スルトの子 幕間 「絶対零度のアルバイト」
「それで、何でここに連れてきた?」
根津高校に入学した次の日、ヒスイは聖亜に連れられて、空船通りにある喫茶店の前に来ていた。
「何でって・・・・・・ヒスイが言ったんすよ? アルバイト紹介してくれって」
「それは、確かに言ったけど、でもこれは」
少女は喫茶店の看板と、中の様子を見て顔を引きつらせた。看板は巨大な猫の形をしており、その中に「キャッツ」と書かれている。今は準備中のためか、店の中では猫耳と尻尾をつけたウエイトレスがモップを使って床の掃除をしていた。
「ほ、本当にここしかなかったのか?」
「まあ、探せば別の所もあるかもしれないっすけど、それだとエイジャに襲われたとき大変じゃないっすか。だったら一緒に働いていた方がいいっす」
「それはそうだが」
「まあ、マスターはいい人だから大丈夫っすよ・・・・・・変わってるけど」
最後の言葉は少女に聞こえないように呟き、聖亜は喫茶店の中に入っていった。ヒスイはそれでも戸惑っていたが、やがてあきらめたようにその後に続いた。
「あ、すいませんお客さん、今準備中・・・・・・って、聖じゃねえか。まったく、謝って損したぜ」
「祭さん・・・・・・損って何すか損って」
にこやかな笑みから、けっと顔を一瞬で歪ませた、茶色の猫耳と尻尾をつけた先輩の言葉に聖亜はがくりと項垂れた。
「それで、どうしたんだよ。今日はシフト入ってないだろ?」
「ああ、それなんすけど、ちょっと紹介したい人がいまして・・・・・・あ、ヒスイ。こっちっすよ!!」
中に入って来た白髪の少女に向かって聖亜は軽く手を振った。それを見て安心したのか、こちらに小走りで近寄ってきた。
「は? 聖、お前の紹介したい人って・・・・・・もしかしてお前のこれか?」
「これって、ちょっと下品っすよ。それにまったく違うっす。彼女、事情があって俺の家に居候しているんすけど、アルバイトがしたいって言うから連れてきたっす。それで? マスターはどこっすか?」
「ん? ああ、確か今は二階でパソコン使ってる。まあ入るなとは言われていねぇし、話があるなら勝手に入れよ。ああ、ついでに掃除までさせるんだったら、時給上げろって文句言っといてくれ」
「はいはい、分かりましたっす。それじゃ、二階に行くっすよ、ヒスイ」
「あ、ああ・・・・・・すいません、失礼します」
「はいはい、いいから、さっさと行きな」
先に階段に向かって歩き出した聖亜に促され、モップをもって再び床の掃除に取り掛かった祭にぺこりと頭を下げると、ヒスイは少年の後に続いて行った。
「失礼しまぁす」
「ん、聖か? ちょっと待て」
聖亜が二階にある事務室と休憩室を兼用している部屋に入ると、すでに端末を操作し終え、ソファに座って新聞を広げていた玄が、読んでいた新聞を畳んで立ち上がった。
「それで? 一階での声は聞こえていたが、働きたいという子が来てるんだって?」
「はいっす。アメリカから来て、ちょっと事情があって家に居候している子なんです。いいって言ってるんですけど、働いて少しでも食費とか返したいって言われて・・・・・・ここで働かせてもらえないでしょうか?」
「ふむ、まあ人では多いほうがいいし、構わんぞ。入ってもらえ」
「はぁ、んじゃヒスイ、どうぞっす」
「あ、ああ。失礼します」
礼儀正しい子だな、それに無理をしている様子もない。つまり日常的に礼節を重んじるタイプか。
まだ見ぬ相手に好感を抱きながら、扉を開けて入ってきた白髪の少女を見た時、
彼は、荒川白夜は、その端正な顔を見てぴたりと動きを止めた。
「・・・・・・・・・・・・リア?」
「え? あの、何か」
呆然とした顔で見てくるこの店のマスターを、ヒスイはいぶかしみながら見返した。
「・・・・・・あ、ああいや、何でもない。それより聖、まさか柳君以外に女がいたとはな」
「だからそうじゃないですよ。まったく、どいつもこいつも。さっきも言いましたけど、彼女バイト探しているんです。ここで面倒見てもらえないでしょうか?」
「バイトか? まあちょうど雇おうと思っていたところだし、一人ぐらい大丈夫だが・・・・・・よし、一つ質問をしよう。ええと」
「ヒスイ、です」
「うむ。ではヒスイ君、一つだけ質問をいいかね」
「あ、ああ」
真剣な表情で見つめてくる白夜に、ヒスイも姿勢を正した。
「ではやるぞ・・・・・・ヒスイ君、君は猫派かね? それとも犬派かね?」
「・・・・・・は? あの、それが何か?」
質問の意味が分からず、ヒスイは傍らの少年にすがるような視線を向けた。
「えっと、マスター、実は無類の猫好きなんすよ。この店も半分道楽でやってるっすからね。猫好きな人じゃないと、採用しないっす」
「道楽とは何だ道楽とは。俺はな、聖。猫の魅力を広めるために喫茶店を開いたのだ。それで、どうなのかねヒスイ君。答えてくれたまえ」
「ま、まあ、私は黒猫を連れているし、どちらかというとね「よし採用」・・・・・・早いですね」
「ふむ、まあ聖の友人なこともあり、採用するつもりだったが、猫を飼っている物に悪い人間はいないからな。ヒスイさん、だったかな。そこの椅子に座って待っていていなさい・・・・・・聖、ちょっと」
「あ、は、はい」
「え? ごめんっすヒスイ、ちょっと待っていてくださいっす」
いつになく真剣なその表情に、少女に椅子の一つに座って待っているように言ってから、聖亜は促されるまま、白夜に続いて奥の扉から廊下へと出て行った。
「あの・・・・・・店長、何か?」
扉から出てすぐ、段ボールが所狭しと重ねられている場所に来た聖亜は、先に来ていた真剣な表情の白夜に恐る恐る用件を尋ねた。
「・・・・・・聖、あの少女なのだが」
「は、はいっす!!」
真剣な表情のまま、いつもより低く精悍な白夜の声に、思わず背筋を伸ばして身構えた瞬間、
「彼女、何色のメイド服が似合うだろうか!!」
などとのたまう上司に、聖亜は反射的に拳を突き出していた。
「何をするんだね」
「何をするんだね、じゃないっすよ。いつになく真剣な表情で、何を言うかと思えばそんな事っすか」
「そんなこととはなんだそんなこととは、大切なことだろう。彼女は見目麗しい少女だ。なら着る服もそれに合うものでなければならん。それで、どの色がいい?」
「・・・・・・青、が似合うんじゃないっすか?」
自分の一撃を軽く叩き、涼しげな顔をしている白夜にむすっとしながら、聖亜は少女の海を思わせるその瞳を思い出して呟いた。
「そうか、青か。聖、それがお前の選択というわけか」
「へ? いや、選択なんて大げさなものじゃないっすけど」
「いや、何かを選ぶとは大げさなものなんだよ、聖。胸を張れ、自分の選択に。そしてその道をまっすぐに突き進め。誰に笑われても、誰に後ろ指をさされても、自らの信念に従って行動すれば、道はおのずと見えてくる・・・・・・どうした?」
「・・・・・・い、いえ、なんだかマスターが良いことを言っているような気がしたので」
「ような、はひどいな。私はこれっでも君の師匠を自称しているつもりだ。たまにはいいことを言わなければな。分かった、青だな。探しておくから、お前はヒスイ君をロッカールームに案内しておいてくれ」
「は、はい。分かりました」
優しい声で、だが決して反論を許さない彼の言葉に頷くと、聖亜は少女の案内のために事務室へと入っていった。
「・・・・・・これも、人の業、という物か」
足早に去っていった少年には聞こえなかった。白夜が、いつもの彼には似つかわしくないとても沈んだ、重苦しい声でつぶやいた言葉を。
それからおよそ二時間後の事である。
「あの、ヒスイ、大丈夫っすか?」
「・・・・・・」
少女のサポートを任された聖亜は、いつものウエイトレスの格好をしながら、隣で子供達に囲まれている大きな青猫に、恐る恐る声をかけた。
猫は何も答えず、集まってきた子供に風船を渡している。
その中には、とある白髪の少女が入っていた。
二時間ほど前、喫茶店のウエイトレスに採用されたヒスイは、白夜から手渡された青色の制服に着替え、開店した店に研修として出たのだが、ここで彼女の意外な弱点が判明した。
戦闘時以外の彼女は、なんととてつもない不器用だったのだ。
皿を洗わせれば五枚中四枚は割り、料理を運ばせれば転んで台無しにする。(ここで料理長を務める一葉の顔がびしりと引きつった)
些細なことでは怒らないな白夜も、さすがに「これはひどい」と唸り、結局不器用さが直るまで、彼女はこうして大きな猫の着ぐるみを身につけ、子供達に風船を渡す係になったのだ。
彼女の周りには子供達が群がり、大胆な子は抱きついたりしているが、彼女は嫌がることなく子供の頭を撫ぜ、風船を渡してやっている。結構子供好きらしい。
と、空船通りに設置された時計が、十八時を知らせる鐘を鳴らした。
「はい皆、そろそろ時間っすよ」
「えぇ、もっと遊びたいよう。聖お兄ちゃん」
「駄目っす。子供は家に帰る時間っすよ。お父さんとお母さんが心配しているっす」
「はぁい、じゃあまた遊んでね。猫さん」
元気よく帰っていく子供達を見送ってから、青猫は自分の頭を取った。中にいる汗をかいた少女が、ぐったりと息を吐く。
「ふうっ、中はさすがに熱いな」
「あはは、そうっすね。それじゃ、中に入りましょうか」
笑いながらねぎらいの言葉をかけると、聖亜は店内に続く扉に手を掛けた。
「それで、聖。彼女はやっていけそうかね?」
「まあ、子供好きそうですし、大丈夫とは思うっすよ」
「ふん? ま、不器用な所は気長に直していくさ」
皿を洗いながら答えると、白夜は楽しそうに笑って頷いた。話題の少女であるヒスイは、現在一葉から簡単なジュースの作り方を教わっている。
「それよりマスター、聞いてもいいっすか?」
「ん、どうした?」
「その、ヒスイをはじめて見た時、何か呟いてましたよね、確か・・・・・・リアって」
「まあ、彼女が昔の知り合いに似ていたのでな。それより」
「は? 何す・・・・・・きゃっ!!」
聖亜はびくりと体を震わせた。白夜がいきなり水に濡れた手で触ってきたためだ。その手は、彼の心臓の上に置かれている。
「まったく、女みたいな声を出すな・・・・・・聖、お前昨日気分が悪くなったな」
「あ、それは、その」
「まったくいつも言っているだろう。感情を高ぶらせるなと。ま、これぐらいならまだ“大丈夫”か」
「は?」
「いや、何でもな「聖ちゃんの胸に手をやって、何が問題ないのかしら」ひっ」
不意に、背後から氷河のように冷たい声が響いた。
「い、一葉」
つやのある長い黒髪をうねうねと不気味に動かしている料理長が、オレンジジュースを持ったヒスイと共に奥の厨房から出てきた。
「まったく、人にヒスイちゃんの教育を押し付けて、自分は過去の女の話をしながら聖ちゃんにセクハラですか・・・・・・これは少し教育が必要かしらね」
「い、いや、あの、市葉、それは勘違「問答、無用!!」ふべっ!!」
「ふ、ふふふ、いいぞ、もっとやれ」
「ヒ、ヒスイ?」
渡されたオレンジジュースを飲んでいた聖亜は、先程まで一葉からスパルタ的な教育を受けていたヒスイの呟きに、ぶっと口の中のジュースを吐き出した。
周囲に性交を終えた後のすえた臭いが漂う中、楓は体を思い切りベッドに沈めた。
「ふうっ」
彼女のすぐ横で眠る客の相手をするのは、これで三回目だ。男は細身の癖に体力は無尽蔵らしく、娼婦の仕事に慣れている自分が、こうして倒れこむほど体力を消耗する。
「さて、それじゃ、湯を浴びさせてもらうよ」
「・・・・・・」
この日、男は始終無言だった。無言のまま自分を組み敷き、無言のまま犯し、そして無言のまま粗末なベッドで眠っている。
まあ、始めと二回目はうっとうしいほど喋っていたから、たまにはこんなのもいいかもしれない。
そう思って、立ち上がったときだった。
「・・・・・・どこへ行くんだい?」
「は? さっき言っただろ。湯を浴びに行くんだよ。ったく、今日はもう出来ないよ。さすがに体力がない」
男が逆上するかと思ったが、楓はぶっきらぼうに言った。快楽区では、女は大事な“商品”だ。乱暴に扱う客には自警団が黙っていない。もっとも、護ってもらうためには高い所場代を支払う必要があるが、自分達の縄張りで騒ぎが起こるのが嫌なのか、彼らはよく働いてくれる。
「体力がない? そんなの意味ないよ。どうせ君達はもうすぐ喰われるんだ。誰一人例外なく、誰一人逃げられずに」
「あんた、頭大丈夫かい?」
不愉快そうに眉をしかめ、さっさと扉に向かう。金払いの良い客だが、頭のおかしい奴にいつまでも付き合っていられない。今度来たら自警団に突き出してやろう。
そう思って、扉に手をかけた時だった。
「・・・・・・・・・・・・え?」
自分の胸から突き出した“手”と、その手が握っている“物”を、楓は呆然と見つめた。
「そう、君達家畜は誰一人逃げることは出来ない。僕達エイジャから」
「が、あ・・・・・・、せ、せい」
愛しい弟分の名前を呟いたのを最後に、彼女は床にどっと倒れた。それを見て、男、ドートスは彼女の魂を握り締めたまま、狂ったように笑い続けた。
ベッドの傍らにある机の上では、古い腕時計が、いつまでも哀しげに時を刻んでいた。
続く