スルトの子 第四幕 世界の表側
暗い道を一人歩く。
これは夢だ。そう認識しているはずなのに、地面を踏みしめる感覚は鮮明に伝わってくる。
そして道の先にあるものを、少年は知っていた。
だから行きたくない、行きたくないと必死に叫ぶのに、それは掠れた声としてしか外には漏れず、歩いているうちに顔には笑みが広がり、家に帰る父親のようにその足取りは軽い。
どれぐらい歩いただろうか。ふと道の先に、ぼんやりと明かりが見えてきた。
笑顔の下で泣き喚き、必死にしゃがもうとしても、見えない何かに引きずられるように足はずるずると明かりに向かって進んでいく。
やがて、見えてきたのは―燃え盛る炎に包まれた、一軒の古びた教会だった。
見たくない。入りたくない。
それなのに、心にしみこんだ“過去”という名の光景は瞼に焼き付き、“思い出”という名の見えない手はずるずると自分を引っ張っていく。
そして、燃え盛る炎の中に一人たたずんでいるのは
燃える蝋燭を両手に持ち、涙を流しながら笑っている、“ ”だった。
「うあ・・・・・・あうっ、むぷ?」
自分の見た悪夢に叫び声をあげようとした聖亜は、顔に伸し掛かる圧迫に呻いた。暗い。意識は覚醒しており、目もちゃんと開けている。体感時間から考えても、いつもより三十分ほど寝すぎたようだ。なのに暗い。まるで自分の顔が何かに塞がれているかのように。
「う・・・・・・ぷっ、ふぐっ!?」
「ん、朝っぱらか? お盛んだの若君」
その時、彼はいきなり抱きしめられた。顔を塞いでいた柔らかい何かがぎゅうぎゅうと自分の顔を圧迫し、息をするのも困難なほどだ。
「ふぐ・・・・・・いったいなにすむっ!!」
柔らかく、心地よいそれから無理やり顔を引き剥がすと、今度は思い切り口を吸われた。
「はむっ、く・・・・・・なにするっすかいきなり!!」
何とか唇を引き剥がし、相手を睨み付ける。睨まれた相手―赤い髪を肩まで垂らし、その両端から黒い大きな角を生やした美しい女は、舌で自分の唇をぺろりと怪しげに舐めた。
「ふふっ、なに、おひぃさんが手篭めにされても困るでの。わらわの方で搾り取ってやろうとやろうとしただけじゃ」
「いや・・・・・・手篭めにするって、そんなこと」
「しないとでも? 昨夜裸体を覗いておいてよう言うわ」
「あ・・・・・・そ、それは、その」
女の指摘に、聖亜は彼女を挟んで反対側に寝ている白髪の少年・・・・・・いや、はだけた寝間着から白い肌を覗かせている少女を見て、顔を真っ赤に染めながら、昨夜の出来事を思い出していた。
「なんだか・・・・・・随分と広い家だな」
それが、ヒスイが少年の住んでいる家を始めてみたときの感想だった。
太刀浪駅の西側、太刀浪神社を中心とした観光地区から脇に逸れた深い竹薮の中に、その家はひっそりと佇んでいた。
三百坪はある広大な庭の中心に、木造三階建ての巨大な母屋があり、その左右には離れが備え付けられている。庭には小さいながらも川が流れており、水は脇にある池に流れ込む。だが池にはゴミが溜まっており、建物も随分埃を被っている。
「まあ、昔は宿坊をしていたようっすから、そりゃ広いと言えば広すぎるほど広いっすけど、その代わりめちゃくちゃ古いっすよ。あまりに広すぎて掃除も最低限しかしてないし」
ぎしぎしと悲鳴を上げる戸を強引に開けると、聖亜は傍らのスイッチを手探りで押した。天井に備え付けられたガス灯に蒸気が送られ、ぼんやりと明るくなっていく。
「最低限だと?」
「はいっす。えっと・・・・・・ある程度きれいなのは、俺の部屋と友達が遊びに来た時用の客間、それから台所とかお風呂場とかトイレぐらいっすかね」
「本当に最低限だな。それで? 私は客間に寝ればいいのか?」
「あの、それなんすけど、客間は友達が荷物を置きっぱなしにしてるから、出来れば俺の部屋に眠ってくださいっす」
「・・・・・・」
ヒスイに睨まれながら、聖亜はガス灯に照らされた廊下を進む。一歩歩くたびに床の埃が辺りに飛び散り、背の低い黒猫は思わず目をぱちぱちとさせた。
それを見て笑いながら、聖亜は突き当りの部屋の前で立ち止まった。どうやらここが目的の部屋らしい。
「それじゃ、お風呂とお茶の準備して来るっすから、先に部屋の中に入っててくださいっす」
「いや、その前に親御さんに挨拶を」
「へ? 親父は今居ないっすよ。旅をするのが好きな道楽親父っすから、数年に一度しか帰って来ないっす。今どこで何やってるっすかね」
へらへらと笑いながら戻っていく少年を見送ると、ヒスイは目の前の障子を静かに引いた。薄暗い部屋を覗き込むと、十二畳ほどの部屋の隅にテーブルと棚があり、その前に布団が一つ無造作にたたんで置かれている。畳の上に散らばっている画用紙を手に取ると、青い絵の具で描かれた小さい花がある。もっとよく見ようと、暗闇を手探りで探り、壁際のスイッチを押すと、部屋の四隅に備えられたガス灯がぼんやりと光を放ち始めた。
「やれやれ、これでは足の踏み場も無いぞ」
「お前が泊まりたいと言ったんだろう。文句言うな」
ぶつくさと呟くキュウを一瞥すると、部屋の隅に重ねられた座布団を二枚取り、一枚を黒猫のために床に置き、もう一枚にゆっくりと正座する。そのまま手の中にある画用紙を、改めて覗き込んだ。
「きれいな絵だな」
「ふん、確かに中々の出来栄えだが、どれも同じ絵ではないか。これは・・・・・・睡蓮か?」
「そうっすよ・・・・・・と」
両手に持っていたお盆をひとまず畳みの上に置いてから、聖亜は隅にあるテーブルをヒスイの前に持ってきた。
「えっと、ヒスイはかりんとう好きっすか?」
「ああ。和菓子はみんな好きだ、ありがとう」
テーブルの上に置かれた器の中からカリントウを摘まみ、蒸気式の発熱ポットで沸かされたお茶を飲む。ゆったりとした時間が流れる中、ヒスイは唐突に口を開いた。
「それで、何から聞きたい」
「へ? いや、無理に聞こうとは思わないっすよ」
ぱたぱたと手を振る少年を見て、ヒスイは傍らで寝そべっている相棒を見た。その視線を受け、黒猫は重々しく口を開く。
「いや、そうはいかぬ。今回出現した人形・・・・・・ナイトだったか、あやつは明らかにお前を知っていたし、何よりお前は道化師を挑発した。奴は根に持つタイプのようだからな。今度はお前を真っ先に狙うだろう」
「う・・・・・・」
「だからこそ、せめて奴らのことを知識としてでも知っておけ。そうしなければ、戦うことも逃げることも出来ん」
「は、はいっす。じゃあまず最初の質問なんすけど・・・・・・あいつら、結局何者なんすか?」
「奴らはエイジャと呼ばれる存在だ。人間を家畜と侮蔑し、その生気を喰らう化け物」
「ば、化け物っすか」
「もっとも、奴らは自分達の事を伝道者などと呼んでいるがな。人間に知識という餌を与え、太らせたのは自分達なのだから、家畜として扱うのも自由なんだそうだ」
「け、けどエイジャなんて、今まで聞いた事はないっすよ」
「奴らの人を襲う手段が巧妙だからだ。まず人間を自分達の“狩場”に誘いこむ。そこではただの人間は意識を保っていることが出来ないから自由に襲うことが出来る。それにただの人間はそれを視覚でも聴覚でも認識することは出来ないから、外から見ても何も分からない。なにより」
「な、なにより?」
「奴らは別にこの世界に住んでいるわけじゃない。奴らの住んでいるのは、こことは違う場所、違う世界。私たちはその世界を獄界と呼んでいる。地獄と言う意味だ。まあ、もちろんやつらは別の名で言っているがな」
「じ、地獄っすか・・・・・・けど、別の世界と言っても、そこから自由に来れるんじゃ、やっぱり知らないのはおか「誰が自由に来れると言った」へ? 違うんすか?」
聖亜の問いに、ヒスイは温くなったお茶を飲み干し、頷いた。
「エイジャは確かに強力な力を持つ。だがその反面、獄界から自由にこの世界・・・・・・奴らは現界と呼んでるが、に来ることは出来ない。昔はこちら側から呼ぶしか来る方法が無かったんだ」
「え? こちら側って・・・・・・まさか人が呼んでるって事っすか?」
「大半はな。けど別に驚くことじゃないだろう。人間の欲望にはきりが無い。それこそ、自分を神と称する悪魔に魂を売るほどにな」
「・・・・・・」
絶句する少年の前で、黒猫は深々とため息を吐いた。
「だが近年・・・・・・と言っても二千年は昔になるが、奴らは人間に呼び出される以外にもう一つ、“門”を通り、こちらに来る術を学んだ」
「門・・・・・・すか?」
黒猫の言葉に、聖亜は自分の家の具合の悪い戸を思い浮かべた。
「いや、その門ではない。要するにこの世界と奴らの世界を結んでいる、海と呼ばれる道、その出入り口のことだ。そしてこの門を最初に発見したのは」
そこで一端言葉を切ると、キュウはその紫電の瞳で、傍らで静かに二杯目のお茶を飲むヒスイに目をやった。だが、それはほんの一瞬だった。
「小僧、貴様イデアと呼ばれる言葉を知っているか?」
「イデアっすか? 言葉ぐらいは知ってるっすけど・・・・・・詳しくは」
「覚えておけ、エイジャの語源となった言葉だ。その意味は本質、もしくは真の姿。古き時代、プラトンと言う哲学者が唱えた思想だ」
「もちろん何の材料も無くその思想が生まれるわけは無い。それじゃあ、何故その言葉が生まれたかと言うと」
「・・・・・・まさか」
自分の言葉に顔を引きつらせた少年を見て、ヒスイはゆっくりと頷いた。
「そのまさかだ。プラトンは実際に覗いたんだ。門を開き、本質の世界・・・・・・獄界を」
辺りに沈黙が重く伸し掛かる。その中で、聖亜は頭の中の情報を必死に整理していた。
「つまり、まとめると・・・・・・エイジャは人間を喰らう別の世界から来る化け物で、昔は人が呼び出すしかこっちにはこれなかったけど、今ではプラトンって人が開いた門を通ってこちらに自力で来れるってことっすか?」
「ああ。けど最初に言ったとおり、自力と言っても自由にじゃない。道は荒れた海のように険しい。そのため門を通ってこちらに来たエイジャの多くは空腹を抱え、見境無く人間を襲う」
「えっと、じゃあもしかしてポーンとかビショップとかいう人形が人を襲っていたのは、お腹が空いていたから?」
「いや、それは違うだろう」
聖亜の問いに、黒猫が小さく首を振った。
「奴らが人間を襲っていたのは魂を狩るためだ。これを抜き取られた人間は生きても死んでも居ない状態になる。植物人間と言うのが一番近いだろうな。むろん人間の魂を喰らうことはできるが、ただのエイジャにとって人間の魂は劇薬と同じだ。生気のように軽々しく喰えるものではない」
「じゃ、じゃあ何であいつらはその、魂を狩っていたっすか!?」
少年の脳裏に、助けることが出来なかった親子の姿が浮かぶ。知らず、声が大きくなった。
「さての、人間の魂には様々な利用法があるが、ありすぎて検討が付かぬ」
「・・・・・・そうっすか」
キュウの言葉に聖亜が黙り込むと、部屋の外からぴぴっと言う音が聞こえてきた。どうやら風呂が沸いたらしい。
「あ、お風呂沸いたっすね。先に入ってくださいっす」
「いや、家主より先に入るわけには・・・・・・分かった。入らせてもらう」
さすがに断ろうとしたヒスイだったが、埃塗れの相棒に無言で睨まれ、あきらめたように立ち上がった。
「じゃあどうぞっす。あ、お風呂は廊下の一番左端っすよ」
聖亜の言葉に頷くと、黒猫を抱えたヒスイは、ゆっくりと部屋から出て行った。それを見送ってから、聖亜はしばらく部屋の片づけと寝る準備をしていた。正直頭の中は混乱しており、言われたことの半分も理解できなかったが、こういうときは体を動かした方が考えはまとめやすい。
テーブルを脇に寄せ、押入れから布団を出したところで、聖亜はふと顔を上げた。
「そういえば、石鹸切れてたっすね」
台所に向かい、棚の中に無造作に放置されたバッグの中から真新しい石鹸を取り出し、風呂場に向かう。
さすがに入るのは気が引けるが、風呂場は洗面所と繋がっている。そこから呼べば、中に入らなくてもいいはずだ。
がらりと勢いよく洗面所の戸を開ける。と、聖亜の目に、少年の裸体が飛び込んできた。
「あ、ヒスイ。石鹸持ってきた・・・・・・すよ?」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・へ?」
「こ、この・・・・・・変態がっ!!」
頬にばきりと拳がめり込む。床に倒れながら、聖亜は意識を失うまで、目の前にいる“少女”の薄い胸のふくらみを、まじまじと眺めていた。
「いや、あれはその、男の子だとばかり思ってたから」
「ふふ、それでは言い訳にはならぬの。若君」
真っ赤になってぶつくさと呟く少年を、角の生えた女はしばらくおかしげに笑っていたが、やがて反対側ですやすやと眠っている少女をゆさゆさと揺さぶった。
「ほれおひぃさまよ、いい加減に起きられよ。小松が朝餉を持ってまいるぞ」
「ふにゃ・・・・・・やぁだ小梅。あと5分だけぇ」
「やれやれ、相変わらず朝が弱いのう。ふふ、若君に手篭めにされても知らぬぞ」
女が少女の耳元で囁いた言葉は、絶大な効果を発揮した。ヒスイはぱちりと目を覚ますと、聖亜をまるで獣を見るような目で見つめ、ずりずりと勢い良く後ずさった。
「あ、あの、おはようございます」
「・・・・・・」
「えっと、あの昨日は、その」
「・・・・・・」
「あ、あうう」
「・・・・・・ふうっ、いい加減に許してやれ、ヒスイ」
聖亜を哀れに思ったのか、それとも耳元で騒がれるのがいやなのか、ヒスイが眠っていた布団の、その頭上に敷かれた座布団の上で眠っていた黒猫がのそりと起き上がった。体に掛かっていた毛布がぱらりと落ちる。
「け、けどキュウ」
「ふん、ならばこうしようではないか・・・・・・小僧、貴様次にヒスイの裸体を覗いたらその貧相な一物、我が牙で噛み砕くぞ。分かったな」
紫電の瞳に睨まれ、聖亜はこくこくと勢い良く頷いた。
「えっと、じゃあ改めて・・・・・・この人、誰っすか?」
布団をしまい、テーブルを持ってきた所で、聖亜は目の前に居る女を指差した。彼女はどこからか取り出した徳利に口をつけ、美味しそうに飲んでいる。
「ああ、こいつは私の」
「おひぃさまの従者の小梅と申す。よろしゅうに、若君」
「従者って・・・・・・昨日はいなかったじゃないっすか」
「そういえば、この姿を見たのは初めてだったな。小梅、監視ご苦労だった」
小さく頷くと、ヒスイは小梅に向かって手を伸ばした。小梅は慣れた手つきでその手にそっと触れる。途端に彼女の体は消えうせ、そこには少女が昨日使っていた一本の刀があった。
「・・・・・・ああ、なるほど」
「発情したお前に襲われないように、こいつに見張りを頼んでいたんだ」
「つまり、刀のお化けさんっすね」
「私たちはお化けではない!!」
不意に、廊下から別の声が響いた。少年が振り向くと、そこには肩のあたりで切りそろえた黒髪を持った、着物を着た七、八歳ほどの子供がお盆を持って立っていた。
「おはよう、小松」
「おはようございますヒスイ様。ヒスイ様、私はやはり反対です。こんなケダモノの世話になるなど」
「いや、ケダモノって」
「男の私から見ても、貴様は十分にケダモノだ!! ヒスイ様、こんな所早く出て行きましょう」
不機嫌そうに顔をしかめ、小松と呼ばれた少年はヒスイの前に食器を並べていく。それが終わると、今度はさぞ嫌そうに、仕方が無いと言う風に顔を顰め、聖亜の前に乱暴に食器を置いていった。
「ありがとう、小松」
「い、いえ、それでは失礼いたします」
頬を染めてぺこりとお辞儀すると、小松はおずおずとヒスイが伸ばした手に触れた。次の瞬間、小松の姿は無く、少女の手には一本の小太刀が握られていた。
「さ、食事にしよう」
「・・・・・・」
嬉しそうに箸を取るヒスイを見ながら、消える寸前、小松から殺気をこめた目で睨まれた聖亜は、げっそりと息を吐いた。
「それで、これからどうするっすか?」
焼いた鮭とご飯、油揚げの味噌汁を食べ終え一息ついた頃、ふと聖亜はヒスイに尋ねた。
「もちろんエイジャを探す。と言いたいが、やはりいつまでも世話になるわけには行かない。奴らも戦力が低下しているから、すぐには出てこないだろう。その間、援助の要請と情報交換のため、司に連絡を取る。そいつから援助を受けることが出来たら、私たちはすぐにここを出ていく」
「・・・・・・司さんっすか?」
「人の名前じゃない。私同様、エイジャを倒すことを生業にしている者の事だ。まあ、普段協力してはいないから、会えるかどうかはわからないが」
「はあ・・・・・・けど、別に遠慮しないでいいっすよ。部屋はたくさんありすぎるっすから」
「そんなわけにいくか、馬鹿者」
聖亜の言葉に、食後の睡眠を取っていた黒猫が、目を閉じたまま呟いた。
「じゃ、じゃあ自分は学校に行ってくるっす」
「こんな早くにか?」
棚に置かれた目覚まし時計を見て、ヒスイはこてんと首をかしげた。まだ七時を少し過ぎたところだ。いくらなんでも早すぎるだろう。
「学校まで一時間ぐらい掛かるから、これでも遅いほうっすよ。それじゃ、行ってきます」
念のために合鍵を少女に渡すと、ここ数年間使っていなかった言葉を発して、温かな日差しに目を細めながら、聖亜は学校に向けて走っていった。
少年が出かけた後、食器の後片付けを人の姿に戻った小松に任せ、ヒスイは縁側からぼんやりと外の景色を眺めた。
家の周囲を囲んでいる笹の葉がさらさらと静かに揺れ、葉の一枚が少女の足元に落ちてきた。
「それで、いつ出かける」
「お腹が落ち着いたら、すぐにでも」
膝の上に乗ってきた黒猫の、夜空に似た毛並みを撫ぜながら、ヒスイは部屋の中で聖亜が食べた食器を嫌そうに盆に載せる小松に目をやった。
「小松、嫌なら私がやるぞ」
「へ? い、いえ、それは落としそうで危険・・・・・・ではなくてですね、恐れ多いです、ええ。それよりヒスイ様、本当にあんなケダモノの世話になるおつもりですか?」
「さっきから随分とそこにこだわっているな。まあ、今から会う司との話し合いが無事に終われば、そんなことにはならないさ。けど万が一ということもある」
「わ、分かりました。その時はこの小松が、全身全霊をかけて速やかに男に“なり”、ヒスイ様を守ってご覧にいれます」
「ありがとう・・・・・・ああ、それから小松、ひとつ頼みがあるんだが」
「はい、なんなりと!!」
座って嬉しそうに命令を待つ小松は、敬愛する主が発した命令に、心底泣きそうな顔をした。
周囲がやけにざわついているので、聖亜はぼんやりと目を開けた。
確か今は鍋島先生の授業中・・・・・・のはずが、教室は喧騒に包まれており、どうみても厳しい教頭の授業ではない。
まさか、寝ていた?
ぼんやりとした頭を振って、何とか意識をはっきりさせながら時計を見て・・・・・・絶句した。時計の針は最後に見たときから一時間強は進んだ場所にあった。確か授業が始まってすぐに時計を見たはずだから、鍋島先生の授業中、丸々眠っていたことになる。
ため息を吐いて突っ伏した机には、準の文字でメモが張ってあった。
『鍋島先生より伝言、起きたら生徒指導室に来るように、だそうだ。その前に顔を洗った方がいい。PS、落書きは秋野と福井のデコボココンビがやったものだ』
そういえば、クラスの連中が自分を見て妙にニヤニヤと笑っている。寝ぼけすぎた自分にあきれるように、聖亜は再び机に突っ伏した。
「何故呼ばれたのか分かっているな」
「はい」
近くの水飲み場で顔の落書きを洗い落した後、二階の生徒指導室で聖亜は厳しい顔をした教頭と向き合っていた。
「星、確かお前はアルバイトをしていたな。生活費を稼ぐ必要があるから許可したが、学業に支障が出るほど忙しいなら、別のアルバイトを探すことを薦める」
「いえ、これはアルバイトのせいじゃないです」
「では何故だ? 春なら眠くなるのも仕方が無いが、今は初夏だ。暖かいというより暑い中で眠るのは相当疲労が溜まっている証拠だと思うが。美術部に所属しているお前が、それほど体力を消耗するはずはないだろう」
「それは・・・・・・その」
ふと、聖亜は目の前の教頭に昨日と一昨日あった事を何もかも話してしまいたくなった。だが喉まで出掛ったその言葉を必死に飲み込む。復興街に出没する化物と違い、旧市街に化け物が出た、などと言ったら十中八九正気を疑われる。例え信じてもらうことが出来ても巻き込んでしまう。
「どうした?」
「へ!? いや、何でもないでございますです」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
室内に重苦しい沈黙が流れる。何か別の話題はないかと必死に辺りを見た聖亜の目に、それは飛び込んできた。
「えと、先生、それはなんですか?」
「・・・・・・ああ、これか」
鍋島は立ち上がると、窓際に置いてある古ぼけた人形を手に取った。手の中にすっぽりと納まる小さな人形を大事そうに抱える彼を見て、聖亜がいたたまれない気持ちになったとき、
突然、お腹が鳴った。
「あ、あうっ」
「・・・・・・ふうっ、今日はここまでにしておこう。今度からはもう少し早く寝るように」
「は、はい。失礼します」
聖亜が顔を赤らめて出て行くのを見送ると、鍋島は優しげな、そして悲しげな表情で手の中のウサギの人形を見た。
「これは、娘へのクリスマスプレゼント、だったものだ」
「や、おまたせしました」
目の前でこめつきバッタのように何度も頭を下げる男を、ヒスイは不機嫌そうに眺めた。
「いや、申し訳ございません。まさかご高名な百殺の絶対零度様が来られるとは、夢にも思わなかったもので。あ、わたくし太刀浪市を担当している守護司、森岡と申します」
「・・・・・・」
二人が居るのは、空船通りにある喫茶店、その中にある個室の一つだ。ヒスイの機嫌が悪いのは目の前の男のせいでもあるが、ここに来るのに四時間も掛かったことだった。
不機嫌な表情のまま差し出された名刺に目を映す。そこには黒塚銀行高知支店支店長と、でかでかと書かれてあった。
「本来ならば、料亭で一献設けたい所ですが、なにせ今朝いきなり連絡をもらったもの「御託はいい」・・・・・・はあ」
「単刀直入に聞かせていただく。この地でエイジャの活動が感知されたのは今から三ヶ月ほど前。それから今まで、あなたは一体何をしておられた」
「いや、お怒りはごもっともでございます。申し訳ございません。私も今回の事態を重く見まして、“高天原”本部に増援を要請したのですが」
冷淡な声で問いかけてくる二回りは年下の少女に、森岡はへこへこと頭を下げていたが、不意に顔を寄せてきた。きつい油の臭いに、鼻が曲がりそうになる。
「実は、本部の方で何かあったらしく、何度連絡しても一向に増援が送られてこないのです」
「増援を待つ必要があるのか? 守護司になるためには儀式を成功させる必要があると聞いた。守護司を名乗っている以上、あなたにも何かしらの能力はあるはずだ」
「や、や、お恥ずかしい。“力”にもピンからキリまでございまして。私などもうキリ中のキリ。ただ道を探ることしか出来ません」
「・・・・・・」
「や、それでも何とか奴らの事を探ろうとして「もういい」・・・・・・は?」
いきなり立ち上がったヒスイを、森岡はぽかんとした顔で眺めた。
「現在この都市で活動しているエイジャに対し、貴方がた“高天原”が、何の対処もしていないことが分かった。私は私で勝手にやる」
「ちょ、ちょっとお待ちください。せめて資金援助など、なにかしらお手伝いを」
一瞬、ヒスイの脳裏に軽くなった財布と、そして何故か少年の顔が浮かんだが、少女はむっつりと頭を振った。
「必要ない。私と貴方は同じ組織に所属しては居ないのだから。そのようなことをされては迷惑なだけだ」
「はあ、あの、でしたら一つ情報の提供と、お頼みしたいことが」
「・・・・・・」
いぶかしげに眉をひそめる少女に顔を寄せると、森岡はぼそぼそと話し始めた。
少女が去った後、
森岡は営業顔をやめると、ちっと強く舌打ちし、椅子に深々と座りなおした。
胸ポケットから最高級の葉巻を取り出し、深く吸う。
「百殺の絶対零度といっても、所詮は年端のいかねえ小娘。警戒する必要は無いと思うが、念には念をだ」
そのまましばらく煙の味を楽しんでいたが、やがて傍らの携帯電話を取り出してどこかに連絡をすると、 何度目かのコールの後、相手は出た。
『・・・・・・』
「俺だ。少々厄介なことになった。外から面倒くさい奴が来た」
『・・・・・・!』
「そう心配するな。ピエロに手古摺っている以上心配はいらねえ。だが万が一ということもある。悪いがそっちでしばらく監視しておいてくれや」
『・・・・・・』
「あ? くくっ、お前も好きだねえ。ま、俺にはそんな趣味は無いから好きにしな。じゃあな、また連絡するぜ」
電話を切ると、森岡は椅子から対上がり、窓から外を眺めた。
「俺には力がある。ほかのだれにもねぇ力がな」
ぐっと強く手を握る男の瞳には、隠し通せない欲望という名の炎があった。
「さて、どう見る? ヒスイ」
「どう見ると言われても・・・・・・別に大したこの無い奴に見えたけど」
喫茶店を出たヒスイは、傍らを歩く黒猫とともに暫らく旧市街を歩いていた。復興街と違って道は整備され、歩道の脇には均等に花が植えられている。
「確かにエイジャの活動を知りながら、何の対処もしていないのは愚かとしか言いようが無いが、しかし、それは別の見方も出来る」
「別の見方?」
「うむ、すなわちあの森岡という男が、彼の道化師と手を結んでいる場合だ」
「敵と手を結ぶ? そんなことありえない」
立ち止まって少し睨んでくる少女の視線を、黒猫はため息を吐いて見つめ返した。
「ヒスイよ、我が愛しき未熟者よ。我は以前言ったはずだ。全てを疑えとな」
「・・・・・・分かった。その件はひとまず保留にしよう。ところで」
「どうした?」
「ここ、どこだ?」
困惑した顔で周囲を見るヒスイに、キュウはあきれたように首を振った。
息を止め、ぐっと最後の一押しをする。白い部分を自分の好きな色に染める行為を、聖亜は気に入っていた。
「お、中々の仕上がりだね。聖亜君」
「あ、お疲れ様です。城川先生」
青い花を描いたキャンパスを覗き込む若い美術部の顧問に、聖亜は軽く頭を下げた。
「それにしても、やっぱり県のコンクールには、青い睡蓮の絵で挑戦するのかい? 君は肖像画の方が上手だと思うんだけど」
「はあ・・・・・・でも人の絵を描くのは、あまり得意ではありませんから」
「そうかい? けどあの時君が入部するときに描いた女性の絵は、すごく気持ちが込められていて、僕は好きだったんだけどなあ・・・・・・そうだ聖亜君、話は変わるけど、これもらってくれないかい?」
「またみたらし団子っすか?」
観光地区にある和菓子の老舗「城川屋」の跡取り息子に差し出された大きな紙袋を見て、聖亜は眉をしかめて尋ねた。中を覗き込むと、予想したとおり袋の中にみたらし団子のパックがずらりと並んでいる。
「君も知ってると思うけど、僕の奥さんみたらし団子を作るのがすごく好きでさ。そのくせ本人は甘いものが苦手だから、余っちゃって余っちゃって。とにかく受け取ってよ。処分するのももったいないし」
「はあ・・・・・・ところで今回はどれぐらい作ったんすか?」
「大体三百本と言うところだね。他の部員にも渡すけど、一人大体三十本ぐらいあるから」
聖亜の呆れた顔に手を振りながら、少年の年上の幼馴染は他の部員にも紙袋を押し付けていった。
美術室に、次々に生徒たちの悲鳴が沸き起こった。
「・・・・・・あれ?」
納得のいく絵を描き終え、家に帰った聖亜を待っていたのは、昨日までとはまるで違う景色だった。丈の長い雑草に覆われた庭は草が抜かれ、汚れや埃が目立つ巨大な家は、きれいに掃き清められていた。
「ああ、おかえり」
「ただいまっす。これ、ヒスイがやってくれたっすか?」
雑巾でぴかぴかに磨かれた縁側で、ゆっくりとお茶を楽しむ少女に、聖亜はそう尋ねた。
「いや、私じゃない。ほとんど小松がやってくれたんだ。私も帰ってから手伝おうとしたんだけれど」
「ヒスイ様に手伝ってもらっては、逆に手間がかか・・・・・・いえ、お疲れのようでしたから」
ふと、後ろから声がした。振り返ると、蒸気式炊飯器を両手で抱えた小柄な少年が、不機嫌そうに立っていた。
「何をぼんやりしている。こっちは夕食の準備で忙しいんだ。手伝うつもりが無いならさっさとどっかいけ」
「あ、す、すいませんっす」
どうにも強気に出れない家主を睨みつけながら、少年はせかせかと歩いていった。
「アルバイトっすか?」
埃をきれいに掃かれた座敷で夕食を食べ終え一息ついている時、ヒスイが発した言葉に、聖亜は熱いお茶を思わずごくりと飲み込んだ。途端にむせる。
「そうだ。資金援助は断ってしまったし、アメリカから送金してもらうまで、何もしないわけにはいかないからな・・・・・・大丈夫か?」
心配そうに見つめてくる少女に頷くと、聖亜はふうっと息を吐いた。
「別にそんなことしなくていいっすよ。お金には困ってないっすから」
「いや、それでは逆にこっちが困る。小松が家事をしている以上、その主である私が何もしないわけにはいかない」
「そうっすか? なら探してみるっすけど・・・・・・そうだヒスイ、早速で悪いっすけど、これ食べるの手伝ってくれないっすか?」
「それは構わないけど・・・・・・この量は二人でも多いと思うぞ。小松たちは食べる必要はないし、中身はなんだ?」
「みたらし団子っすよ。別に嫌いじゃないっすけど、さすがに量が多すぎ・・・・・・ヒスイ?」
みたらし団子という言葉に、途端に目を輝かせた少女を、聖亜はいぶかしげに眺めた。
熱いお湯の中にゆっくりと体を沈める。一度深呼吸すると、聖亜はうぅんっと大きく伸びをした。
「しかし、ヒスイの好物がみたらし団子で助かったっすね」
風呂に入る前に見た、少女が次から次へとみたらし団子を口の中に入れる光景を思い出し、少年はおもわずくすりと笑った。
「けど、さすがに二十五本は食べすぎな気がするっす」
そう呟き、体を洗おうと立ち上がったときだった。
「そう申すな若君。おひぃさまの父君は優しいが厳しい方での。団子は一日に一本、多くて二本と決めておられたのじゃ。暫らく口に入れてなかったし、歯止めが利かなくなったのであろうよ・・・・・・どうかしたかの?」
ぽかんとした顔でこちらを見る少年に、小梅は妖しく笑うと、持っていた酒杯の中身を一気に飲み干した。
「どどどどうしたはこっちの台詞っすよ!!ななななんで小梅さんがこここにいるっすか!?」
「ん? ああ、縁側で月を見ながら一献傾けておったのじゃが、さすがに冷えてしまっての。それより、体を洗うならわらわが体で洗ってやるが?」
「いいいいや、えええ遠慮するっす。じゃじゃじゃ、じゃあ自分は先に上がるっすから」
「おや若君。今は出ぬ方が良いぞ」
「へ? 何か言ったっすか?」
良く聞こえなかったため、聞き返しながら洗面所と隣接している戸をがらりと開けたとき、
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・あれ?」
体にバスタオルを巻いた小松と、ばっちりと目が合った。
「・・・・・・えぇと」
「っ!! この、ケダモノがぁっ!!」
「はうっ!!」
股間に感じた強力な痛みと衝撃にがくがくと震えながら、聖亜の意識は遥か彼方へと旅立っていった。
「おはよっす」
次の日、聖亜は俯いて教室に入った。クラスメイトが何人か挨拶をしてくるのに答えながら窓際の自分の席に座ると、後ろの席の女子が背中に寄りかかってくる。
「おはよう、聖」
「おはよっす、準」
「ああ・・・・・・って、聖、お前何だか顔色が悪いぞ」
「い、いや、なんでもないっすよ」
そう言いながらも、聖亜はげっそりとため息を吐いた。昨夜、風呂場での災難の後、一時間ほど気絶していた彼は、気がつくと自分の部屋に寝かされていた。股間にタオル一枚巻いた状態で。
男として何かを失った気持ちになりながら、気落ちしている聖亜に寄りかかり、準は眠そうな顔で分厚い本をぱらりとめくった。読書好きな彼女は夜遅くまで本を呼んでいることが多い。今読んでいるのは、確かこの街の郷土史だった。
「準こそ、また夜更かしっすか?」
「ああ。中々面白くて、ついな」
そんな他愛も無い話をしていると、黒板の前に居た三つ編みの少女が、厳しい顔で歩いてきた。
「ちょっと星君、昨日日直だったでしょ。黒板消し汚いままよ!!」
「へ? あ、すいませんっす。栗原さん」
頭を下げる聖亜に、だが鬼の学級委員の異名を持つ栗原美香は、神経質そうに目を細めた。
「それから、一昨日は三時限目から出席したんですって? 駄目じゃない!! ちゃんと授業にでなきゃ!!」
「あうっ、け、けどその、気分が悪くて」
「言い訳しない!!」
バンッと強く机が叩かれる。その音で周囲の生徒がひそひそと声を細めて喋りだした。
「何だか機嫌悪いよね、栗原さん」
「やっぱりこの前の中間考査で星君に負けたこと、根に持ってるんじゃない?」
「いくら一年でソフト部のエースに選ばれたからって、ちょっと調子に乗りすぎだよね」
「なっ、あ、あんた達ねえっ!!」
栗原が回りに大声で怒鳴ろうとしたとき、
「おはよう諸君!!」
「・・・・・・」
入り口から秋野が入ってきた。その後ろから何故か帽子を被った福井が続く。だがいつも暑苦しいほどの笑顔を振りまく彼が、何故か今日はその巨体を縮めていた。
「おはよっす秋野。それと・・・・・・福井?」
「おう」
聖亜が声をかけても、俯いたまま細い声を出すだけだ。首をかしげる聖亜を見て、秋野がにやにやと笑いながら、ばっと親友の帽子を剥ぎ取った。
「ぶっ、ど、どうしったっすか、その頭!!」
「う、うるせえっ!! 昨日姉ちゃんたちに剃られたんだ、ちくしょう!!」
文字通り光っている頭を抑え、福井はこの世の終わりという顔で絶叫した。途端に教室中で大爆笑が起こる。それは結局、植村先生が入ってくるまで続いた。
植村氷見子は、外の景色を見ながら静かに歩く少女を見て、咥えていたシュガーチョコを思いっきり噛み砕いた。
「あ、あの・・・・・・植村先生?」
「・・・・・・あ?」
彼女に好意を寄せる新米教師がおそるおそる声をかけるが、不機嫌そうに睨まれ、慌てて教室に入った。
「あぁ・・・・・・えっと、ヒスイ、だったか」
彼女は今朝校長からいきなり押し付けられた女子生徒に声をかけた。だが少女はこちらをちらりと見ただけで、結局また外の景色を見た。
「お前、さっきから何見てんだよ」
「いや、桜の花を探しているんだが」
「はあ? 馬鹿かお前、桜は春に咲く奴だろ、今は夏だ。時期が違うだろうが」
「そうなのか? 日本は一年中桜が咲いていると思っていたが」
「んなわけないだろ。それよりさっさと教室に入るぞ、ホームルーム始めっから・・・・・・ったく、何で百殺が来るんだよ、あの方にどう説明すっかなぁ」
「うそだろ」
目の前で氷見子に紹介されている少女を見て、聖亜はがくりと項垂れた。端正な顔つきのため、周りで男子がひそひそと話している転校生は、今朝別れたばかりの少女に他ならなかった。
「あ~、というわけで、夏休み直前というへんな時期に転校してきたが、アメリカからの留学生だ。ほら、自己紹介しな」
「ヒスイ・T・Dだ」
「ったく、それだけかよ。まあ良い。いいかお前ら、恒例の質問は休み時間にしな。授業に入るぞ。それからヒスイの席はっと」
周りを見渡すと、ちょうど空席が見えた。というか空席はそこしかない。彼の隣りに女を座らせたくはないが、しょうがない。
「んじゃ星、悪いけどヒスイの面倒見てくれよ」
「え? ちょ、ちょっと氷見子先生!!」
慌てて立ち上がるが、それは逆効果だった。こちらを見つめる少女とばっちり目が合う。数瞬見詰め合うと、ヒスイはゆっくりとこちらに近づいてきた。
「なんだ、お前この学校だったのか」
「・・・・・・そうっすよ」
「は? なにヒスイ、星の事知ってるのか?」
「ああ、一昨日からこいつの家に厄介になっている」
「お、おい、それってどういう「「「えええええええええええ~!?」」」くっ」
少女の言葉に、聖亜の後ろにいる準が慌てて立ち上がるが、彼女の言葉は周囲から発せられた驚愕の声にかき消された。
「まったく、何なんだお前のクラスは、騒がしいにも程があるぞ」
「それはしょうがないと思うっすけど」
「けど、別に転校生が珍しいわけじゃないんだろう」
「いや、そっちじゃなくて、俺の家に住んでる方」
「事実だ」
きっぱりと言い放つ少女にため息を吐くと、聖亜は小松お手製の重箱に箸を伸ばした。
あの後は大変だった。準と氷見子には説明しろと詰め寄られ、福井と秋野からははやし立てられ、栗原からは怒鳴られた。騒ぎは結局隣で授業をしていた鍋島先生が注意に来たことで、やっと収まった。
だが、授業中も周りからの視線、中でも後ろからの突き刺すような視線に生きた心地がせず、昼休みに入ると同時に時々昼寝しに来ている、本来は立ち入り禁止の旧校舎の屋上にヒスイをつれて逃げ出したのだ。
「それで、どうして学校にいるっすか?」
「それは私が聞きたい。昨日司と情報交換をしたとき、この学校にドートスに関係ある人間がいるから、生徒として潜り込み監視してくれと言われたんだ」
「関係のある人間って・・・・・・誰っすか?」
「さっき注意しに来た男、この学校の教頭を努める鍋島という男だ」
予想もしなかった人物の名前に、聖亜はぽかんと口を開けた。当然だろう。彼は生徒に厳しいがそれ以上に自分に厳しい。そんな人がドートスと関係があるとは思えなかった。
「それって本当なんすか?」
「どうだろうな、確証はまだないし、今日彼を見て、ますます疑問が湧いた」
「確証はないって・・・・・・仲間なんすよね、証拠とか見せてもらえなかったっすか?」
聖亜の質問に、ヒスイは暫く首を傾げていたが、やがてああと頷いた。
「仲間という言葉は、正確には違う。確かにエイジャを狩る存在と言う意味では仲間だが、同じ組織に所属しているわけじゃない」
「へ? そうなんすか?」
「ああ。そうだな、簡単に説明すると」
ヒスイは重箱の中に残っていた肉団子を三つ取ると、それを蓋の上に順番に並べた。
「一つ目は、私が所属している“魔女達の夜”と呼ばれる組織。これはアメリカに本拠地を置き、世界中で活動している」
そこで一端言葉を切ると、少女は肉団子の一つを口の中に入れた。
「二つ目は、日本で活動している“高天原”と呼ばれる組織で、先程言った司と、呪術師と呼ばれる戦士で構成されているが」
「いるが?」
先程の自分同様、首をこてんと傾げた少年に、少女は少し侮蔑を込めて話した。
「この連中は人手不足を理由に日本以外でエイジャの討伐をすることは無い。陰で“臆病者”と呼ばれるほど消極的なんだ」
「臆病者って、随分な言い方っすね。でもそうなると分からないことがあるんすけど」
「ん? 何がだ」
重箱の中から玉子焼きを取り出し、口に運ぶ。ほど良く焼かれたそれは、ほんのりと甘かった。
「日本には、その高天原という組織があるんすよね、なのにどうしてアメリカからヒスイが来たんすか?」
「ああ、その事か」
今度は煮豆に手を伸ばす。が、中々取れない。悪戦苦闘している少女に笑いながら、聖亜はかわりに煮豆をつまむと、それを少女の口の中に入れてやった。
「ん、すまない。今から三ヶ月ほど前、“羅針盤”にエイジャの活動が感知された。本来なら高天原の連中に討伐されるはずだったんだが」
「・・・・・・されなかった?」
「ああ。結局二ヵ月半ほど経過して、教授達が臨時の対策会議を開き、確認と討伐のために誰かを送ることが決まり、日本語が達者な私が選ばれたというわけだ」
「・・・・・・何か同じ日本人としてごめんなさい」
「別にいい。日本には来たかったし。それで、もう質問は無いか?」
「そうっすね・・・・・・そういえば、魔女達の夜と高天原で二つ、後一つは何ていう組織っすか?」
「・・・・・・」
ヒスイはその問いには答えず、屋上の中心に作られた鐘楼に目をやった。かつては時を知らせるために鳴っていた巨大な鐘は、今はもう動いていない。
「あれはもう鳴らないのか?」
「へ? ああ・・・・・・十年ほど前から鐘の音を音響機関で流してるんすよ。それに、海ツバメが巣を作っちゃって。あの、それよりもう一つは」
「ああ、もう一つは“彷徨う者”と呼ばれる組織なんだが・・・・・・これは」
「これは、その『この者達は、先の大戦で本拠地を失った者たちの集団だ』おい、キュウ」
「あれ? 黒猫さん、来てるっすか?」
周囲をきょろきょろと見渡す。だが立ち入り禁止のこの場所には、自分とヒスイ以外誰もいない。その様子を呆れた表情で見つめると、ヒスイは胸ポケットから一つのペンダントを取り出した。
「キュウはここにはいない。このペンダントが通信機の役割を果たしているんだ」
「な、何だかお鍋のような形っすね」
聖亜の言葉通り、ペンダントは丸く、両側に突起がある。まるで鍋を上から見た感じだ。
「“尽きざる物”という。言葉の意味ぐらい自分で調べろ。要するに、通信機と収納袋を一緒にしたものだ。それよりキュウ、あの大戦のことは」
『別に隠すようなことではない。良いか小僧、人間とエイジャは、過去に二度の戦争を引き起こした。一度目は単なる小競り合いだが、二度目は規模は違う。彷徨う者とはこの二度目の大戦“嘆きの大戦”にて、本拠地を失った者をいう』
「嘆きの大戦・・・・・・すか」
「其は嘆きの黒樹なり。身を包む表皮は漆黒の憎悪にして、流れる体液は恨みの涙。その歩みを止める術は無し」
初夏のぽかぽかと暖かい日差しの中、御腹が一杯になった少年は、うつらうつらとしていたが、やがて少女の子守唄に、その意識を体と共にゆっくりと横たえていった。
その頬に、硬い屋上ではない、柔らかい何かを感じながら。
「準、ちょっといいっすか?」
放課後、聖亜はむすっとした顔で帰ろうとしていた少女に声をかけた。
「何だよ浮気者」
「浮気者って・・・・・・お昼一緒に食べなかった事は謝るから、許してくださいっす」
「・・・・・・ふうっ、分かったよ。それでどうした?」
「いや、準は“尽きざるもの”っていう鍋知ってるっすか?」
昼間ヒスイから聞いた、尽きざるものという単語がどうしても気になってしょうがなかった聖亜は、博識である準にそう尋ねた。
「“尽きざるもの”って呼ばれる鍋? ああ、そういえばケルト神話にそんな物があったな」
「ケルト神話・・・・・・すか?」
「そう。確かダーナ神族の主神が持っていた、お粥を無限に生み出す大鍋が、そんな名前だった気がする」
「そうっすか、どうもありがとっす」
「別にいい。それより聖、これから時間あるか?」
「え? ああ、別に用はないっすよ、コンクールに出す絵も仕上がったし」
「そうか、なら今日は久しぶりにデートしないか。駅前通りの本屋で買いたい物もあるし」
「ええ、荷物持ちっすか?」
「そう言うな、好きなもの奢ってやるから」
「そうっすか?ならい「すまないが、こいつは私と約束がある」って、ちょっとヒスイ?」
不意に、少年の横から少女の声がした。振り向くと、帰り支度を終えた少女が、こちらを不機嫌そうに睨んでいる。
「・・・・・・聖はないって言ったぞ」
「そうだな。私が今決めた。今日はこいつに旧市街を案内してもらう」
((今決めたって、約束って言わないんじゃ))
「・・・・・・お前、あんまり調子に乗るなよ」
残っている生徒が聞き耳を立てる中、二人の少女は少年を挟んで睨みあった。聖亜は二人の間で暫くおろおろとしていたが、やがて埒が明かないというようにため息を吐き、
「いい加減にしろ、二人共」
バンッと、机を強く叩いた。
「い、いや、すまない聖、けどこいつが」
「・・・・・・」
聖亜の鋭い視線に縮こまる準とは対照的に、ヒスイは呆然と少年を見た。なぜならその怜悧な表情は、今までの表情とは打って変わっていたからだ。むしろ、それは一昨日少年がドートスに発した物に近い。
「とにかく、放課後は三人で出かける。それでいいな、準。ヒスイも」
「け、けど「・・・・・・」あうっ、分かった」
「ああ、別に構わない」
二人の少女が頷いたのを確認し、聖亜は表情を崩し、にっこりと微笑んだ。
観光地区にある神社通り、通称お立ち通りから北東に行くと、太刀浪駅が見える。旧市街最大のモノレール駅だ。その南側にある、ゲームセンターや本屋が立ち並ぶ駅前通りは、学生に人気のスポットとなっている。
駅前通りの隅で立ち止まると、聖亜は両手に持った紙袋を下ろし、大きく息を吐いた。
「おいおい、何やってんだよ聖」
「そうだ。じゃんけんに負けたんだから、ちゃんと持て」
少年のすぐ前では、準が指差した店を見て、半透明に見えるほど透き通る白髪を持ったヒスイが、成る程と頷いている。準は面倒見のいい性格だし、ヒスイも素直な性格だ。すぐに打ち解けたのだろう。それは良い事だ、良い事なのだが。
「けど、何で見る場所が、本屋さんとお菓子屋さんだけなんすか」
「しょうがないじゃないか。私は面白そうな本を探しているんだし、ヒスイのお目当てはみたらし団子だ」
「そうだ。それにさっき奢ってやっただろう」
「・・・・・・みたらし団子一本だけっすけどね」
「そう言うな、ほら」
座り込んだ聖亜の腕を、準が掴んで立ち上がらせる。腕に伝わる膨らみに真っ赤になりながら、聖亜はあきらめたように荷物を抱え直した。
「やっぱりこの街にはいないか」
「は? なにがっすか」
休憩に立ち寄った公園のベンチで、ヒスイはぽつりと呟いたのは、さすがにみたらし団子一本では悪いと思ったのか、準が公園の広場で売られているクレープを買いに行った時だった。放課後のためか、公園は学生でひどく混雑している。
「何って、エイジャに決まっているだろう。お前、まさか私が何の目的もなくただ街を歩いていただけとでも思っていたのか」
「みたらし団子買ってたじゃないっすか」
「・・・・・・と、とにかく、これで奴らの活動が復興街に限定されているのが分かった」
「限定って……自分が一番最初に襲われたの、この街でなんすけど」
『ふむ、一つ確認するがな、小僧。お主が襲われたのは、旧市街のどの辺りだ」
不意に、ペンダントから黒猫の声が響いた。慌てて辺りを見渡すが、気付いた人間はいないようだ。
「えっと、いや、そんなことはないっすよ。街の・・・・・・中心辺りっすね」
「キュウ?」
『・・・・・・』
少女の問いに、ペンダントの向こう側にいる黒猫は、暫く沈黙していたが、
『ヒスイよ、そなたも習ったと思うが、エイジャが人間の魂を使う最悪のケースは二つある』
と、不機嫌そうな声で答えた。
「ああ、自分をより上位の存在に進化させるためと、もう一つ、“爵持ち”を呼び出す儀式に使うんだろう?」
『さよう、もし道化師の目的が自らを進化させるためならば何の問題も無い。なぜならこれは十中八九失敗するからだ。だが』
「だが?」
聖亜はちらりと準の方を見た。彼女はまだ列の中だ。話している時間はあるだろう。
『問題なのはもう片方、爵持ち・・・・・・つまり貴族階級を呼び出すために、人間の魂を集めているとしたら』
「最悪、この都市に住む全ての人間が狩られるか」
「え? ちょ、ちょっと待ってくださいっす。この都市って、十万人以上はいるっすよ?」
『別に驚くことではない。嘆きの大戦では爵持ちを呼び出すために、万単位で人間が狩られることなど日常茶飯事であったからな』
「けど、さすがにドートスの実力で、それほどの人間を襲うのは無理なんじゃないか?」
『一つだけ方法がある。五芒星陣を使う方法がな』
「ご・・・・・・何すか?」
『五芒星陣、門を開く場所を中心として、周囲五つの場所で人間の魂を狩り、陣を敷く。そして中央で集めた魂を爆発させる。この方法ならば、使う魂の数は最小限に抑えられるが、無論開くための条件は多い。一つは奴らの世界に近い場所、要するに海の底や地の底だ。そして第二に、その場所に大量の魂が眠っていること」
「大量の・・・・・・魂が」
「ようするに、巨大な災厄が襲った場所だ。ペルシア連邦を構成するパルス国のファールスという都市、バミューダ・トライアングルという海域、これが奴らの世界に近い。そしてこの都市では、条件を満たす場所はただ一つ」
「復興街にある、静めの森。だから、道化師は復興街で人を襲っていた。自分が旧市街で襲われたのは、そこが五つの場所の一つだったから」
『そういうことだ。恐らくな』
段々と赤く染まっていく空を見ながら、聖亜は軽く首を振った。
「って、そういえば準の奴どうしたっすかね。幾らなんでも遅すぎじゃないっすか」
夕焼けで真っ赤に染まった公園の中を、聖亜はきょろきょろと見渡していたが、やがて公園の隅にいる彼女を発見した。
ただし、数人の男に囲まれていたが。
「だから、親戚に少し金を貸してくれって頼んでいるだけじゃねえか」
「そうそう、なあ婆ちゃんよ、親戚の俺ら金無くて困ってるんだわ」
「嘘を吐くな」
目の前でにやにやと笑う男達を見て、準は呆れたように首を振った。彼らは十七、八歳ほどの青年で、皆中古の服を着ている。だが後ろの老婦人は着飾っていないが、品の良い格好だ。恐らくは新市街の人間だろう。
「婆さん、こいつらはあんたの親戚か?」
「いいえ、私の子どもは三人だし、孫の顔もみんな知ってるけど、この中に孫はいないわねえ」
「だ、そうだ」
準が睨み付けると、男達は顔を見合わせたが、やがて二人を取り囲むように散った。
「ちっ、おい婆さん、あんたはさっさと逃げろ」
「あら、大丈夫?」
「ああ。けど出来れば助けを呼んできた欲しい」
「そう・・・・・・分かったわ、気をつけてね」
老婦人が入り口に向かうと、男の一人がそれを遮ろうと走り出した。
「手前!! 何勝手に動いてんだうごっ!!」
だが、男はいきなり前につんのめった。
「準、大丈夫っすか?」
男を突き飛ばした、自分の唯一を見て、少女は安心したように小さく笑みを浮かべた。
「ああ。けど遅いぞ、聖」
「あはは、ごめんっす。けど準、呼んでくれれば良かったのに」
「ふふっ、こいつら程度、わざわざお前が出る必要は無い」
「く、手前、嘗めてんじゃねえぞ!!」
起き上がった男が不意を突いて殴りかかってきた。目を細め、それを軽く避けると、聖亜はよろめいた男の脚を軽く払った。
「ぐ、くそ、調子に乗りやがって」
「・・・・・・お、おい、まずいぞ」
「ああ、なにがだよ」
別の男が、聖亜の顔を見て、急に青ざめた。
「あいつ、“血染めの吸血鬼”だ」
「・・・・・・は? 嘘だろ? 血染めの吸血鬼って言えば、数年前まで女王蜂と並ぶ自警団の最高幹部で、相手を九割九分殺すっていう、“最狂”だろ」
「お、俺も知ってる。確か教会に火を放って、神父を焼き殺したっていう狂人だよな」
「へえ・・・・・・狂人すか、ひどい言い方っすよね。けど」
その時、駆けつけたヒスイが見たのは、じりじりと後退する男達と、軽く下を向いた少年の後姿だった。
「けど、しょうがないんすよ? 顔も知らない親を憎んで、憎んで憎んで憎んで憎みすぎた子供は」
ぞくりと、空気が震えた。
「狂うしか、ないじゃないか」
再び顔を上げたとき、彼は笑っていた。今までのどこか困ったような笑みではなく、どこまでも冷たい、まるでエイジャを前にした、自分がするような笑顔を。
「あ・・・・・・く、来るな、ひいいいいいいっ!!」
絶叫を上げ、少年の近くにいた男の一人が逃げ出す。それを追いかけようとした聖亜の足が、
危険度六十五パーセント、許容範囲外“封印”強制発動
「う、あ」
突然、止まった。
「聖!! 馬鹿、だから出るなって言ったんだ!!」
地面に膝を突き、苦しげに呻く少年の背中を、準は必死に擦った。
「あ? 何だ、見掛け倒しかよ」
「あ、そう言えば血染めの吸血鬼って、二年ぐらい前に当時の団長が死んだ後、組織を放り出されたって話だぜ。で、人に襲い掛かろうとすると、吐くようになったとか」
「おいおい、何だよそれ、ったく驚かせやがって」
逃げかけていた男が、ぞろぞろと戻ってくる。その中でも大柄の男が、準を押しのけ、蹲っている聖亜の長髪を掴んだ。
「聖亜!? くそっ」
準が慌てて駆け寄ろうとするが、聖亜との間に、数人の男が立ちふさがった。
「慌てるなって、お前の相手は後でたっぷりとしてやるから。おい、聞いてんのか?」
聖亜の顔が、男にぐりぐりと踏まれた。
「何が血染めの吸血鬼だ、何が九割九分殺すだ、ふざけんじゃねえぞ、このヘタレコウモリが!!」
男の右足が、少年の顔を踏み砕こうと大きく持ち上げられる。そして、それが落ちる寸前、
「いい加減にしろ」
「ふべっ」
男の体は、大きく吹き飛ばされた。
「あ、あふぉが、おふぇのあふぉがぁっ!!」
「うるさい」
男の顎を殴った白髪の少女は、男が聖亜にしようとしていたように、その顔を容赦なく踏み砕いた。
「な、手前!!」
準を取り囲んでいた男が一斉に襲い掛かってくる。ヒスイはそれを軽く避けながら、相手の足や腕を軽く蹴飛ばした。
途端にごきりと音がして、蹴り飛ばされた腕や足が、簡単に砕けた。
「がああああっ!!」
「ひいっ、ひいいいいい!!」
「ふん、この程度か」
痛みにのた打ち回り、気絶する男達を退屈そうに一瞥すると、彼女は周りに残っている男達を見渡した。だが彼らは皆じりじりと後退し、次の瞬間喚きながら逃げていった。
「負傷した仲間を置き去りにするか。下種が・・・・・・大丈夫か、聖亜」
逃げていく男を睨むと、ヒスイは聖亜の方に駆け寄った。
「あ、はいっす・・・・・・もう落ち着いた、準」
ぎゅっと抱きついてくる準を優しく撫ぜると、聖亜は息を吐きながら立ち上がった。その体が少し左右に揺れる。
「・・・・・・変わってるな、お前達」
「へ? 何がっすか?」
不思議そうに尋ねる少年を見て、頬に付いた返り血を拭うと、ヒスイは呆れたようにため息を吐いた。
「普通、男の顎を砕いたり、骨を折った女を見れば、怖がらないか?」
「いや、俺は準で見慣れてるっすから」
「私だって、聖で見慣れてる。もっとひどいのもな」
「もっとひどいの? それはどうい「聖、準、ヒスイ!!」ん?」
不意に、三人を呼ぶ声が聞こえた。
「あ、氷見子先生」
「う・・・・・・」
公園の入り口から担任が走ってくる。彼女は三人の前まで来ると、気絶した男達を見渡し、頭をがしがしと掻いた。
「聖、お前まさか“また”やったのか?」
「へ? いや、俺じゃなくて「私だ」・・・・・・ヒスイ」
「おいおい、お前も問題児かよ」
小さな胸を張るヒスイを見て、氷見子は困ったように笑みを浮かべた。
「・・・・・・あれ? そう言えばどうして氷見子先生がここにいるっすか?」
「ああ、そ「私が呼んだのよ」話の途中なのですが、神楽様」
と、氷見子の背後から、先程の老婦人がゆっくりと歩いてきた。
「はれ? 神楽さん?」
「ん? 知り合いなのか、聖」
きょとんとした顔で、準が聖亜と神楽を見比べた。
「ええ、私、彼がお仕事してる喫茶店のお得意様なの。それから、さっきはありがとうね」
「い、いや」
突然お礼を言われて、準は照れたように俯いた。彼女は人から礼を言われることに慣れていないのだ。
「それはそうと、聖、顔に泥が付いてるぞ」
「うわ、これぐらい平気っすよ」
氷見子が取り出したハンカチで、頬をごしごしと擦られる。くすぐったさに笑いそうになったとき、今度はいきなり抱きしめられた。
「うわっぷ」
「頼むから、頼むからあまり危険なことはしないでくれ」
「うん・・・・・・ごめん、氷見子」
「分かればいい。ほら」
頬を持ち上げられた。近づいてくる唇に、思わず目を閉じたとき、
「何しようとしたんだ、お前」
「うわっ、じゅ、準」
次の瞬間、聖亜の顔は準に強く抱きしめられていた。
「何って、唇にも泥が付いていたからな。取ってやらないと」
「唇でか? いい加減、私の聖に近づくのはやめろ、この年増」
「誰が年増だこの売女、お前こそそのでかい脂肪で聖を窒息させるな」
「なんだとっ!!」
激昂した準が、さらに聖亜を抱きしめた時、
「はいはい、そこまでよ」
パンパンと手を打ち、神楽が二人の間に割って入った。
「か、神楽様」
「言い訳しないの。それと準ちゃん、だったかしら。そろそろ離してあげないと、聖ちゃんが窒息しちゃうわよ」
「あ、す、すまない聖。大丈夫か?」
神楽に指摘され、準は慌てて聖亜を離した。彼の顔は真っ赤に染まっており、目も回っている。
「ま、まあ、らいじょうぶだ、うん」
「大丈夫じゃないだろ、それ」
窒息寸前で、ろれつが回っていない少年を見てため息を吐き、ヒスイは聖亜を自分に寄り掛からせた。別に他意はない。だから二人共、そう睨まないで欲しい。
「さ、お騒ぎは此処まで。行きましょう、ひいちゃん」
「・・・・・・はい。聖、準、ヒスイ、お前ら寄り道しないで帰れよ」
自分の受け持つ三人の生徒にそういうと、氷見子は神楽に付き従うように、公園の外に向かって歩き出した。
「お久しぶりね、ひいちゃん」
「この半年、消息がつかめず本当に心配したんですよ、神楽様」
公園の脇に停車している、先月開発が完了したばかりの最新式の電気自動車に乗り込むと、氷見子は呆れたようにため息を吐いた。
「ごめんなさい。けど・・・・・・ふふっ、再会して早々面白いものが見れたわ。男嫌いのひいちゃんが、年下の男の子を取り合うなんて」
「か、神楽様!!」
「あらあら、冷やかしになっちゃったかしら。ごめんなさい・・・・・・それで、どうだったの?」
二人を乗せた車は新市街に向け走行していく。運転手はいない。最新式であるこの電気自動車には高度な人工知能を搭載しており、入力された目的地に自動で走行する。
その車の中で、今までの穏やかな雰囲気が、一変した。
「は、ドートスを呼び出したのは、復興街北部の工場地区で工場を経営していた男のようです。ですが」
「ですが?」
「先日、その男の住居に踏み込んだ際、男は干からびて死亡していました。家族も同様に」
「そう・・・・・・ならピエロ君は、呼び出した人間を殺した単なる迷子という事かしら」
「いえ、それにしては不可解な点が二つほど」
一端言葉を切ると、氷見子は胸元から一枚の紙を取り出した。そこにはびっしりと文字が刻まれている。
「まずドートス、及びその配下である三体の人形による被害は、この三ヶ月でおよそ四十人。奴は下級のエイジャです。何に使うか分かりませんが、それほど多くの魂が必要とは考えられません」
「なるほどねえ、それで? 二つ目は?」
「はい。こちらは根本的な疑問になります。男がドートスを呼び出したとして、一体どうやってその術を知ったかということです」
「なるほど、つまりひいちゃんはこう言いたいのね? 誰かがその男にエイジャを“喚起”する方法を教えたと」
不意に、完璧に保たれているはずの車内の温度が低下した。
「なら、今帰るわけには行かないわね。ちょっとお仕置きしなきゃいけない人がいるかもしれないし」
「で、ですが神楽様、百殺がこちらに来た以上、もはやドートスは間違いなく倒されるかと、それに今年の出雲神楽までもう三月を切りました。御当主であられる、神楽様がいなければ」
「あらあら、そんなもの陽ちゃんか葵ちゃんに任せておけばいいじゃない。私はね」
穏やかな表情で、だが見るもの全てを凍死させる凍てついた空気を発しながら、黒塚神楽は、ふと窓の外を見た。
「少しでも長くこの都市にいたいのよ。私の大事な大事な考ちゃんを奪っておいて、それでものうのうと存在しているこの都市が」
窓の外では、恐らく恋人同士なのだろう、男子生徒と女子生徒が仲良く手をつないで歩いていた。その微笑ましい光景を見て、神楽は軽く微笑んだ。
「どれほど惨めに滅んでくれるか、それを特等席で見るために、ね」
「随分遅くなったっすね」
両手にお菓子袋を持ちながら、聖亜は沈もうとしている夕陽を眺めた。
公園での騒動の後、三人は太刀浪通りまで戻ってきた。通りの南側に家がある準と別れ、聖亜とヒスイは静まり返った西側、所謂下町と呼ばれる通りを歩いていた。
「ああ、それよりもう大丈夫なのか?」
「はは、大丈夫っすよ。それより、さっきはごめんなさいっす」
「構わない。私だってああいう奴らは好きじゃない」
ふと、辺りに沈黙が下りた。
そのまま、夕陽で赤く染まった道を、二人はゆっくりと歩いていく。だが、下町と竹薮を結ぶ小さな橋に通りかかった時、その歩みは止まった。
「夕陽が何で赤いか知っているか?」
「波長の長い赤色光が多く届くためだろう?」
その小さな橋の上で座り込み、沈む太陽を眺める聖亜の、その真剣な横顔を、ヒスイはじっと見つめた。
「・・・・・・夕陽が赤いのは、空の神様が、大地の神様と抱き合っていたのを、親に無理やり引き裂かれ、その痛みと悲しみで、赤い血を流しているから。子供を引き裂くのが親なら、俺にはそんな親なんていらない。必要ない」
「・・・・・・」
ぽつぽつと小さな声で話す聖亜の横に、ヒスイはそっと腰掛けた。
「・・・・・・なんで、何も聞かない?」
「何を聞けっていうんだ?」
顔を伏せ、呟くように聞いてくる少年に、ヒスイは冷たく言い返した。
「……その、血染めの吸血鬼、とか、教会を燃やして、人を、こ、殺した、とか」
「別に聞く必要はない」
冷たく、どこまでも冷たくヒスイは言い放つ。それが、たとえ少年の心を抉る行為になったとしても。
「そんな・・・・・・五歳に満たない年齢で、俺は自分が育った教会を燃やしたかもしれないんだぞ、ただのケンカで、相手を瀕死まで殴る狂「それがどうした」なっ!?」
少女の言葉に、さすがに苛立ったのか、聖亜はヒスイを睨みつけた。
相手の冷たい、氷のような瞳が、自分を容赦なく射抜いていた。
「もう一度言う。それがどうした?」
「・・・・・・異常だと思わないのか? 狂ってるって罵らないのか? 普通そうするだろ」
「普通? 普通だと?」
ヒスイは、聖亜と目を合わせたまま、冷笑を浮かべた。
「そう言えば、私達がなんと呼ばれているか話してなかったな。いいか聖亜、高天原の連中が守護司と呼ばれているのに対し、私達は魔器使と呼ばれている。魔に器として使われている、哀れで蔑まれる存在という意味だ」
「ま・・・・・・きし」
「それに、たった一人焼き殺したかもしれないというだけでだけで狂人だと? 異常だと? くだらない。嘆きの大戦で何人死んだか分かるか? キュウ、教えてやれ」
『西欧諸国の死者だけで、およそ二千万人だ』
「に・・・・・・せん、まん」
「もっとも、戦で死んだのは五百万人ほどだ。後の千五百万人はなぜ死んだと思う、嘆きの大戦、その最終局面で“黒死の担い手”が放った疫病のせいだ。そのせいで、免疫の弱い老人や女子供がばたばたと死んでいった。それが誰のせいにされたと思う? エイジャと死に物狂いで戦って、疫病に効く薬を必死に開発した私達の先祖だ。薬を作れるなら、疫病も作れると噂されてな!!」
一端話すのをやめると、少女は大きく息を吐き、哀しげに眼を伏せた。
「そのくだらない噂のせいで、私達の先祖は魔女として百年の間処刑され続けた。逃げ延びることが出来たのはコロンブスの舟に航海士として乗り込んだ、わずか数人だけだった。ようするに、私達は世界三大宗教の一つであるイサ教から、その存在を否定されたんだ。結局、一人焼き殺したという噂ぐらいで喚くのは、お前が“世界の表側”の人間だからだ」
「・・・・・・」
聖亜は何も言わない。いや、言うことは出来ない。
なぜなら、怒りで肩を震わせているヒスイは、エイジャという化け物と対等に渡り合う鬼というより、
年頃の、小さな少女にしか見えなかったから。
だから、慰めの言葉を掛けられない少年は、涙を流さずに泣いている少女にそっと寄り掛かった。
少女が、心の中で泣いている少女が、泣き止むまで
続く