けた。
「こ、ここは?」
「・・・・・・グ?」
「ま、まさかお館様、助けてくださったのですか? あ、ありがとうございます」
起き上がり、目の前の男に口々に感謝の言葉を述べる人形達を見て、エイジャは数十の牙を持つ口を歪ませた。
「当たり前ではないか。誰が大事なお前達を見捨てるものか」
「「お、お館様」」
「ゴッ」
自分の足元に跪く人形達を、細く黄色い瞳で見つめると、彼は魔法陣の中心からバッと後方に飛びのいた。そして
「そう、その身に貴重な一万もの魂を保有するそなたらを、なぜ楽に死なせられよう」
「おや・・・・・・かた、さま?」
「ガ?」
「え」
そして、それは発動した。
「うえっ」
目の前で行われている光景に、聖亜は先程食べたパンを、思わず床にぶちまけた。傍らのヒスイも、口に手を当て、必死に吐き気を堪えている。
それほどに、間の前の光景は残酷だった。
人形達が、魔方陣から現れた無数の黒い蛇に、生きながら石の体を食われていく。振り払おうともがいても、その手は黒蛇をすり抜ける。しかも、彼らはその中で“死ねない”のだ。死ねずに自分の肉体を、魂を食い破られていく。
やがて、彼らの全てが、黒い蛇に食われた。
「満足したか?」
不意に、エイジャが暗闇の中に目をやった。吐いた後の気だるさの中、聖亜も無意識に目をやる。
「ええ、ええ。見事な絶叫でした。満足しましたとも。ひひ、うひひひっ」
「う・・・・・・狸山、先生?」
「おや、駄目じゃないですか星君。健康第一ですよ。でないと」
奥から出てきたその男は、でっぷりと太った腹を突き出して、笑った。
「一生懸命絶叫を上げられませんからねえ!! ひ、ひひ、うひひひひひっ」
「な、何で校長先生がここにいるっすか!!」
「決まっているだろう。この男が」
少年の叫びに応えると、ヒスイは刀を構えなおした。
「この男が、エイジャを召喚した張本人だからだ」
「おやおや? それは半分しか当たっておりませんよ? 確かにここにいるリザリスさん達を呼び出したのは私ですが、ひひっ、ドートスさん達は違います。彼らを呼び出したのは、この工場の持ち主だった男です」
「そやつに魔道書を渡したのか」
「ええ。お金に困っていたようですので。助けてくれると思ったのでしょうね。ひひひっ」
キュウの視線を受け、狸山は下品な笑顔を浮かべた。
「エイジャを呼び出した人間は排除の対象になるが、その前に一つだけ聞いてやる。貴様、なぜエイジャを呼び出した」
「何故? 簡単なことです。私はね、十五年前のあの日に聞いた、死んでゆく人々の絶叫をもう一度聞きたいんですよ。あれを聞いたせいで、仕事にも身が入らなくてねえ。結局あんな高校の校長なんてやらされる羽目になりましたけど。でもいいんですよ。あの絶叫をもっと聞くことが出来れば。さあ、お喋りはここまで。リザリスさん、それではまた聞かせてください。死にながら叫ぶ絶叫を!!」
「いや・・・・・・それは無理だ」
「へ?」
不意に、リザリスと呼ばれたエイジャの、その緑色の手が、狸山の首を掴んだ。
「ひっ? り、リザリスさん?」
「戯けがっ」
キュウが心底嫌悪したように吐き捨てる。黒猫の瞳には、喚く狸山が強い力で部屋の中央に引きずられていくのが見えた。
「な、何をなさるのですリザリスさん!!」
「貴様は満足したと言ったな。ならば代償をいただくとしよう」
「だ、代償ですって? そんな事、あいつは一言も・・・・・・ひ、ぎゃあああああっ!!」
部屋の中央、つまり魔方陣の中央に投げ出された狸山は必死に逃げようとしたが、その手足にリザリスが太い杭を打ち付けていく。絶叫が部屋に響き渡る中、手足から噴き出る血が、魔方陣の上にだらだらと流れた。
そしてその時、ドクンと、部屋が脈打った。
「うあ、くっ」
「ヒスイ?」
少女の体が床に沈む。慌てて駆け寄ろうとした聖亜は、次の瞬間、魔方陣から一斉に吹き出た黒い煙を見た。
それは、喚き続ける狸山の中に吸い込まれていき、パンパンに膨れ上がった彼の身体が、内側からはじけ飛んだ、その瞬間
「まったく、八百年ぶりにこの世界に出てくるための寄り代が、脂ぎった男なんて、最悪だと思わない? ねえ」
この世界に、地獄が現れた。
「あらあら、ようやく現れたわねえ」
太刀浪市の郊外にある小高い丘の上でお茶を楽しんでいた神楽は、優しげな笑みを浮かべ、漆黒に覆われた都市を見た。
「神楽様、まさか知っておられたのですか? 爵持ちが現れることを」
「あら? 当然じゃないひいちゃん。言ったでしょ、この都市が惨めに滅んでいくのを見るって」
「ですが、それにしてもこの重圧は」
その横では、氷見子が苦しげに眉を顰めていた。
「簡単なことさ。呼応したんだよ。貴族の出現に、煉獄の地下に蠢く万を越す魂が」
不意に、二人の後ろで、明るい声がした。
「あら? お客様?」
「ふふ、久しぶりですね。黒塚家の鬼姫様」
「まあまあ、あなただったの」
闇の中から現れたのは、黒い礼服に身を包み、シルクハットを被った青年だった。
「ええ。今宵の宴を見物させてもらおうと思いまして」
「ふふ、いいわよ。ところで、飲み物は何が良いかしら」
紅茶の葉を取り出す神楽に、青年は柔らかく首を振った。
「いえ、すぐに行かなければなりませんので。お構いなく」
「そうなの、残念ね」
会話を続ける二人の横では、氷見子が草むらに倒れ付し、喘いでいた。
爵持ちの重圧にも耐えられる彼女が、まったく耐えられないほどの重圧が、二人からは発せられていた。
「さて、それではこれで失礼を」
「あら、もう行ってしまうのかしら」
「ええ。名残惜しいですが、探し物がようやく見つかったもので」
青年は優雅に一礼すると、暗闇の中にすっと消えていった。
ぴこぴこと、二本の長い黒耳を揺らしながら。
地獄は、女の格好をしていた。
一見すれば美しいと思えるだろう。体を覆う黒いドレスから覗くのは、はち切れんばかりの胸。黒く艶のある長い黒髪が流れ、唇は真っ赤に染まり、肌はどこまでも白い。
「ご無事でのご降臨、お喜び申し上げます。子爵閣下」
「ありがとうリザリス。けど、あまりいい寄り代とはいえないわね」
「それは、申し訳ございません」
「まあいいわ、ところで」
女は、黒く染まった瞳で、床に突っ伏しているヒスイを見た。
「あれが、今宵の主食?」
「は。一夜にて百殺を成し遂げた絶対零度。この家畜にしみ込んだ絶望は、さぞ美味かと」
「そう、なら遠慮なく頂くわ」
「・・・・・・だ、まれ」
刀を杖代わりに震える体で何とか持ち上げる。がくがくと震える膝に力を入れ、ヒスイは女の格好をした地獄を強く睨み付けた。
「人を、勝手に、食い物に・・・・・・するなっ!!」
太刀を構え、駆け出そうとする。だが、
「あらあら、元気がいいこと・・・・・・“控えよ”」
「ぐ、ぅ」
その体は、再び地面に沈んだ。
「ヒスイっ! 大丈夫っすか!?」
「あら?」
少女に向かって歩き出そうとした女は、自分より先に駆け寄った少年に視線を移した。
「あらあら、なぜあなたは動けるのかしら。わたくし、言いましたわよね。控えよって」
周りを見ると、ヒスイだけでなく、キュウも、三体の人形も、そしてリザリスという名のエイジャですら、揃って倒れている。
まるで、恭しく頭を垂れているかのごとく。
「普通に動ける。それより、何なんだあんたは」
「・・・・・・あら、そういう事」
少年の質問には答えず、何かに感づいたのか、女はその白い手を彼に伸ばした。
「最近は全く見当たらないから、絶滅したと思っていたのだけれど、例外はいるのね。ねえ、“結界喰らい”」
聖亜が飛びのくより早く、伸びてきた白い手が彼の頬に添えられる。優しげな感触に、だが聖亜は恐怖と絶望しか感じなかった。
「う、あ・・・・・・」
「では目覚めさせましょうか。そして、一緒に楽しみましょう。この黒い宴を」
言葉と共にされた口付けは、絶望の味がした。
危険度百二十パーセント超過、超過、ちょ・・・・・・
「変化しない。全く、つまらないわね。リザリス、退屈よ。何かなさい」
頭の中で鳴り響く警報音に耐えきれず、白目をむいて崩れ落ちた少年を放り投げると、女は欠伸を噛み殺し、辺りの重圧を解いた。
「はっ!! さあ哀れな人形共、閣下はご退屈だ。踊って差し上げろ。せいぜい無様に」
「え?」
次の瞬間、最後尾にいたビショップは、自分の喉を食い破る牙と、自分を見つめる黄色い瞳を見た。
ン
「び、ビショップ? う、うお、うおおおおおおおっ!!」
おぼろげにポーンに手を伸ばし、ビショップはチェスの駒に戻った。だがそれすら、リザリスは口の中に入れ、噛み砕く。
それを見たポーンは絶叫を上げて立ち上がった。まだ体が軋むが、そんな事知ったことではない。
「ほう、起き上がるか。なるほど、さすがは元帝国軍の小隊長だったことはある」
「黙れ!! 貴様、貴様だけは絶対に許さん! リザリス!!」
「ぽ、ポーン、無茶よ!!」
欠けた剣でリザリスに向かうポーンを静止しようと、ナイトは必死に叫んだ。だが、怒り狂う彼に、声は全く届いていない。
「愚かな」
突き出された剣を首を捻って避けると、リザリスは逆にポーンの腹部に手を突き入れた。
「ぐがっ!!」
「このままチェスに戻った貴様を握りつぶしてやろう・・・・・・む?」
だが、鱗の付いた両腕は彼の腹の中で、ピクリとも動かなかった。
「ぐ・・・・・・今だ! 絶対零度!!」
「はあああああああっ!!」
白刃が閃き、緑色の腕が二本、斬り飛ばされ、近くの床に落ちた。
「ぐむっ」
リザリスが飛び退くと、ポーンは怒りの仮面を満足そうに歪ませ、ふっと掻き消えた。
キン
「く・・・・・・切れ味が鋭すぎる。まさかこれほどとはな。だが、これで貴様の攻撃手段は無くなったな」
硬い鱗に覆われた腕を難なく切り裂き、さらに床を切り裂いて根元まで地面の中に食い込んだ刀を渾身の力を込めて引き抜くと、ヒスイは苦しげに呻くリザリスに、止めを刺すために駆け出した。
「ぐっ、そうだな・・・・・・と、言うとでも思ったか?」
「え?」
ずるりと、肩の付け根から新しく生えた腕が飛び出し、刀を掴んだ。
「馬鹿な、腕が再生した? きゃっ」
そのまま、壁にむかって叩きつけられる。激痛が背中を走り、ヒスイはくたりと崩れ落ちた。
「言っていなかったか? 我は不老不死だ。それこそ、どんな攻撃も効かぬ。それに」
「ちょ、何?」
背後から襲いかかったナイトの体は、逆に何かに押さえつけられた。
「う、腕が」
「このように、離れた手足も自由に動かせる。つまり、お前達が我を攻撃すればするほど、我の攻撃手段が増えるというわけだ」
首と胴体を拘束している手の間から、細かい粉がぱらぱらと落ちるのを見て、ナイトは悲しげに呻いた。その傍らに歩み寄ると、リザリスはナイトに優しく話しかけた。
「ナイト、緑界の元龍騎兵よ。同郷のよしみだ。お前が改めて閣下に忠誠を誓うならば、奴隷として生かしてやろう。どうだ?」
「ふん、奴隷なんてお断りよ。それに、私はね」
ぎりぎりと押さえつけられながら、彼女は死んだように動かない少年を見た。
「私はね、人形にされてから今まで、ずっと笑いたくも無いのに笑っていたの。それこそ、悲しい時も苦しい時も、ずっとずっと。ひどいものだったわ」
その少年に向け、彼女は肘から先がない腕を伸ばした。
「けど、聖亜に会って、私は始めて心から笑うことが出来た。それにねリザリス、聖亜は好きって言ってくれたの。人形になってからも、なる前も、誰も言ってくれなかった言葉をね。だから」
心の底から笑いながら、彼女はリザリスを哀れみを込めて見上げた。
「だから、偽物の笑顔なんて、もうお断りよ」
ずんっと首に衝撃が走る。笑ったまま、ナイトは掻き消えた。
からんと、仮面を一つ、床に残して。
パキン
「ヒスイ、ヒスイ、無事か」
「う・・・・・・あ、ああ。だがキュウ、奴は不老不死なのか?」
「いや、そんな物は存在しない。恐らく、高い再生能力だろう」
「再生能力、か」
「ヒスイ?」
少女のつぶやきにまゆをひそめた時、キュウはふと、流れる冷気を髭に感じた。
「ヒスイ・・・・・・お主まさか」
「くっ」
リストバンドを強引に引き千切ると、その下にある白い手首にヒスイは太刀を当てた。すると、周囲に漂う冷気がより一層増加する。
ふらふらと立ち上がると、ヒスイは目の前の蜥蜴を強く睨み付けた。
「なら、その能力ごと、奴を“断つ”!!」
忌々しげにチェスを踏み潰していたリザリスは、ふと微かな冷気をその鱗に感じた。
「む?」
だが、それは急速に強まっていく。煩わしさを感じた彼は、その冷気が漂う方向を見た。
「あら?」
それとほぼ同時に、退屈そうに欠伸をしていた女も、興味深げにそれを見る。
太刀の中から流れ出るエネルギーが、今度は冷気となって刀に急激に吸い込まれていく。やがて、刀の許容範囲を超えたのか、その冷気は、刀の周りで渦を巻き始めた。
「なんなのだあれは・・・・・・ふ、ふん、まあいい。どのような技も、我には効かぬ」
太刀を覆い尽くすほどの渦は、やがて急速に冷えて固まり、そこには、白い刃を持つ、巨大な刀が現れた。
「成功、させたか。だがヒスイよ、その“絶技”を禁技としたのは、お主自身なのだぞ?」
キュウは、青い刀を持つ少女を、むしろ憐れみを込めて眺めた。
「ヒスイよ、我が愛しき未熟者よ。それを撃てば、間違いなくそなたの婚約者が出てこよう。だが、それでもお主はそれを放つというのだな」
「ふうっ、ぐ・・・・・・うあっ」
寒さと重さで、体ががくがくと震える。だが、ヒスイは唇を血がにじむほどかみ締めると、今ではもう五倍以上に膨れ上がった刀をゆっくりと持ち上げ、そして叫んだ。
「絶対、零度ぉ(アブソリュート、ゼロ)!!」
最初に押し寄せてきたのは、白い冷気だった。リザリスは、その冷気を腕を盾にすることで防ごうとする。だが、その冷気に当たった瞬間、腕は瞬時に凍りつき、粉々に砕けた。
狼狽するリザリスに、今度は冷気の波に乗った少女が滑るように迫ってきた。そして、彼女がその巨大な刃を振り下ろすと、
リザリスの体は、二つに断たれた。
「ぐああああああああっ!!」
痛みと屈辱に、リザリスは絶叫を上げた。再生できるといっても痛みは発生する。まして肩から腰まで袈裟斬りにされたのだ。
「ぐ、だが再生すれば問題は・・・・・・何だ?」
再生できない。いつもなら容易に出来るはずのそれは、なぜか反応すらしなかった。
「なるほど、急激な冷気で細胞の動きまで凍らせたのね。お見事ですわ」
「か・・・・・・閣下、閣下ぁ!! なにとぞ、なにとぞお助けください!!」
「ええ、分かっているわ、リザリス。けど」
必死に伸ばされた緑色の手を、女はしゃがむと優しく握り締めた。
「けどごめんなさい。わたくし、今とってもお腹が空いてるの」
その瞬間、二つに断たれた蜥蜴の肉体は、どちらも女の中に吸い込まれていった。
「ああおいしかった。貴方の絶望も中々だったわ、リザリス」
「お前・・・・・・自分の仲間を」
「仲間? わたくし以外の貴族は、いったいどこにいるのかしら」
体に襲い掛かる反動と寒さで、刀によりかかったまま指一本動かせないヒスイに、女は優しく微笑んだ。
「くっ」
だが、それでもヒスイは、光を決して消さない瞳で、女を睨み付けた。
「あらあら、そんな顔しない方がよろしくてよ? 味が落ちてしまうから、あまり痛めつけたくないの」
「一つ、聞きたい事がある」
「あら? いいわよ、何なりと」
「向こうで、贅の限りを尽くす爵持ちが、なぜわざわざこっちに出てきた」
「あら、そんなこと」
笑いながら頷くと、女は顔を赤らめ、遥か彼方を見た。
「もう一度味わいたいからよ。喉を潤す甘美な悲鳴を。絶望に彩られ、もがき苦しみながら喉をするりと落ちていく魂を。聞けば、この都市には十万以上の家畜が生息しているって話じゃない。だからリザリスに命じたの。彼らをほとんど損なう事無く、わたくしをこちらに呼びなさいとね」
「・・・・・・」
くすくすと笑う女の答えを聞いた時、ヒスイの心に宿ったもの、それは恐怖でも、そして怒りでもなかった。
「もう、いい。分かった」
少女は、自分に付けられた称号である百殺の称号に似つかわしくない、心優しい少女は、
「・・・・・・あら?」
絶対零度という異名に似合わぬ、灼熱の憎悪を心に宿し、
「お前は・・・・・・いや、貴様だけは、例え四肢が砕かれても、例え、この体に流れる全ての血を失っても」
自らの魔器を握り締め、強く叫んだ。
「必ず、滅殺する!!」
「あらあら、食事の前に、軽いダンスがお望みかしら」
振り下ろされた刃を手で軽く打ち払い、女は大きく後ろに下がった。
「では、その前に自己紹介をしなければなりませんわね」
女は、そこでドレスの裾を掴み、優雅に一礼した。
「わたくし、黒界七王国は北、北方三ヶ国が一国、ニブルヘイム国子爵、“嘲笑する虐殺者”ニーズへッグと申します」
振り下ろされた太刀をくるりと回転して避けると、ニーズへッグは、少女の胸にそっと手を添え、
「どうぞ、ダンスのお相手を、絶対零度」
少女を、大きく吹き飛ばした。
「・・・・・・うあっ!!」
「あらあら、まさかもうお終い? まだ手を添えただけですわよ」
壁に激突し、ずるずると滑り落ちた少女に向け、ニーズヘッグは穏やかな笑みを浮かべて歩き出した。
と、
「ふぎゃっ!!」
「あら」
彼女に、物陰から小さな黒い影が飛び掛った。片手で捕まえると、それは自分に向かって必死に爪を伸ばす、一匹の黒猫だった。
「ごめんなさい、わたくし猫ってそれほど好きじゃないの。食事が終わって、小腹が空いていたらデザートにでも頂くわ」
にゃあにゃあと鳴く黒猫を、半分ほど開いた窓から外に放り投げる。
「さて「はあああああああっ」あら」
改めて少女に向かおうとしたニーズヘッグの目前に白刃が迫る。避ける暇は無い。それは彼女の肩を貫こうと突き刺さり、だが貫くことはできずに弾かれた。
「なっ」
「ふふ、見事なステップね。けどそんな攻撃では、わたくしの体には届かないわよ?」
彼女の肩、その僅か一ミリ手前で停止した太刀を見て、一瞬動きを止めたヒスイの腰を、ニーズヘッグは優しく抱きかかえた。
「ぐ、このっ!!」
「そう暴れないの。まずはターンと行きましょう?」
腰を掴まれ、振り回されながらも、ヒスイは二本の刀を必死に振るった。至近距離からの一撃は外れることは無かったが、その攻撃は、やはり彼女には届いていない。
「あらあら、踊っている間、相手のドレスを踏んでは駄目よ。絶対零度」
首に振り下ろされた太刀と、胸を突こうとした刀をそれぞれ二本の指で摘むと、ニーズヘッグは先程黒猫を投げた窓目掛け放り投げた。二本の刀はそれぞれくるくると回りながら窓を割り、闇の中に消えていく。
「う・・・・・・」
僅かにかすみ始めた目でそれを見送ると、ヒスイはそっと、右手を握り締めた。
「さあ、これで玩具は全部無くなったわ。それで? これからどうやって戦うつもり?」
「・・・・・・こう、やって、だ」
その時、ニーズヘッグは自分の脇腹に、少女の手が添えられるのを見た。
「あら、それが精いっぱ・・・・・・い?」
その右手に、どこからか冷気が集まってくる。先程の攻撃は、確か刀の中に蓄えられていたエネルギーを使ったはずだ。そしてなにより、
「なめる、なよ。例え魔器が無くても、代用できるものはある!!」
その冷気は、赤い色をしていた。
「おほほほほほっ、大した自己犠牲ですこと。自分の血を冷気に、右手を玩具の代わりに使うだなんて。けどよろしいんですの? 手が砕けますわよ?」
「・・・・・・言った、はずだ」
微笑を浮かべると、少女はニーズヘッグの漆黒の瞳を、正面から見据えた。
「例え、四肢が砕けても、例え、この体に流れる全ての血を失っても、必ず滅殺すると……くらえっ!!」
赤い冷気が右手を包み込む。正真正銘、これが彼女に放つことのできる、最後の一撃だった。
「くらえ、絶対、零度(アブソリュート、ゼロ)!!」
彼女の手から放たれた赤い冷気は、巨大な衝撃と共にニーズヘッグの脇腹に突き刺さり、その腹部を粉々に粉砕した。
「う・・・・・・あ」
ニーズヘッグが崩れ落ちるのを確認すると、ヒスイは床に転がった。幸い右手が砕かれることは無かった。おそらく冷気の練り方が甘かったのだろう。だが、衝撃で肩が抜けたようだ。それにひどく寒い。
「・・・・・・は、ぁ」
だが最早指一本動かせるだけの体力は残っていない。それにだいぶ血を失った。死んでもおかしくない。
「ふうっ」
それでも満足そうに息を吐くと、ヒスイは目を閉じた。
「あら、眠りますの? なら、そろそろ食事にしましょうか」
ぼんやりとした意識の中、微かに聞こえる声を子守唄に、ヒスイの意識は、深い闇の中に落ちていった。
そして、何も分からなくなった。
ガキンッ
その時、音を立てて、それは砕けた。
続く