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スルトの子  作者: 活字狂い
18/22

スルトの子2 炎と雷と閃光と 第四幕 双頭の鷲




狂え 狂え 欲望の亡者よ




自らの欲に狂え




自らの望みに狂え




家族を見捨て 他人を欺き 自らの欲望のために踊り狂え







踊れ 踊れ 金の亡者よ




地獄の金貨の中で踊れ




赤き黄金で出来た針山で踊れ





家族を売り払い 他人を殺して得た財宝の中で狂い踊れ





我は汝の強欲を叶えし者





我の前で偽善ぶっても無駄である





この欲望の小箱は 汝の強欲をすべて映し出す








 暗い闇の中から現れた“それ”は、床に片膝をついて苦しげに呻くヒスイと、彼女を守るように立っている聖亜を見て、優雅にお辞儀をした。




「お初にお目にかかります。私皆様の欲望を“お叶え”するバード商会会長、大鳥孫左衛門と申します。お客様のどのようなご要望にも即座にお応え「はぁああああっ!!」おやぁ?」


 しますと言って顔を上げようとした大鳥は、少女の掛け声と同時に目の前に突き出された刀「護鬼」の切っ先を、鳥類のかぎ爪のような二本の指で軽く抑えた。


「くっ!」

「おやおや、いけませんねぇ。そんなに暴れられては、我がバード商会の名に傷がついてしまうじゃないです・・・・・・かっ!!」


 刀の切っ先を掴んだまま薄く笑った男の首筋めがけ、ヒスイはペンダントから新たに取り出した太刀「善鬼」を振るう。大鳥は空いている手でそれをはじき返すと、護鬼の切っ先を少女の体ごと持ち上げ、聖亜に向かってひょいと投げ飛ばした。


「うわっ!!」

 こちらに向かって飛んできた少女の体を慌てて支えると、聖亜は大鳥をきっと睨み付けた。

「お前・・・・・・やっぱりエイジャか」

「おや? 私たち氏民の事を知っていなさるとは・・・・・・中々扱いづらい“商品”でございますね」

 ほう、と軽く目を見開くと、大鳥は薄暗い闇の中からこちらに一歩足を踏み出した。途端にヒスイの体が床に沈み込む。これほどの重圧を発することができるエイジャは、少女が知っている限り一つしかいない。




「お、お前・・・・・・爵持ち、か」


『否、正確には違う。こやつは貴族の階級を金で買った単なる商人だ。そうであろう? “渡り商人”』



「おやおや、私の異名までご存じとは。これでは名乗らないわけにはまいりませんな」


 そう言って薄く笑うと、大鳥はそのかぎ爪のような手を、天井に向けてぱちんと鳴らした。


「あなたの、欲を叶えましょう」


「あなたの望みを叶えましょう」


 その時、どろりと天井が歪み、二人の女が飛び出してきた。いや、それは女ではない。最初、その形状は確かに女であったが、やがてそれはぐにぐにと形を変えながら、大鳥の両肩に吸い付くように埋もれていった。


「・・・・・・」


 それが完全に自分の身体と一体化すると、今度は大鳥の顔だったものが胴体の中に埋まりだした。それに合わせ、腹部がぽっかりと広がっていき、やがてそれは幾重にも連なる牙をもった、巨大な口へと変わっていく。



 そして、顔が完全に胴体に埋まった時、



「こい、つは・・・・・・」



 そこにいたのは、鷲に似た頭部を二つ持ち、腹部からは巨大な口が開いた、どこからどう見ても怪物にしか見えない存在だった。




 怪物は、巨大なかぎ爪をもつ手を胸まで持ってくると、ゆっくりと一礼した。



「私、赤界が“ボルケイノ山脈”に住まう男爵“渡り商人”マモンと申します。皆様の欲望をお叶えするのが私の使命、私の喜び。ですが注意事項を一つ、お客様の本当の願いが叶うことは・・・・・・残念ですが、絶対にございません」



「キュウ」


 目の前で一礼する鷲頭を睨み付け、ヒスイはじりじりと後退した。



『ふむ、何だ?』



「この爵持ちの戦闘能力はどれぐらいだ?」



『それほど強くはない。元は上級のエイジャで、しかも戦士ではなく一介の商人だからの。爵位も金銭を積んだのと、嘆きの大戦によってこやつの指揮する私兵団が多少の戦果を挙げたからにすぎん。前回の爵持ち、ニーズヘッグとは比べる価値もないわ。恐らく純粋な戦闘能力は、彼の蛇女の執事とやらと同格程度であろう』




「そうか。そうすると厄介なのはその私兵団だが」


 周囲の闇を、ヒスイは鋭く見渡した。


「だが、他のエイジャが隠れている気配はない。どうやらご自慢の私兵団を連れてこなかったようだな」


「ええ、所詮は傭兵。戦争が終わって給金を支払えば主人の下を去っていく忠誠心のかけらもない者たちです。ですがご安心ください。確かに今は私兵団はいませんが、その代わりに私は決して裏切らない兵士を作り上げました。それがこちらです」



 こちらですと言われても、目の前にいる爵持ち以外、エイジャの気配はない。油断なく刀を構えながら、不審に思ったヒスイが形のいい眉をピクリと動かした時、


「ヴ、ヴ・・・・・・ヴォ」

「・・・・・・何だ?」


 奥の暗闇から呻き声と共に、その物体が現れた。



 それは、でっぷりと太った男だった。だがその太り方はどこかおかしい。まるで内側にいる何かが成長し、それが外見を無理やり巨大化させているような感じだ。そして聖亜は、その形に見覚えがあった。


「これは・・・・・・」


『間違いない、寄生種だ。だがどういうことだ? 寄生された人間がこの形態になるには、少なくとも三日はかかる。しかしこの三日間、狩り場の発生は感知しておらぬ』


 ペンダントから聞こえるキュウの疑問に答えるように、マモンはその嘴をくくっと不気味に歪ませた。


「それは当然です。何せこの人間に使徒の幼体を植え付けたのは、三日前ではなく昨日の夜ですからね。三日前に感知するなど、出来るはずがないですよ」

「昨日の夜? そうか・・・・・・スヴェンによって封鎖結界が張られた時か。それでは狩り場を感知するのは無理だな」


「おや? そんな事があったのですか。まあとにかく、あなた方玩具使いが仲間内でもめ事を起こしてくれたおかげで、容易く使徒の卵を植え付けることができましたよ・・・・・・それではご紹介いたしましょう。私が改良した即効性の卵より生まれし使徒・・・・・・名付けてプロトα(アルファ)です」


 マモンがそう言った瞬間、男の体がビキビキとひび割れ、中からぬめりを帯びた緑色の表皮が現れた。


「これ・・・・・・蟷螂か」


 聖亜の言ったとおりだった。男の体が完全に弾けると、その中から二対の鎌を持った蟷螂のような昆虫が現れた。


「そのようだな・・・・・・けどこれは」


 だが、その形状はどこか歪だ。頭ははち切れんばかりに膨れ上がり、逆に腹部は赤子の手のように細い。三つある眼球は皆うつろで、五つある足はふらふらと震えていた。


「やはりそれほど出来は良くありませんねえ。特に防御力は最悪だ。ま、普通は三日かかる時間を無理やり短縮したから仕方ありませんか」


 四つの鋭い目で巨大な蟷螂の姿をじろじろと見ると、マモンはもう興味が失せたといった様に首を振った。


「まあそれでも攻撃力と速度は一定水準を保っているから良しとしましょうか。では行きなさい使徒よ。この玩具使いの首、すぱっと切断しなさい。ああ、少年の方は駄目ですよ? こちらは大事な商品ですからね」

「ヴ・・・・・・ヴ・・・・・・ヴォオオオオオオッ!!」

「くっ!!」


 マモンの声が聞こえたのか、蟷螂のような形状をした寄生種は五つのうつろな目をヒスイに向け、閉じていた背中の羽をばさりと広げると、二対の鎌を振り上げヒスイに襲いかかった。自分に向かってくる怪物に、ヒスイは体にかかる重圧の中、それでも必死に刀を振るった。



 ガキンッ!! と音を立て、四本ある鎌のうち二本が刀と合わさる。だが残り二本ある鎌が無防備な彼女の体に向かって襲い掛かった。


「・・・・・・ヴ?」


 と、その動きがぴたりと止まった。蟷螂にとっても不思議だったのだろう。動かなくなった自分の鎌をしげしげと眺めている。


「なるほどね、どうやら本当に防御力が紙みたいだ。まさか釘で穴が開くなんてな」


 そう呟くと、聖亜は手に釘を持ったまま薄く笑った。よく見ると鎌と胴体をつなぐ関節部に、彼が屋敷で狒々相手に使っていた、太くて長い杭のような釘が刺さっているのが見える。


「けどま、同じ手は使えないだろうな」


 少年の言う通りだった。攻撃を受けた蟷螂は、少女よりこちらを標的に選んだらしい。ぶんっと鎌を一振りしてヒスイを弾き飛ばすと、その隙に少年に向かって飛びかかってきた。


「お・・・・・・ととっ」


 こちらに一瞬で間合いを詰めてきた蟷螂の鎌がすさまじい速度で振り下ろされる。首を狙って振り下ろされた鎌を寸前で避けるが、服の一部が持って行かれた。さらに横に振られた鎌をしゃがんで避けると、頬に鋭い痛みが走る。どうやら鎌の先端についていた棘が掠ったようだ。


「くそっ、こうなったら」

 勢い余って丸太に突き刺さった鎌を引き抜こうとしている蟷螂から離れると、聖亜は右腕にぐっと力を込めた。


「聖亜? まさか」


 丸太に激突して少しの間気絶していたヒスイは、聖亜から噴き出してきた熱にぼんやりと顔を上げた。間違いない。彼は“あれ”を使おうとしているのだ。


『やめよ聖亜っ!! 無闇にそれを使うでないっ!!』


そう叫ぶ黒猫の声は、意識を集中している彼にはもう届かなかった。だが


「はぁあああっ・・・・・・あれ?」



 不意に、聖亜は力を込めるのをやめ、ぽかんとした表情で右腕を見た。彼の考えた通りなら、瞬時に全てを焼き尽くすあの真紅の腕に変わるはずが、いつまでたっても変わる気配がない。


「どうなってるんだ、これ」


 その時、ふと彼の脳裏にある考えが浮かんだ。そもそも、自分は一体どうやってこの腕を、人間の腕に擬態させているのだ?


(おい炎也、どうなってるんだ?)


『・・・・・・』


 頭の中にいる少女に声を出さずに問いかけるが、彼女からの応答はない。どうやら眠っているようだ。まあ、今は深夜であるから眠っていてもしょうがない。しかし、彼女の意識がない状態で、腕が変化しないということは


「つまり、あれに変化させるにはあの馬鹿が起きていないと駄目だという事か・・・・・・くそったれ」


 軽く舌打ちした少年に向け、丸太からようやく鎌を引き抜いた蟷螂が向かってくる。再び避けようと身構えた聖亜であったが、不意に床がぐらりと揺れた。


「と、わっ、これってまさか・・・・・・床を切ったのか!?」


 彼の考えた通りだった。蟷螂はどうやら多少頭は回るらしく、少年を攻撃する前にまず彼が立っている床を切り裂いたのだ。床は丸太で出来ているため、別に難しいことではない。そして体調を崩した彼に向け、鎌が文字通り死神の鎌となって襲い掛かった。


「くっ!!」


 顔の前で両腕を組み、何とか致命傷を避けようとした聖亜は、ふと彼に向かってくるくると回転しながら飛んでくる“それ”を見た。


 蟷螂の鎌が自分に届くその寸前、聖亜は飛んできた刀の柄を右手で受け止めると、鎌を受け流し、そのまま付け根の部分に向け、思い切り突き入れた。



「ヴ・・・・・・ヴォオオオオオオッ!!」



 半ば切断された鎌の付け根からどくどくと黒い液体を流し、蟷螂は痛みに絶叫を上げながら残りの鎌を周囲に滅茶苦茶に振り回した。


「くそ、これはこれで面倒だ「はぁああああっ!!」なっ!?」


 闇雲に振り回される鎌の間を何とか潜り抜けようとした聖亜の横を一陣の風のように通り過ぎると、ヒスイは蟷螂の背に飛び乗り、その首めがけ太刀を思いっきり叩き込んだ。

 元々防御力はないに等しかった蟷螂の頭部は、その一撃でいとも簡単に身体から斬り飛ばされ、首を失った蟷螂の体はふらふらと暫く横に揺れていたが、次の瞬間ドゥッと音を立てて前に倒れこむと、一瞬絶望しきった少年の姿に変わり、どろどろとした液体となって崩れ落ちた。



「やれやれ、やっぱりまだまだ改良しなければなりませんか」



 ヒスイに首を切断され、無残にも敗れた蟷螂の残骸であるどろどろとした液体を眺め、だがマモンは面白そうに嘴を鳴らした。


「そんな悠長にしていていいのか? 寄生種はもういない。つまりお前を守る存在はもはやいないということだ」

「おや、怖い怖い。ですが私も“彼ら”と合流するために日本に来たのです。ここで滅ぼされるわけにはいきませんねえ。ああ、ではこうしましょう」

 不意に、マモンの胴体にある巨大な口が、ぺっと何かを吐きだした。それを鍵爪の付いた手で拾うと、エイジャはそれをヒスイに向けうやうやしく差し出して見せた。

「何だそれは」

「これですか? これは“欲望の小箱”と申します。対象が心底欲している物を映し出し、それに対する欲求を増大させるものです」

「なるほど・・・・・・あんたそれを使って三馬“鹿”兄弟を操っていたのか」

「操っていたなどととんでもない。私はただお客様の欲望を増大させたにすぎません。さて、お喋りは此処までにして、あなた方の欲望を覗いてみましょうか」


 爪でピンッと小箱を弾くと、箱の蓋がキチキチと音を立てて開き、小さな金色の輪が浮かび上がった。

「さて、あなた方が心から欲するものは一体なんでしょ・・・・・・うね?」

 こちらに向かって太刀を向けている白髪の少女をその金色の輪で見つめた後、マモンはつまらなそうに嘴を鳴らし、顔を上げた。以前も玩具使いの欲望を覗いたことがあるが、その玩具使いと少女、いや、全ての玩具使いの望みは同じだった。それは自分たちエイジャの抹殺であり、実際に彼女が望んでいるのもそれだったのだ。だが、次に少年に目を向けた瞬間、マモンは絶句して立ちすくんだ。


 少年の中にあるのは、少女と同様自分にある殺意だ。だがその密度は少女とはまるで違う。要するに“底”が見えないのだ。彼の中には、見ているこちらが狂うほどの狂気、憎悪、そして殺意といったどす黒い感情が渦巻いている。

「ば、馬鹿な・・・・・・こ、これほどの混沌を内に秘めた人間がいるなど聞いたことがない!! しかもなんですかこれは!! われら氏民の気配がするなど!!」

「・・・・・・まあ、見るにしても聞くにしても、最初の一歩という物はあるものさ。それでマモンだったか? お前、随分とのぞき見が好きなようだが、いったい誰に断って人の内側なんて覗いているんだ」

「せ、聖亜?」


 突然冷たい声を出した少年を困惑気に見つめるヒスイの手から太刀を奪い取ると、


「ひっ!! ひぃいいいいいっ!!」



「なるほど、確かにあの蛇とは比べる価値もないな」


 薄く笑い、マモンの手に付いた鍵爪を切り払う。噴き出した血で全身を赤く染めながら、聖亜は護鬼を振り上げた。


ガキィン!!


「ッ!!」


 だが振り下ろした太刀は、横から突き出された三日月形の太刀と交わり、激しい火花を散らした。



「お、遅いですよハリティーさん!!」

「待機していろと言ったのはお前なんだがな、マモン」

 

 その太刀を見たマモンが暗がりに声をかけると、暗がりから女の声で返答があり、その声の持ち主が闇の中からぬっとあらわれた。両手に三日月形の太刀を持った、女にしては長身で瘦せた、和服を着た三十代前半ほどの女である。なかなかの器量良しではあるが、顔の右半分はどす黒く染まっていた。   



「おいおい、また別のエイジャかよ」

「人を勝手に人外にするなよ小僧、こう見えて、私はれっきとした「このっ!!」むっ」


 胸元にあるペンダントから二本目の太刀を引き抜き、少年の背後から襲いかかってきた少女の一撃を、女は後ろに下がりながら受け止めた。そのままは激しくつば競り合いをするが、その技量はほぼ互角だ。ヒスイの方が僅かに早いが、女は力で押し切ろうとしている。


「くそ、何がエイジャじゃないだよ。この状態で動ける奴なんて、エイジャしかいないじゃないか」


『いや聖亜、奴はエイジャではない。それほどの圧力は感じぬ。あの女は恐らく寄生種に寄生された人間であろう』


「は? 人間だって? けど寄生種に寄生された人って、皆ああなるだろ?」


 鍔競り合いをしているヒスイの胸元にあるペンダントから聞こえてくる黒猫の答えに反論し、聖亜は先ほど蟷螂だった黒い液体を見た。蟷螂になる前の男は内側で育つ寄生種の影響でブクブクに太っていたが、ヒスイと切り結んでいる女は全く太っていない。


『稀にあるのだ。植え付けられた寄生種の幼体と宿主との相性が完全に一致した場合、宿主はその意識と形状を保ったまま寄生種の能力を得る。つまり完全に制御下に置くということだ』


「思考が完全に一致って・・・・・・じゃあつまり、あの女は自分の意志でマモンに付き従っているのか? 何でそんな事を」


『マモンに何か取引でも持ち掛けられたのであろうよ、奴のやりそうなことだ。さて、その取引の内容だが・・・・・・先ほどマモンはあの女にハリティと呼びかけたな。ならば考えられることは一つ。取引の材料は子供か』



 キュウの声が聞こえたのか、ヒスイの持つ太刀に向かって何度か三日月形の剣を叩きこみ少女を後退させると、ハリティはこちらにちらりと目をやった。その目は戦闘により血走っていたが、はっきりと理性の光が見える。


「どこから聞こえてくるのかは分からないが、その声の言う通りだ。私は災厄により三歳になったばかりの、たった一人の我が子を失った。しかもその後に発生した暴動の中強姦された私の子宮は傷つき、もはや子を産むことはできない。あの子を取り戻すためなら、私はなんだってする。例えこの身を悪魔に売り払うことになろうともな。だから私は、数日前にこの商人と契約した。護衛をする代わりに、子を蘇らせてくれるというな!!」




 向かってくるヒスイを牽制するように、彼女に向けて三日月形の剣を一振りすると、ハリティは怒りに満ちた両目を聖亜に向けた。




「だからその邪魔をするならば、年端のいかぬ子供であろうとも私は決して許さない。例え殺すことになったとしてもだ!!」





 そう叫ぶと、ハリティは後退したヒスイに向け、双剣で襲いかかった。







 洞窟の天井に開いているひび割れから差し込んだ太陽の光が、少年に破壊された扉を通ってハリティの顔を照らしたのは、まさにその時であった。



「む!?」


 太陽の光をまともに浴びたためか、剣を一振りして向かってくるヒスイを牽制すると、ハリティは跳躍し、マモンの傍に降り立った。


「もう朝ですか。致し方ありません、名残惜しいですが今回は此処までのようですねぇ」

「ちょ、ちょっと待ってよ大鳥さん、僕の望みはどうなるんだよ!!」

 立ち上がって抗議してきた幻馬を見て、欲望の小箱をその身にしまったマモンは呆れたようにため息を吐いた。


「やれやれ、いいですかお客様。チャンスは今回だけではありません。彼らが私を追う以上、チャンスは近いうちに再び訪れます。それに」


 彼の四つの目は、睨み付けてくる少年を侮蔑を込めて見返した。


「それにお客様は私の本当の“ご契約者”ではありません。ですから本来、私はあなたの言う事を聞く必要はないんですよ。そのことをお忘れなく」

「う・・・・・・そ、それは」

「どうでもいいが、撤退するならするで早くしてくれ。この二人が相手では少々厳しい」

 

 ハリティの言葉に、おっとそうでしたと呟くと、マモンは軽く手を振った。すると、彼らに向かおうとしていたヒスイの体が途端に沈んだ。


「くっ!?」

「さてさて、それではこれで失礼させていただきましょうか。まあ、また近いうちにお会いいたしましょう・・・・・・ではこれにて」


 マモンがさっと一礼すると、彼の体から赤い羽根が無数に飛び出してきた。それが聖亜とヒスイの視界を遮り、やがてそれが消えた時、


「逃がしたか」

「ああ。それに三馬“鹿”兄弟もいない。せっかくそのくだらない人生に終止符を打ってやろうと思ったのに」




 彼らの目の前には誰もいなかった。敵を逃がしたことへの苛立ちからか、床の丸太を蹴る聖亜の手から太刀を奪い取ると、ヒスイは軽くため息を吐き、胸元にあるペンダントに深々と突き刺した。刀はなんの抵抗もなしにずぶずぶとペンダントの中に入り込み、やがて消えていく。それが完全に消えたのを確認し、もう一本の太刀も同じようにしまい込むと、ヒスイは改めて少年のほうを向いた。

「不貞腐れている所を悪いが、さっさと家に帰るぞ。新しい爵持ちも現れたことだし、その対策を考える必要が出てきたからな」

「ん? ああ、そうだな・・・・・・けどその前に屋敷に寄ってくれ。たぶんもう“けり”はついていると思うけど、一応な」

「何が一応なんだ? まあいい。けどそれが終わったらまっすぐ帰るからな。一晩中起きていたせいか、結構眠い」

「ははっ、分かったよ。それじゃ、さっさと行ってさっさと帰ろうか」



 朝日の差し込む家の中、こびり付いた血をぬぐって聖亜が見せた笑顔はあまりにも純粋で穏やかで優しげであったため、少女は昨夜彼が行った戦闘は夢か幻の類だったんじゃないかと、ヒスイはそう思ってしまった。


 

 だが一時間ほどかけて昨夜の館に着いたとき、彼女は昨日の出来事は現実にあった事だと改めて思い知らされた。巨大な館の壁はそのあちこちが爆発や衝撃で穴が開いており、夜中に聖亜が叩き潰した人間のうち、ごく少数の死者は掘った穴の中に埋められ、生き残っている大半の人間は、皆縛られて放置されて庭の隅に放置されている。ヒスイが傍らの聖亜に視線をやると、彼はその視線を無視し生存者の監視をしている青い服を着た男に歩み寄った。


「よう、久しぶりだな」

「げ、星さん・・・・・・そうですね。久しぶりです」


 青い服を着た男は、周りにいる他の見張りより少し上の立場にいるのだろう。彼が目で合図すると、他の見張り達は皆四方に散っていった。


「しかし、相変わらず無茶をしましたね。後片付けが大変でしたよ」

「けどそのおかげであんた達は楽にここの制圧ができたんだろ? いいじゃないか」

「ええ、そうなんですがね。ま、後は夜中本拠地にいなかった自警団の奴らを捕まえてお終いです。見ていてください、仁さんが目指した完全復興、立派にやり遂げて見せますよ」

「そうか・・・・・・まあがんばれ、それと女王蜂は中か?」

 

 自警団にいた頃の同僚である男の言葉に僅かに瞳を曇らせると、少年はかつて自分の家だった洋館を仰ぎ見た。


「はい。中で今後の方針について、この地区の有力者と会議をしています。お会いになりますか?」

「・・・・・・いや、やめておくよ。部外者である俺に、口を挟む権利はないからな。じゃあ、俺はこれで戻るけど、イタチともちゃんとうまくやってくれよ」

「イタチ……ああ、川べりに住んでいた、自警団と対立していたグループのリーダーですね。大丈夫です、制圧作戦でも協力していただきましたし、ボスとも親しいようですから、悪いようにはしません」

「そうか・・・・・・じゃあもう言う事はない。女王蜂によろしく言っておいてくれ。じゃあな」

 はい、お元気でと敬礼してくる男に頷き、ひらひらと手を振りながら、聖亜はヒスイの方に向かって歩き出した。

「もういいのか?」

「ああ。女王蜂が自警団の団長となってこの復興街を復興させていくなら、相手を叩き潰すことしかできない俺は必要じゃないからな。それに・・・・・・どうやら自警団は、もう俺の居場所じゃないらしい。部外者である俺は、今の俺の居場所に帰るさ。腹も減ったし、何より一晩中起きてたから、俺も結構眠いんだよ」

「そうか・・・・・・ならさっさと帰るぞ。ところで」

「ん? 何だよ」

「別に大したことじゃないが・・・・・・帰るときはやっぱりあの浅瀬を通って帰るのか?」

「あ・・・・・・まあ、そういうことになる、かな」


 そう言ってごまかすように笑みを浮かべた聖亜を小突こうと、ヒスイは右手を固めて彼に向かって歩き出した。それから数分、洋館の庭では、はしゃぎまわる男女の声が聞こえていた。










「う・・・・・・あ」




 薄暗い中、掠れた声だけが、微かに周囲に響いた。




 その声の持ち主は、地面に転がっている少年だった。中世的な顔たちのこの少年、名を幻麻という。




 彼は今、両手両足を縛られた格好で薄暗い部屋の中に放り込まれていた。よく見ると体のあちこちに裂傷が見られる。どれも皆新しく、傷を負ってからまだ半日と経過していないだろう。



 どのぐらい時間が経っただろうか。不意に目の前の扉がギィっと軋みながら開き、部屋の中に髪を金髪に染めた少女が入ってきた。彼女は地面に無様に転がっている少年を侮蔑を込めて見つめると、右手に持った硬く尖っている棒を、彼に容赦なく振り下ろした。



「うぁ・・・・・・がっ」



 それが裂傷の部分に当たり、幻馬の体は海老のようにのけ反って跳ねた。さらに棒が振るわれ、彼の体に新しい傷ができていく。



 やがて気がすんだのか、それとも疲れたのか、女は棒を振るのをやめると、ハイヒールで少年の顔を強く踏みつけた。


「ぐっ!?」

「ふん、無様ね」


 やがて踏みつけるのに飽きると、女は幻馬の髪を掴み、顔をこちらに向かせた。



「本当に無様ね幻麻。本来の役目を忘れて“あの女”を殺そうともせず、自分の欲望のためだけに動いた挙句、失敗して計画の殆どを駄目にするなんて」



 そう言いながら、女は彼の頬についている裂傷にぎりぎりと爪を食い込ませた。



「あなたに“大鳥”を貸してあげたのが誰か忘れたのかしら? それは私よね。つまり私が命じれば、奴はあなたの言う事なんかこれっぽっちも聞かなくなるわけ。なのにあなたは私の命令を無視して、自分の欲望のためだけに行動し、その挙句に計画のほとんどをおじゃんにしてしまった。この代償は高いわよ?」


「・・・・・・」


 自分を見つめる少年の目から光が消えたのを確認すると、女は退屈そうに彼の髪を放し、近くのソファに腰を下ろした。と、どこからか紅茶とスコーンが差し出される。


「あら、相変わらず手際がいいわね、大鳥」

「ええ。私の仕事は、お客様の全ての欲望をお叶えすることですから」


 人の形態に戻り、彼女に菓子を差し出したマモンは、そう答えるとうやうやしく一礼した。


「それでご契約者様、他に望みはありますでしょうか」

「とりあえず今はないわ。けど大鳥、私の本当の望みは変わっていない。ちゃんと分かってるでしょうね」

「ええ、分かっておりますとも。しかし此度の一件で、持ち駒の一つを失ってしまいました。ここまでの代金を含め、そろそろ回収したいのですが」

 

にこやかにほほ笑む彼を鼻で笑うと、女は地面に蹲っている少年を軽く蹴った。


「ならこいつと、こいつの手駒だった男二人、あんたにやるから煮るなり焼くなり好きにしなさいな。もちろん殺してしまっても構わないわよ」

「いえいえ、殺すなどとんでもない。そんなことをしてしまっては何の価値もありませんからね。では・・・・・・こちらを試してみるとしましょうか」


 マモンが包帯を巻いた指をぱちんと鳴らすと、虚空の闇から突如現れた二人の女が、幻馬の体を掴んだ。


「・・・・・・あ、やめ」

 自分が何をされるかわかったのだろう。弱々しく首を振って抵抗しようとするも、自分を押さえつけている女たちはびくともしない。当然だろう、彼女たちはマモンの身体を構成する一部なのだ。ただの人間にどうこうできる相手ではない。


「やれやれ、静かにしてくれませんか? この後他の二人にも同じことをしなければならないんですから、結構忙しいのですよ」


 女の片割れが幻馬の口を押え、強引に開かせる。少年の口が開いたのを確認すると、大鳥、いやマモンはふところから小瓶を取り出し、その中にある拳大のざわざわと奇妙に動く黒い物体を持ち、それを開いた口の中に押し込んだ

「ぐぇ・・・・・・え、え」

 

 なんとか吐き出そうともがくも、口はマモンの手で閉じられているため黒い物体の進む道は喉の奥しかない。


 やがて、息が続かなくなったのか、幻馬は口内に入っている物体を、ごくりと飲み込んだ。


「ひ・・・・・・ぐぇ」

 体内に何かがべたべたと入りつき、それが自分から何かを吸い取っているのが分かる。ひどい脱力感と疲労、そして途方もない空腹感に、少年はその意識を手放した。






「それで? 分かってるんでしょうね、マモン」

 



 意識を手放した少年を女達に運ばせ、部屋を出て行こうとしたマモンを、女は軽く睨み付けた。


「ええ、お任せくださいご契約者様。私は善良な商人でございますゆえ、代金分の仕事はさせていただきます」


「ふん、それでいいのよ。けどもうそんなに待てないからね」

「分かっております。恐らく後一週間以内に、ご契約者様の望みはすべて叶う事でしょう」

「あ、そう・・・・・・じゃあそれを楽しみに待ってるわ。さっさと“あの女”を殺してちょうだい」

 



 そう言って薄く笑うと、女は手をしっしと振って、出て行くように促した。





 一礼して廊下に出たマモンは、手でドアをかちゃりと閉めると、心底楽しそうに微笑んだ。






「ですが残念なことに、お客様の本当の願いは決して叶いませんが・・・・・・ね」




 







 少年がかつて自分の家だった洋館を襲撃してから、二日ほどが経過した。






 ガツガツガツ、とそんな音が聞こえそうな勢いで、目の前の皿からスパゲティの大盛りが消えていくのを、聖亜とヒスイは半ば呆れ、半ば感心しながら見つめていた。


 皿の上にあるスパゲティを平らげると、それを何枚もの皿が重なっているその一番上に置き、最後にコーラを一気飲みすると、ようやく満足したのか、エリーゼは腹をさすりながら、ニカッと笑みを浮かべた。


「いやぁうまかったうまかった。それで? 何の話だっけ」

「その前に、スヴェンの姿が見えないようだが」

「ああ、あいつはいいの。どうせ居たって険悪な雰囲気になるだけだろ? 止めるのも面倒くさいからホテルに置いてきたよ」



 からからと笑うと、エリーゼは不意に真面目な顔をして、向かい側にいるヒスイを見つめた。



「けど、この先どうするかちゃんと考えなよ? 仮にも婚約者なんだからさ」



「それは・・・・・・ああ、分かっている」



 ヒスイの言葉にそうかいと頷くと、エリーゼは爪楊枝で歯を掃除しながら、それでと話の続きを促した。



「ああ、その・・・・・・もう気付いていると思うが、この太刀浪市に新たな爵持ちが出現した。名はマモン、爵位は男爵だ」

「マモン、ね。“渡り商人”か。その名の通りの商人で、金のためならたとえ相手が人間だろうと取引を行う・・・・・・嘆きの大戦で配下のエイジャ達が捕まえてきた捕虜を生きたまま切り刻んで生体実験に使った討滅対象。それで? 戦ってみた感想は?」



「ああ。それほど強いとは感じられなかった。あっちは単なる商人だし、けど気になることが一つ」

「ふん? 何だい、聞こうじゃないか」


 平らげた皿をテーブルの隅に追いやると、エリーゼはこちらに身を乗り出してきた。


「奴が配下として使用していた寄生種、これが少し妙なんだ」

「妙? どんな風に。その前にどんな形だった?」

「ああ、蟷螂のような形で、速度と攻撃力は優れていたんだが、その反面防御力はほとんどなかった……こいつ、聖亜の投げた釘ですら関節部分に突き刺さったからな」

「・・・・・・ん?」

 

 いきなり名を呼ばれ、右手をさすりながら彼女らの話をぼんやりと聞いていた聖亜は、ふと顔を上げた。

 



 そんな彼に何でもないという風に手を振り、再びエリーゼに向き直ったヒスイを見ながら、少年は昨夜の出来事をぼんやりと思いだしていた。










「封印だって?」


 復興街から帰って睡眠をとった後、昼食後にキュウから言われた言葉に、聖亜は食器を小松の持っている盆の上に載せながら、黒猫の顔をまじまじと眺めた。


「お「あらあら、何やってんのよ聖亜、頬にご飯粒がついてるわよ」くっ!!」


「あ、ああ。悪い・・・・・・って、何怒ってるんだ、小松」

 くすくすと笑うナイトに頬を突っつかれ、聖亜は照れ臭そうに笑って礼を言った後、隣でなぜか不機嫌そうな顔で給仕をしている小松の方をちらりと見た。

「・・・・・・・・・・・・何でもない」

「ん?」

 

 こちらを見ないように顔を背け、ぶっきらぼうに呟く彼女に聖亜は軽く首を傾げたが、彼女が何でもないと言っている以上尋ねても無駄だろう。そう結論付けると、聖亜は黒猫に改めて向かい合った。


「それで? 何だよ封印って」


「聖亜、そなた封印の意味も分からぬのか。封印とは簡単に言うと対象が出てこぬようにすることだ」

「意味ぐらい分かってるよ。俺が聞いているのは、何でそんな話になったかという事だ」

 

 朝食が始まってすぐ、キュウは聖亜に重々しい口調で言ったのだ。彼の“御手”を封印すると。


「そんなことは決まっておるだろう。汝が御手を完全に使いこなせていないからだ。一昨日の戦闘を思い出してみるがよい。そなた御手を出そうとして結局出せず、一瞬無防備になったであろう? 大事にならなかったからよかったが、御手があると思っているからこそ使いたくなるのだ。強大な力は、時に人を弱者にする。ならばいっそのこと、最初から使えないようにしてしまえばよい」

「けど、御手を封印するってことは、つまり炎也も封じるってことだろ? それはさすがにちょっと」


 なおも渋る聖亜を見て、さすがに気の毒に思ったのか、ヒスイはちらりと黒猫を見た。相棒の視線に、キュウはやれやれと首を振った。


「まあ、完全に封じなくとも、発動だけを止める方法もある。これならばあの馬鹿娘も封じられることはあるまい」

「そっか。ならそれで頼む」

 ほっとした顔をする少年を見て、皮肉気に、だがどこか可笑しげに笑うと、キュウはその紫電の瞳を妖しく光らせた。

「うわっ!?」


 その光が自分の右腕を照らしたのを見て、聖亜は驚いた声を上げたが、別に違和感は感じない。その内に光は右腕を覆うように動き、やがて消えて行った。


「ふむ、これで良いはずだ。だが良いか聖亜、あまり感情を高ぶらせるな。封印がはじけ飛ぶからな」

「はじけ飛ぶ?」

 

 聞きなれない言葉に首を傾げる彼に頷くと、キュウはそっと目を伏せた。


「完全に封印するならそんなことはないが、それでは小娘の意識まで封じることになる。これはあくまで発動を封じるだけだからの。さすがに結界喰らいの激情には耐えられん」

「・・・・・・」

「だから完全に封じる方が安全なのだが・・・・・・そなたが嫌だというなら仕方がない。無理強いしても良い結果にはならぬからな」

「そうか・・・・・・分かった」


 少年が頷くと、黒猫はせいぜい気を付けることだなと呟き、食後の睡眠に入った。








「なるほどねぇ、マモンはこの都市で人間を材料に生体実験をしてるってわけか。気に食わない奴だねぇ、まったく」


 ヒスイの説明に納得がいったのか、ぶつくさとそう呟くと、エリーゼは忌々しげに舌打ちした。


「分かったよ。あたしの方でも調査をしておく。それから一度本部に連絡して、この後どうすべきか尋ねてみるよ」

「ここにずっといるわけではないのか?」

「それはどうだろうねぇ。確かに上の連中は高天原の勢力圏に組み込みたいようだけどさ、少なくともあたしとスヴェンは一旦帰国すると思うよ? 一つの都市に長期間、それも二人も一級の魔器使がいるなんて、あまり前例がないからね」


 そう言うと、エリーゼは立ち上がって歩きかけたが、ああと思い出したように振り返った。


「それから、指示が出るまではくれぐれも軽率な行動は慎むこと。特にヒスイ、あんたは冷静に見えて感情的に動きやすいから、くれぐれも自嘲する事。前回の絶技使用の件については一応様子見という形での謹慎処分になったけど、うかつな行動はあんたの不利にしかならないよ。いいね」

「あ、ああ」


 頷いたヒスイを見て満足そうに笑うと、彼女は手をひらひらと振って歩き去った。




「要するに、どういうことだ?」

「指示が出るまで何もするなという事だ。それにしても」


 テーブルの上に散乱した何枚もの皿を見て、ヒスイは呆れたようにため息を吐いた。


「この料理の代金は、もしかして私達が払わなければいけないのか?」

「・・・・・・ま、さっさと払って城川先生の所に行くぞ。香の事も話さないといけないしな」


 彼女の問いに首を振って答えると、聖亜は財布を取り出して立ち上がった。










「そう、香は復興街に」


 その日の夜の事である。聖亜から香が復興街に足を踏み入れた事を聞くと、城川は悲しげに首を振った。


「はい。けれどそこからの足取りはつかめませんでした。でもたぶん行方不明になっているだけで、死んではないと思います・・・・・・すいません、こんな報告しかできなくて」

「いや、君のせいじゃないよ。それに君がいなければ、香が復興街に行ったこともわからなかった。第一これは妹が自分で決めたことだ」

 そう言って、彼は番茶を一口すすった。

「そうですか・・・・・・ああ、それと安心というわけではありませんが、旧市街で数日前、ちょっとした“混乱”がありました。まあ簡単に言うと自警団のトップが変わったんですけど、そいつはまあ女を大事にする男ですので、香は命の危険はまったくないとは言えませんが、それほど高くはないと思います」

「そう……それなら安心だ」

 苦笑いを浮かべる城川の前で、聖亜は出された番茶を彼と同じように口に含んだ。そのお茶はいつもより苦く、そして少しだけしょっぱかった。

「さてと、話は変わるのだけれど聖亜君、君夏休みはどうするんだい? 県の絵画コンクールは9月、夏休みの後半だ。それに絵を出すつもりなら指導するけど」

「え? あの、それは・・・・・・えぇと、し、暫らく考えさせてください」


 所属している美術部の顧問である城川の問いにしどろもどろになりながら答えると、彼は穏やかな笑みを浮かべて頷いた。


「そうかい? まあ描き直したくなったらいつでもいってくれて構わないからね」

「は、はい・・・・・・そういえばヒスイ、遅いですね」


 店に来た時、彼女がみたらし団子を好物だと知った城川の妻により、ヒスイは強引に厨房に引きずり込まれた。みたらし団子の作り方を教えるためである。


「まあ、僕の奥さん団子の事になると人が変わるからね。すまないけれど、もうちょっと待っていてくれるかな?」

「はあ・・・・・・」

 

 みたらし団子の事になると人が変わるのはヒスイも同じだな。そう思いながら、聖亜はまた一口番茶を啜った。



「さっきも言ったけど、おいしいみたらし団子を作るのに大切なのは、きちんと団子粉を練る事だからね」

「は、はい!!」

 聖亜太刀階まで話し込んでいるころ、ヒスイは厨房で目の前にある団子粉を懸命に練った。彼女の隣では、凛々しい顔つきをした美女が、少女に指導を行っていたる。

「ほら、さっきと同じ間違いをまたやってる。それじゃ力を入れすぎって言ったはずでしょ、団子粉の硬さは、耳たぶと同じ柔らかさなんだから」

「あ・・・・・・」

 手を優しく叩かれて、ヒスイは粉を練るのをやめた。確かに彼女の言う通り先ほどと同じでこねすぎた様だ。手をさすりながら流しの隅に捨てられた硬すぎる団子の粉を見て、少女はさっと顔を赤く染めた。

「・・・・・・うん、けどこれぐらいなら大丈夫。さてと、次はたれを作りましょうか」

「は、はい」

 そう言って大きな貯蔵庫に向かう城川の妻である城川春奈の後に続くと、ヒスイは彼女が貯蔵庫の中から出したでん粉や醤油などを受け取った。

「そういえばヒスイちゃんはアメリカから来たのよね、どうしてみたらし団子が好きなのかしら」

「それは・・・・・・父がよく作ってくれたものですから」

「そう、いいお父さんね。私の理由もちょっと似てるかな・・・・・・私はね、大好きな人に私の作った物を食べてもらっておいしいよって言ってくれるのが見たいから作ってるの。けどいつも作りすぎるみたいで・・・・・・あんまり食べてくれないのがちょっと寂しいかな」

 砂糖と醤油を混ぜたものにでん粉を入れ、とろみが出るまで混ぜながら、春奈は優しく、だが少しだけ寂しげに微笑んだ。

「本当に好きなんですね、城川先生の事」

「まあ、生まれた時からの幼馴染で、ずっと一緒にいようって約束したからね。でもそれを言うならヒスイちゃんだってそうでしょ?」

「・・・・・・は? あの、私が何でしょう」

 蒸気式のコンロでお湯が沸くのを眺めていたヒスイは、春奈が言った言葉の意味が分からずぽかんとした顔で聞き返した。


「だってヒスイちゃん、作ったみたらし団子、聖ちゃんにあげるんでしょ?」

「すいません、あの、何で私が聖亜にみたらし団子をあげなければならないんでしょうか」


 ヒスイの呟くような質問に嬉しそうな、だがどこか面白そうな笑みを浮かべると、春奈は少女の耳元にそっと口を近づけた。


「だって好きでしょ、ヒスイちゃん、聖ちゃんの事」

「んなっ!?」


 耳元で囁かれた言葉に、ヒスイは団子の形に丸めた生地をぐっと押しつぶした。


「な、なんでいきなりそんな事を言うんです? そりゃ好きか嫌いかと聞かれたら好きと答えるでしょうが、それは異性としてではなく・・・・・・大体聖亜には準がいます。恋人がいる男を好きになるなんてありえません」


 何日か前ナイトに言った言葉を、だがこの時ヒスイはなぜか動揺して答えると、あたふたと丸めた生地を湯の中に入れた。


「そう? けど重婚は認められているわよ? お偉いさんの中には、何人もお妾さんを持っている人もいるから、二股ぐらいいいんじゃないかしら。大体それ以前に準ちゃん一人で聖ちゃんを受け止め続けるなんて無理よ。“壊れちゃう”か」


「こ、“壊れる”!?」



「まあ、詳しい話は聖ちゃんか準ちゃんから直に聞いてみて。さ、そろそろお団子に葛餡をかけるわよ。手伝ってちょうだいね」

 愕然としているヒスイを見てくすくすと小さく笑うと、春奈は鍋の火を止め、程よく煮た団子を皿に盛りつけ始めた。








「どうしたんだ、ヒスイ」

「・・・・・・・・・・・・な、何でもない」

「そうか?」


 城川屋からの帰り道、聖亜は手作りのみたらし団子を持ちながら、傍らでぐったりとしているヒスイに声をかけた。何故かは分からないが、彼女は厨房から出てからこの状態だった。

「まあ何でもないならそれでいいけど・・・・・・それより、随分作ったな」

「うわっ!?」


 急に顔を近づけてきた少年をポカンとした表情で見つめ、次の瞬間真っ赤になって慌てたヒスイは、思わず手に持った紙袋を落としそうになった。


「ば、馬鹿っ、急に顔を近づけるな!! こんなところをお前の恋人に見られたら誤解されるぞ!!」

「は? 恋人・・・・・・だって?」


 ヒスイの言葉に、先程の彼女と同じく、聖亜はぽかんとした表情で目の前の少女を見つめた。


「おいおいヒスイ、お前何言ってるんだ、俺に恋人なんていないよ」

「嘘を言うな、なら準はお前にとって一体何なんだ」

「準か・・・・・・そういえばヒスイにはまだ言っていなかったっけ。準は俺にとって“唯一”なんだ」

「ゆい、いつ?」

「そう唯一。恋人でも友人でも、仲間でも夫婦でもなくて、それらを足した以上に俺に取って大事な女・・・・・・それがあいつだ」

「大事な女、か」


 聖亜の言った言葉を呟いたとき、ふとヒスイの中に小さな感情が生まれた。何だかむかむかとして、それがひどく気分を害する。それはいわゆる嫉妬という感情だったが、この時のヒスイにはその感情が何なのかわからなかった。


「しかしすごいな・・・・・・そんなふうに思えるなんて、さぞ劇的な出会いだったんだろう」

「劇的か、そりゃ劇的と言えば劇的だったけど・・・・・・」

「・・・・・・?」

 不意に、少年の歯切れが悪くなった。首を傾げてこちらを見つめてくるヒスイに、聖亜は暫らく考え込むようにしていたが、やがてため息を吐いた。

「俺と準はさ、中学の時初めて会ったんだけど、あいつ中学の時は病気でガリガリに痩せていたせいでいじめられていて、それで、俺の方はというと仁さんが死んで、今までいた居心地のいい場所から突然放り出されたせいでひどく荒んでいたんだ。だから周りの連中とも馬が合わなくて、体育倉庫で昼寝をしていた時、準が数人の男に運ばれて体育館倉庫までやってきてな、彼女を数人がかりで強姦しようとしていたのを止めたのがきっかけで知り合った」

「・・・・・・ご、ごうかむぐむぐ」

 愕然とした後、叫ぼうとしたヒスイの口を聖亜は慌てて塞いだ。道行く人々がちらりとこちらを見るが、何事もなく去っていく。

「ぷはっ、すまない。しかし・・・・・・そんなことがあったのか」

「ああ。そのことがきっかけで付きまとわれる様になって、けど不思議と嫌な感じがしなかったから一緒に行動するようになって、それで・・・・・・」

「それで、どうしたんだ?」

「・・・・・・いや、何でもない。とにかくそういった経緯で準が俺にとって唯一となって、その一か月後に準の知り合いである春奈さんが街にやってきて、なぜか俺はぼこぼこにされた。知ってるか? 春奈さんは確かにこの街の出身だけど、一時期東京に出ていて、そこで警察官をしていたんだ」

「いろいろと言ってやりたいことはあるが、まあいい。それにしても春奈さん、警察官だったのか」

「まあ、あの人ああ見えて俺より強いからな、柔術と剣術の達人だし・・・・・・しかし香の奴一体どこにいるんだ? 女王蜂に探してくれるように頼んであるけど、あの情報通が三日掛けて見つけられないんだ。恐らくもう復興街にはいないだろうな」

「それも気になるが、まず何よりしなければならないのはマモンの討伐だ。それほど実力はないとはいえ、爵持ちのエイジャであり、人に害を及ぼしたことに変わりはない。早急に探し出して討伐する必要がある」



 それまでの表情とは一変し、冷徹な表情を見せた彼女に、聖亜も重々しく頷いた。









「すいませんがもう一度言ってくれませんかね」


 ヒスイたちと会話した日の夕刻、滞在しているホテル「ニュー秋野」にあるスイートルームで、エリーゼは携帯電話を耳に当て、険しい表情を浮かべていた。


『あら、よく聞こえなかったのかしら? ならもう一度言ってあげる。エリーゼ、白髪の小娘・・・・・・絶対零度を抹殺しなさい』


 携帯電話の向こうから聞こえてくるのは十歳ほどの明るい少女の声だ。だがその声の持ち主の年齢が見た目通りのものではないことを、もちろんエリーゼは知っていた。


「あのですね教授、報告書はもう送りましたよ。確かにヒスイの奴は絶技を使用しましたが、それだけで処刑対象にはなりません。実際に本部の決定は様子見という形になりました。それは教授もよくご存じのはずでしょう? それに今回連絡したのは、爵持ちであるマモンの討伐許可を得るためです。魔器使が高天原の勢力内で爵持ちと戦うのには上の許可が入りますからね。いつ出していただけます?」


 彼女の反論に、電話の向こうにいる少女はころころと笑い声を上げたが、ふとそれが途絶えた。


『マモンなんて下等な爵持ち、軽く消し飛ばせばいいじゃない。まああなたでは無理でしょうけど、スヴェンがいるでしょう? いざとなったら“あれ”を使えば、マモンなんて一瞬で消し飛ぶわ。それにエリーゼ、私は“お願い”をしているのではないの。私はね、あなたにやれと“命令”してるのよ?』


「・・・・・・」


 無言のまま、エリーゼはぎりぎりと骨を噛み砕いた。


「・・・・・・分かりましたよ。これよりスヴェンと共に絶対零度の抹殺任務に入ります」


『そうそう、最初からそう言っていればいいのよ。大体あなたは私に大きな借りがあるんだから、どんな命令も断れないものね』


「そりゃそうですがね・・・・・・ああ、一つ確認していいですか?」


『あら、なあに?』


 口の中にある骨を傍らのごみ箱にぺっと吐き捨てると、エリーゼはがしがしと頭を掻いた。


「今回の抹殺任務、もちろんあなた以外の教授方も知っておられるんでしょうね、ヘルメス教授。いやですよ、帰った途端仲間殺しの罪で処刑されるのは」


『それなら心配はいらないわ。あなた達には通達ミスで本部の決定がきちんと届かなかったことにするから。ま、なにかあっても“処分”されるのは憎しみの感情に流されて“不可抗力”で絶対零度を殺してしまったスヴェンと、彼を野放しにしたあなたにしか及ばないから……じゃ、くれぐれも失敗しないようにね。健闘を期待しているわ』


 言いたいことを言いたいだけ言うと、電話の向こうにいるヘルメスはさっさと電話を切ってしまった。


ツーという無機質な音が流れ出してから、エリーゼはちっと忌々しげに舌打ちした。


「ったくあの糞女、自分の言いたいことばかり言ってさっさと切っちまった……しかしなんだってそんなにヒスイの抹殺にこだわるのかね。あいつとヘルメス教授との間に別に接点はないし」


 ヘルメスがヌアダの魔器を強請り取ろうとして、一蹴されたことを知らない彼女は、訳がわからないといった風に頭をひねっていたが、やがてここで考えていても始まらないという結論に達したらしく、一度部屋を出ると、スヴェンがいる隣の部屋へと入っていった。


 隣の部屋の中は薄暗かった。カーテンは閉め切っており、周囲には投げ散らかった衣服が散乱している。部屋の隣にあるベッドルームに入ると、エリーゼは忌々しげに舌打ちし、こんもりと盛り上がっているベッドを思い切り蹴った。

「む」

 ベッドが揺れた衝撃で、その中に入っている人物は軽く呻いた。百八十を軽く超すその巨体のせいで、巨大なベッドが小さく見える。


「ったく、いつまで寝てるんだいスヴェン」

「・・・・・・」

 ベッドを蹴った彼女を睨むと、スヴェンはまたベッドに潜り込もうとした。その動きを彼の熊の模様が入った大きなパジャマを踏んづけて止めると、エリーゼは散らかっている服を拾い上げ、スヴェンに向かって投げつけた。


「何をする」

「何をするじゃないよまったく。幾ら本部からの通達でヒスイが殺せなくなったからと言ったって、こんな時間からから寝ていることはないだろ」

「お前に何が分かる」


「そりゃ分からないさ。分からなくもないね。人間が人間を憎むなんてさ。憎むなら人間よりエイジャにしな。この“あたし”のようにね」


「・・・・・・」



 むっつりとベッドに腰掛けたスヴェンを見てため息を吐くと、エリーゼは出来の悪い弟を諭すようにその肩をポンポンと叩いた。

「ま、そんなに落ち込むこともないだろ。実はね、さっきあの狂った科学者から、あんたの喜ぶような連絡があったんだよ」

「・・・・・・?」

 その言葉にスヴェンは軽く首を傾げたが、数秒後、彼はエリーゼの言ったとおり狂ったように笑い声をあげて喜んだ。





 


 二つの事件は、それから間もなく起きた。




 第一の事件は復興街で起こった。といっても大した事件ではない。統馬の部下であり、彼の下で悪行を重ねていた男達が全員、勾留していた場所から掻き消えたのである。見張りについていた女王蜂の部下は彼らが霞のように消えたと話したが、むろん、人間が霞のように消えるわけがない。恐らく集団で逃げだしたのだろうと考えた女王蜂はすぐに捜索隊を組織したが、結局彼らの姿を見つけることはできなかった。

 

 第二の事件は、旧市街のお立通りで起きた。夜といっても旧市街の道の両端にはガス灯が煌めき、また警察による夜の巡回がされているため安心して外を歩くことができる。もっとも、未成年が夜遅くに出歩いていた場合、問答無用で補導されるが。

 その安全な道を、城川春奈は聖亜の家に向けて少々小走りで歩いていた。といっても大した用事ではない。今日出会ったヒスイという少女が、キッチンに忘れて言った小物を届けるためである。


 だがあと少しで彼らの家を囲む竹藪に着く、その瞬間


 

 彼女の姿は、ふっと掻き消えた。


 ガス灯の光はあるが人通りのない道であったため、彼女が消えた姿を見た者は誰もいなかった。



 そう、昼夜問わず街を飛び回っている“彼ら”以外には









 聖亜達が異変に気付いたのは、夕食と風呂を終え、寝る寸前だった。


 最初に気付いたのはキュウだった。ビショップと小松が共同で作った夕食を食べ終え、うとうととしていた時、彼女ははっと目を見開き黒い空を見上げた。

「ん? どうしたキュウ」

 風呂から上がったばかりで髪を拭いていたヒスイが彼女の様子に気づき、ふと声をかけた。

「空気が重い。何かが闇の中で蠢いておる」

「何かが・・・・・・それって、もしかしてエイジャか?」


 布団を敷き終えた聖亜の問いに、キュウは首を振りつつ、ふとその紫電の瞳を伏せた。



「恐らくそうだろう、だが何をしているのかまでは・・・・・・む?」



 彼女が言葉を続けようとした時、家の戸がどんどんと強く叩かれた。


「おいおい、もう夜だぞ。誰だよこんな時間に」

 ぶつくさ言いながら、聖亜は玄関に向かった。戸を叩いているのはどうやら男らしい。そしてその姿形を見て、聖亜はふと首を傾げた。

「え・・・・・・し、城川先生? 待ってください、今開けます」

 サンダルを履いて戸を開けると、外には思ったとおり城川がいたが、その顔はいつもはおっとりとしている彼の表情とはまったく違っていた。


「ど、どうしたんですか? 城川先生」

「はぁ、はぁ、はぁ!! せ、聖君、ここに僕の奥さん来なかったかい?」

「春奈さんですか? いえ、来てませんけど。春奈さん、どうかしたんですか?」

「そ、それが・・・・・・一時間前にこの家に行くと言って出ていったきり何の連絡もなくて。香もまだ見つかっていないし、心配になって来てみたんだけど」


 恐らく全力で走ってきたのだろう、何事かと顔をのぞかせるヒスイにがくりと片膝を付いた彼を頼むと、聖亜はサンダルのまま外に飛び出し、家を囲む竹藪を抜け、お立通りを数時間前までいた団小屋に向かって駆け抜けた。身体の弱い城川では疲れる道も彼にとっては大した距離はない。だが春奈の姿はどこにもなく、気落ちした表情で、聖亜は家に戻ってきた。


「や、やっぱりいなかったかい?」

「ええ。けど本当にどうしたんでしょうか。何か事件に巻き込まれたといっても、俺より強い春奈さんを傷つけられるような奴が、復興街にいるはずっ」


 テーブルに座って帰りを待っていた城川の問いにため息交じりに頷くと、自分もテーブルに座ろうとした彼は、ふと口を閉ざした。


「ん? どうしたんだい、何か気づいたことでも?」

「・・・・・・いえ」


 軽く頭を振ると、城川に気付かれぬよう傍らに蹲っているキュウに視線を送る。と、こちらの視線に気づいた彼女は間違いないという風にその紫電の瞳をこちらに向けてきた。

「あの聖君、こういう時はやっぱり警察に届けたほうがいいのかな? やっぱり行方不明だし、もし事件に巻き込まれているとしたら、早く助けてあげないと」

「え? いや、それはやめておいた方がいいと思います。まだ一時間しか経っていないですし、警察に届けてもどこかに寄り道しているか、それとも家出という形で処理されます」

 警察に頼ろうとしている城川を、聖亜は慌てて止めた。もし自分たちが考えている通りなら、警察が動いたとしても犠牲が大きくなるだけだ。城川も思い当たる節があるのか、すぐにそうだねと頷き、ふと顔を歪ませた。

「やっぱり出て行っちゃたのかな」

「・・・・・・は? 何言ってるんですか、城川先生」

「だってそうだろう、僕みたいな弱くて取り柄と言ったら絵を描くことぐらいしかなくて、和菓子屋の跡取り息子のくせに甘いものもそんなに食べられない生きてる価値のない男に、あんなに綺麗で格好良くて強くて優しくて何でも出来て美人な春奈ちゃんが、高々幼馴染というだけで警察官をやめてお嫁さんに来てくれた事自体おかしいんだよ。出て行っちゃったんだよ、きっと」


 また始まった。内心でため息を吐くと、聖亜は目の前でうじうじしている男を殴ってやりたくなった。城川は身体の弱い自分にコンプレックスを持っており、自分と妻である春奈を比較して一年に一度はこうやっていじけてしまう。ちっと微かに舌打ちすると、聖亜は再びヒスイに目をやった。彼の考えていることを察したヒスイがいまだにいじけている城川の後ろに回り、その首に手刀を極々軽めに叩き込んだ。



「それで、どう思うヒスイ」

「どう思うも何も、これはマモンの仕業だ。先程キュウが何かに気付いた事と照らし合わせてみても、間違いないだろう」


 彼女の手刀を首筋に受け、気絶した城川を布団に寝かせると、聖亜はヒスイと共に隣の部屋に移った。ここには自分達の他にキュウと小松・小梅、そしてナイトを初めとする三体の人形が居る。

「いや、仮にマモンの仕業だとして、何で春奈さんが攫われる前に気付かなかったんだ? いつもならエイジャの気配にすぐに気づいていただろ」

「昼間の事を忘れたのか聖亜。エリーゼから手出し禁止と言われていただろう。一級魔器使は自分より格下の魔器使に指示を出す権利と義務を持つ。彼女から手出し禁止と言われた以上、その気配を探ることも許されん」

「何だよそれ・・・・・・まあいい、とにかく今は早急に春奈さんの居場所を突き止め、彼女を救出することにしよう。ナイト、ポーン、ビショップ、お前達も力を貸してくれるな」

「そんなの当たり前じゃない聖。私はあなたの物なんだから」

「承知。しかし聖亜の配下になった初陣がマモンとはいえ爵持ちとは・・・・・・腕が鳴るな」

「構いませんよ。ですが行く前にお夜食を作らなければなりませんね」

 

 ナイトが笑いながら、ポーンが重々しく、そしてビショップが微笑んで同意すると、聖亜は三体の人形に向かって頷き、立ち上がった。


「待て聖亜、どこに行く」

「どこ? もちろん春奈さんを助けに行くに決まってるだろ。ああ、あんた達は来なくていい。どうせ上から命令されて動けないだろうからな」

「・・・・・・」

 少女の方を見ず、彼にしては珍しく吐き捨てるようにそう言い放った聖亜は、それゆえに目を細め、傍らの小松に指示を出したヒスイの様子に気づくことはなかった。


「おい、待て馬鹿者」


 今度は黒猫が容赦ない言葉で呼びかけてくる。その言葉に誰が馬鹿だと反論しようと振り返った聖亜は、次の瞬間むぎゅっとなにか柔らかい物に顔を挟まれた。


「むぐっ」

「あ・・・・・・そ、そんな、あ、いきなりっ」

 結構すごい勢いで振り返ったため、その柔らかい物の奥まで顔がめり込んでしまい、容易に抜け出すことができない。なんとか抜け出そうとしていると、すぐ近くで誰かの喘ぎ声が聞こえてきた。

「・・・・・・何をやっている、馬鹿」

 ヒスイの冷たい声が聞こえ、聖亜はその柔らかい物から顔を引き剥がされた。上を見ると、顔を真っ赤にした小松が荒い息をして胸を抑えている。どうやら今までそこに顔を埋めていたようだ。

「あ、悪い」

「い・・・・・・いや」

 頬を染めながら崩れた着物の襟を正している小松を見ていると、不意に隣で咳ばらいがした。振り向くとむっつり顔をしたヒスイがこちらを睨んでいる。

「それでどうして呼び止めた? 早く春奈さんを探しに行きたいんだけどな」

「誰も探すのを手伝わないとは言っていない。第一春奈さんは私にとってみたらし団子を作る際の師に当たる。弟子には師を助ける“権利”があるはずだ」

 自分の問いに対するヒスイの答えに、聖亜は呆然と彼女を見ていたが、やがてふっと微笑した。

「すまない、知り合いが誘拐されたものだから気が立っていたんだ。けどいいのか? あのエリーゼって女からはマモンに何もするなと言われたんだろう?」

「私は春奈さんを助けに行くだけだ。マモンと戦うとは言っていない。まあ人命救助の際、偶然マモンと戦うことになるかもしれないが、それはあくまで“偶然”だからな」


「ははっ、そうか偶然か」


 先に部屋の中に戻ったヒスイに続いて部屋に入ると、聖亜は軽く息を吐いた。


「さてと、なら問題を整理してみようか。一時間以上前、ここに来るはずだった春奈さんが行方不明になった。城川屋からここまでは歩いても十五分ほどで着くから何らかの事件か事故に巻き込まれたとみて間違いないだろう。けど春奈さんは俺より強い。数人の暴漢なら一分とかからずに鎮圧できるほどだ。となると考えられるのはマモンとかいう鳥野郎の仕業だろう。問題は、いったいどこに連れていかれたか、何だけど・・・・・・なんだよ」

 テーブルの脇に腰掛けて話し始めた聖亜は、こちらを何か言いたげな表情で見てくるヒスイたちの視線に一旦話すのをやめると、少しむっとして見返した。


「いや・・・・・・お前って結構頭が回るんだな」

「ん、まあマスターから言われていたんだよ。考えることをやめなければおのずと勝つ方法が見つかるってな」

「そうか」


 その説明に納得したのか、ヒスイはこくりと頷いて表情を和らげた。


「で、話を戻すけどどうやって春奈さんの居場所を探す? 何の情報もないし、暗くなるとこの辺りは人通りもなくなるから目撃者なんていないし、それ以前にエイジャの手によって攫われたなら普通の奴にはまず気づかれないだろう」

「ふむ・・・・・・まあ確かに人間には無理だろうな。だが聖亜よ、お主は一つ忘れていることがある」

「忘れている事?」


 首を傾げる聖亜の横を通り過ぎ、キュウは縁側に出ると暗い空をじっと見上げた。


「うむ。この街にいるのは人だけではない。犬や猫といった動物も暮らしている。そしてその中で一番頭が良いのはこやつらだ・・・・・・加世、いるか」


「加世?」


 誰もいない外に向かって声をかけた黒猫を見て、聖亜も外を見る。だがやはり誰もいない。何もいないじゃないかと、傍らのキュウに抗議しようとした時だった。

「・・・・・・ここに」

「うわっ!?」


 不意に、庭の木の陰から一人の女が姿を現した。年の頃は自分とそう変わらない。夜風に揺れる肩の所で切りそろえた黒髪と小麦色の肌を持つ、美少女と言ってもいい風貌だが、何より聖亜の目を引いたのは、彼女の背中から生えている黒い大きな翼だった。


「加世は鴉天狗の血を僅かだが引いていてな、その血を活性化させてこの姿にしてやったのだ」


 少年の視線に気づいたキュウがそう言うと、加世という名の鴉天狗はこちらに目を向け、だがすぐにそっぽを向いた。包帯が巻かれている左腕を、右手で強く抑えながら。


「・・・・・・?」


 その包帯にどこか見覚えがある気がした聖亜が、口を開こうとしたとき


「さて加世、そなたを呼び出した理由は分かっておるな」


 彼よりも先に、キュウが彼女に向かって話しかけた。


「はい。先程この街で発生した異様な気配は、すでに仲間が追っています」

「そうか、それならばよい・・・・・・ふむ、さっそく来たようだな」

 加世が見上げた夜空の向こうから、バサッバサッと鴉が一羽飛んできて彼女の肩に止まり、カァカァと何かを囁く。彼女が頷くと、鴉はまた空の向こうへと飛んで行った。

「とりあえず気配がどこに行ったかは分かりました。ここから北東にある廃墟です。数日前からそこに何かの気配がするという話はあったのですが、詳しくは」


「そうか、ごくろうだった・・・・・・という訳だ聖亜、これから北東に向かうぞ」

「え・・・・・・あ、ああ。北東ならデパート通りだな。そういえば去年閉店してそのままになっているデパートがあったけど、そこか」

「うむ。ではそのデパートに向かうぞ。ヒスイ、用意はいいか」

「・・・・・・本当は化粧をしたいが、その暇はないか。しょうがない、これで我慢しよう」

 ペンダントから取り出した桜の髪留めを髪に付けると、ヒスイは小松と小梅に目をやった。2体の魔器は一つ頷くと、その姿を本来の形である刀に変えた。

「よし、行くぞ」

「うむ。では加世、我らはこれからその廃墟に向かうが、そなたはどうする? 戻るか」

「いえ、私もお供いたします。これでも多少短刀の心得がありますので」

「ふむ、分かった。おぬしたちに紹介しておく。この者は加世、我に協力してもらっている鴉の一匹・・・・・・いや、人となったから一人といってよいか。マモン討伐に協力してもらう」


 身に着けている服の袖からきらりと光る刃を覗かせた彼女が、聖亜とヒスイに深々と一礼するその横で、キュウはふと、空を仰いだ。


 雲一つない夜空の中、星々の中心にあまりにも大きすぎる月が浮かんでいた。


「今夜は何かが起こるの。月がきれいすぎる」




 その日、準が夜遅くに外を出歩いていたのは偶然だった。午後から学校の図書館にいたのだが、夏休みに入ってからの夜更かしが続いたため、つい眠りこけてしまったのだ。

 それでも宿直の先生によって起こされ、九時前には学校を出たのだが、学校から家までは1時間ほどかかるため、途中のコンビニで夜食を買って帰るとどうしてもこの時間になってしまう。まあ、家には誰もいないから遅くなっても注意されることはないが。

「まったく、聖の奴全然遊びに誘わないし・・・・・・そろそろこっちから押し掛けてやろうか」

 ここで他の男に乗り換えようと考えないあたり、彼女は聖亜に心底惚れているのだろう。と、もうそろそろ家に着くとき、彼女は暗い道をばたばたと走る複数の人影を見た。



「ん? あれは・・・・・・聖亜か?」


 見えたのは一瞬だけだが、彼女は想い人を見間違えるようなことはしない。わずかな時間家と少年が通って行った道を交互に見たが、やがて意を決したかのように、少年が通った道へと走り出した。





それが彼女と、そして愛しい唯一の運命を決するとも知らずに





「・・・・・・っ!!」

「……」

「・・・・・・っ・・・・・・っつ!!」


「・・・・・・う?」

 


 すぐ近くで聞こえる甲高い女の声に、春奈はふと目を開いた。

 

 分からない。何故自分は気を失ってしまったのだろうか。自宅から聖亜の家に行く途中だったのは覚えているが、その後の記憶がない。身体を動かそうとするが、手首と足首がそれぞれ縛られているのか、微かに軋んだだけであった。

 だが、その軋む音に気付いたのだろう。今まで甲高い声を出して何かを言っていた女が、ふとこちらを向いた。


「あら、お目覚めかしらお姉さま」

「香、ちゃん?」

 そこにいたのは長い金髪をした女だった。年は十四、五歳ほど。だがけばけばしい化粧のせいで実年齢より随分と老けて見える。


「香ちゃん、あなた今まで一体どこに行ってたの? 私もあの人も、一生懸命に探していたの「兄さんを気安くあの人だなんて呼ばないで欲しいわね」あうっ!!」


 春奈は女―香にいきなり顔を踏みつけられた。そのままぐりぐりと踏んで満足したのか、一度爪先で頬を強めに蹴ると、香はしゃがんで春奈に笑いかけた。


「ねえお姉さま、今どういう状態かわかっていらっしゃる? お姉さまは縛られていて私は縛られていないわよね。これっていったいどういうことかしら」

「・・・・・・香、ちゃん、あなたまさか」

 彼女の言ったとおり、香はどこも縛られた様子はなく、しかも暴行を受けた形跡もない。ならば考えられることはただ一つだ。

「あははははっ!! そう、そうよその通り!! 私がお姉さまを攫ってこさせたのよ。どう? 義理の妹に誘拐された気分は」

「香ちゃん・・・・・・どうして、どうしてこんな事」

「どうして……ですって?」


 春奈の髪を掴んで容赦なく上を向かせると、香は彼女の汚れた頬に向かって唾をぺっと吐いた。


「そんなの分かりきってるじゃない!! あんたが私から兄さんを奪ったからよ!! あんたに兄さんを奪われて、私がどれほど絶望したかわかる? どれほどあなたを憎んだか理解できる? 出来ないでしょうね、なんでもできるあんたには!!」

「香ちゃん、まさかあなた、あの人の事」

「ええ愛してるわよ。可笑しい? 可笑しいわよね、妹が実の兄を好きになるなんて!! けどね、私は兄さんが好きだった。親に叱られた時、何も言わずに庇ってくれる兄さんが好きだった。喧嘩して家出しても、いつもちゃんと探しに来てくれる兄さんが好きだった。近くの悪がき連中にいじめられてる時、体が弱いくせにいつも助けに来てくれた兄さんが好きだった。けどある時から兄さんは私の方を見てくれなくなった。それがいつ頃からかわかる? あんたと付き合い始めてからよ!!」

「・・・・・・っ!!」

 髪を持ったまま、香は春奈の頬をバシッと張り飛ばした。

「それでも何時の日かあんたと別れて、また兄さんが私だけを見てくれる日が来ると信じていた。けど何、結婚ですって? しかも家で一緒に暮らしちゃって・・・・・・あんた達の新婚生活を見ながら、私がどれだけ憎しみを募らせてきたかわかる? それを少しでも発散させるために高校に入ってから髪とか染めてピアスをしたのも、兄さんにあげるはずだった処女を他の男にやったのも、家を出て何日も帰らないのも、全部あんたのせいよ!!」


 香の言葉と共に、暗い空間に頬を打つ音が響き渡る。やがて満足したのか、それとも手が痺れてこれ以上叩けなくなったのか、香は掴んでいた髪を放した。ごっと鈍い音を立てて、頬が真っ赤になった春奈の頭が床に落ちる。

「ふん、いい気味ね。大体お姉さま、何であんたみたいな完璧超人が凡人以下の兄さんと結婚なんかしたのよ、それが良く分からないわ・・・・・・ああ、あれ? 捨てられて震えている犬や猫にするみたいな同情って奴? ふん、同情で結婚なんてして欲しくないわね!!」

「・・・・・・がう」



 不意に、地面に転がっている春奈の口から、か細い声が辺りに響いた。


「がう? がうって何よ? はっきり言ってみなさいよ、ええ?」

「私があの人を、祐君を好きになったのは同情なんかじゃない・・・・・・可哀そうに思ったからなんかじゃ決してない。あの人が、祐君が本当は誰よりも強いことを知ったからよ。いじめられているあなたを助けるために、自分より体の大きな人達に必死になって向かっていくあの人を見て……ね」


 掠れる声でそう言うと、春奈は愕然としている少女に、そっと寄り添った。


「だから、もう家に帰りましょう。祐君が待っているあの和菓子屋さんに……私たち二人で」

「・・・・・・い」

「え?」


 だがその瞬間、彼女の体は再び地面に突き飛ばされた。


「うるさいって言ってるのよ!! この状態であたしに向かって説教するなんて、あんた一体何様? どうせ私の事頭がおかしい可哀そうな子と思ってるんでしょ。もういい。散々いたぶった後一思いに殺してあげようと思ったけど、それほど私が可哀そうなら、あんたも私と同じ目に合わせてあげる。これからあんたを真っ裸にひん剥いて、近くのホームレス連中にくれてやるわ。犬以下の連中に犯される中で、後悔しながら死になさい!!」

「・・・・・・っ!!」


 彼女の言葉に、春奈がさすがに顔を青ざめさせた時だった。


「ちょっとよろしいですか?」



 暗闇の中から、男の声が聞こえてきた。



「何よ大鳥、人が楽しんでいるときに」

「これはこれは申し訳ございません。ですが先ほどは何で殺してないのよと罵られたような気がしますが」

「ふん、確かに最初はこの女を殺していなかったことに腹を立てたわ。けど今は感謝してもいいぐらいよ。この女をいたぶることができるのですものね。それで? 何の用? 私は今とても忙しいのだけれど」

「はい。お楽しみの所申し訳ございませんが、どうやら“ネズミ”が二、三匹潜りこんだようです。恐らく」

 そこで、大鳥と呼ばれた男は床に転がっている春奈をちらりと見た。

「恐らくこの“商品”を奪還しに来た様子。それでどういたします? 迎え撃ちますか?」

「そんなの当たり前じゃな・・・・・・いえ、中々面白いことになってきたじゃない。そういえば、生き残った統馬の部下を根こそぎ攫ってきたって言ってたわよね? そいつらに対処させなさいよ」

「なるほど、それは確かに面白そうでございますね。よろしいかと存じます」

「あ、そ。ならさっさと準備しなさい。私もこの女を連れてすぐに行くから」

 香の高慢な言い方に顔色一つ変えることなく、大鳥ははいと一礼して再び消えて行く。それを見送ることなく、香は春奈に歩み寄ると、不意に微笑を浮かべた。

「さあお姉さま、これからショーを一つご覧にいれますわ。ショーの題名は「紐なしバンジージャンプ。果たして人間は、数十メートルの高さから墜落して生きていられるか」です。もちろん参加していただけるでしょうね、お姉さま」




 その微笑は暫くして本物の笑みに変わり、終いには、彼女は声高々に笑いだした。









「ったく、何匹いるんだこいつら」


 どこかで見た格好の動く死体が振り下ろした腕を難なく避けると、聖亜はヒスイから借りた練習用の木刀で死体の首をたたき割った。だがもともと死んでいるため効果が薄いのか、死体は二つに裂けた頭部をゆらゆらと動かしながら、再びこちらに襲い掛かってくる。


「どこかで見た格好だな。確か復興街にある屋敷を守っていた奴らじゃなかったか?」

「・・・・・・ああ、あいつらか。人が怪我するだけにとどめてやったというのに、何でこんなところで死体担って襲い掛かってくるんだ?」


 肉がそげ、頭蓋骨がむき出しになっている死体を袈裟蹴りにしながらヒスイが首をかしげると、聖亜は納得したように頷いた。なるほど、彼女の言う通り動く死体はそのすべてが数日前に相手をした統馬の部下達だった。


「個々の能力はそれほど強いわけではないようです。ですが油断なさいませんように」


 先ほど骨の欠片を突風を起こして吹き飛ばした加世が、短刀を舞うように振るう。その動きに合わせて、彼女を取り囲んでいた数体の死体がバラバラになった。





 彼らが動く死体に襲われたのは、廃墟と化したデパートに入ってすぐの事だった。デパートの一階にはそれこそ数十人ほどの死体が蠢いており、彼らはこちらに気づくと襲い掛かってきたが、すでに死んでいるためか個々の戦闘能力はそれほど高くなく、倒すことは簡単なのだが、問題は頭を粉砕しても、手足を切り飛ばしても何事もなかったかのように向かってくることである。





「ドートスが操っていた短剣と同じだな、おそらく死体の中に小型のスフィルが入り込んで動かしているんだろう。きりがない、無視して先に進むぞ」


「そうだな、くそ、さすがに疲れてきた」


 三十分ほど戦い、無駄だと悟ったヒスイを先頭に動く死体の間を通り抜け二階に続く階段を駆け上がる。ヒスイと加世が階段を上がり、最後にしんがりを務めていた聖亜が纏わりついてくる死体達を蹴散らしながら駆けあがると、ヒスイは手に持った太刀を階段に突き刺した。廃墟となってもろくなったのか、その一撃で会談は崩れ落ち、下にいる死体達を押しつぶした。


「これで奴らは二階に来ることはできない。行く・・・・・・いや、少し休憩するか。ここで休んでいろ、少し偵察に行ってくる」

「そうか、すまない」


 階段が崩れたのを見て満足そうにうなずいたヒスイが振り返ると、壁によりかかった少年が荒い息をしているのが見えた。魔器はたとえ練習用の木刀であっても扱う者の体力を大量に奪う。ヒスイは全く問題ないが、聖亜にとってはかなりきつかったようだ。青ざめた顔で、ズルズルと尻餅をつく。その様子を心配そうに眺めてから、ヒスイは階段を上っていった。少女を見送ると、聖亜は右手で米神を抑え、深々と息を吐いた。


「大丈夫ですか?」


 そんな彼に、ふと隣から声がかかった。随分おずおずとした口調である。ちらりとそちらを見ると、先程の戦闘で短刀に付いた汚れを落としている加世の姿が目に留まった。


「え? ああ。怪我は無いし、少し休めば大丈夫だ」


 階段をのぼり、三階に偵察に行ったヒスイの姿はすでにない。着物姿の見知らぬ少女と二人きりでいるという事実に、聖亜はなんだか落ち着かなくなった。


「そういえばこうやって話すのって初めてだったな。俺は星聖亜というんだ。よろしくな」

「はい。よろしくお願いいたします。聖亜様」


「いや、様付けはやめてくれ。俺はそんなたいそうな人間じゃないし、礼儀正しい挨拶なんてされてもあんまり嬉しくない・・・・・・というより、敬語はやめて普通に話してくれないか?」


「いえ、それはできません」


 正座して深々とお辞儀してきた加世に、少年は困惑気にそう言ったが、彼女は首を横に振っただけだった。


「いや、こっちが落ち着かない。けど本当にどうして敬語なんて使うんだ? 確か初対面だったと思うけど」

「はい。確かにこの姿でお会いするのは初めてです・・・・・・ですが私は以前聖亜様に命を助けられております。命の恩人に尽くすのは、可笑しいことでしょうか?」

「命の恩人? そう言えば鴉って言っていたな、それにその包帯・・・・・・まさかあんた、あの時俺が治療した鴉か?」

「は・・・・・・はい!!」

 聖亜の質問というよりは確認する言葉に、加世はぱっと顔を明るくして頷いた。

「へぇ、あんた雌だったのか。そういえばあの時一緒にいた鴉はどうした? ほら、片目が潰れている鴉」

「あれは父です。それよりあの時は本当にありがとうござました、聖亜様」

「いや・・・・・・だから聖亜さまって呼ぶのはやめてほしいのだけれど」

「そうですか? ではまだ早いかと思いますが・・・・・・旦那様で」

「な、何だよその、旦那様って!?」


 自分の言葉に驚いている少年を、加世は不思議そうに見つめた。


「人間がどうかわかりませんが、私達鴉にとって一度受けた恩は一生の物なのです。ゆえに大叔父様はあの方に協力することに決めましたし、私はあなたに命を助けられました。命の借りがある場合、同性なら命で、異性ならその体で相手に恩を返すのが普通なのです。人間と鴉という事で恩を返すことはできないと思っておりましたが、こうしてあなたと同じ姿になったことで恩を返せます・・・・・・どうかご奉仕させてください、旦那様」

「ご、ご奉仕って・・・・・・そんな」

 すり寄ってきた加世の体から放たれる甘い匂いに、頬をわずかに紅く染めた時である。


「いい加減にしろ、馬鹿」

「あいてっ!!」

 


 顔を真っ赤にしていた彼の頭を、いきなり誰かが叩いた。


「痛いって小松」

「ふん、お前がデレデレしてるのが悪い」


 少年の頭を叩いたのは、ヒスイが使っていた太刀である小松だった。今は刀の姿ではなく、家にいるような少女の姿をしている。


「“私の”旦那様に何をなさいます」

「誰が旦那様だ。それに今は戦闘中だ。い・・・・・・いちゃいちゃするなら、戦闘が終わってからにしろ」


「誰もいちゃついてなんていないだろ。それより小松、ヒスイはどうした、何かあったのか?」


「ヒスイ様は現在、四階に続く階段の少し手前に潜まれている。階段の前に敵が陣を敷いているんだ。獣型のスフィルが十数体と、その真ん中に・・・・・・なんだか妙な奴がいる」

「妙な奴? それはさすがに見てみないと分からないな。分かった、体力も回復したし、これからヒスイと合流する、案内してくれ。それから加世・・・・・・別に様付けで呼ぶのは諦めたけど、旦那様と呼ぶのはやめてくれ。さすがに嫌だ」

「そうですが、では聖亜様と、そう呼ばせていただきます」

「分かった、案内する。こっちだ、ついて来い」


 不承不承ながらも頷いた小松が先に三階へ続く階段を昇り、様づけで呼ぶことを許可してもらった加世が嬉しそうに微笑んだのを見て、聖亜は体力は回復したのに、なぜか疲れ切った顔で息を吐いた。










「すまないヒスイ、待たせた」

「いや、構わない。それより疲れは取れたか? なんだか少しやつれている気がするが」

「あ・・・・・・うん、まあね」


  三階に着くと、聖亜はひび割れた壁の裏に隠れ、四階に続く階段を見張っているヒスイに近寄った。気にするなと首を振った少女の目に、どこか疲れた表情をした少年の顔が映った。


「む? まあいい。それより、四階に続く階段は、あの通り封鎖されている」


 少女の言葉に壁に身を寄せて覗き込むと、なるほど、確かに階段の周囲を黒い狼のような姿をしたスフィルが十体、うろついているのが見えた。


「あれじゃさすがに避けて通るのは無理か。それと、さっき小松から妙な奴がいると言われたんだが、そいつはどこにいる?」

「ん? ああ、スフィルを従えていた奴か、奴なら少し前に四階に上がっていったぞ。確か・・・・・・伏せろっ!!」

「っ!?」


 ヒスイが叫んだのとほぼ同時に、聖亜は体を横に投げ出した。その瞬間、すぐ後ろをスフィルの爪が少年の長い髪の毛を数本巻き込んで通り過ぎる。体勢を崩した少年に対し再び爪をふるおうとした時、加世が振り下ろした短刀がスフィルの眉間に突き刺さった。



「すまない、気づかなかった」

「仕方ない、スフィルは気配が希薄だからな。それより」



 小松が変化した太刀を構えなおすと、ヒスイは四方から向けられる獣の眼光ににやりと好戦的な笑みを浮かべた。



「これで完全に気付かれたな」







 振り下ろされた爪を右に飛んで避けると、聖亜はスフィルの頭に木刀を叩きこんだ。霧か何かを叩いたような感触が伝わり、絶叫一つ上げずに頭部を粉砕されたスフィルが黒い染みになって消えていく。それを見ることなく少年が次の獲物を探した時、勝負はほとんどついていた。ヒスイは太刀でスフィルを数体丸ごと切り刻み、加世は獣の間を素早く駆け抜け、的確に相手を仕留めていく。


「俺が一番足手まといだったな」

「慣れない武器を使っているんだ、当然だろう。しかしこれで」


 刃にこびり付いた黒い体液を太刀を振るって落とすと、ヒスイは階段を塞ぐように集まっている四体のスフィルに目をやった。数分前は十数体いたスフィルだが、今ではもうあれしか残っていない。


「ああ、後はあれを倒して四階に行くだけ「ぬばばばばばばっ!!」・・・・・・ん?」



 ヒスイの言葉に頷きつつ、階段に近付こうと聖亜が一歩踏み出した時である。四階からいきなり粘りつくような笑い声が聞こえてきたかと思うと、四階から”降ってきた”巨大な影が、こちらに怯んだのか向かってこないスフィルの一体を押しつぶした。




「・・・・・・あれが私が見かけた”妙な奴”だ。見覚えがあるだろう?」

「・・・・・・ああ、けどなヒスイ、ああいうのは”妙な奴”じゃなくて”変態”というんだ。ったく、誰だよあいつをゾンビにしたのは」



 どこかで見た、というよりも一度見たら決して忘れることができず、そして見るのはその一度だけでいいと心底思う、身体の右半分が腐り、左腕がガトリング砲と一体化した、数日前に復興街で倒したはずの粘り気のある笑い声を響かせる大男を見て、少年はげっそりと息を吐いた。




「ぬば、ぬばばばばばっ!! ぎでみろじんにゅうじゃ、ご、ごのおでざまがはぢのずにじでやる」

「聖亜様はあの狂人を知っているのですか?」

「知りたくなかったがな。俺が数日前に叩き潰した正真正銘の馬鹿だ」

「だが馬鹿でも・・・・・・いや、馬鹿だからこそ体力はあるようだ。スフィルに浸食されても言葉を話すことができるとはな」



 ヒスイの言う通り、男を操っているはずの黒い小さなスフィルは、男が動くたびに体内から飛び出て、そして再び入っていくのを繰り返している。こちらからは、身体から黒い霧が放出し、それがまた吸い込まれているようにしか見えない。


「それで? どうやってあいつを殺す? さすがに無視していくことはできないだろう」

「そうだな・・・・・・なら俺が囮になるから、あいつの首でも断ち切ってくれ。加世、協力してくれるか?」

「もちろんです、聖亜様」

「よし、じゃあさっさと行くぞ。ったくあの馬鹿、三度も人の手を煩わせやがって。今度こそ完全に息の根を止めてやる」

 

 男が自分に向かってくる気配に気づいたのは、退屈しのぎに周囲にいるスフィル達をガトリング砲で叩き潰している時だった。こちらに向けられる強烈な殺気に、だが男はひるむどころか獰猛な笑みを見せた。

「ぬばばばば、やっどきだのか、侵入・・・・・・ジャ?」

 笑いながらガトリングガンを向けた巨漢の動きが、相手を見てふと止まった。自分より遥かに背の低いその少年に、彼の体ががたがたと震え始めた。


「ひ・・・・・・ひぎ、ぎ」


「よう糞野郎、閻魔様にでも追い返されたのか? まあいい、ならこっちも送り返してやるだけだ!!」

 そう言ってにやりと残酷なほど無邪気に笑うと、聖亜は手を伸ばし、男の頬をぴしゃりと叩いた。


「ぎゃああああああっ!! ぐ、ぐるなあああ!!」

「へえ? 今度はきちんと俺の事を覚えてるみたいだな。脳みそ腐っちまった方が頭良いんじゃねえか? けどな」


 自分の胸ほどもない小柄な少年を見て、だが男はまるで悪魔顔にでも見たように顔面いっぱいに恐怖の表情を浮かべると、左腕に取り付けたガトリング砲をめちゃくちゃに振り回す。


「よ、とっとっと・・・・・・お前さ、せっかくでっかい武器持ってるのに、何で撃たないで振り回してるだけなんだ?」

「撃づ? そ、そうだっだ!! ぬばばばば、死ねぇ!!」

 ようやく自分の持っている武器が何なのか気付いたのか、男は聖亜にガトリングガンの銃口を向ける。だが向けられた聖亜に恐怖はない。ただ呆れたように首を振っただけだ。

「・・・・・・敵に教えられるなよな、まったく」

 その呟きに対する返答は、巨大な銃口から放たれた無数の銃弾だった。銃弾が飛び出す反動で男の体がふらふらとあちこちに揺れ、近くにいるゾンビやスフィルを粉々に粉砕していく。

「ぬばばばば、ど、どうだ……じ、死んだ! あのバゲモノが死んだぞ「おいおい、人を勝手に化け物にするんじゃねえよ」……べ?」

 不意に、男の頭が蹴られた。爪先でける軽い一撃だったが、男の巨体はふらふらと揺れ、どしんと尻餅をついた。

「ぐ、ぐぞ……あれ?」

 慌てて立ち上がろうとした男は、だが自分の体が下に沈んでいくのを感じた。

「あ、あで? あでぇ?」

「そりゃ沈むだろうさ。ただでさえ廃墟になって脆くなっているのに、そこに銃弾をくらったんだ。さらに重いお前が尻餅をつけば、、床は簡単に崩れ落ちる・・・・・・ヒスイッ!!」

 後ろに跳躍した少年が叫ぶと、彼と入れ違いに飛び上がった少女が床に埋まっている男の肩に飛び乗り、太刀を持つ両手に力を籠めた。


「これで、終わりだ!!」

「ぬがぁああああああっ・・・・・・あ、ああ、申し訳ありません、か」

「っ!?」



 気合を入れて、男の脳天に太刀を突き入れる。突き刺した太刀が男の脳を破壊するその瞬間、彼はまるで憑き物が落ちたかのように穏やかな表情を浮かべ、事切れた。



「死ぬ直前に正気に戻るなら最初から狂うな、馬鹿野郎がっ」

「・・・・・・魂よ、安らかに眠れ」


 事切れた男の身体が砂と化し、宙に舞い散っていくのを見送りながら、聖亜は右手をぎゅっと握りしめ、ヒスイは静かに黙祷した。




「小僧、やつを救えなかったことを悔やむのはいいが、感傷はほどほどにしておけ、出ないと死者に飲まれるぞ」

「キュウか。それで、やはりマモンはいなかったか」

「うむ、それと攫われた春奈という女もな」

 

 死者を悼む二人に声をかけたのは、彼らと共にに中に入り、そこから別行動をとって廃屋の中を捜索していた黒猫だった。彼女の言葉に祈るのをやめ、ヒスイは太刀を持つ手に再び力を籠める。

「ということは、奴らはおそらく屋上で待ち受けているだろう。ここが正念場だ、しっかりと気合を入れなおせ」

 勝手に仕切るな。からかうようなキュウの言葉にそう反論しようとした聖亜だが、一の小言に反論すれば十の小言が返ってくるだけだ。あきらめてため息を吐くと、後ろにいる二人の少女に頷き、聖亜は屋上に続く階段を早足で駆け上がっていった。



 、

 

「ようこそ皆様、お早いお着きで」

「・・・・・・」


 それから数分後、屋上に出た聖亜とヒスイを出迎えたのは、真っ赤に染まった月を背後にして浮かぶ異形の怪物だった。

 優雅に一礼したその怪物、マモンにヒスイは太刀の切っ先を向けたが、相手の表情に恐怖の色はない。それどころかおやおやと呟き、軽い笑みさえ浮かべていた。そんな彼の傍らには、護衛であるハリティがすでに両手に三日月形の太刀を握って立っている。


「よろしいのですか? 異なる勢力圏で貴族と戦闘を行うことは原則として禁じられているはずですよ。それでも私と戦うおつもりで?」

「別に貴様を倒す事が目的じゃない。私達はただ春奈さんを探しに来ただけだ。その途中で“偶然”貴様と遭遇し、“偶然”戦って、“偶然”勝つに過ぎない」

「そういうことだ。で、お前を倒す前に一つ聞きたい。マモン、お前一体何で春奈さんを攫った? 関係ない人だろう」

「関係ない? いえいえ、そんなことはありません。むしろ私の狙いは彼女なのですから」

「・・・・・・どういうことだ? 春奈さんは確かに聡明な人だが、それでも一般人だろう」

「ふふ、それは私が命令したからよ」

 

 太刀を構えたまま、睨みつけながら問いただしたヒスイの問いに答えたのは、マモンではなく彼の背後から現れた、一人の少女だった。


「お前・・・・・・香か?」

「ええ。久しぶりね、聖亜」

 少年の訝しげな視線を受け、女はにっこりと笑って見せた。


「聖亜、香って確か城川先生の」

「ああ、行方不明になっていた妹だ。けどどうしてマモンと一緒に・・・・・・ああ、そういう事か」

「そういう事? どういうことだ」


 控えめに尋ねる加世の質問に、聖亜はああと言って頷いた。


「恐らくこいつがマモンの本当の契約者なんだろう。で、こいつ実は中学生のころから城川先生・・・・・・つまり自分の兄貴の事を憎からず思っているんだ。ようするに、こいつは春奈さんを始末したくて仕方がないんだよ」


「あら? 逆に義姉さんの方が黒幕で、私は人質となってここにいるとは考えなかったのかしら」

「そんなこと、考える必要もないだろ、こんな場所でそんなに堂々としている人質がいるか。それに春奈さんがどうしてお前を攫う必要があるんだよ、あの人は好きだった城川先生と結婚できて、本当に幸せそうだったんだからな」

「・・・・・・相変わらずね、聖亜。けどそんな口の利き方、いつまでもしていいとでも思っているのかしら。あれをごらんなさい?」

「・・・・・・?」

 ぎりぎりと歯ぎしりした香が指差した方を見て、聖亜は軽く眉を顰めた。屋上から突き出た鉄棒の先端に縄がぶら下がっており、その下に一人の女が括り付けられていた。しかも、その周囲には獣型のスフィルが十数体うろついている。


「あれは・・・・・・春奈さん!?」

「くそっ、人質のつもりか」


 太刀を構え、それでもヒスイはマモンに切りかかれない。自分が切りかかろうとしたその瞬間、奴は躊躇なく彼女を地面に落とすだろう。

「もし春奈さんを殺してみろ、いくらお前でも容赦はしない」

「あら、いい度胸ね。今この場でそんな戯言をほざけるなんて」

「いわゆる空元気というやつでは? さて、観客も来られたようですし、一つ面白い余興をお見せいたしましょう・・・・・・ハリティさん」


 本来の姿に戻ったマモンに呼ばれ、彼の付近に控えていたハリティが右手に何かを持ってずるずると近づいてくる。それは自分で歩けないほどに不自然に膨れ上がった三人の男であった。


「・・・・・・まさか、幻馬? ということは、こいつら三馬鹿兄弟か!?」

「ええ、今まで協力してあげた代価として、彼らの身体をいただいたのですが・・・・・・どうです? 見事なものでしょう」

「・・・・・・」


 マモンの声に警戒しながらも、どこか余裕の表情を見せる聖亜の前に、ハリティが放り投げた3人がごろりと転がった。

 と、ここで聖亜が妙なことに気付いた。三人が一塊になって転がったのだ。別に紐か何かで繋がっているわけではない。なのにまるで皮膚がくっ付いているかのようにぴたりと同じ動きをしている。


「これは・・・・・・どういう事だ?」

「なに、簡単なことですよ。私が開発していたのは何も即応性だけではありません。実はもう一つ、まったく逆の研究もしていましてね。それが彼らに植え付けたプロトベータ、すなわち使途の卵を複数の家畜に植え付け結合することで、強力な使徒を生み出す術・・・・・・さあ、私の研究成果、存分にご堪能ください!!」


 嬉しそうに説明する鷲の前で、三馬兄弟の体が、びきりと罅割れた。



 最初にそれぞれの体の中から現れたのは、九つの巨大な蛇の頭だった。が、すぐにそれは一つに纏まり、やがて巨大な一匹の蛇へと変わっていく。三体の巨大な蛇はずりずりと体を出していったが、やがて何かに引っ掛かった様にその動きが止まった。それでも無理に体を押し出すと、やがてその後ろから、それぞれの体の太さのを足して、さらにその三倍以上ある胴体が現れた。胴体にはそれぞれ前に二本、後ろに二本、そして左右に四本ずつの、大人の身体ほどもある巨大な手足が生えている。


「・・・・・・」

「はははっ!! は~はっはっは!! ご覧ください。これぞ私の研究成果、使徒の中でも特に攻撃能力と再生能力に優れたヒドラの体細胞で作られた使徒の卵をさらに増強して作り上げた、その名もハイパーヒドラ、略してハイドラです!! さあハイドラ、あなたのその力を、動けぬくだらないごみ虫連中に見せつけて御上げなさい!! ああ、むろん抵抗してもかまいませんよ? その場合人質となっている女性を落とさせてもらうだけですから。それから、まあハリティさんも頑張ってくださいね。出ないと」


「分かっている。与えられた仕事はきちんと果たす」


 マモンの哄笑にむっつりした返事を返すと、ハリティは腰にぶら下げていた三日月形の剣をシャラッと引き抜いた。


「さて少年少女、お前達に恨みはないが、これも私の願いのためだ。すまぬがここ死んでくれ!!」

 そう叫ぶと、彼女は呆気にとられたままの聖亜達に向かって走り出した。


「くっ、聖亜!!」

「へ? うわっ!!」


 巨大な三つ首の怪物を呆然と見ていた聖亜は、隣からぶつかってきたヒスイによって横に投げ出された。ガキンと刃と刃が合わさる音がして、ハリティの刀とヒスイの太刀とが激突する。


「ぼうっとするな、今は奴らの攻撃を避けつつ、彼女の動ける機会を作るぞ」

「すまん、だがそうだな・・・・・・なんとか一瞬でも奴らの視界を遮ることができれば」

「そうだな、さて・・・・・・どうする、かっ!!」


 聖亜の言葉にかすかに頷いた少女は、そのまま手に持っていた太刀を彼に投げつける。自分に向かって飛んでくる太刀を全く恐れずに眺めていた少年は、ひょいと首を右に傾けた。次の瞬間、飛んできた太刀は彼の横ぎりぎりを通り過ぎていく。そして、


「む」


 そして太刀は、今まさに少年に背後から三日月型の刀を突き入れようとしたハリティの肩を掠めた。後退するハリティにもう一本の太刀を引き抜いて肉薄するヒスイから目を放すと、聖亜はこちらに向かってドシドシと歩いてくる巨大な三つ首の怪物を眺めた。


「さて、とりあえず反撃は絶対禁止ということだったな。なら、せいぜい奴らの目の前で、派手に踊ってやるとするかっ」



 軽口を叩きつつ、聖亜はこちらに向かって振り下ろされたハイドラの爪を避けた。手に持っている木刀で受け止めるには、五十センチほどの厚さを持つ爪はあまりに大きすぎる。たとえ木刀が無事だったとしても、おそらく自分は持たなかっただろう。体勢を立て直す暇もなく、今度はハイドラの巨大な腕が右側から迫ってくる。大人の身長ほどもあるその腕はさすがに避ける事ができず、小さく舌打ちをすると、少年は手に持っていた木刀を迫ってくる腕に叩きつけた。ガンッと鉄を打ったような衝撃が腕に伝わる。だがその一撃が効いたのか、こちらに向かってくる腕が一瞬たじろいだかのように止まる。その隙を逃がさず、渾身の力を込めて腕の上に上がると、そのまま反対側に降りた。



「・・・・・・ぐっ!?」



 だが降りた瞬間、彼は顔を顰めて片膝をついた。左手をまわして右肩に触れると、ぬるりとした感触が伝わる。先ほど跳躍した時、爪の先端がわずかに肩を掠めたのだ。少しでもずれていれば、自分の小柄な体は

間違いなくずたずたに引き裂かれていただろう。



「さすがにこのままではちょっとまずいか、ヒスイの方も苦戦しているようだしな」




こちらに向かってくる巨大な怪物を睨みながら、聖亜は自分の横で、強敵と戦っているヒスイを見た。彼女は今ハリティと一対一で切り結んでいるが、その剣戟はすでに百合を超えている。しかし二刀流に対し太刀一本では分が悪いのに加え、腕力、技量とも敵のほうが上回っている。それでも何とか対応できているのは、相手が所詮は道場剣術であるのに加え、長年刀を握っていなかったこと、そしてスフィルと融合したことで本来の能力を発揮しきれていないためだ。だが、スフィルと融合したことで体力は飛躍的に上がっており、ヒスイは自分同様、徐々に追い詰められている。そしてとうとう、二人の背は後ろの壁に触れた。




「もう逃れる術もありませんか!! 我らを倒せるといっても所詮は家畜、一度追い詰めてしまえばこんなものです。さあハイドラ、ハリティさん、目の前の家畜を肉塊にしておやりなさい」




 

甲高く笑いながら命令するマモンに従うように、三つ首の怪物がその巨大な腕を振り上げる。そしてその腕が振り下ろされる瞬間、ヒスイと聖亜はたがいに目配せすることなく、だっと左右に飛んだ。怪物の腕が二人がつい先ほどまでいた場所に振り下ろされる。その一撃で、壁は粉々にくたけちった。


「おやおや、逃げても無駄だということが、まだわからないようですね。さあマモン、再び攻撃を・・・・・・ん?」



 ハイドラの一撃を避けた二人を見て、それでも余裕の笑みを崩さないマモンが再びハイドラに指示をしようとした時である。ハイドラが破壊した壁の上で巨大貯水タンクがぐらりと揺れ、バランスを崩してハイドラの上に落ちてきた。


「・・・・・・おやおや」



 目の前の光景を見て、マモンは苦笑しつつ首を振った。古い貯水タンクはハイドラの三つの首のうち二つを押しつぶしている。だが、あんなもので傷をつけることなど不可能だ。



「まさかそんなもので倒せると本気で思っていたのですか? さあハイドラ、愚かなことを考える鼠どもを踏み潰してやりなさい」


 その声に従い、ハイドラが屋上の床に足を乗せ、タンクを持ち上げようとした時である。床にいきなりびしりと亀裂が走ったかとおもうと、怪物を乗せていた床が崩壊した。むろん、その上に乗っていた怪物の身体は、その崩壊とともに沈んでいった。周囲に粉塵が舞い上がり、もうもうと煙が立ち込める。


「なっ!? まさか、ハイドラの動きを封じ込めるのが狙いですか!? しかし甘いですねぇ、視界を遮られたぐらいで、私の命令をハイドラが効けなくなるとでも思っていたのですか?」

「マモン、何をしてるのよ、さっさとこの女を殺しなさい!!」 

「・・・・・・おやおや、我が契約者殿は気が短い。まあいいでしょう、十分楽しみましたし、その願いをかなえてやると致しましょうか」

 

 自分のすぐ横にいる香が、立ち込める粉塵にせき込みながら叫ぶと、煩わし気に右顔を顰めながらも、マモンはパチンと指を鳴らした。だが、



「・・・・・・む? おかしいですね、何かが落ちる気配がありません」




指を鳴らしたというのに、縄が切れる気配がない。不審に思いながらも何度か指を鳴らしていると、不意に煙の中から何かがこちらに向かって飛んでくるのが見えた。チッと強く舌打ちして飛んできたものを叩き落とし、傍らに転がったそれを見た時、マモンは一瞬息を呑んだ。なぜならそれは、無礼極まりない家畜と戦っていたハリティ委の持っていた三日月形の太刀だったからである。しかも、それを握っていた手と一緒であった。



「な・・・・・・なん、ですって!?」

「無様だなマモン、やはり貴様は単なる商人だ。戦術という物をまるで理解していない」



 驚愕しているマモンに追い打ちをかけるように、薄れつつある煙の中から何者かの声がする。苛立たしげに手を振って煙を吹き飛ばすと、まず初めに片手を切り飛ばされて膝をついているハリティ委の姿が目に映った。続けて彼女の首に太刀を突き付けている白髪の少女とその傍らに立つ先ほどいなかった黒い翼を生やした和服の娘、さらには床に半ば埋まっているハイドラの三つ首のうち、中央にある首の右目に木刀を突き立てている黒髪の少年と、彼に付き従うように左右にいる二体の人形、そして彼らの後方で人質だった女を守っているもう一体の人形と、その傍らでこちらを侮蔑を込めて睨んでくる黒猫の姿があった。



「き、貴様らいつの間に・・・・・・それに、戦術!? いったいどういうことだ!!」

「能無しの貴様に何を言っても無駄なことだ。それよりもほらどうする? 貴様の部下も、ご自慢の怪物もどちらもこの通り叩き伏せられているぞ?」



 焦るマモンを貶す黒猫の言葉を聞きながら、聖亜はつい数分前の出来事をぼんやりと思い出していた。





「ふむ、随分と押されているな」




 それは、煙が発生する数分前の事だった。廃デパートのすぐ隣にある公園に生えている木の中で、一番高い木に登り、黒猫のキュウはハイドラとハリティに追い詰められている愛しい未熟者たちを眺めていた。


「人質を取られているから手が出せないのです。早く救出しなければ」

「まあまて、今下手に動いても勘付かれるだけだ。それはいくら未熟なヒスイたちでもわかっているだろう。恐らく何らかの方法で隙を作るはずだ。動くのはそれからでよい」



彼女たちがここにいる理由は、マモンが罠を張っていることを警戒しての事だった。予想通り、相手は人質を取っており聖亜達は手が出せないでいる。自分たちの役目は、その人質を救出することだった。だが、下手に動けば黒猫の言う通り相手に気づかれ、人質は真っ逆さまに地面に落ちていくことだろう。



「ですが、このままでは聖亜様が」

「あんた、さっきから聞いてると随分聖の事見くびってるのね」

「・・・・・・なんだと?」


 冷たく言い放った黒猫に、さらに加世が詰め寄った時、そのすぐ横で、呆れる何者かの声がした。加世がじろりと横を見ると、聖亜の従卒を務めている三体の人形のうち、赤い馬の人形に乗った騎士のような人形がこちらを向いているのが見えた。他の二体、戦士のような人形と僧侶のような人形は、何も言わずにこちらを眺めている。



「お慕いしている人の事を心配することが、なぜ見くびっていることにつながるんだ」

「それが見くびっているってことよ。心配してるってことは、要するに聖の事を自分より下に見ているということ、それが見下している以外のなんだというの?」

「っ、お、お前こそ従卒のくせにあの方を呼び捨てにするなど、何様のつもりだ!!」

「えぇ? けど聖亜様なんてあの子は似合わないわよ。うん、やっぱり聖は聖じゃなきゃ」

「お前、それで良くあの方の従卒が務まるな」

 不機嫌そうに呟いた加世の言葉に、ナイトはそうね、と笑った。


「そりゃあ私もポーンもビショップも、”向こう”にいた頃は宮仕えなりなんだりしていたから、聖が私達に服従することを望むなら、その通りにするわ。けど聖は私達に服従なんて望んでいない。そんなんだから一緒に居たいと思うし、ちょっと物足りない時もある。でもそんなものじゃない・・・・・・特に男と女の間柄なんてものはね」

「・・・・・・確か従卒がどうこうの話をしていたと思うがな。いつ男女の話になった。だいたい、お前は人形の身体のくせに、あの方を女としてお慕いしているのか?」

「まあそうね、この身体になって、初めて好きと思える相手に会えたというほうが正しいかしら」


「何を小鳥のように囀っておる、未熟者どもめが」


「あ・・・・・・も、申し訳ございません」

「あらら、怒られちゃったようね」


 すぐ隣で彼女たちの言い争う声を聴いていたキュウが呆れた口調で叱り飛ばすと、加世は恐縮したように、そしてナイトの方は肩をすくめて押し黙った。



「ふん、戦場で男のことを話すなど、随分と余裕があるの・・・・・・それより、聖亜の方はそろそろ仕掛けるつもりだ」



 黒猫の言葉に、はっと顔を上げて廃墟の方を見ると、壁際に追い詰められていた聖亜とヒスイが、目配せすることなく同時に左右に飛んだのが見えた。そしてその直後、今まで彼らがいた場所を、巨大な獣の爪が通り過ぎていく。その爪は見事に壁を粉砕したが、その一撃で壁の上にある巨大な貯水タンクがぐらりと揺れた。


「加世、すまぬがそなたの背に乗せてもらうぞ」

「はい、それは構いませんが・・・・・・まさかこの人形たちもですか?」

「まあ、さすがにこの身体で空を飛ぶことはできないわ。跳躍することはできるけど・・・・・・んじゃ、頼むわね」

「ちょっ!? おいっ」



 黒い大きな翼を広げた少女の背中に、ナイトは遠慮なく飛び移った。人形であるため重さはそれほど感じないが、それでもいきなり乗られたためか衝撃はそれなりにある。顔を顰めながら他の二体の人形がそれぞれ方に、そして黒猫が自分の腕に飛び乗ったのを確認すると、加世は翼をはためかせ、夜空へと舞い上がった。空に舞い上がった彼女の目に、重心を失って落下した貯水タンクに押しつぶされ、その重量に耐えきれずに崩壊した床ともども下にめり込んでいく怪物の姿が目に留まった。だが、その直後に舞い上がった粉塵と煙により、後はもう何も見ることはできなかった。



「よし、今がチャンスだ。人質となっている女がどこにいるかは覚えているな、加世、まずはそこに飛べ。煙の中だから視界は悪いが、そこは心配するな。我が誘導する。女の下にたどり着いたらナイトとポーンは女を守っているスフィル達を一掃、その間にビショップと加世で女を助け出す。煙が出ている時間はそう長くはない。皆、迅速に動け」







「そして煙の中で音もなく人質を救出、こやつらに合流し、反撃を開始した、というわけだ」

「・・・・・・」




 黒猫の嘲笑するような口ぶりに、だがマモンは何も言うことができなかった。口が鳥の嘴になっているため歯はないが、もしあれば歯ぎしりをしていただろう。そんなエイジャの様子を視界の片隅におきながら、聖亜はかつて自分を慕っていた弟分が変化した、三つ首の怪物の目に刺さっている木刀を引き抜き、別の目に突き刺した。木刀といってもその正体は巨大な樹木を一本丸ごと凝縮して作り上げた物らしく、かなりの重量と頑強さを誇ているため、怪物の目を容易くつぶすことができていた。






「・・・・・・いけませんねえ、このままではせっかくの傑作が損傷してしまいます。一度退却しますか」

「ちょっと鷲、どういう事よ、春奈も取り返されちゃったし、一体いつになったらあいつを殺してくれるの?」

「・・・・・・」

 マモンは自分に甲高い声で話してくる香を鷲の顔で苦笑しながら見つめていたが、やがてため息を吐いてその顔を近づけた。


「やれやれ、いいですか契約者様、私があなたの命令に従っているのは、研究を終えるまでのほんの気まぐれ。研究の成果を確認した後は、私は此処にいる理由がないんで「・・・・・・ま、マモン」おや?」


 と、香に詰め寄っていたマモンの耳に、微かなうめき声が聞こえてきた。


「おやおや、あなたは高々玩具使いに敗れたハリティさんじゃないですか、一体何をなさっているのです? さっさと死んでくれませんかね?」

「く・・・・・・ま、マモン、頼む。私の、私の息子を蘇らせてくれ、頼む」



 先ほどはヒスイを圧倒していたものの、煙の中で気配を殺して背後から迫ってきた加世に気を取られた一瞬の隙をつかれ、三日月型の太刀をその左手首ごと斬り飛ばされたハリティが苦し気に懇願してくる様子を、マモンは冷ややかに眺めていたが、やがてふぅっと息を吐いた。




「ま、いいでしょう。あなたも私のために懸命に闘ってくれましたからね。研究はあなたのおかげで成功したといってもいいでしょう。さあ、手を出しなさい。今あなたの息子を出してあげましょう」

「す、すまない・・・・・・ああ、私の坊や」


 瞳から涙を流し、こちらに向かって両手を伸ばして懇願する彼女の手の上に手をやると、マモンはぶつぶつと何かを呟き始めた。その呪文に合わせ、空中に黒い影のようなものが浮かび上がる。それは、幼い子供の形をしていた。


「ああ、坊や」

「さあ、受け取りなさいハリティさん、あなたの息子ですよ。ですが注意事項を一つ・・・・・・申し訳ありませんが、あなたの本当の願いが叶うことは、決してありません」

「・・・・・・え?」


 蔑む追うなマモンの言葉にハリティ委が動きを止めた時、彼女の手に何かが落ちてきた。彼女は呆然と手の中を見て、そしてそれを地面にポトリと落とした。



「おや、どうしたのですか。あなたの息子さんですよぉ? さあ、抱きしめてあげるといい。漆黒の炎に焼かれ、黒焦げになった自分の子供をね!!」

 地面に落ちている黒焦げた幼児の死体にわざとらしく足を乗せると、マモンはそれをぐしゃりと踏みつぶした。


「ひっ!!」

「おや? これはこれは申し訳ありません。私としたことが踏みつぶしてしまいました。まあ、粉々になっていますが、どうぞ息子さんに呼び掛けてあげなさい」

「あ、あ・・・・・・あ、ああああああああっ!!」



「な、何だ?」




 ハリティを無力化し、ハイドラと戦っている聖亜の下に駆け寄ったヒスイは、いきなり聞こえてきた女の声に立ち止まると、顔を声のした方に向けた。


「・・・・・・ふん、やはりそういうことか」


 ヒスイと同様声のした方を見たキュウは、顔を顰めて小さくつぶやいた。彼女の視線の先には、黒い液体に襲い掛かられるハリティの姿があった。襲い掛かる黒い液体を、彼女は残った左手で何とか振り払おうとするが、両手が無事であっても液体を振り払うのは不可能だっただろう。なぜならその黒い液体は、彼女自身の身体からにじみ出ているのだ。そして黒い液体は、ハリティの身体を完全に覆いつくした。そして、







 黒い液体に完全に覆われたハリティが叫ぶのをやめ、ゆっくりと立ち上がると、その液体がものすごい臭気と共にはじけ飛んだ。



「寄生種に完全に取り込まれたか・・・・・・哀れな」



 そこにいたのは、もはや先ほどの姿とは打って変わった寄生種に支配された彼女の姿だった。黄色い線が入った黒い肉体から生えている同じく黒く長い六本の腕の先は、先ほどまで彼女が所持していた三日月形の刃の、ふとさ、長さ共に二倍はあるであろう刃が手の代わりに生えている。そして黒い液体に覆われた顔の中央からは、二対の赤い液体がまるで涙のように流れている。その姿を、キュウはどこか憐れみを込めて眺めた。





「はは、はははははっ!! いやはや、やっと完全に取り込まれてくれましたか。まったく、ありもしない希望に縋る家畜ほど厄介なものはありませんねぇ。さあハリティさん、いえ、使徒ハリティよ、その力をもって家畜共を滅ぼしておやりなさい!!」



「オオオオオオッ!!」


 マモンの声にハリティは暫く空に向かって吠えていたが、やがてふらふらとこちらに近付くと、ヒスイに向けて無造作に六本の刃を振り回した。



「くっ!! マモン、貴様嘘を・・・・・・いや、最初からこれが目的だったのか!!」


「嘘? いえいえ、私は嘘などつきませんよ。お客様の求めにはきちんとお応えいたします・・・・・・ですがねぇ、この場所の一体どこに私のお客様がいるんです? いるのはただあなた方“家畜”ではないですか。あなた方は家畜と契約など致しますか? ただ喰らうだけでしょう!!」


「やっぱりそういう事か」


 四方八方から襲いかかってくる刀を弾き返しながら、ヒスイは哀しげにかつてハリティだったスフィルを見た。マモンと契約を交わしたのはこの女の自業自得であるが、それでもこれは少しひどすぎるだろう。



「く、加勢しま・・・・・・きゃっ!?」


 

 さすがに六本の刃に対してたった一本の刀で立ち向かうのは不利だと考えたのだろう、それまで事の成り行きを見守っていた加世が、小太刀を握り締めてヒスイに駆け寄ろうとしたその時、彼女のすぐ前を人の身体ほどもある巨大な腕が通り過ぎた。今まで埋もれていたハイドラが、ようやく穴から這い出てきたのである。先ほど聖亜が潰した目も今は再生し、何もなかったかのように周囲をじろりと睨んでいる。とてつもない再生能力だ。



「くそ、こうなったら俺が」

「そなたでは無理だ聖亜。近づいただけで叩き切られるし、それに動揺したヒスイもまたやられる」

「ならキュウ、頼むから封印を解いてくれ。この腕ならあいつを倒せるんだろ?」

「うむ、それはそうだが・・・・・・あの馬鹿娘が起きてくるという確証はない。しかし、このままではじり貧だ。ううむ」


 彼女にしては珍しく、難しい顔で唸る黒猫の足元で、何かがふと輝いた。











「おやおや、あれじゃそろそろ負けるね。どうするスヴェン」

「・・・・・・」

 結界に封じ込められた廃墟の様子を、結界の外にあるビルの屋上から双眼鏡で覗き、面白そうな声を上げたエリーゼの隣で、スヴェンはむっつりとした顔で両手に持つチェーンソーのスイッチを入れた。



「我正す。故に我有り・・・・・・あの女は俺の獲物だ。エイジャを殺し、その後にあの女も殺す。それだけだ」

「あはは、そりゃそうだ。そんじゃいくよ、バジ」


『・・・・・・』


 彼女の声に無言で答えると、“それ”は二人を乗せ、ゆっくりと動き出した。










 その光に気付いたのは、黒猫ではなくその横にいた加世だった。



「あの、すいませんがキュウ様・・・・・・首の箇所が光っております」

「加世、そんなものは後にせよ・・・・・・む?」

 繰り出される六本の刃に苦戦しているヒスイの様子を見ていたキュウは、最初彼女を見ずにそう答えたが、やがて光が強まると、気にしないのが難しくなり、仕方なく下を見た。



 黒猫の首下で光っていたのは、戦闘に入る前にヒスイから預かっていた、鍋のような形をしたペンダントだった。



「ん? どうした、キュウ」

「ふむ・・・・・・なるほど、そういうことか。聖亜、少し手伝え」


 黒猫がペンダントを軽く突くと、その中から光り輝く物が飛び出してきた。それを見た黒猫と聖亜は、呆然と顔を見合わせた。




「あくっ!!」


 どれぐらい打ち合っただろう、一瞬の隙をつかれたヒスイの手から太刀が弾き飛ばされる。だがそれを見送る彼女の目にあるのは、困惑と嘆き、そして目の前の寄生種に対する憐れみであった。そのため、いつものように太刀を振るうことができないのである。そしてそんな持ち主の心に反応してか、鬼すら護りに入ると呼ばれるほどの切れ味を持つ彼女の魔器の切れ味もいつもよりだいぶ鈍くなっていた。


「おやおや、これは一体どうしたことでしょう。まさか、敵に同乗しているわけではありませんよねぇ。 それとも本当に同情なさっておられるのですか? 百殺の絶対零度ともあろうお方が!!」


  魔器を失ったヒスイに対し、それまで黒猫に散々貶されてきた鬱憤を晴らすかのようにマモンが嘲笑する。だが、少女はただ黙ってうつむいているだけだ。


「さあ、今こそとどめを刺してやりなさい!!」


 もはや半狂乱になったマモンの命令に応えるかのように、寄生種がその六本の刃を振り上げる。そして、それが振り下ろされたその瞬間、





「おっと、そこまでだ」

 



 振り下ろされた刃と少女の間に割り込んだ少年の振り上げた木刀と刃が激突し、甲高い音を立てた。



「せ、聖亜? 何をしている、危ないから下がっていろ!!」

「それはお主にこそ言えることだと思うがな、未熟者の小娘め、敵に同情して攻勢の手を弱めるとは、

 

 自分を守るように立ちふさがった少年に向かって叫ぼうとしたヒスイは、不意に聞こえてきた相棒の声に振り向き、そしてその首元が光っているのに目を見張った。


「・・・・・・キュウ、なんだそれ」

「ふん、すぐに分かる。それよりも前を見てみろ」

「え・・・・・・」


 キュウの言葉に、はっと顔を上げた時である。それまで自分に襲い掛かっていた寄生種が、その六本の刃をだらりと下げてこちらを見つめているのが見えた。


「なん、だ?」

「おそらく、これを見つめておるのだ」

「それ、それは・・・・・・」



 


キュウの首下にあるペンダントから、光の正体が出てくる。それはヒスイが霊魂を鎮める際に使用している金剛鈴といわれる道具であった。マイスター・ヘファト特注の、魔器とは違う一種の霊具であるその鈴は、苦痛と絶望の中で死んでいった生き物の魂を吸収し、ゆっくりと時間をかけて昇天させる。



「ぼう、や?」



 ふと、金剛鈴を見つめる寄生種の黒い顔から女の声がした。どこか困惑気に、だが期待を込めて鈴に呼び掛けられるその声は、間違いなくハリティの物だった。


 ああそれに、それにヒスイにはなぜか、黒い寄生種の中で鈴に向かって心から嬉しそうにほほ笑む、ハリティの顔が見えた気がした。


「ふむ、どうやらヒスイ、そなたがあの森で吸収した霊の中に、この者の死した子がいたらしい」

「そう、か」



 金剛鈴を拾い上げ、ヒスイはこちらを見つめるハリティに向けた。鈴の音が一層周囲に響き渡り、それの音の中でぼんやりと子供の姿が映し出さられる。それは怪物になった母に向け、ゆっくりと手を伸ばした。


『マ・・・・・・マ』


「ああ、坊や・・・・・・坊や!!」


 もはや彼女の目から流れているのは赤い憎悪の体液ではない。透明な、本当に透明な涙を流しながら、彼女が愛する息子を抱きしめようとした、その瞬間





ブツ





「・・・・・・え」



 



 彼女の胸から巨大な刃が突き出し、その身体を無残にも十字に引きちぎった。





 ギャリリリリリりり!! 






                                  続く




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