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スルトの子  作者: 活字狂い
8/22

スルトの子 第五幕 世界の裏側





 夢を、見た。







 だがそれは、いつもの暗い道を行く夢ではない。少年は一人、深い霧が立ち込める草原の中に立っていた。


 ここはどこだろう、見覚えの無い場所だ。なのに、見覚えの無い場所に一人で居るはずなのに、不思議と恐怖は感じない。






 首を傾げながら歩いていると、不意に、霧が晴れた。






 周りの風景が鮮明になってくる。草原の西側には広大な森があり、東側には大きな川が流れていた。




 ふと、少年はその川の岸辺に居る、誰かの姿を見た。






 それは、その人は、青く澄んだ長い青髪をした女性だ。反対側を向いているため、顔は分からない。






  だが少年には、何故か彼女の、痛々しいほど凛々しいその顔が分かった気がした。









     そう、自分の知っている誰かに瓜二つの、その顔が。







 彼女に向かって歩き出そうとした、その途端、両足がずぶずぶと地面に飲み込まれていく。それとほぼ同時に、彼女の向こう側から大きな砂埃がやってくるのが見えた。




 彼女は右手に青く光る刃を持ち、その砂埃に向かっていく。









 そして、地面に完全に飲み込まれるその瞬間、








 少年は、砂埃の中に消えていく、彼女の最後の姿を見た。





















 それから三日ほどは、特に何事も無く過ぎた。




 その間、ヒスイにアルバイトを紹介したりするなどいろいろと忙しかったが、少なくともエイジャからの襲撃はない。

 どうやらドートスの配下は三体の人形だけらしく、その回復を待っているのだろう、とはキュウの判断であった。



「じゃあ、もう二,三日は大丈夫っすね」

「ん? 何が大丈夫なんだ? 聖」



 聖亜の呟きに、彼の右横でサラダを口に運んでいた準が顔を上げた。彼女になんでもないと首を振ると、少年は自分の真向かいでエビピラフのエビを突いている白髪の少女をちらりと見た。







 三日前、一緒に買い物をした事で打ち解けたのだろう。準はヒスイが自分の隣に居ることにあまり文句は言わなくなった。ただし、学校や外では彼女はいつも自分のそばに居る。彼女曰く、男達が復讐しにこないか心配なためらしいが、それらしい動きは無い。昨日氷見子先生に聞いたところ、既に“処理”したようだ。


 が、聖亜はそれを自分一人の胸にしまって置いた。準が自分のことを心配してくれるのは嬉しいし、何より彼も男なのだ。美少女二人に囲まれて嬉しくないわけはない。だが、それを気に食わない者がいることもまたたしかだった。




「よ、何ぼんやりしてるんだよ、この三股野郎っ!!」




「・・・・・・」

「ん? どうしたんだよ、三股野郎」

「秋野、何すかその三股野郎って」


 左横に座ってきた秋野の言葉に、聖亜はむうっと頬を膨らませた。


「だって聖、お前柳だろ、植村先生だろ、でもって今度はヒスイだろ。充分三股野郎じゃねえか」


 胸を張って答える秋野に、聖亜はげっそりとため息を吐いた。自分の事を他の生徒が三股野郎と噂しているのは知っていたが、まさか面と向かって言われるとは思っていなかった。



「別にそんなんじゃないっすよ。それより福井、いいかげんに元気だせっす」

「うるせえな、これは頭剃られて落ち込んでるんじゃねえよ」



 秋野の向かいに座った福井が、いろいろな意味で光っている頭を俯かせ、好物のカツ丼をぼそぼそと食べ始めた。




「そうそう。福井の奴、昨日付き合ってる奴全員に振られたんだぜ」

「・・・・・・あぁ」




 その事は聖亜も良く知っていた。昨日の放課後、空船通りで彼女とデートしているところを別の彼女に発見され、それから浮気が芋づる的に発覚したらしい。彼が落ち込んでいるのは、彼女たち全員に振られたこともあるが、それ以上にデートしていたのが本命の相手だったためである。





「無節操なことをしてるからだ」

「そうっすよ。ちゃんと別れてから別の人と付き合わないと、女の人に失礼っす」

「いや聖亜、それを三股野郎のお前に言われたくねえよ。それにヒスイ、大家族の中で下の俺って結構ストレス溜まるんだぜ。せっかく作ったお菓子は食い散らかれるし、おかずも奪われるし、いじめられるし。少しぐらい発散してもいいじゃねえか」

「ああ、だからお前はあんなにお菓子を作るのがうまいのか」





 ヒスイがこの二人と話すようになったのは、先日の料理実習で同じ班になったからである。メンバーはヒスイと聖亜、準、そして秋野と福井の五人だったが、その時福井が作ったチーズケーキを、彼女はいたくお気に召したようだった。




「発散って、それが由緒ある神社の息子の言う台詞か?」

「いいじゃねえかよ準、どうせ神社は兄貴が継ぐんだし」




 準の言葉に言い返すと、福井は二杯目のカツ丼に取り掛かった。だが半分ほど食べたところで、はあっと上を向く。




「あぁ、俺もう髪が元通りに伸びるまで学校来るのやめようかな」

「あれ? いいんすか」

「あ? 何がいいってんだよ、聖」

「だって、来週新市街の学校と合同で水泳の授業があるっすよ。福井、かわいい女の子がたくさんいるからって、先月から楽しみにしてたじゃないっすか」

「・・・・・・おお、そうだったな。んじゃ、しょうがねえから学校休むのは、再来週以降にしてやるか!!」

「いや、再来週って、もう夏休みに入ると思うっす」




 お、そうだったな。と笑いながら、福井はカツ丼の残りを豪快に頬張った。




「でさ、話は変わるんだけどよ、お前ら放課後になったら一緒にジャストにいかねえか」

「はあ? ジャストっすか?」




 ジャストとは、今年駅北側のデパート通りに出来たばかりの総合デパートだ。千台の車を収容できる立体駐車場だけではなく、付近にはなんと小型の飛空船の発着場まで設けている。そのため県内や国内だけでなく、国外からの買い物客も多かった。


「おう、せっかくだから来週に向けて水着を新調したいんだよ。お前は来るよな、茂」

「そりゃ行ってもいいけどよ、ジャストって事は月命館の奴らも来るんだろ?」


 聖亜の隣で、今まで話に混ざらずカレーライスを頬張っていた秋野が、カレーを口に入れたまま、もごもごと呟いた。


「ああ、そういえば秋野、月命館の生徒さんと仲悪いっすよね」


 月命館は一年ほど前に新市街に出来た高校だった。本校は東京付近の都市にあるエスカレーター式のマンモス学校で、その都市は月命館に通う生徒のための寮や娯楽施設、教員の宿舎で出来ている所謂学園都市だった。新市街に出来たのは月命館高知第二分校であるが、それでも最新式の高校である。入学するためには高い学力か運動能力、または莫大な入学金が必要で、代議士や大会社の社長の子供が通うエリート校だった。しかも大金をばら撒けば多少の犯罪を見逃すという黒い噂がある。


「ああ。中学ん時の同級生がさ、何人かあの学校に通っているんだよ。ったく、顔合わすたんびに馬鹿にしやがって・・・・・・それによ、知ってるか? 先月退校したA組の小池、どうやら陸上の新星として引き抜かれたらしい」


「ふ~ん、んじゃどうする? ジャストに行くのやめるか?」

「・・・・・・・・・・・・いや、行くよ。あいつらから逃げたようで癪だしな」


 苦々しく笑うと、秋野はカレーの残りを一気に食べ始めた。







 その男には、真上にある太陽が自分を焼き尽くしているかのように感じられた。



「・・・・・・」

「お、おい木村、お前大丈夫かよ」



 取り巻きの一人が心配そうに、恐る恐る肩に手を置いてきた。胸に「月」のペイントがされている体操服を着たその男を、彼はじろりと睨んだ。




 青白い顔の真ん中で、眼だけが異様なほど光っていた。




「ひっ」

「ああ。すこぶるいい調子だ。まるで世界が俺を中心に回っているみたいだ」

「そ、そうか。そりゃ良かったな」

「ああ、本当ににいい気分だぜ」



 くくくっと不気味に笑う男を、声を掛けた取り巻きは心底不気味に感じていたが、無視するわけにはいかない。なぜなら彼の父親は、この男の父親が経営する会社に勤務しているからだ。



「そ、そうだ木村、放課後ジャストに行かないか? 久しぶりにナンパしようぜ」

「ナンパか・・・・・・いいな」

「あ、ああ。そうだろ、いいだろ」

「ああ、とても、いい」



 整備されたグラウンドの片隅で、男はビキビキと血管が浮き上がり始めた両目を青すぎる空に向け笑い声をあげた。それはまるで、腹の中にいる何かの声を代弁しているような声だった。






「それで? 何故私まで付き合ってるんだ?」


 その日の放課後、学生や家族連れで込み合う駅北側のデパート街で、白髪の少女はむすっと眉をしかめた。


「しょうがないじゃないっすか。断りきれなかったんすから」


 聖亜は今日美術部でコンクールに出す絵のチェックをしたかったのだが、それは明日でも良いだろうと福井に押し切られたのだ。聖亜が行くという事で準も同意し、最終的にヒスイもしぶしぶ頷いたのだった。

「まったく、こうしている間にも人形達の傷は回復している。こちらから攻めるべきだと思うがな」

「けど、あいつらの居場所、分かってるんすか?」

「う・・・・・・」


 少年の言葉に、少女はちょっとたじろいた。


「それより、五芒星陣・・・・・・でしたっけ? その頂点の五ヶ所を取り払った方が早いと思うんすけど」

『否、それは出来ん』

「へ? そうなんすか?」

 ヒスイの持つペンダントから発せられる黒猫の声に、聖亜はちょこんと首を傾げた。

『うむ。頂点の五ヶ所にあるのは眼に見える何かでも、襲われたものの霊体でも、ましてや物でもない。其処にあるのは“絶望”という思念だけだ』

「・・・・・・思念、すか」

「眼に見える何かならどかす事が出来る。霊体ならば浄化する事が出来る。物であれば壊す事が出来る。けど思念は違う。それは、それだけは何も出来ない。何年、いや何十年もかけて、少しずつ消えるのを待つしかない」

「・・・・・・」

「まあ、奴らの目的が人の魂を使って爵持ちを呼び出す事なら、いずれ鎮めの森に来る。それがいつになるかは分からないけどな」


 ヒスイのため息交じりの声を聞きながら、聖亜は少し先にいる三人を眺めた。秋野と福井のデコボココンビが、総合デパートの中に出店しているあちこちの店を覗きこみ、その様子を見て準が呆れたようにため息を吐いている。


「とにかく、今は奴らの出方を待つしかないという事だ」

「そうっすね・・・・・・ところで」

 微笑みながら、聖亜は両手に持っている大量の買い物袋の幾つかを少女に差し出した。

「はい、荷物半分持ってくださいっす」

「それはいいが、聖亜、お前ジャンケン少し弱すぎじゃないか?」

「う・・・・・・それは言わないお約束と言うことで」


 それでも半分持ってくれるのは彼女の優しさだろう。とにかく荷物が半分になったのは確かだ。片手の荷物を両手に持ち帰ると、ジャンケンに負けて荷物持ちになった少年は、ヒスイと二人、前にいる友達に追いつこうと少し足を速めた。






「それで、これはどう思う? 聖」

「え・・・・・・えっと」

 ジャストの二階にある水着売り場で、目の前のそれから聖亜は必死に眼を背けようとした。だが無意識に見てしまうのは、男としてのさがだろう。


「ふふ、やっぱりこっちの露出が多い方が好きか。ならこっちにしよう」

 顔を真っ赤に染めた少年を見て嬉しそうに笑うと、準は布の薄い黒いビキニをレジに持っていこうとした。


「え? ちょ、ちょっと準、それ学校の授業で着るっすか?」



慌ててレジに向かおうとしている少女の腕を掴む。だが振り向いた彼女は、してやったりという風に笑っていた。



「そんなわけないだろう。私の裸を見ていい、見せたい唯一の男はお前だけだ。“あの時”からな。まあ授業の時は学校指定の水着にするよ。けど」



 不意に、彼女は自分より幾分背の低い少年を、ぎゅっと抱き締めた。



「けどお前が望むなら、その、水着の鑑賞会を開いてやってもいい。お前だけの・・・・・・な」

「あ・・・・・・あ、あうう」


「変態だな」

「ああ、変態だ」

「うむ、まったくもって変態すぎる」

「ちょっ、そこの三人、うるさいっすよ!!」


 その様子をしらけた顔で見つめる三人に、顔を真っ赤にしながら聖亜は抗議の声を出した。


「大体、人の事をからかう前に、そっちはもう水着選び終わったんすか?」

「ん? 俺はいつものブランド品。新作が出ていたからな」

「ふっふっふ、俺は今年はこいつで決める!!」

「・・・・・・何すか、それ」

 福井が後ろから取り出したものを見て、聖亜は肩を落とした。

「何ってボクサーパンツに決まってるだろ!! ふふふ、毛がない分、今年は下半身で勝負だ」

「まったく・・・・・・お前も十分変態だな」

「う、うるせっ、そういうヒスイはどんな物にしたんだよ」

「わ、私か? 私は別に買わない」

「いや、人の事を変態と言っておいて、自分だけ買わないのは不公平だ。よし、私が選んでやる」


 今まで聖亜を抱きしめていた準が寄って来る。それに合わせ、ヒスイはじりじりと後退した。


「え? いや、遠慮する」

「いいって。何だ? 貧乳なのを気にしているのか?」

「いや、そうじゃなくて、本当にえ」


 その時だった。不意にヒスイは後退するのをやめると、辺りを鋭い眼で探った。先程までとまったく違う彼女の様子に、彼女に迫っていた準が、それを面白そうに眺めていた福井と秋野の凸凹コンビが、そろって訝しげな視線をやった。だがその中で、聖亜は、聖亜だけは顔を微かに強張らせていた。


「ヒスイ?」

「静かにしろ。すまないが急用を思い出した。先に帰らせてもらう」

「ちょ、ヒスイ、それってどういう事だよ!!」


 秋野の叫び声を無視しながら、ヒスイは一階に駆け下りていく。聖亜は彼女が下りていった階段を暫らく見つめていたが、やがて彼女の後を追うために走り出した。







「ったく、今日は中々いい女がいないぜ。な、なあ木村」

取り巻きがおびえた表情で話しかけてくるのを、男は上の空で聞いていた。


彼は酷い空腹だった。まるで、何ヶ月も何も食べていないかのように。だから、


「お。なあ、あいつなんてどうだ? 胸がでかい所なんて、お前の好みだろ。どう思う木村・・・・・・木村?」


 だから、男は自分のすぐそばでぴいぴいと喚く“家畜”の頭と肩を掴むと、



「へ? あ・・・・・・が、がああああああああああっ!!」

 その首に、がぶりと喰らいついた。

 ぶちりと首の肉を引き千切り、かみ砕いて飲み込む。家畜の首筋からでた真っ赤な液体が周囲に滝のように溢れ出した。その鮮血が、彼らの様子を呆然と見ていたメスの家畜に頭からかかる。


「え? ひ、きゃあああああああああ!!」


 それが何だか分かった家畜の悲鳴を合図に、周りにいた家畜が我先に逃げ出していった。




「く、やはりスフィルか。しかも“寄生種”とは・・・・・・厄介だな」


 一階に下りたヒスイは、自分に向かって押し寄せる群衆の間を掻き分けながら、彼らの先にいる“それ”に神経を集中させた。


『ヒスイ、人の記憶を“ぼかす”のは後だ。まずはこれ以上被害が出ぬよう、空間を“封縛”せよ』

「分かっている!!」


 胸元のペンダントから聞こえてくる黒猫の声に苛立ちを込めて答えると、ヒスイはパンッと両手を打ち合わせた。今度はその手を、指先を合わせたままゆっくりと離していく。


「……ふっ!!」


 手と手の間に出来た隙間に、少女は息を強く吹きかけた。と、息は隙間を通って急速にあたりに広がっていき、やがてジャストをすっぽりと覆った。

『ふむ、何とか出来たな。だがヒスイ、もう少し精進せよ。所々に罅割れが目立つ。これではすぐに破られるぞ』


「うるさい、一々言われなくても分かって「・・・・・・何すか、あれ」なっ、お前!?」


 その時、突然背後から声がした。



 ヒスイがはっと振り返ると、其処には先ほど別れたばかりの少年が呆然と立っていた。


「お前・・・・・・聖亜、何故ここにいる!?」

「え? 何でって・・・・・・今普通に階段を下りてきただけなんすけど」

「そんな、確かに封縛であのスフィルだけを取り込んだはずだ。私がどんなに未熟でも、ただの人間が通れるはずがない」


『……普通の人間? ふむ』


 ヒスイの言葉に、ペンダントの向こう側でキュウはふと首をかしげた。まるで、何かを思い出そうとするかのように。



 だが、それはヒスイに、ましてや聖亜に気づかれることはなかった。



「そんなことより、“あれ”は一体何なんすか?」


 聖亜は、僅かに震える指で通路の先を指差した。


「あれはスフィルという。要するにエイジャの下僕だ。お前も依然見たはずだぞ。黒い獣と、黒い巨体の化け物を」

「へ? けど、俺が今まであったのは皆色が黒くて、なにより周りが“黒い時”だったすよ。けど今辺りは暗くないし、大体あれは」

「・・・・・・」

「あれは、“人”じゃないっすか」



 自分でも気づかないうちに声が大きくなっていたのだろう。しゃがみ込んでいた男が、ふと顔を上げた。その眼は血走っている。いや、血走っているのではない。眼の上を血管がびっしりと埋め尽くしており、口の回り同様真っ赤に染まっていた。



「・・・・・・グルッ」



 “それ”は暫らく辺りを探っていたが、警戒心に空腹が勝ったのだろう。やがてしゃがみ込むと、先程と同じように“食事”を再開した。


「・・・・・・ぷはっ」

「気をつけろ、馬鹿っ」

「う、すいませんっす。けど、本当に何なんすか? あれ」

『小僧、先程のヒスイの説明を聞いていなかったのか? スフィルだ』


「いや、だから」


「スフィルには三種類のタイプが存在する。狼に似た頭部を持ち、鋭い牙と爪を武器に襲い掛かってくる個体種、幼体の時に結合し、巨大な一つの体となる集合種。この二つはお前も見ただろう。そして最後……あれと同様、人間に取り付く寄生種だ」


『寄生種は宿主となった人間の体内で、宿主の生命力を吸って急速に成長する。そして、やがて宿主の体を乗っ取る』


「乗っ取る・・・・・・じゃあ、あれは」


「ああ。奴はどこかで寄生種の幼体を埋め込まれたんだろう。だが最後にあってから今まで、ドートスはおろか人形達の気配はまったくしなかった。どういうことだ? それに、あれはそろそろ」


 不意に、食事をしていた“それ”が、びくりと地面に蹲った。石のように真っ白になった体は、今はもう倍以上に膨れ上がっており、その表面には細かい血管がびっしりと浮き出ている。


 







        その背中が、びしりと音を立てて、割れた。



 


「・・・・・・う」

 周囲に強烈な臭気が漂う。吐き気を感じた聖亜は、口元を抑えてしゃがみ込んだ。その隣でヒスイも眉をぎゅっと顰めている。

「やはり“脱皮”寸前だったか」

「脱皮すか? うぇっ」

「こんなところで吐くなよ。寄生種は宿主の体内で成長しきると、急に活動を活発化させる。そして」

『そしてその後半日ほどで宿主の体を突き破り、成体となって出てくる』


 涙で霞んだ視界の中、聖亜は“それ”が殻を突き破り、飛び出してくるのを見た。



 最初に出てきたのは、先端が蛇の頭をした尻尾だった。次に虎の足が、狸に似た胴が飛び出し、最後に猿のような頭部が現れた。


「あれは・・・・・・」

「寄生種は宿主によって成体時の姿が大きく変化するが、これは・・・・・・キマイラか?」

『いや、日本にはぬえの伝承があったな。頭部が一つしかない。おそらくはそちらであろう』



 聖亜達が眺めるその先で、胴から繋がっているまるで蝙蝠のような翼を広げると、その怪物はひよお、ひよおと甲高く鳴いた。





         それはまるで、人間の悲鳴のようだった。





「聖亜、お前は避難していろ」

「え? けど」

「うるさい、寄生種は下手すると人形、いやドートスよりも厄介になるんだ」


 胸元のペンダントから太刀と小太刀を引き抜くと、ヒスイはじりじりと壁の端に近寄った。そこから覗き込むと、鵺は今まで貪っていた人間を頭から一気に丸呑みにした。


 それでもまだ空腹なのか、獲物を求めてうろうろと動き回っている。


『ヒスイ、今はまだ尾の蛇は目覚めておらぬようだ。奴がこちらに背を向けたその瞬間がが好機と考えよ』

「分かっている。その時一気に片をつける!!」


 二本の刀を握り締め、相手の隙をうかがう少女の視線の先で、鵺はふと、向こう側を向いた。


『今だ!!』

「・・・・・・ふっ!!」


 一度強く息を吐き、鵺に向けて低く駆け出す。相手はようやくこちらの存在に気づいたようだが、脱皮した直後のためか、その動きは鈍い。完全に少女の射程内だった。


「喰らえっ!!」


 気合の声と共に、先手必勝と小太刀を相手の首めがけ突き刺す。だが、



 ガキンッ!!



「くっ」


 鈍い音がして、必殺の一撃は相手の硬い皮膚に弾かれた。小太刀はくるくると回りながら、遥か後方に飛んでいく。

『何という硬質皮だ。ヒスイ、一端下がれ』

「あ、ああ」

 だが、今度は鵺の方が素早かった。ひいいっと一度甲高く鳴くと、怪物の周囲に黒く渦巻く雲が漂い始める。その中でバチバチと小さく音が響いた。

『これは・・・・・・いかん、避けよヒスイ!!』


 キュウの声に、ヒスイは反射的に身を地面に投げ出す。だが左肩が僅かに遅れた。黒い雲の中心から放たれた輝く雷の束が、彼女の細い肩を容赦なく貫いた。


「くあっ」


 左肩がぐっと引っ張られ、壁に叩きつけられる。その激痛と衝撃で、ヒスイはがくりと意識を失った。






「え・・・・・・と、これはちょっとやばそうな。ひっ」


 壁際からその様子を見ていた聖亜は、いきなりこちらに飛んできた小太刀に、慌てて首をすくめた。


「あうっ」


 壁に当たり、小太刀は小柄な少年の姿に変わった。その少年、小松はふらつく体で何とか起き上がるが、途端に肩膝をつき、悔しそうに床を叩いた。


「え、えっと、大丈夫っすか? 小松君」

「うるさいっ!! どうせ私は、性別がまだ“ない”無能な半人前だ!! くそっ」

「・・・・・・は? 性別が、ない?」

「う・・・・・・それは、その」


 小松は、余計なことを喋ってしまったという風に肩をびくりと震わせたが、やがて小さく下を向き、ぼそぼそと話し始めた。


「・・・・・・普通、製造された魔器は無性で生まれる。その後魔器使と共に戦い、精神が成長することで男か女になる。ふつうは半年から一年ほどでなるんだ。けど」

 小松は、また弱々しく床を叩いた。

「けど私は、作られて三年経つのにまだ男にならない。こんなに、こんなにヒスイ様を慕っているのに!!」

「あの・・・・・・けどそんなに焦る必要はないと思うんすけど」

「黙れっ、何も知らないくせに!! 魔器はな、性別が確定して初めて切れ味が増すんだ。さっきだって・・・・・・さっきだって私ではなく、太刀で攻撃していたら、倒せたはずなのに!!」

 眼に涙を浮かべながら、小松が三度床を叩いた時だった。

 



 バチバチと音がする。二人が慌てて振り返ると、雷に肩を貫かれ、壁に叩きつけられ崩れ落ちる姿が見えた。

「ヒ、ヒスイ様!!」

「ちょ、どこへ行くっすか!! 小松く・・・・・・ちゃん?」

「放せ馬鹿っ!! それと人をちゃん付けで呼ぶな!! それよりヒスイ様が危ないんだ。何とかお助けしなければ」

「む、無理っすよ。そんなに震えてちゃ」

 少年の言うとおりだった。小松の体はぶるぶると小刻みに震えており、足も竦んでいる。とても戦える状態ではない。

「う、うるさいっ!! どうせ私は、小太刀の姿でしか戦ったことのない臆病者だ!!」

「じゃ、じゃあその姿で戦えば」

「はあ? 馬鹿かお前!! 小太刀の姿でどうやって戦えというんだ。それに、第一誰が私を持って、攻撃が通らない奴と戦うとい「俺がやる」ひうっ」

 




 冷たく、そして鋭い瞳が小松を射抜いた。





「俺がお前を持って、あの化け物と戦う。攻撃が通じないにしても、ヒスイが目覚める間の囮ぐらいは出来る」

「け、けど」

「うるさいっ、ここには準達もいるんだ!! もしヒスイが奴に食われたら、次に襲われるのはあいつらかもしれない。ぐずぐずせず、さっさと変われ!!」

「け、けど・・・・・・あっ!!」


 差し出された手を、小松は体を震わせながら眺めていたが、やがて堪忍袋の緒が切れたのか、聖亜は強引に手を握った。その瞬間小松は何だか分からない感覚に、別の意味で体を震わせながら、自分の意思とは関係なく小太刀へと戻っていった。







 動かなくなった少女を貪ろうと歩み寄った鵺は、頭に何かが当たった感覚に、鳴きながら頭の向きを変えた。


 視線の先で、手がひらひらと揺れている。


 鵺は暫らくその手と床に横たわる少女を見比べていたが、獲物を多く捕らえる方を選んだのか、その手にむかってのそのそと歩き出した。


『スイ、ヒスイよ、いい加減眼を覚ませ』

「う・・・・・・キュ、ウ?」

『うむ。傷の方はどうだ?』


 胸元から聞こえてくる黒猫の声に、ヒスイはぼんやりと目を覚ました。軽く肩に触れる。支給されたばかりの制服は黒く焼け焦げているが、内側から覗く白い肌には、傷も、そして雷による黒こげも付いていない。


「大丈夫だ。だが奴は何で私を喰らわなかった? その機会はいくらでもあったはずだ」


『うむ。数分前に現れた、ひらひらと揺れる手を追っていった・・・・・・まあ、十中八九あの未熟者で半人前以下の小僧だがな』


「・・・・・・聖亜、あの、馬鹿っ」




 吐き捨てるように呟いくヒスイの眼は、暫らく空中を彷徨っていたが、ふと自分の手首を見た。


「・・・・・・」


 そこには、黒く細いリストバンドが巻かれている。ヒスイはおずおずと手を伸ばすと、そこにそっと触れた。



『やめよ、ヒスイ』

「う・・・・・」





           黒猫の声が低く、どこまでも冷徹に響いた。





『これぐらいの事で“それ”を使うのならば、我はそなたを殺さなければならん』

「けど」

『ヒスイ、我が愛しき未熟者よ。悩み考え、そして動け。そなたの父親が言った言葉であろう』

「・・・・・・父、様」

 尊敬する父親の事を思い出し、ヒスイはぐっと手を握り締めた。

『うむ、では行くぞ、百殺の絶対零度。その名に恥じぬ戦いを、我に見せてみよ』






「うわっ、くっ、とぉ!!」

 襲い掛かる爪を弾き返し、頭から齧り付こうとする牙を避けながら、聖亜はジャストの中を必死に逃げ回った。


 あの時鵺の注意をこちらにひきつけたのは良かったが、どうやら相手の速さは自分が思っていた以上に俊敏で、しかも知恵まであるようだ。段々脇道の少ない方に追い詰められていき、気づいた時には行き止まりに追い込まれてしまった。逃げ道が塞がれている。


「く、この!!」


 必死に突き出した小太刀が、猿に似た顔を掠めた。


「ひいいいいいっ!」

「ひいひい言いたいのはこっちだ。ったく」


 一気に勝負をつけようというのだろう。鵺が甲高く鳴くと、あたりに黒い雲が渦を巻き始める。あれに当たればどんな幸運の持ち主でも間違いなく皮膚が黒焦げになる。だがその時、鵺の動きが一瞬止まった。


「・・・・・・」


 どうやら雷を生み出すのは簡単なことではないようだ。バチバチと黒雲の中で音がして白く輝く光の束が吐き出される瞬間、聖亜は動きの止まった鵺の横を、小太刀で相手の足を掠めながら、一気に走り抜けた。


「ひいいいいいいっ!!」


 バランスを崩した鵺が、鳴きながら床の上を滑っていく。それを見る聖亜の顔にはだが余裕はない。無理に動いたせいで、体のあちこちが痛み出したのだ。


「ま、まずは助かっ・・・・・・た?」


 起き上がれない鵺から、一刻も早く離れようと駆け出した聖亜の足が、ふと鈍った。


「いや、それは冗談きついって」


 怪物の背から生えていた蝙蝠のそれに似た翼が、ばさりと大きく広がる。それが一,二度大きく羽ばたくと、鵺の体はゆっくりと宙に浮き上がった。

「・・・・・・はっ、第二段階ってわけか」

 これでは逃げるのは無理だ。どれだけ走っても、空から襲われる。



 小太刀を両手で構えなおした少年を、鵺はその赤い目で凝視し低く鳴いていたが、不意に鼻をひくひくと動かし、天井に向かっていった。


「へ?」


 あっけに取られる聖亜の前で、鵺の体当たりに一瞬は耐えた天井が無残に崩れ落ちる。天井に開いた穴から飛び出していった鵺を、聖亜は呆然と見送っていたが、やがてはっと何かに気づいたのか、逃げていたときの倍の速さで階段に向かって走っていった。


「くそ、俺の馬鹿、二階には準達がいるだろうがっ!!」





 目の前に居る獲物を見て、鵺はにやりとほくそ笑んだ。



 やはりそうだ。目の前に居るこの雌の家畜は、極上の獲物だ。


 そしてなにより、これほどきれいな雌はめったに居ない。食う前に犯すのもいいだろう。ゆらりと尻尾の先端が持ち上がり、少女に向かって走っていく。そして、鵺が獲物に食いつこうとした、その瞬間





「おい・・・・・・手前何人の唯一襲おうとしてんだよ」

 猿に似たその顔が、いきなり踏みつけられた。






 危険度八十七パーセント、超危険領域につき、封印強制発動。





「ぐっ」


 聖亜の頭に激痛が走り、強烈な吐き気に襲われる。さらには重圧が体を床に縫いつけようとする。だが、


「・・・・・・いい加減に、しろ、糞野郎がっ!!」


 痛みにふらついても、吐き気に目の前がぼやけても、たった一つの武器である小太刀を取り落としても、聖亜は蛇の頭に似た尾を必死で踏み続けた。だが、その背後から蛇に似た尻尾が鎌首を持ち上げ、少年にかみつこうと迫ってくる。その紫色の牙は、どう見ても毒があった。せめて顔への直撃は避けようと、少年が顔の前に腕をかざして目を閉じた時、




『中々の囮ぶりだったぞ、小僧』




 黒猫の笑い声と、鵺の絶叫が同時に響いた。




 床に落ちていた小太刀を拾い上げ、少年を今まさに飲み込もうとしている鵺の右目を、ヒスイは懇親の力を込めて貫いた。


「・・・・・・いがっ、ひいっ、が」



 あまりの激痛に声もうまく出せないらしい。だらだらと涎を垂らす口の中に、今度は太刀を根元まで突き刺す。


 右目に小太刀を、口の中に太刀を突き刺され、それでも鵺は必死に飛ぼうとする。だがすぐに頭が天井にぶつかった。くるくると回りながらどす黒い血をあたりに撒き散らす鵺の脳を、床に落ちた太刀で、ヒスイは一気に貫いた。


「ひ・・・・・・が・・・・・・あ」



 ずしんと音を立て鵺は床に落ちる。ひくりと痙攣すると、一瞬絶望と苦悶の表情を浮かべた男の姿になったが、それはすぐにどす黒い液体へと変わった。










「・・・・・・終わったか。キュウ、記憶の消去を頼む」


『それは構わぬがな、ヒスイよ、不特定多数の人間の記憶を消すのは手間が掛かる。小梅を呼び出せ』


「ああ」


 黒猫に短く答えると、ヒスイは太刀を一振りし、こびりついた黒い液体を振り払うと、今度はそれを上に放り投げた。太刀はくるくると回転しながら落ちてきたが、地面に降り立ったのは太刀ではなく、ヒスイの従者である妖艶な笑みを浮かべた美女だった。

「・・・・・・やれやれ、人使いが荒いのう、おひぃさま」

「うるさい、ぼやいていないで、早くキュウの“忘却”を広げてくれ」

「承知。して、範囲と忘れさせる内容と対象者は?」


「範囲は都市全体。内容はエイジャに対する全てと、寄生種に変化した男の事。対象者は今日デパートに来た人・その家族、そして彼らから話しを聞いた人達と、最後に男に関わりのある全ての人間」


「それはまた手間が掛かるのう。用心のし過ぎではないか? まあ良い。おひぃさま、暫らく時間が掛かるゆえ、その間に休息なされよ」

「分かった」

 ヒスイからペンダントを受け取ると、小梅は外に出て行った。それを見送ってから、ヒスイはふうっと床に座り込んだ。暫らくゆったりとしていたが、ふと、すぐ横から視線を感じる。そちらを振り向くと、気絶している少女をぎゅっと抱きしめている少年がこちらを硬い表情で睨んでいた。



「なんだ?」

 見つめ返すヒスイに、聖亜は少し言いよどんだが、やがてため息を吐いて口を開いた。

「・・・・・・人を殺しておいて、随分と気楽っすね」

「ああ、そんな事か」

「そんな事? 人を殺しておいてそんな事っすか!?」


 腕の中で眠る少女を強く抱きしめながら、少年は白髪の少女を睨む瞳に力を込めたが、やがて悲しげに眼を伏せた。


「・・・・・・その、取り付かれただけなら、殺さなくても、取り除くとか、隔離するとか」

「聖亜、それは無理だ。寄生種に取り付かれた人間はほとんど助からない。寄生されてすぐに専門の病院で手術すれば取り除けるかもしれないが、それでも廃人となり、まともな生活は送れない。それに隔離することも不可能だ。嘆きの大戦の時、寄生種に取り付かれた人間を研究する組織ががあったけれど、結局“それら”は全て、エイジャでも人間でもない“物”になり、組織を壊滅させた。だから」

「・・・・・・だから?」

「だから、寄生種に取り付かれた人に対しての一番の慈悲は、“殺してやること”なんだ」

「・・・・・・」


 少女の言葉に、聖亜は俯いたまま押し黙った。確かに廃人や何だか分からない物になるんだったら、殺してやる方が慈悲深いかもしれない。頭の中ではそう思ったが、やはり完全に納得するのは無理だ。

 

 少年がうつむいていると、話している間に結構時間が過ぎたのか、外に出ていた小梅が戻ってきた。だがその顔に浮かぶ表情はいつもの妖艶な笑みではなく、険しく引き締まっている。

「・・・・・・どうした? 小梅」

「小姫、気を抜かれるな。西の方で何か厭な気配がしておる」

「西・・・・・・まさか!?」


 はっと顔を上げ、ヒスイは外に駆け出した。首を傾げながら、抱いていた準を小梅に預け、聖亜も外へと歩き出した。




 外にある立体駐車場の片隅で、ヒスイは西の空を眺めていた。


「ヒスイ? どうしたっすか?」

「・・・・・・分からないか? 空気が重く感じるだろう?」

「ああ、そういえば」


 少女の言う通り、周囲の空気が重く感じる。まるで、身体にのしかかっているかのように。









「あの、ヒスイ・・・・・・一体何が」

「囮だったというわけだ。寄生種の襲撃、それ自体が」


 ヒスイの厳しい視線の先には、復興街と、その中心にある鎮めの森があった。














 冷水を、頭から一気に被る。


 本来なら澄んだ湖か川の水を使いたいが、そのどちらもここにない以上、浄水機関の水を使うほかは仕方がなかった。


 何度か冷水を被ると、身に纏った白く薄い服は体に張り付き、少女の白く、それこそ一筋の傷も痣も付いていない肌を月明かりの中に浮かび上がらせる。それは息を飲む美しさだが、それを称える者はこの場にはいない。


 身を清め終えると、少女はペンダントとは違う小物入れから、小さな子安貝を取り出し、慎重に開いた。

中に入っているのはほんの少しの紅だ。小指に僅かに付着させ、そっと唇に塗る。



 それが終わると、彼女は小物入れの中から別の物を取り出し、白髪にそっと着ける。



 それは、この都市に来た最初の麻に買った、桃色の髪飾りだった。








               決戦前の戦化粧







 それが、年若き少女に許された、唯一の化粧だった。






 ヒスイが家の中から出てくるのを、聖亜は暗くなった空をぼんやりと見ながら待っていた。彼の隣には黒猫がいる。まるで、少年を見張るように。

「別に覗いたりしないっす」

「ふんっ、信用できんな。お主には前科があるからの」

「・・・・・・そうっすか」

「うむ。ところで小僧」

「だから、覗かないって」

 呆れて振り返った少年は、ふと振り返った。いつも彼を冷やかすように見つめる黒猫の眼が、今は真剣な表情で自分を見つめていたからだ。

「・・・・・・何すか?」

「小僧、お主今宵の戦いについてくるつもりか?」

「当たり前じゃないっすか。ここまで来てはいさよならは嫌っすよ」

「そうか。ならば覚悟せよ。今宵が“世界の裏側”に踏み込んだ、そなたの最後の夜になるかもしれぬと。三体の人形はともかく、道化師は追い詰められたら何をするか分からぬ。我が心配なのは、奴がある手段を取ることだ」

「ある手段?」


「うむ。奴の手元には狩られた人間の魂がある。その数は百に満たぬはずだ。なれば爵持ちを呼ぶ事は出来ぬはずだが、何か考えがあるのだろう。それより我が案じているのは、奴がその魂を」

「奴が、その魂を?」


 その時、家から準備を終えたヒスイが出てきた。ジーパンとジャケット、手首には黒いリストバンドと、いつもと変わらない服装だが、唇には紅を付けており、白い髪には桃色の髪留めをつけている。そして、その表情はどこまでも硬い。


「……あれ?」

「ん? どうした」

「いや、なんでもないっす」

 


 彼が少女と話しているとき、黒猫は彼に聞こえぬように下を向き、呟いた。



「その魂を・・・・・・喰らうことだ」












 鎮めの森は、いつもと変わらぬ重苦しい静寂に包まれていた。


 

 だがいつもの清涼な雰囲気はどこにもない。あるのはただ、深い深い漆黒の闇だけだ。






「・・・・・・いるな。間違いない」


 家を出て二時間後、目の前にぽっかりと開いた闇への入り口をみて、ヒスイはぽつりと呟いた。


「うむ。だが数はそう多くなかろう。道化師に三体の人形、そして固体種と集合種のスフィルが二,三十体というところだろうな」

「スフィルが二,三十体って、充分多いじゃないっすか」

「ふんっ、寄生種以外のスフィルなど単なる闇の塊に過ぎん。例え千体のスフィルがいたとしても、一体のエイジャに劣る」

「ああ・・・・・・そうだ、そんな事より、聖亜」

「は、はい。何すか?」


 不意に、少女が真剣な表情で見つめてきた。


「この戦いが終わったら、お前一体どうするつもりだ? 記憶が封じられない以上、ドートスを倒しても、別のエイジャに狙われる」

「・・・・・・え、と」

「本来なら、高天原に保護してもらうのが一番いい。けど」



 少女は冷静・・・・・・悪く言えば冷徹なな彼女には珍しく、おずおずと話し始めた。心なしか、その頬は赤い。



「その、お前さえ良ければ、私と、一緒にこ「無駄話は其処までだ。来るぞ!」っ!!」



 その時、ざわりと空気が震えた。



 黒猫の叫びとほぼ同時に、闇の中から這い出してきた黒い手が四本少年に向かう。それを軽く弾くと、ヒスイは隙を突くように飛び掛ってきた固体種の、狼に似た頭部を両断した。






 振り下ろした太刀で饅頭のような頭部を切り裂くと、振り向きざまに伸ばされた爪を腕ごと切り飛ばす。伸びてきた無数の黒い手を懐に飛び込むことで避けると、手の持ち主である集合主の口の中に、ヒスイは小太刀を深々と突き刺した。

 鎮めの森に入ってから僅か十五分、その間にこの場にいたスフィルの二十体以上がヒスイに倒され、どす黒い液体へと変わった。


「・・・・・・相変わらずすごいっすね」

「別にヒスイがすごいのではない。相手が弱すぎるだけだ・・・・・・ヒスイよ、本命が来たぞ」

「ああ、分かっている」




 不意に、目の前の闇がその密度を増した。






「現れたか、百殺の絶対零度」

「ふふ、それにお嬢ちゃんも」


 闇の中に現れた二体の人形に身構えたヒスイは、彼らの様子を見て、ふと眉を潜めた。


「お前達・・・・・・傷がほとんど治っていないな」


 彼女の言うとおり、先日少女によってつけられた傷こそ見えないが、体のバランスが良くない。何より彼らの表情に余裕がなかった。


「うるさいわね、怪我なんてしてても、あんたに関係ないじゃな・・・・・・くっ!?」



 ガキンッ




 ナイトが苦々しく話している間に、ヒスイが突き出した太刀と槍が打ち合った。自分に押し込まれる太刀を、ナイトは必死に押し返そうとするが、その時ナイトの右前足ががくりと崩れた。


「ナイト? うおおおおおおおっ!!」


 徐々に体制を崩していくナイトを救おうと、ポーンがヒスイの背中に向かって切りかかる。だが、


「やらせないっ!!」

「がっ!」


 その脇腹に、聖亜は思いっきりぶつかった。本来ならそれは簡単に振り払うことができた。だが、彼の手が、僅かに以前ヒスイに切られた部分に当たった。


 一瞬、ぐらりと体制が崩れる。その瞬間、怒りの表情を浮かべた仮面、その中心に、ヒスイが後ろ手で放った小太刀が深々と突き刺さった。

「ポーン、このっ!!」




 激昂したナイトが、以前切断された方の槍を突き出す。だが



 ズキッ



「くうっ」

 切断されたときの痛みが残っていたのか、その動きが一瞬止まった。


「これで、さよならだ」



 笑顔の仮面の下で、苦しげに呻くナイトの腹部を、ヒスイは太刀で切断した。









 地面に、二つのチェスが転がった。







「やったっすね、ヒスイ・・・・・・ヒスイ?」

「・・・・・・」

 二体の人形が消えたのを見て、聖亜は少女に駆け寄った。だが、彼女の表情はなぜか影っていた。

「えっと、ヒスイ?」

「・・・・・・いや、何でもない。行くぞ」


 所々欠けた二つのチェスを拾うと、少女は前方にある巨大な樹を黙って睨んだ。









 先程から黙って走る少女の背中を、聖亜は後ろからぼんやりと眺めつつ追いかけた。




 彼女は冷たく怒っていたのだ。無論エイジャに。その中でも特に、仲間の傷をそのままにして、彼らの誇りを傷つけたドートスに。


「・・・・・・ヒスイよ、もう少し感情を抑えよ」

「言われなくても分かっている。少し黙ってろ、馬鹿猫」

「・・・・・・」

 少女の言葉に、横で走る黒猫が黙り込んだとき、



 不意に、視界が開けた。到着したのだ。巨大な樹に。だが、

「えっと・・・・・・ドートスはどこっすか?」

「・・・・・・」


 大樹の周りには、ドートスどころか、スフィル一匹いなかった。


「もしかして、さっきのは全部囮じゃ」


「いや、奴の配下は三体の人形だけだ。でなければもっと早く行動していたはずだからな。なのにその貴重な戦力を、わざわざ囮にするはずが・・・・・・むっ?」


「ちょ、どうしたっすか!?」

「誰かが襲われている。こっちだ!!」



 薄暗い森の中に入っていく少女の後を追って、聖亜も森の中に足を踏み入れた。いつもは生き物の気配がまったく感じないほど澄んだ森の中が、今日はなぜかざわついている。


 五分ほど走っただろうか。不意にヒスイの腕が、少年の体を押しとどめた。


「・・・・・・ヒスイ?」

「静かにしていろ。あそこに誰かいる」

「あそこって・・・・・・あ」

 眼を凝らしてよく見ると、薄暗い森の中、右手に杖を持った三体の人形の最後の一体が、左手で女の首を絞めているのが見えた。

「あれは・・・・・・楓ねえさむぐっ」

「馬鹿、大声を出すな」

 聖亜の口をヒスイは慌てて塞いだ。だが、その動きは少し遅かったようだ。人形は女の首から手を離すと、悲しげな表情の仮面をこちらに向けた。



「あなた方が来たという事は、あの人とナイトは敗れたということですね」

「・・・・・・」


 ヒスイは、悲しげな表情で俯く人形に向けて歩み寄ると、その首筋に太刀を押し当てた。



「・・・・・・逃げないのか?」

「確かに、私達吹奏者は使徒を呼び出すことしかできません。そして、呼び出せる道具はもうない。けれど」


 人形は、悲しげな表情のまま、悲しげな声で、太刀を杖で打ち払った。



「それでも私は、使命を果たさなければなりません!!」

 






 ヒスイが戦っている間、聖亜は倒れたままの楓に駆け寄り、その脈を取った。



「良かった。生きてる」



 とにかく安全な場所に運ぼう。そう思って、彼女を背負った時だった。



「・・・・・・キュウ?」


 少年の行く手を塞ぐように、冷たい表情の黒猫が前方に座っていた。

「小僧、半人前以下の未熟者よ。今すぐそやつを離せ」

「何すか未熟者って・・・・・・それに離せって、ここに置き去りにしておくわけには」


 黒猫の言葉に、反論しようとした聖亜だったが、紫電の瞳に睨まれ、うっとたじろいだ。



「ふん、感情に左右され、好機を逃す馬鹿など、未熟者で充分だ。それより」


 黒猫は、聖亜が背負っている女に向け、毛を逆立てて唸りだした。



「死にたくなければ、早くその“道化師”から離れろ!!」

「え?」



 背後で何かの気配がした。はっとそちらを見た聖亜の眼に、白い刃が飛び込んだ。




「キュウっ!!」

「何!?」



 突き出された杖を打ち払い、首筋に太刀の柄を叩き込んだ時、ヒスイの耳に少年の悲鳴が聞こえた。



 ヒスイがはっと振り返ると、視線の先にぐったりと倒れている相棒と、相棒を必死に抱きしめている少年、そして笑いながら浮かぶ女の姿があった。



「あははははは、おしいなあ。もう少しでその馬鹿な餓鬼を殺せる所だったのに!!」

「貴様・・・・・・ドートスかっ!!」




 笑っている女の姿が、ふと歪んだ。その体は一ヶ所に渦を巻くように吸い込まれていき、次の瞬間、ぽんっと道化師を吐き出した。



「あはははは、ご名答、絶対零度。けどその餓鬼は分からなかったようだねえ。ま、殺せなかったのは仕方ないけど、その小癪な黒猫を殺せただけでも充分さ」

「・・・・・・」

「怒ったかい? まったく、僕に構わずさっさと設置した魂を探して回収してしまえばいいのにさ。けどもう遅い」



 心底嬉しそうに、道化師は両手をいっぱいに広げた。



「集めた魂は五十に満たないけど、僕は以前保険として、巨大な樹の根に傷をつけておいたのさ。そして、魂は樹のてっぺんにある」


「傷?」



 ふと、ヒスイの眉が動いた。





「さあ、絶望に彩られた魂達よ! 起爆剤となり、地の底にある万を越す魂を呼び覚ましておくれ。そして」



 かっと、道化師は両目を大きく開いた。



「そして、門よ、あれ!!」



 その瞬間、巨大な樹を漆黒の光が取り囲んだ。






「・・・・・・・・・・・・あれ?」



 だが光が収まった時、周囲は全く変わっていなかった。慌てて樹に向かおうとしたドートスは、次の瞬間、ばっと横に飛び退いた。


「ちっ」


 今まで自分がいた場所を、白刃が通り過ぎる。飛び退いた自分に、左右から交互に太刀と小太刀が襲い掛かった。


「くっ、しつこいんだよ、手前!!」


 以前同様、鋼に変化させた右腕で刃を受け止めると、無防備になった少女の首めがけ、袖口からナイフを突き出す。





 だが、それは小太刀によって受け止められた。



「そうか。お前があの傷をつけたのか」

「何?」

「三百の・・・・・・三百の死霊を浄化するのは、本当に大変だったんだからな!!」



 小太刀でナイフを弾き返し、ヒスイは相手の右腕を、懇親の力を込めて切り飛ばした。






「がああああああああああああっ!!」


 絶叫を上げ、地面に激突する。右腕ははるか遠くに落ち、傷口からはどす黒い血が大量に噴き出した。


「ぐぅっ、て、手前!! 何で鋼の腕を、切り飛ばせるんだよ!!」

「お前の腕が鋼に変化しても中の気配は変わらなかった。つまりお前が変化させられるのは、表面だけだという事だ。そして薄い鋼を切り飛ばすぐらい、私にもできる!!」

「ぐ、くそ、いけ、幻想短剣イリュージョン・ナイフ!!」


 左腕から放たれた短剣が、今度は六つに分裂して少女に襲い掛かる。さらにその後ろから別の短剣が向かってきた。だが、ヒスイは呆れたようにため息を吐くと、太刀を水平に払った。


「なっ!!」


 弾き飛ばされた短剣は、ぼとぼとと地に落ちた。と、柄から黒い液体がどぷりと湧き出す。


「ふん、やはり飛行できるスフィルで動かしていたか」

 時間差で襲い掛かる短剣も同じように払うと、ヒスイは柄の部分を踏み砕いた。

「ぐ、くそがあああ!!」

 左腕で地面に落ちた短剣の一本を拾い上げると、道化師は少女目掛けて突進した。



 だが、その動きはあまりにも直線的だった。



「これで、終わりだ」



 突き出された短剣を軽く避け、ヒスイは小太刀を放り投げると、太刀を両手に持ち替え、道化師の体を、右肩から一気に切り下ろした。





 ドートスが完全に動かなくなったのを確認してから、ヒスイは黒猫を抱きしめ、俯いている少年に向かって歩き出した。

「聖亜、お前いつまでキュウを抱きしめているつもりだ。早く離せ」

 呆れた声で言うが、彼は弱々しく首を振っただけだった。

「別に首を突かれただけだろう。いいから、さっさとそいつを放せ」

「お前、自分の相棒が死んだんだぞ、よくそんなひどい事が言えるな」

「は? 誰が死んだだって? おい馬鹿猫、さっさと起きろ」

「・・・・・・へ?」

 きょとんとしている少年から、なぜか苛立たしく黒猫を奪い取ると、ヒスイはその髭を軽く引っ張った。

「ふ、ふぎゃ、何をするか、馬鹿者!!」

「いつまでも起きないからだ。それより馬鹿猫、お前死んだのか?」

「馬鹿はどっちだ。地獄の錬金術師ヘル・アルケミストたるヘルメスが作り上げた最高クラスのホムンクルスである我が、高々首を突かれたぐらいで死ぬはずがなかろう」


 首筋を前足で掻き、黒猫はにやりと笑った。先程短剣を深々と突き刺されたはずのそこは、だが傷一つ見当たらない。

「ま、中々の抱き心地だったぞ。小僧」

「だ」

「だ?」

「騙されたぁ!!」






 

 少年の絶叫が、周りに響き渡った。




「騙されたっす、もうっ」

「だから、悪かったと言っておる。それより、奴はちゃんと滅したのであろうな。ヒスイ」

「ん、ああ。ちゃんとそこに転がって……いない?」

 少女は、ふと眉を潜めた。胴を切り裂かれ瀕死の状態だった道化師の姿はそこにはない。ただ黒い血が点々と巨大な樹に向かっていた。

「……あいつ、一体何をするつもりだ?」

「追い詰められた鼠は、何をするか分からぬ。追うぞ、ヒスイ」

「……ああ、分かった」

「ちょ、ちょっと待ってくださいっす!!」

 巨大な樹に向け、一人と一匹が走り出す。慌てて立ち上がると、聖亜も彼女達の後に続いていった。





 道化師は、樹に寄りかかっていた。



 門は開かなくとも、数十の絶望した魂を衝突させた効果は大きかったのだろう。御神木として屋久島から運ばれてきた、樹齢八百年を越す巨大な杉の樹は、所々無残に傷ついていた。

「ここまでだな、道化師」

「……」

 ヒスイが太刀を向けても、ドートスは動く気配がない。片腕を切り飛ばされ、胴を裂かれ血を流しすぎたのだろう。その肌は蒼白だった。

「せめてもの情けだ。一撃で滅してやる」

「・・・・・・滅する、だって?」


 不意に、道化師はその蒼白な顔を上げ、喉を低く鳴らせて笑った。


「ふ、ふふ、ふふふ。僕が何か悪いことをしたかい? ただ家畜を狩っていただけじゃないか。君達だって牛や豚を狩るだろう? 一体どこが違うというんだ」

「戯言を!!」




 ヒスイは道化師に向かって走り出した。だが、その白刃が道化師に届こうとしたとき、



 ドートスは、最後に狩った娼婦の魂を、丸ごと飲み込んだ。






「何? くっ」


 道化師の体から、大量の臭気が噴き出した。



「死にたくない……死にたくない。まだおいしい物を食べきっていない。いい女も抱いていない。ちやほやされていない。死にたくない・・・・・・死にたくない。じゃあどうすればいい? あぁ、何だ。簡単じゃないか」


「く、これはやはり!!」


 毛を逆立てる黒猫の前で、ドートスの体は、異様なほど膨れ上がった。


「な、何すか、これっ!!」

「進化すればいいんだ。誰も・・・・・・そう、あいつらさえ敵わない存在に!!」


「人間の魂を、喰らったか!!」






 そして、それは現れた。







 その大きさは、大樹とほぼ同じだろう。

 形状はヒキガエルに近い。だがその手足は四本のほか、身体から奇形のように生えている物がさらに四本り、それぞれの大きさも違う。体全体にいぼが生えており、時々臭気を噴き出している。内臓もおかしいのか、腹部は異様なほど膨れ上がっていた。


 さらに頭部の右半分が腐れかかっており、右目がだらりと垂れ下がっていた。




 それはいわゆる、奇形だった。




「ううっ、何すか、これ」

「魂の使用方法の中で、最悪の物は何か以前話したな。爵持ちを呼び出すためと、もう一つ自らを上位の存在に進化させるために使う」


「けど、後者は十中八九成功しないで、暴走するって話じゃ」


「うむ。だが奴はもう正気ではなかったのだろう。このままでも奴は自滅するが、どうする? ヒスイよ」


「もちろん、“滅殺”する」


 黒猫の問いに、少女は迷うことなく頷いた。



「それが、奴に食われた魂だけでなく、奴自身も救うことになる」

「……ふふ、相変わらず優しいな。ならば奴に見せてやれ、百殺の絶対零度の力をな」

「ああっ!!」

 無造作に振り下ろされた、大木ほどもある腕を避けると、少女はにやりと笑って見せた。



 かつて、ドートスと呼ばれた存在は、腐りかけた眼でぼんやりと周囲を見渡した。自分の周りには、何もない。幼い頃、自分を虐めた氏民も、自分の才能を理解せず、入学金が払えないというだけで、門前払いした吹奏者を養成する音楽学校の教師も、乞食同然に地面に転がっていたとき、蔑みの眼を向けて来た子供達も、そして何より、作業が遅いと自分を罵るあの黒衣の男もいなかった。




  いい気分だ。




 ひび割れた石のような口で笑うと、その存在は前に歩き出そうとした。




 そのとき、ふと右手が落ちた。それを拾おうとのろのろと身をかがめた時、頭を蚊が刺した。どうやらぶんぶんと周囲を飛び回っているらしい。無視してもいいが、うっとうしいことに変わりはないし、何よりひどい空腹だった。




 もはや怪物から理性と、そしてドートスの意識は完全に掻き消えた。あるのは空腹を満たしたいと満たしたい欲求、ただそれだけであった。





「くっ」


 伸びてきた舌を間一髪で避け、ヒスイはそれに逆に切りかかる。だが太刀は舌の上をつるつると滑るだけだった。


「なるほど、蝦蟇の油というわけか。面倒だな」


 太刀を良く見ると、所々にぬめりはこびり付いていた。先程渾身の力を込め、大木ほどの大きさがある腕を切り落とした際に付着したのだろう。だが切り落とされた腕は、怪物が持ち上げ、切り口に押し当てると、何事もなかったかのように付着した。


「ち、滅するには脳を叩くしかないか」


 一度太刀を振ってぬめりを振り払うと、ヒスイは再び怪物に向け駆け出した。



「あれ? 何かあまり切れてないような気が」


 ヒスイが戦っている場所から少し離れた森の中から、聖亜は彼女の様子を見守っていた。


「奴の体を、ゲル状の液体が覆っているのだ。おそらくあれが、護鬼の切れ味を鈍らせているのだろう」

「えっと、それってちょっとまずいんじゃ」

「まずいだと? くははは。小僧、そなた魔器という物が何か理解しておらぬようだな。よいか、魔器とは本来武器ではない」


「武器じゃ・・・・・・ない?」

「さよう。魔器とは名前の通り魔の器。本来は魔核を封じて置くための器であった。それを改良し、武器として使えるようにしたのがマイスター・へファトだ。故に」


 ちらりと、黒猫はヒスイの持つ太刀を見た。


「故に武器としての切れ味は、さほど重要ではない。重要なのはその中に、どのような魔が封じられているかだ。そして」



 黒猫の視線の先で、怪物の頭部目掛けヒスイは小太刀を投げつけた。怪物がそれを腕で振り払うと、開いた隙間を潜り抜け、怪物の腹部目掛け、両手に持ち替えた太刀を突き刺した。それは、始めはぬめりに押されて通らなかったが、


「そしてヒスイの持つ魔器、鬼護りに封じられているのは二体の鬼。善鬼と護鬼。まあ、小松は正確に言えば護鬼ではないが・・・・・・それでも」


 だが、ぬめりに押されつつも太刀はずぶずぶと腹に突き刺さっていく。根元まで突き刺さったその太刀で、今度は一気に、


「それでも、あの魔器は一級品だ。鬼護り、その名の由来は鬼に護られているのでも、鬼から護られているのでもない」



 腹を、縦に裂いた。



「鬼すらその身を護るほど、強力な太刀という意味だ」



 黒猫が口を閉じたのと同時に、怪物は、ズズンっと地響きを上げ、倒れた。




「はあ、はあ、はあ・・・・・・ふっ」



 倒れた怪物の傍らで、ヒスイは苦しそうに片膝を付いた。


 さすがにぬめりと同時に、その硬い皮膚に太刀を突き刺し、一気に引き裂くのは彼女の体力を著しく消耗させた。だが、それなりの成果はあったようだ。


「油断するな、ヒスイ」

「ああ。分かっている」


 近寄ってきた黒猫に頷くと、ヒスイは息を整えて立ち上がり、怪物の頭部に向かって歩き出した。だが、

「・・・・・・う」

「ヒスイ? むっ」

「へ? どうしたっすか、二人共」

 突然、彼女達の動きが止まった。どうやら、怪物のいぼから放たれる煙には、麻痺性の毒があるらしい。慌てて聖亜は駆け寄ろうとするが、次の瞬間、彼は何かに思い切り殴り飛ばされた。


「うあっ」

「聖亜、ぐっ!!」

「なんという執念か、まさか、自らの内臓すら武器にするとは」


 聖亜を投げ飛ばしたもの、それは怪物の巨大な腸だった。

 体を覆う痺れで動けない彼らの前で、怪物はのそりと起き上がった。倒れた衝撃で脳は完全に崩れているが、顔の下半分は無事のようだ。無論口と、そして、その中にある長い舌も。

「うあっ、ぐっ」

 その舌が自分に強く巻きつき、ずるずると口の中に引きずり込もうとしている。何とか振りほどこうともがくが、痺れが残る体は自由に動かない。

「ヒ、ヒスイ、むうっ」

 キュウは必死に動かぬ体を持ち上げようとした。だが体が小さい分、ヒスイより痺れが強く効いているのだろう。横にころりと転がると、もはや髭一本動かなかった。




「・・・・・・う、げほ、げほっ」

 腸に弾き飛ばされ、近くの草むらに転げ落ちる。その上をごろごろと転がると、喉の詰まりを感じ、聖亜は思い切り咳をした。草むらに少量の血が飛び散る。どうやら口の中を少し切ったらしい。


「う・・・・・・ヒスイ達、は?」

 涙でにじむ視界の中、必死に怪物を見て、そして固まった。そこには、怪物のほうに引きずられ、今まさに食われようとしている少女の姿があった。


「ヒ、スイ・・・・・・が、あ、あああああああああああっ!!」




   危険度八十九パーセント、超危険領域!! 超危険領域!! 超危険領い……ピー





 がくがくと震える足で立ち上がり、がちがちとうるさく鳴る歯を食いしばると、聖亜は一歩、また一歩と、少女に向けて歩き出した。


 カシンッ



 胸の中で、何かが音を立てて軋んだ。





 ぐばりと、怪物の崩れかかった口が開き、少女を飲み込もうとする。その瞬間を予想し、ヒスイは思わず眼をぎゅっとつぶった。

「おい」

 聞き覚えのある声が暗闇に響く。同時に、舌の動きが急に止まった。



「ったく、往生際が悪いんだよ、手前」

 口の端から流れる血を拭うと、聖亜は先程拾った小太刀を、ぐりぐりと舌に突き刺した。体の底から、どくどくと熱が湧き上がる。中学以来、久しく感じる事のなかったどす黒い感情に、少年は半ば酔っていた。


「それからヒスイ、お前は逆に往生際が良すぎ。ったく、助けてぐらい言えよな」

 少女の体を縛っていた舌を振りほどくと、聖亜は崩れ落ちる彼女の体をそっと支えてやった。

「う・・・・・・せい、あ?」

「それで、どうする? 自分で止めを刺すか? それとも」


 草むらの中に転がっている太刀を拾い上げると、聖亜はそれも舌に突き刺した。


「それとも、俺が生きたまま“解体”してやろうか?」

「せ、聖亜、お主」

「・・・・・・いや、私が止めを刺す」


 先程までとはまったく違う少年の様子に黒猫は目を見張ったが、少女は首を振ると、そっと太刀を手に取った。


「分かったよ。ならあいつのところまで肩を貸してやる」

 冷ややかに笑うと、少年は少女の細い腕を肩に回して立たせた。自分より小さい肩に手を置くと、ふいにヒスイは、その肩に顔をうずめたくなる衝動にかられた。



「さ、ついたぞ」

「あ? あ、ああ」



 当たり前だが、怪物との距離は短いため、手を貸してもらえる時間は短い。少し名残惜しいが、彼から離れると、ヒスイはぎゅっと太刀を握り締めた。


 ふらつく足で近づきながら、ひくひくと痙攣している怪物を、ヒスイは哀れみを込めて見つめた。


「止めだ。安らかに眠れ」


 静かな、本当に静かな声と共に、少女は怪物の脳目掛け、太刀をゆっくりと振り下ろした。


 その一撃は、ひび割れた頭蓋骨を容易く貫通し、半ば腐った脳を、完全に粉砕した。






「グ・・・・・・バアアアァッ」

 ため息に似た声を出し、かつてドートスと呼ばれていた怪物は、どこか安堵の表情を浮かべながら、ゆっくりと掻き消えた。

 



     それが、聖夜の煉獄での、戦いの幕引きだった。










 午後の日差しが、屋上いっぱいに広がる。



 その日差しの中、聖亜は寝転びながら大きく伸びをした。




「ふうっ、まったく、だらしがないぞ。聖亜」

「別にいいじゃないっすか。終わったんすから」


 ちぇっと軽く舌を出して、聖亜は自分を覗き込むヒスイの顔を見上げた。



「それで、ヒスイはこれからどうするっすか?」

「そうだな。ドートスと繋がっていたという鍋島教頭の調査は結局出来なかったし、神木もだいぶ傷ついた」



 戦いが終わった後、キュウの手により傷ついた神木の細胞は活性化されたが、傷が完全に癒えるまで後数ヶ月はかかるらしい。



「その間、太刀浪市はエイジャに狙われやすくなる。守護司に後を頼むにしても、あれ以来何故か連絡が取れないし、どちらにしても、しばらく様子を見なければならないな。それに」

「それに?」

「あ、いや、なんでもない」

 

ごまかすように海を見る少女に、聖亜は首を傾げたが、やがて同じように彼方の海を眺めた。


「・・・・・・そういえば、三体の人形はどうなるっすか?」



 戦いが終わった後、道化師が倒れていた場所から、三体の人形を収容するための台座が見つかった。さらに付近の草むらからビショップの駒も見つかっている。


「人間を襲ったことに変わりはない。おそらく魂を粉砕されるだろう」



 人形達のことを思い浮かべ、聖亜はため息を吐いた。笑った仮面、怒りの仮面、悲しみの仮面。ナイトは笑いたいと思ったことは一度もないと言っていた。笑いたくないのに笑う事を強制されるのは、一体どれだけ辛いのだろう。


「・・・・・・聖亜」


 考え込んだ少年に、少女が何か言おうとしたときだった。



「あ、やっぱりここにいた」

「あれ? 準。それに秋野と福井も。いったいどうしたっすか?」

 

 その時、屋上に準が上がってきた。さらにその後ろから、秋野と福井も続く。



「ったく、どうしたじゃねえって。今日は七夕だぜ。パーティー、するって言ったじゃないか」

「ああ、そうだったっすね。ヒスイもいいっすか?」

「は? ちょっと待て。何で私に聞く」

「だってヒスイ、聖亜の家に居候してるんだろ? パーティー、そこでするんだよ」

「それに、ヒスイの歓迎会もしないといけないからな」


 準が腕を組んで笑うと、それにつられるように、ヒスイも苦笑を浮かべた。


「・・・・・・みたらし団子は出るんだろうな」

「ああ。出る出る。お立通りの団子屋で、いっぱい買ってきてやるよ」

「・・・・・・・・・・・・そ、それじゃあやってもい」






           下らん戯言だな、玩具使い









 太刀浪市全体が漆黒の空に覆われ、準達が倒れるのと、聖亜を突き飛ばし、咄嗟に身を伏せたヒスイの肩を細身の剣が貫くのはほぼ同時だった。


「く、あああああああっ!!」


 悲鳴を上げ、それでも前に体を倒して剣を抜くと、少女は床に転がったペンダントから咄嗟に小太刀を引き抜いた。


「むは、むはははははっ!! さすがだな玩具使い。心の臓を貫くはずの、我輩の必殺の一撃を回避するとは!!」


「何すか、あれ」



 地面にへたり込んだ聖亜が見た物、それは漆黒の空に浮かぶ、三体の石の人形と、彼らを付き従えている、圧倒的な気配を持つ、黒衣の人物だった。





「むはははははっ!! なるほど、ピエロがやられるわけだ。だがな、奴と我らを一緒にするなよ。ん?」

 

 少女を背後から奇襲した石の人形が、下品に笑いながら蓄えた髭をなぜた。


「くっ、別働隊、だと?」

「むは、むはははははっ、違うな。奴は所詮捨て駒。我らこそが本隊なのだ。あの方を呼び出すための「キング、黙れ」・・・・・・は」


 キングと呼ばれた石人形は、黒衣の男の命令に従い、ほかの二体の人形がいる場所まで下がった。


「さて、玩具使い。先程キングが言ったと思うが、貴様が今まで相手にしていた道化師は、単なる捨て駒に過ぎん。しかも、何の役にもたたなかった、な。まあ奴はその無能を、死という形で償ったわけだが」


「なる、ほど。つまり、お前たちがいる限り、今回の戦いは終わらないというわけか・・・・・・ならっ!!」


 黒衣の男目掛け、ヒスイは小太刀を構える。だが、



「戦う相手の技量も分からぬのか、絶対零度・・・・・・ルーク」

「グッ」



 ルークと呼ばれた、まるで塔のように巨大な石人形は、石で出来たその腕を、“そこ”に向けた。


「な、や、やめっ」


 巨大な石の拳が人形から放たれる。それは百年の間、休みなく鳴り続けた鐘をを、鐘楼ごと一撃で粉砕した。





 その中にある、ウミツバメの巣もろとも。




「さて玩具使い。これでもまだ我らと戦うか?」

「・・・・・・要求は、何だ」

「ヒス、イ?」

「ほう、潔い事だ。玩具使い、我らがわざわざ出向いたのはそなたを捕らえるためだ。いいだろう、取引をしよう。貴様が大人しく捕まるならば、この都市に住むすべての家畜に手は出さぬ。約束しよう。だが」


 男は黒衣に包まれた腕を上げると、背後の三体の石人形と共に、その気配を一層強めた。


「だが、貴様があくまで抵抗しようというならば、この都市を灰燼に帰し、十万を越す家畜の魂を、その絶望ごと喰らってやろう」



 その言葉に、ヒスイは

「・・・・・・」



項垂れ、そして、ふっと肩を落とした。




「ふん、それでいいのだ。ルーク」

「ゴッ」



 再び人形の拳が飛ぶ。それは、今度は屋上に立つ少女を握り締め、ゆっくりと戻った。



「さあ、帰還するぞ。キング、ルーク、クイーン。さて家畜共、我らの主が降臨するまでのしばしの間、動けぬその身にせいぜい絶望を溜め込んでおくがいい!!」




 黒衣の男を先頭に、彼らが漆黒の空の彼方へ消えるのを、聖亜はただ呆然と眺めていた。













 眺めているしか、出来なかった。





                                   

                                     続く


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