スルトの子2 炎と雷と閃光と 第三幕 過去との邂逅
目の前に見えるのは他人の体から流れ出た鮮血
手に伝わるのは相手の肉を引き千切る鈍い感触
耳に聞こえるのは瀕死の状態で呻く弱者の悲鳴と断末魔
幾つもの戦いに勝ち、千を超える人間を屠った少年は、いつのころからかこう呼ばれることになった。
すなわち、“最狂”と
少年の身体は、ほとんど無意識に動いた。
未だ俯いたままの少女にぶち当たるように飛びつくと、振り下ろされたチェーンソーが彼女の体をえぐるより一瞬早く、二人は少し離れた地面に転げ落ちた。
だが、それで攻撃が止んだわけではなかった。ギャリギャリと地面を抉っていたチェーンソーが、そのままの勢いで地面を削りながら迫ってくる。
「くっ!!」
「・・・・・・ほう?」
目前まで迫った刃を、聖亜は傍らに落ちていた刀で受け止めた。刃と刃が合わさり、ギリギリと鍔迫り合いが続く。だが、ギャリギャリと回転する刃を受け止めた時、聖亜は刀が一瞬震えるのを感じた。
「ちっ!!」
回転する刃を受け止めつつ、刀を斜めにして受け流そうとする。だがそれは相手も分かっているのだろう。チェーンソーを押す手に力がこもった。
「くそっ!!」
一か八か手に持っていた刀をぱっと放す。今度は上手くいった。力の入れすぎか男の体はわずかにぐらつき、チェーンソーが振り下ろされるより一瞬早く、聖亜は体を右の地面に投げ出し、チェーンソーの腹を思いっきり蹴り上げた。チェーンソーは髪を一房と、髪留め代わりに使っていた紐を掠めると、キチキチと鈍い音を立てて停止した。
「中々に腕が経つ・・・・・・貴様、何者だ」
「何者って、それはこっちの台詞だくそ野郎が。いきなり襲いかかってきやがって。あんた一体何者なんだ? まさかまたエイジャだって言うんじゃないだろうな」
「エイジャだと? く・・・・・・くくっ、貴様の罪状が増えたな絶対零度。一般人に奴らのことを教えるのは非常時を除いて禁じられているはずだ」
「・・・・・・」
「絶対零度? あんたエイジャじゃなくて、それでヒスイを知っているということは・・・・・・同じ魔器使だろ? 何で仲間を襲うんだよ!!」
「仲間? 仲間だと!?」
俯いたままの少女の代わりに、ほどけた髪を抑え、聖亜が厳しい口調で詰問した途端、灰色髪の男の全身から、憎悪が勢いよく噴出した。
「俺と“これ”を一緒にするな!! 俺は悪を打ち滅ぼす正義の力を得た者だ。こんな“邪悪”な存在と仲間なはずがあるか!!」
「・・・・・・」
聖亜は、喚きたてる男をただ呆然と眺めた。それを見て戦意が喪失したと考えたのだろう、男は両手に持ったチェーンソーを構えなおした。
「分かったらさっさとそこをどけ、哀れで脆弱な一般人。俺に逆らった罪は重いが、今なら全ての記憶を消して廃人にすることで許してやる」
「・・・・・・許してやる、だって?」
不意に、髪の長い少年はぽつりと呟いた。髪を抑えていた手を離し、その手で何かに耐えるように顔の右側を押さえつけてる。だが、やがて耐え切れないといった感じで震え出した。
泣いているのか? 灰色の男、スヴェンは最初そう思った。だがすぐにその考えは打ち消されることになる。なぜなら、
なぜなら顔をあげた、長い黒髪が乱れ、まるで夜叉のように見える少年の表情は、心底可笑しいという風に笑っていたからだ。
「あ、あは、あははははははっ!! そうか、あんたそういう奴か。なるほどねぇ、自分は正義、自分は正しい、自分を邪魔するやつはすべて悪、そう思っている自己陶酔野郎か!!」
「何だと? 貴様・・・・・・もう一度言ってみろ!!」
「ああ、何度でも言ってやるさ。いいか自己陶酔野郎、この世界には正義も悪もないんだよ、あるのは力の有無だけだ。力のある奴が好き勝手に正義を名乗って、そうでない奴を悪として処断する。それだけさ!!」
「貴様・・・・・・こいつが過去に何をしたのか分かっていっているのか!? こいつはな、過去に五十人の人間を殺した極悪人なんだぞ!!」
「・・・・・・っ!!」
声を張り上げ、少女の罪を糾弾するスヴェンに、ヒスイは唇をぐっと噛み締めた。しかし、まるで彼女を守っているかのように前に立つ聖亜は、表情を全く変えずにスヴェンを睨みつけていた。
「本来ならこの世のありとあらゆる責め苦を永久に受けるところを、ただ一度殺すだけで許してやるんだ!! 充分慈悲深いだろうが!!」
「一度殺してやるだけで許してやるねえ? あんたそれほど偉いのか? 自己陶酔野郎。たかが五十人殺してそれなら、千人の人間を殺した俺は、一体何回殺されれば許されるんだ?」
「・・・・・・どうやら言ってもわからないようだ。ならば、貴様も同罪ということだろう」
そう呟くと、スヴェンは圧倒的な殺気を込めて聖亜を睨み付けた。だが聖亜はその殺気を、むしろ心地良さそうに受け止めていた。これぐらいの殺気、幼少期に“地下”にいた彼にとってはそよ風に等しい。
「ああ、邪悪も邪悪、最低最悪さ。さあ来いよクソ餓鬼、何百人も殺した俺が、お前に現実というものを教えてやるから」
「・・・・・・」
一度ガキンと音を立てて、チェーンソーの刃が再び動き始める。その刃が向けられているのはヒスイではなく自分の方だ。だがそれを見つめる聖亜の顔に恐れの表情はない。いや、むしろ彼の顔に浮かぶのは穏やかな笑みだ。自分があるべき場所に戻ったような、そんな表情。
そして、互いが互いに向かってが一歩足を踏み出した時、
「っ!!」
「なっ!!」
ザァーッと音を立てて、上空から大量の水が彼らに降り注いだ。
「ったく、何やってんだいあんたら」
びしょ濡れになり、ごほごほと咳き込む男達を見て、エリーゼは薄紫色の髪を呆れたように掻いた。
「邪魔をするなエリーゼ、俺はこれからこの悪を殺さねばならん」
「殺さねば・・・・・・って、スヴェン、自分の言ってる事理解してるのかい? 一般人を許可なく殺せばそれは単なる犯罪だ。それこそあんたが一番嫌っている悪じゃないか。復興街での件は正当防衛だから仕方ないけど、ヒスイの釈明も聞かずにいきなり殺そうとした件といい、これ以上の勝手は許さないよ?」
「どうやら、あんたは少しは話が分かるようだな」
灰色の男を諭す女を見て、聖亜はゆっくりと構えを解いた。彼女は自分と少女を問答無用で殺そうとは考えていないらしい。それに彼女はヒスイのことを名前で呼んだ。少なくとも事情を聴くことはできるだろう。
「ん? ああ、巻き込んじまってすまなかったね、坊や。あたしはエリーゼ。そしてこの灰色男はスヴェンってんだ。けどスヴェン、どういうつもりだい? 結界も張らずにドンパチやるなんて」
「・・・・・・結界なら張っている」
エリーゼの黒い瞳に睨まれ、スヴェンは叱られた子供のようにむっつりと呟いた。
「はぁ? って・・・・・・確かに結界が張られているね。ならこの坊やはどうしてこの空間に居られるんだい?」
「そんな事、俺が知るはずないだろう。だがこれで絶対零度の罪状が一つ増えたな、一般人を戦闘に巻きこみ、エイジャの事を知らせた」
エリーゼが来ても、いまだに俯いたままの少女に、スヴェンは鋭い視線を向ける。それから少女を守るように、聖亜は2人の間にゆっくりと移動した。
「待てよ。ヒスイはエイジャに襲われていた俺を助けてくれたんだ。巻き込んだわけじゃない。そのせいでこいつが罰せられるというなら、その前に俺が相手になる」
「・・・・・・」
再び身構えた聖亜を見て、スヴェンもチェーンソーをかちゃりと構える。そんな彼らの様子に、エリーゼはやれやれと頭を振った。
「ったく、いい加減にしなあんたら。一般人に協力を求めるのは、非常事態に限り認められている。爵持ちが相手だったんだ。充分非常事態だったろうさ。ほら、さっさと結界を解いて、あんたは一旦ホテルに戻りな、スヴェン」
「貴様に指図されるいわれはないぞ、エリーゼ」
「ほほう、そうかい。第一級魔器使には、その地にいる魔器使を統率する権利を持つ。それをあんたが忘れたとは思わないけどね。それから、もし一級の魔器使が複数いた場合は年の順ということも知ってるだろ?」
「・・・・・・・・・・・・ふん」
忌々しげに鼻を鳴らすと、スヴェンは両手に持っていたチェーンソーを天高く放り投げた。それはくるくると舞いながら落ちてくると、地面に落ちてくる瞬間、メイド服を着た二人の少女に変わった。白いメイド服に身を包んだ方は理知的で怜悧な表情を見せ、黒いメイド服に身を包んだもう片方は陽気で残酷な笑みを浮かべている。
「この女の言った事は正しい。帰還するぞ、イル、ウル」
「はいマスター。私達がこの地を離れた五分後に結界が自動解除するように設定いたします」
「はいは~いっ!! 了解ですご主人様。ところでこの生意気な糞餓鬼、殺しちゃっていいですか?」
黒いメイド服を着た少女が陽気に笑いながらこちらを見た。だがスヴェンは微かに首を振ると、少女の頭を掴んで歩きだす。
「いだっ、いだだだだだだっ!! ごめんなさいご主人様、もう余計なことは言いませんから放してください!! むぎゅっ」
遠くでどさりと何かが地面に落ちた音を聞き、エリーゼはやれやれと首を振ると、聖亜の方に向き直った。
「さて、と。こんなところで立ち話もなんだから、結界が解けたらどっか落ち着ける場所で話したいんだけど?」
「ああ、あんたならいいぜ。少なくとも男の方より話が通じそうだからな。西の竹藪の中にある家に行っててくれ。俺達も連れに適当に言い訳して帰るから」
「言い訳? その必要はないよ。だって今外は・・・・・・」
くるりと少年に背を向けると、彼女は手をひらひらと振って歩き出した。
「だって外は今、すごい土砂降りだからね」
エリーゼとかいう女の言ったとおりだった。
肩を揺さぶられる感触にはっと我に返ると、聖亜は人々が早足で建物の中に避難する道の真ん中で、空から降ってくる大粒の雨に濡れるのも構わず、ぼんやりと立ち尽くしていた。
のろのろと視線を横にやると、白髪の少女が青ざめた表情でしゃがみ込んでいるのが見えた。先ほどのやりとりは、どうやら幻ではなかったようだ。
「・・・・・・い、おい、聖ってば、聞いてるのか?」
「・・・・・・・・・・・・あ、ああ。どうした? 準」
肩を揺さぶってくる少女の方に視線をやると、準は雨に濡れながらやれやれと首を振った。
「どうした、はこちらの台詞だよ。ヒスイと一緒に駆け出したと思ったら、こんなところでぼんやり突っ立って・・・・・・まあいい。それよりいきなり雨も降ってきたし、これからどうする? このままだと風邪をひくぞ?」
「あ、ああ。そうだな、今日はもう帰ろう。悪いけど、秋野達に帰るって連絡入れてくれ」
分かった。そう言って雨の当たらない軒下に移動する準を見送ると、聖亜はのろのろと空を仰ぎ見た。
どんよりと曇った空からは、少年の顔めがけ、尽きることのない水滴が降り注いでいた。
それはまるで
まるで、傍らで蹲る泣けない少女の代わりに
天が泣いているかのごとく
「さてと、じゃあ改めて自己紹介といこうか」
そう言うと、薄紫色の髪をした女は軽く膝を崩した。
彼女に灰色の男との戦いを止められてから、すでに一時間余りが経過していた。雨が降ってきたこととヒスイの調子が悪いことを理由に、聖亜は準と別れて一足先に家に戻ってきた。それから三体の人形に少しの間身を隠すように指示し、ヒスイの体調が多少なりとも良くなった頃、彼女はこの家に訪ねてきた。
「先ほど少し話したと思うけど、あたしの名前はエリーゼ、そこにいるヒスイと同じ魔器使さ。しかもちょっとした知り合いときている」
「そうなのか? ヒスイ」
膝の上に黒猫を乗せ、エリーゼと名乗った女の向かい側に座りながら、聖亜は隣にいる白髪の少女に視線を向けた。彼女は少年の視線を受け、ただ黙って俯いていたが、やがてため息とともにゆっくりと頷いた。
「ああ、知り合いだ。何度か訓練の指導をしてもらったこともある」
「それだけじゃないでしょうが、見習いの時のあんたの教官を務めたの、誰だっけ? ま、いいけどね。だからそう警戒しなさんな。あたしゃスヴェンと違ってヒスイを問答無用で殺したりしないから」
「スヴェンって・・・・・・あの灰色の髪と目をした餓鬼のことか。で、あんた達はなんで太刀浪市にやってきたんだ?」
少年の問いに答えず、エリーゼは口に含んだ茶をぷっと吹き出した。
「あんた・・・・・・自分よりはるかに背の高い男に、よく餓鬼だなんて言えるね」
「は? いや、どこからどう見ても餓鬼だろ。確かに無理やり大きくして力を付けてはいるが、十三歳には届いていないんじゃないか?」
「・・・・・・へぇ、分かるのかい。あんた、名前は?」
「星聖亜だ。別に覚えてもらわなくてもいい」
普段ひょうひょうとしているエリーゼが、珍しく驚きの声を上げてこちらを見てくる。それに皮肉気に答えると、聖亜は自分の膝の上で丸くなっている級の毛並みをそっと撫ぜた。その感触が気持ち良いのか、黒猫は手に頬をこすりつけまどろんでいる。
「そうかい・・・・・・、ま、いいさ。んじゃ本題に入ろうかね、ヒスイ」
エリーゼは、静かにこちらを見つめる少女に顔を向けた。
「先日・・・・・・七月八日に爵持ちであるニーズヘッグとの戦闘で、自らが禁技とした絶技“絶対零度”を二度使用、間違いないね」
「ああ、間違いない」
そう答えると、ヒスイはゆっくりと頷いた。
「どういうことだ? 敵はちゃんと倒したんだろ」
訝しむ少年に、エリーゼは大したことじゃないよと手を振った。
「要するに、ヒスイは使っちゃいけない技を使ったという事さ。で、それを使ったのが適正であったかどうか調べるために、魔器使であると同時に査問官であるあたしともう一人が派遣されたってわけ。けど安心しな、さすがに爵持ち相手じゃ禁技を使ったのも無理はない。そのことを踏まえて、本部に強制送還後、数日の自宅謹慎といったところかね」
「そっか・・・・・・良かった」
ほっと息を吐いて腰かけた聖亜に、だがエリーゼはただし、と付け加えた。
「いろいろと調査した結果、一つ不審な点が見つかった。ニーズヘッグはあんたの絶技で倒されたんじゃない。“炎”によって倒された。そうだね?」
「え? ああ、そうだが」
唐突に話題が変わったことに、ヒスイは意味が分からないといった感じでエリーゼを見た。
「なら話はだいぶ変わってくる。こちらに来て戦闘のあった元廃工場を調査したのだけれど、そこでニーズヘッグの鱗を発見した。しかも想像を絶する高熱に燃やされ、一瞬で炭化した物をね。こんなことができるのはそういない。スヴェンでも難しいよ・・・・・・で、ヒスイ、正直にいいな。ニーズヘッグをぶっ倒したのは、一体どこの“何”なんだい?」
「そ、それは」
先ほどとは違い、鋭い口調で問うエリーゼに、ヒスイは暫く視線を泳がせていたが、やがて無意識にだろうか、不意に傍らの少年をちらりと見やった。
「はあ? ヒスイ、誤魔化すのも大概におしよ。この少々感は効くようだが、どこにでもいる何の変哲もない坊やに、ニーズヘッグを倒すことなんざ、まして炎に強い竜の鱗を一瞬で炭にすることなど出来やしない。それこそニーズヘッグより格が高いエイジャでないと「そうだ一殺多生、エイジャが現れたのよ」・・・・・・やっと起きたかい、馬鹿猫め」
不意に、聖亜の膝の所で声がした。見下ろしてみると、心地よくまどろんでいたのを邪魔されたのか、その紫電の瞳は不機嫌そうに細まっていた。
「それで、エイジャが現れたってのはどういうことだい? スヴェンはヒスイが前々からエイジャと繋がっていると主張している。そんな馬鹿な話はないと思うが、反論がない限り、あたしはスヴェンの主張を本部、ヴァルキリプスに送らなきゃならない。それがどういう事態になるかわかっているのかい? 反逆罪は少なくとも魂を粉砕されるだけじゃすまないよ?」
「ふむ、最高査問官の中で一番“甘い”そなたの言葉とは思えんな」
「はっ!! いいかい馬鹿猫、一殺多生ってのは一人を殺して多を生かすって意味だ。つまり見せしめに一人殺して、後に続く奴が出ないようにするのがあたしの役目さ」
一殺多生の異名を持つ女の切った啖呵に、キュウはふむと頷いた。
「それもそうだの。では真相を語ろうか。そなたの言ったとおり、ニーズヘッグを倒したのはヒスイではない。赤界のエイジャ・・・・・・しかも赤王に連なるものだ」
「何の冗談だいそりゃ・・・・・・いや、あんたは話さないことはあっても嘘がつける様には“出来ていない”から、赤王に連なる存在が現れたことは本当で、そいつならニーズヘッグを倒せる炎を操ることも簡単だろうけど、ならそのエイジャはなぜ出てきたんだい?」
エリーゼの問いに、キュウは面白そうにくくっと喉を鳴らした。
「さて、ニーズヘッグを倒してすぐどこかに行ってしまったから詳細はわからんが、恐らく“頭上”で騒がれるのを嫌ったのであろうよ」
「・・・・・・」
皮肉たっぷりに言葉を続ける黒猫に、エリーゼは最初胡散臭げな眼を向けていたが、やがて忌々しげに頭を振った。
「・・・・・・分かったよ、本部にはあたしの方から報告しておく。けど何らかの処分は覚悟しときなよ。それとそんな説明じゃスヴェンは納得しないと思うよ」
「あの灰色頭も、あんたと同じ魔器使なのか?」
「ぷっ、何だいその呼び方・・・・・・ま、確かにスヴェンはあたしと同じ第一級魔器使だよ。それに加えて最高査問官の一人でもある。それがどうかしたかい? 坊や」
エリーゼの坊やという言葉に微かに眉をひそめると、聖亜は傍らの少女に目をやった。
「いや、仲間にしてはヒスイに対する視線に殺気がありすぎたのが気になって」
「ああ、その事かい・・・・・・ヒスイ、あたしが話してやろうか?」
突然話しかけられ、何か考え事をしていたのだろう、湯呑みを持ったままぼんやりとしていたヒスイは、はっと我に返り、落としそうになった湯呑みを慌てて握りしめた。
「いや、それには及ばない。私がい「そんな死にそうな顔して何言ってるんだい、ここはあたしに任せて、あんたはさっさと風呂にでも入ってきな」・・・・・・う」
自分より格が上の魔器使にそう言われても、ヒスイは考え込んでいるのか、暫く下を向いていたが、聖亜が行って来いよと声をかけると、やがてしぶしぶと席を立った。それに続いて、少年の膝の上で丸まっていたキュウも立ち上がり、一人と一匹はそろって部屋を出て行った。
「さて・・・・・・と、スヴェンがどうしてヒスイを殺気を込めて見るか、だったよね」
彼女たちの気配が完全に消えてから、エリーゼは冷めたお茶を一気に飲み干した。苦みに顔をしかめるが、今度は文句を言うことはない。聖亜が姿勢を正すのを見て、重々しく口を開いた。
「スヴェン……あいつがヒスイを殺気を込めて見るのは、実際に殺したいほど憎んでいるからさ。そして、なぜそれほど憎んでいるかというと」
「・・・・・・いうと?」
「あいつは奪われたからね。自分の一番大切だった存在を、婚約者であるヒスイに」
「・・・・・・」
その時、弱まっていた雨が、いきなり強く降り出した。
彼女の言葉を、少年以外誰も聞くことの無いように、
強く、強く
三十分後、ヒスイが風呂から上がって座敷に戻ってきたとき、そこにはエリーゼの姿はなく、この家の主が押入れの中に頭を突っ込んで何かごそごそ探しているだけだった。
「聖亜、エリーゼは?」
「ん・・・・・・五分前に帰った。スヴェンの方はなんとかフォローしておくってさ」
少年のいつもと変わらない口調に、ヒスイはそうかと呟くと、そっと彼の隣に腰を下ろした。
「その・・・・・・聞いたの、だろう?」
「まあおおよその事はな、お前が暴発させた絶技で、灰色頭の姉貴死んだとか、あと・・・・・・あいつがお前の婚約者とか何とか、そんなとこ。それで? なにか付け足しておきたいことはあるか?」
「いや、もうない。その大事な奴というのは、私の同級生で親友だった。だからそれが故意ではなくとも、私の罪は重い。それに、その時のことはどうも記憶があやふやなんだ」
「そうか・・・・・・ま、俺としてはそっちより、あいつがお前の婚約者だって方が驚いたけどな」
「おいまて、お前そっちが気になるのか?」
相変わらず押入れの奥をがさごそとやっている少年の足を、ヒスイは手の甲でこんこんと叩いた。
「やめろって・・・・・・まあ、婚約者に憎まれる気分って、どういうのか気にはなるよ」
「・・・・・・別に好きあっていたわけじゃない。能力の高い者同士を結婚させ、そのより強い次の世代を作り出すのは義務だったからな」
「義務か・・・・・・義務で結婚はしたくないな」
「・・・・・・エイジャとの戦いはずっと続いてきた。恐らくこれからも続くだろう。私たちにとって、それより聖亜、お前さっきから押入れの中で何やってるんだ?」
[いや、ちょっと探し物・・・・・・ああ、あったあった」
ヒスイの質問に答えながら押し入れの中を探していた少年は、目的のものが見つかったのか、嬉しそうな声を出して押し入れから顔を出した。その手には、どこにでもある金槌が握られている。変わったところがあるとすれば、その先端に赤錆が浮いているということだけだった。
「なんだその金槌どこか壊れたのか?」
「いや、壊れたっていうか・・・・・・これから壊す? まぁ明日になれば判るさ。ヒスイも一緒に来るか? もし来るんだったら、たかが五十人殺したか殺してないかってだけでで罪だ罰だって騒ぐのがいかに馬鹿げているか、ちゃんと証明してやるよ」
少年が持つ金槌を見て、ヒスイは訝しげに首を傾けたが、やがて微かに頷いた。
「決まり。じゃ、今日は早く寝よう。明日は早いぞ」
そう言って立ち上がった彼の表情は、どこまでも愉快げだった。
厚い雲と、地下から噴出する水蒸気の隙間から、日差しが微かに顔をのぞかせていた。
昨日の夜から降り続いた雨は、明け方にはもう止んだらしい。だが五万十川の水量が増大し、道には多数の水たまりができているなど、その名残はそこかしこに見られた。
その五万十川の土手には、古い建物がいくつも連なっている。ここは何年か前に復興街から来た人々が作り上げた地区で、道をゆく人々もみすぼらしい格好をしているが、命を狙われる心配がないためだろう、その表情に少なくとも恐怖はない。
この地区の一角、復興街につながっている橋にほど近い場所には古ぼけた喫茶店がある。朝早くから営業しているためか、朝早いというのに中からは人の話し声が聞こえてくる。
人影は、人気の高い喫茶店の前で歩みを止めると、やがてその中にゆっくりと入っていった。
「あら? いらっしゃ~い」
カウンターの前にある小さなキッチンに立ち、馴染みの客との会話を楽しんでいた喫茶店のマスターは、入り口に付けてある鈴のカランコロンという音と共に入ってきた客に対し、心からの笑顔を見せた。
「・・・・・・」
「・・・・・・あら? どうしたのかしら? 僕」
だが、その笑顔はすぐに警戒感が混ざった物に変わる。入ってきた客は背が小さく、13歳前後の髪の長い少年だ。その顔は鍔のない帽子の中に隠れて見えず、さらにその両手はズボンのポケットの中に入れられたままである。
彼の警戒心が客に伝わったのだろう、周囲の突き刺さるような視線を受けながら、少年はカウンターに向かってゆっくりと歩いてきた。
「・・・・・・いらっしゃい、何にしようかしら?」
カウンターに座った少年に、水の入ったカップを出しながら、マスターはその少年に内側の警戒心をなるべく出さないようにしながら注文を聞いた。だが僅かに外に出たのだろう、アイシャドウを塗った右目が、ピクリと痙攣した。
その警戒心を感じて。か、少年は声を出さずに薄く笑うと、そっと耳の後ろを掻いた。
「「「・・・・・・っ!! 手前!!」」」
それを見て、店内にいる男が皆立ち上がった。耳の後ろを掻く何気ない仕草は、だが彼らにとっては“その組織”の一員であることを示す合図であったから。
「ちょ、ま、待ちなさいあなた達!!」
その動きを制止しようとしたマルちゃんの声が彼らに届くより一瞬早く、立ち上がった少年は自分に向かってきた男達の僅かな間を疾風のようにすり抜けると、今までポケットに突っこんでいた手を出し、それを水平に軽く振った。
「「ぐあっ!!」」
と、いきなり2人の男が地面に倒れた。隣りにいる別の男が慌てて抱え起こすと、右手首に何かが埋まっているのが分かった。
「な、何だよこれ、根元まで埋まって、全然取れねえ!!」
「ああ、取らない方がいいぞ、無理やり取ると出血多量で死ぬから、な!!」
「な!? がぁっ!!」
耳元で陽気な声が響いた瞬間、後頭部に来た衝撃で、男の意識は闇に落ちた。
「な、ななな、何なんだお前!!」
「俺が何かって? さてな、自分でもよくわからん」
そう朗らかに笑うと、少年は血に染まった“それ”を失神している男の後頭部から外し、顔に付いた血を拭うと、震えながらこちらに問いかけた男に歩み寄った。
「それとも・・・・・・俺が何か、お前が教えてくれるのか?」
薄く笑いながら、少年が血に染まった“それ”を無慈悲に振り上げた瞬間、
ダァン、という音が、周囲に響き渡った。
「・・・・・・そこまでよ、僕」
「やれやれ、リベットガンか。古い釘打ち機で正確にこちらを狙えるなんて・・・・・・腕は鈍っていないようだな、“女王蜂”」
先ほど自分がいた場所に打ち込まれた数本の鋭い針を見て、それが届く寸前にテーブルの上に飛び乗った聖亜は、だがむしろ嬉しそうに笑った。
「あなたもね“最狂”。金槌と釘を使って屈強な男を三人、瞬く間に無力化するその手口、相変わらずね」
「あ、兄貴、“最狂”って、もしかしてあの“最狂”ですかい?」
「あなた、私の事は兄貴じゃなくて姉御って呼べっていつも言ってるでしょ!! けどそうね、あなたの言うとおり、“これ”はその“最狂”で間違いないわ」
「じゃ、じゃあこいつが・・・・・・化物百匹をわずか数分で惨殺したっていう、あの?」
「そうね・・・・・・正確には何匹だったかしら、ねえ“坊や”?」
「ん・・・・・・確か百五十匹ぐらいはいたな。全部ぐしゃぐしゃのどろどろにしてやったから、正確な数なんてわからないけど。それでどうする“女王蜂”、このまま睨み合いを続けるか? そうしてもいいけど、あんまり長引くと中の異変に気付いた誰かからの通報で、警察が飛んでくるぞ?」
「あなたが先に金槌と釘を下ろしなさいな」
「下ろした瞬間に針を打ち込む気じゃないだろうな? まあいいさ。今日は別に殺し合いに来たわけじゃないし、俺が折れてやろう・・・・・・ほら」
やれやれといった感じに、だが聖亜はいとも簡単に金槌床に投げた。一瞬で無防備になった少年に、だが周りの男達は近づこうともしない。いや、それどころか彼がカウンターに向かって歩くと、一刻も早く逃げようという風に後ずさりする。だが、彼らのボスである女王蜂はそれを咎めようとはしなかった。そうすることが最善であると知っていたからである。
「さてと、それじゃ改めて・・・・・・久しぶりだな、女王蜂」
「そうね。あなたが三年前に自警団を出て以来だから、それ以来になるかしら・・・・・・それで? 今まであなたはどこで何をしていたの?」
「ま、いろいろとあったんだよ。しかし、あんたこそ何でこんなところで喫茶店なんかやっているんだ? 俺と同じ“最高幹部”だったろ」
「ま、私もいろいろとあったのよ、それで、今日はいったい何の御用かしら?」
少年の好物である、はちみつを入れたホットミルクを作って出すと、聖亜は一度どうも、と言ってからカップを持ち、一口すすった。
「うん、久しぶりだなこの味・・・・・・ああ、ここに来た理由だけれど、ちょっと情報をもらおうと思って。一つ目、こちら側で復興街から流れてきたらしい麻薬が出回っている。これについての情報が欲しい。二つ目、警察に見つからず、密かにあちら側に渡れる浅瀬を教えて欲しい。そして最後になるけど、お前がここにいるとしたら、今自警団の団長を務めているのは誰かわかるか?」
少年の問いに、女王蜂はしばらく考え込んでいたが、やがて小さく頭を振った。
「ごめんなさい、私もあなたが出て行ってすぐにこちらに来たから、今のあそこの様子はほとんど知らないの。麻薬についても同じよ、ただ私が知らないということは、少なくとも正規のルートを使ってこちらに流れていないことは確かね。ああ、それから今自警団を率いているのは、変わっていなければ磯垣のはずよ」
「・・・・・・は? すまないが最後の言葉、もう一度言ってくれないか? 磯垣が団長だって? それはおかしいだろう、あいつは仁さんを殺した張本人だぞ?」
呆然と聞き返す少年を見て、女王蜂は一度大きくため息を吐いた。
「磯垣の方は、貴方が殺したといっていたけどね。団長をあれほど慕っていたあなたがそんなことするはずがないと思う人もいたけど、最強の異名を持っているから、やはり狂ったんだろうと思う連中が大部分だったわ。で、もともと自警団の鐘を管理していた磯垣が、金をばらまいてそういう人たちを取り込んで、自分が団長になることを認めさせたのよ。私はあいつと馬が合わなかったから、あいつが団長になった翌日には自警団を去ったけどね」
「そうか・・・・・・ま、磯垣じゃ自警団をまとめ上げるなんて無理だろう。今の退廃した様子も理解できる。いろいろと変わったな、あの頃と」
「そうね、確かに今の自警団は、私や聖坊、それに仁さんがいたころとは全く違った、ただの無法者の集団になってしまった・・・・・・それで、あちらに渡る方法なのだけれど」
一旦言葉を着ると、女王蜂は店内にいる男の一人に目で合図した。彼は店の奥に消えて行ったが、すぐに一枚の紙を持って戻ってきた。男からその紙を受け取ると、丸夫はそれを少年の前にばらりと広げる。それは、この旧市街の古い地図だった。
「あなたも知ってると思うけど、現在五万十大橋は警察によって封鎖されている。そうすると、その近くの抜け道を通ったら見つかる危険性が大きいわね。ならこことここの抜け道なのだけど、この二か所はあそこも知ってる可能性は高いわ。となるときちんと渡れるのは、最後に残ったこのルートね。ここは最近見つけた抜け道だから、まだ彼らも知らないはずよ」
説明しながら、彼は広げた地図の上に指を走らせた。その指の動きを少年は目で追っていったが、彼の説明が終わると、微かに頷いた。
「分かった。ここまで分かれば充分だ。まぁ後の二つについては、あっちに行ってら自分で調べるよ」
「そう、ま、気をつけなさいな。それで報酬なんだけれど」
「サービスじゃないのか、ま、いいか・・・・・・これで足りるか?」
「ひのふのみ・・・・・・ま、ちょっと足りないけど良しとしましょう。もう発つの?」
「ああ、これから少し忙しくなるからな」
懐から出した茶色い封筒をカウンターの上に置いて立ち上がると、彼を遠巻きに見ていた男達がざっと左右に引いた。その間を入り口まで進み、ドアノブに手をかけた時、聖亜はふと振り返った。
「そうだ女王蜂、お前香って女を知らないか?」
「香? いえ、知らないわ。調べておきましょうか」
「・・・・・・いや、いい。それから最後に一つだけ。今の状況を何とかしたいなら、今のうちに兵隊を集めておいた方がいい」
薄く笑いながら言った少年の言葉を理解するのに、丸夫はしばし時間がかかったが、やがてはっと顔を上げた。
「ちょ、聖ちゃん、それってどういう!!」
「・・・・・・自警団の団長が磯垣だろうが他の奴だろうが、今のままだと瓦解するのは目に見えている。その前に、誰かさんが団長になったほうがいいと思っただけだ。じゃあな、情報の件、ありがとう」
「ま、待ちなさいって聖ちゃん・・・・・・もう、相変わらず人の話を聞かないんだから」
両手を腰に置いて起こったそぶりをしながらも、少年が出て言った扉を見て女王蜂は苦笑した。まるで、決して戻っては来ない昔を思い出すかのように。
土手に腰掛けながら、ヒスイは復興街に続く封鎖された橋をぼんやりと眺めていた。
だが、背後に感じた気配にゆっくりと立ち上がり、ふっと息を吐いた。
「・・・・・・結構時間がかかったな」
こちらに向かって歩いてくる少年に、微かに不満を加えてそういうと、聖亜はすまなそうに頭を掻いた。
「ごめん、ちょっとあった。それより復興街に行くルートが見つかった。さっそく行くぞ」
「今からか? 別に構わないが、橋を渡らずにいったいどうやって向こう側まで行くつもりだ」
「ま、それは見てのお楽しみということで、な」
土手を降り、川岸を歩く少年に付き添いながら歩き始めたヒスイは、ふと血の臭いを嗅いだ。その臭いはどうやら前を行く少年から漂ってくる。軽く観察してみるが、怪我をしているわけではないらしい。ならば考えられる可能性はただ一つ、
(返り血、か)
警察に見つからずに川を渡る方法を、彼が知人に聞きに行ったのは今から三十分ほど前だ。その間に彼が何をしてきたか、具体的には知らないがおそらく流血沙汰だろう。だが一般人なら血相を変えて逃げ出すその臭いに、ヒスイは軽く眉をしかめただけだった。
「そういえば・・・・・・どうして復興街に行くんだ?」
「どうしてって・・・・・・昨日言ったろ、たかだが五十人やそこら殺しただけでうじうじしているお前に、現実というものを見せてやるんだよ。それともう一つ、香の探索もある」
「香・・・・・・ああ、昨日頼まれた人探しか。だが探すならまずはこちら側ではないのか?」
ヒスイの問いに、だが前を行く聖亜は小さく首を振って否定した。
「いや、城川屋は結構従業員が多いから、旧市街はほとんど探しただろうし、顧客には新市街の連中も多いから、警察も動くだろう。つまり香が今いるのは、警察の手が及ばず従業員も足を踏み入れることができない復興街にいるとみて間違いない。大体あいつは刺激を求めていたからな、毎日が暇なんだとさ・・・・・・・っと、ここだな」
「ここは?」
少年が立ち止った場所を見て、ヒスイは軽く首を傾げた。周りには丈の長い草が生えている以外、川は他の部分と何ら変わっていない。橋の所からだいぶ離れているから、見つかる心配はまずないが、まさかここを泳いでいくつもりだろうか。
どうやら内心の疑問が表情に出てしまったらしい。ヒスイの顔を見て、聖亜はまあ見ていろと軽く言い放つと、川に向かって歩いて行った。
「お前、いくら夏だからって泳ぐつもり・・・・・・え?」
ヒスイの言葉は、途中で止まった。聖亜はざぶざぶと川に入っていくが、川の深さは彼の腰までしかない。
「ここ、ほかの場所に比べて結構浅いんだ。五万十川はでかいからな、それこそ深いところもあれば、雨で増水しても腰までしか届かない浅い部分はある。そのせいで昔は船が結構転覆したらしいけど・・・・・・ほら、入ってこいよ」
そう言って手招きしてくる少年に向かって、ヒスイは観念したように歩き出した。
2人が川を渡りきったのは、それから十分ほどたった後だった。
いくら浅瀬といっても、深い場所があり、向こう岸についたとき、結局2人は下半身だけでなく上半身もずぶぬれになっていた。
「女王蜂め、何がきちんと渡れるだ、だいぶ深いじゃないか」
「そうだな、ずいぶん濡れてしまった。どこかで乾かせればいいけど」
「ああ、けどその前に」
水を吸って重くなった髪を手でわしゃわしゃとかき混ぜてから、聖亜はふと前の茂みを見た。
「その前に、ごみ掃除と行こうか」
薄く笑うと、彼はポケットから取り出した釘を、茂みめがけて勢いよく投げつけた。
「ぐあっ!!」
茂みの中から、くぐもった悲鳴と共に男が一人転がってきた。右手首を抑える左手の間から血が流れている。その男に目をくれることなく、聖亜は新たに飛び出してきた数人の男に向かっていった。
「くそっ、こっちに来やがった!!」
男が振り下ろした棍棒を難なく避けると、その腹部に金槌を思い切り突き入れる。泡を吹いて男が昏倒するのを見て、彼を囲む男達が怯んだ隙に、しゃがんで地面の砂を掴むと、それを彼らに叩きつけた。
「うわっ、こ、こいつ!!」
「くそ、目が見えねえ!!」
武器を取り落し、慌てて両目をこする男達に近寄ると、聖亜は呆れたようにため息を吐き、金槌で一人ずつ殴って気絶させていった。
「やっぱりこの程度か、もう少し楽しませてくれると持ったんだけどな・・・・・・しかし女王蜂め、誰にも知られていない抜け道のくせに、しっかり待ち伏せされてるじゃないか。情報屋の看板下ろしやがれ、ったく」
地面に倒れた男を軽く蹴り、その背中に座ると聖亜は形のいい顎をさすった。
「しかし、この後どうやって潜入するか・・・・・・まあ正面から乗り込んでみてもいいけど、親玉が分からない以上強行突入すると逃げられる可能性があるしな」
「お、おい聖亜」
「ん? 何だよ」
愚痴を零していた聖亜は、自分と同じように襲いかかってきた男達を軽く倒したヒスイに声をかけられ、彼女が指差した先を見た。みすぼらし小屋の間を、ぼろを着た男達がこちらに向かって走ってくる。先程の男達は先遣隊だったのだろう、人数は軽く数倍、手にはそれぞれ棍棒やら古びたナイフやらを所持していた。わずかにだが、錆の浮いた拳銃を所持している者もいた。
彼らは二人の所まで来ると、こちらを囲むように輪になった。
「増援か・・・・・・まあいい、あんまり鬱陶しいようなら、今度は皆“潰す”か」
舌打ちしつつ聖亜の瞳に恐怖の色はない。相手はどうやら腰が引けているらしく、単なる浮浪者か何かだろう。負ける気はしなかった。ただ面倒だというだけである。
「さて、覚悟しなカス共。おとなしくしていれば、恐らく痛みはそれほどな「うぉおおおおおっ!!」やれやれ、聞く耳持たず、か」
台詞の途中にいきなり襲いかかってきた大柄の男に軽く肩を竦めると、男が振り下ろした鉄パイプの下を掻い潜り、その首めがけ金槌を振るおうとしたその瞬間、
「ま、待てお前ら」
小屋の方から聞こえてきた鋭い声に、その動きは止まった。
歩いてきたのは細身の男だった。頬がこけ、前歯が少し飛び出している。単なる小男だが、その鋭い眼は周囲の男達を怒りを込めて眺めていた。
「お前ら、俺はこの方を丁重にお招きしろと言ったはずだぁ!! 何襲いかかってやがんだぁ!! 逆にこっちが全滅するぞ!!」
男は周りの連中の頬をばしばしと殴りつけながら聖亜の前に来ると、その場でばっと土下座した。
「この度の一件、申し訳ございませんっ!! 兄貴っ!!」
「いや、別にそんなに疲れていないからいいけど・・・・・・それ以前に、お前一体誰だっけ?」
「へ? あ、あっしの事覚えてないんで?」
「いや、どっかで見た記憶はあるんだが・・・・・・悪いな、人の顔覚えるの苦手なんだよ」
「そ、そんな・・・・・・ひどいですぜ兄貴、三年前まで偵察とか交渉によく使ってくださったじゃないですか」
顔を上げた男は、両目を潤ませると慌ててごしごしと擦った。
「偵察や交渉ね・・・・・・俺はそんなもの、ほとんど自分でやっていたから、使った奴は大体覚えてるけど、いやまてよ・・・・・・その出っ歯、まさかお前“イタチ”か?」
「へ、へぇっ! 思い出してくださったんですね、兄貴!!」
立ち上がり、がばっと抱きついてくる男の顔を苦笑しながら抑えると、聖亜はヒスイが困惑した表情でこちらを見ているのに気付いた。
「こいつ、俺がこっちにいた頃の手下でさ、“イタチ”っていうんだ。喧嘩はあまり強くないけど、小柄ですばしっこいし、人の機嫌を取るのが上手だから、偵察や交渉を任せていたんだけど・・・・・・けどイタチ、お前俺が出て行った時一応幹部だったよな、何でこんな所でそんなみすぼらしい格好してるんだ?」
「い、いやその、それがで「くしゅっ!!」おや?」
話の途中で聞こえてきた可愛らしいくしゃみに、イタチは聖亜の傍らにいる白髪の少女に目を向けた。
「あ・・・・・・す、すまない」
「いえ、こちらこそ気が利かなくてすいません、お二人は川を渡ってこられたんですよね、それじゃずぶ濡れになっても仕方ねえ。それじゃ立ち話もなんですから、あっしの家にお出で下せぇ」
腰を低く落とし、先導するイタチに続いて、聖亜とヒスイの両名はバラックが立ち並ぶ方へ歩いて行った。
「いや、あらためて、本当にお久しぶりでございます、兄貴」
「ああ、久しぶりだなイタチ」
みすぼらしい小屋が立ち並ぶ一角、ほかの場所よりはマシな小屋の中で、出された湯を使って体を拭いた聖亜とヒスイに、イタチは深々と頭を下げた。今二人は濡れた服を取り換え、ペンダントから取り出した予備の服に着替えている。濡れた服はここで預かってもらうことにした。
「へえ、それで兄貴、こちらには一体何の御用で?」
「ん? ああ、それなんだが・・・・・・その前にイタチ、さっきも尋ねたと思うが、お前何でこんな所にいる?」
「こんな所とはひどいですぜ兄貴、これでもあそこよりいい部分もありやす。例えば五万十川を流れるごみを拾う事も出来やす。実際ここにあるもののほとんどは、川から拾ってきたものを再利用してますからね、それに水場が近いことで毎日水浴びができるし、小さいながら畑も作っております。あそこと比べて、随分快適に暮らしていますぜ」
「俺は何でここにいるかと聞いたんだ、イタチ。別に今の暮らしぶりを聞いたわけじゃないんだけどな」
「こ、こいつは失礼を・・・・・・あっしは兄貴が出て行かれた後も、暫くあそこにいたんですがね、実は磯垣の野郎といざこざを起こしちまって、必死の思いでこちらに逃げてきたんでさ。ああ、それで磯垣の野郎ですが」
「話は聞いた。団長になったんだろ? でもだとしたら今の自警団の惨状は何だ? 奴は抜け目のない性格だ。自分の益にならないようなことをするはずがないけど」
「へ、へえ、それなんですが、その」
一旦言葉を濁すと、イタチはヒスイの方をちらりと見た。
「お前・・・・・・ヒスイは大丈夫だぞ?」
「い、いやそうじゃねえんで。ただここから先はその、女に話すのはちょっと」
「言いにくいなら出ていくが?」
「・・・・・・すまない、そうしてくれるか? 大丈夫な話になったら呼ぶから」
配慮したのか、出ていこうとするヒスイに謝罪の言葉をかけると、彼女は気にするなという風に首を振って、小屋の外へと出ていった。
「すいやせん、兄貴の女に手間をかけさせちまって」
「別に俺の女じゃない。それでいいにくい話というのは何だ?」
「へえ、それなんですが・・・・・・磯垣は団長になって半年後、五万十川に浮かびやした」
「磯垣が? そうか・・・・・・」
イタチの言葉に、聖亜は肩を落として重苦しい息を吐いた。磯垣は確かに自分の恩人で、彼にとっても上司である仁を殺した張本人である。この手で首り殺してやりたいと思うこともあったが、それでも学のない自分に小言を言いながらも、勉強を教えてくれた相手だった。悲しいとは思わなかったが、むなしさが胸に広がっていく。それに、腑に落ちないところもいくつかあった。
「・・・・・・それで? 磯垣が死んだのはわかった。なら今自警団を率いているのは誰だ?」
「へ、へい。団長になった磯垣の下で幹部になった三馬兄弟って連中でして。もとは俺と同格の、他所から流れてきた奴らだったんですが、磯垣の知り合いだったらしくてあっという間に幹部になって、気が付きゃ今では団長だ。まあ、あいつらが幹部になった時点で、仲間を連れて抜けさせてもらいやしたがね」
「そうか・・・・・・だが兄弟と言ったな、合議制でもしているのか?」
「ああいえ、実際には、三馬兄弟の長兄である統馬って奴が団長なんですが、こいつ酒癖が悪い、薬はばらまく、素人女に手を出すと最低な野郎で、それでついたあだ名が“最低”ってわけで」
「・・・・・・酒はともかく、薬や素人女に手を出すのは厳禁だったはずだ。なるほど、団長がそんな奴なら下も腐るか。しかし分からないな、なぜそいつを放っておいた?」
自分でも知らず知らずのうちに眉間にしわができていたのだろう、硬くなった眉間をほぐしながら、聖亜はイタチの言葉を待った。
「いや、確かに何度もヤキを入れようとしたんですよ? ですが、統馬の近くには、数馬ってぇ大男が、いつもぴったりと付いておりやして、こいつが強いのなんの、おそらく十数人は奴に始末されたんじゃねえかと」」
「数馬? そいつも聞かないな。誰だ」
「へえ、身の丈が軽く二メートルを超す化物並みの野郎で。その体格に合わせ腕力とタフさも化物並み、一発で壁を粉砕し、たとえ刃物で刺されても、銃で撃たれてもけろりとしてやがる。何でも痛覚をつかさどる部分が麻痺しているようなんで。ま、その分おつむは空っぽですがね、噂では奴を腹に宿した母親が、化物に犯されてできたのがあいつらしいんで」
「なるほどな、それじゃ確かに磯垣の手には余るな。奴は半ば放置していたのか・・・・・・なら磯垣を殺したのは統馬に命令された数馬というやつか?」
「と、いうのがもっぱらの噂です。ですが兄貴」
「何だ?」
ふと声を潜めたイタチに合わせて、聖亜は彼に顔を近づけた。
「へえ、数馬が殺したにしては、ちょっとわからないことがありやす。数馬は怪力の持ち主だ、人間の頭なんぞ簡単に握りつぶしちまう。けど、知り合いの警官に聞いたんですがね、磯垣の死因は頭部を拳銃で至近距離から撃たれたことだ。わざわざそんな手間かけますかね?」
「つまりその2人は磯垣殺しには関与していないという事か・・・・・・そういえば三馬兄弟と言っていたな、統馬、数馬と来てもう一人は誰だ?」
「ああいや、もう1人は大したことの無い野郎で、幻馬っていうガキなんですがね? こいつは特徴らしいものがないのが特徴という、平凡を人間の形にしたような野郎で、ほとんど表に出ることもなく、中に引っ込んでるだけの玉無しで・・・・・・兄貴?」
その時、イタチは目の前の少年の様子が微かに変化したことに気付いた。
「幻、馬?」
脳裏に小柄な少年の姿が浮かぶ。いつも自分の後を兄ちゃん、兄ちゃんと追いかけてきた少年だ。自警団に入って数か月後に、仁が拾ってきた子供で、なぜか自分になついていた。わずらわしさを感じなかったから放っておいたが、他の勢力を鎮圧し、名実ともに自警団が復興街の頂点に立った数日後、気付いたらいなくなっていた。存在感があまりないため今まで忘れていたと思っていたが、実はそうではない。
自分は心のどこかで恐れていたのだ。自分がどんなに人を痛めつけても、血まみれの自分を見て顔色一つ変えず、にこにこと笑って甘えてくるあの少年を。
「・・・・・・き、兄貴、一体どうしたんで?」
「・・・・・・・・・・・・あ? ああいや、なんでもない。いいかイタチ、平凡な奴っていうのが実は一番恐ろしいんだ。感情が表に出ている奴と比べて、自分の考えを内側に隠すから、何を狙っているのか分からないからな。よく覚えておけ」
「へ、へえ。肝に銘じやす。それで兄貴、これからいかがなさるおつもりで?」
「そうだな・・・・・・もし磯垣が団長のままだったら、今すぐ乗り込んで叩き潰せばいいだけだが、そうもいかなくなった。それでイタチ、その三馬兄弟とやらは一体どこにいる」
「ちょ、ちょいとお待ちを。えぇと、統夜がいる建物の名前ならすぐにわかるんですが、他の二人が今どこにいるかまではちょっと」
「団長以外はどうでもいい、とにかく統馬ってやつがいる建物の名前をさっさと答えろ。もしそれも忘れているんだったら」
思い出させてやるが? そう呟いて右手を握りしめた少年に、イタチはとんでもねえと両手を振った。
「統馬のいる建物なら知っていやす。妖しい夢と書いて、妖夢館という、風俗区のほぼ中央に立つでっけえ屋敷で」
「風俗区の中央に立つでかい屋敷? イタチ・・・・・・それは元々、俺が住んでいた家だぞ」
目の前の男が言っているのは、自警団が復興街を手中に収めた後、仁から報酬として受け取った自分の家だった。大正時代、どこかの外国の大使がわざわざ建てた馬鹿でかい屋敷で、百人は軽く収容できる。そのころ自分は自警団の最高幹部として忙しく動き回っていたため、一週間の約半分しかいることができなかったが。
それでも何人か家政婦を雇っていたため、家はいつも清潔に保たれていた。仕事を終えて帰り、中年の家政婦の膝に頭を乗せて昼寝を楽しむのが、その頃の自分の楽しみの一つであった。
「統馬に会わなきゃならない理由が増えたな。そいつ、人の家で一体何してやがんだ」
「ま、まあまあ兄貴、落ち着いて下せえ。しかし嬉しいですぜ。ようやく兄貴がこの街に帰ってこられた。“最狂”の兄貴がいれば、今の自警団を叩き潰し、兄貴を筆頭とした新しい自警団が誕生するのも時間の問題でさ」
少年の下で幹部となった自分を思い描き、イタチは興奮気味に叫んだが、彼を見る聖亜の視線は、どこまでも冷ややかなものであった。
「イタチ、お前何馬鹿言ってるんだ? 俺は別に自警団を叩き潰すために、ましてや復興街に君臨するために帰ってきたんじゃない。まあ、統馬って奴の出方次第でどうなるかわからないが、今の俺の家は旧市街だ、こっちに来たのも別件があってのことだよ」
「そ、そんな・・・・・・じゃあ俺達は一体どうすればいいんで!? 確かにここでの平凡な暮らしは悪くないですが、やっぱり今の自警団のやり方は我慢できやせん」
「・・・・・・そう興奮するな」
「ひ、す、すいやせん兄貴、調子に乗りすぎやした」
興奮した様子のイタチを軽く睨むと、彼はぎらぎらした目に怯えた色を浮かべて縮こまった。
「別に怒っちゃいないさ。後・・・・・・俺は用事が終わったら旧市街に帰るけど、代わりに、もしかしたら女王蜂の奴が来るかもしれない」
「そうですか、女王蜂の旦那が・・・・・・けど兄貴、それじゃ風俗区の半分がオカマバーになっちまいやすぜ」
「今よりはマシだろ。さて、統馬のいるその妖夢館にいつ乗り込むかだが」
「あの兄貴、ここは夜にしやせんか? 昼間は自警団の奴らも屋敷の近くにいるだろうし、ですが夜なら・・・・・・ねえ」
「そうだな、そうさせてもらう」
風俗区に詰めている団員たちは、夜になるとほとんどが風俗店に行く。そのことを知っているイタチの、人を小馬鹿にするような笑みを見て、呆れたようにため息を吐いてから、聖亜は静かに頷いた。
「よし、そうと決まれば今日は宴会だ、兄貴も、外で待っておられる姉さんも好きなだけ食べてくだせぇ!!」
「いや、それは悪いだろう、適当に時間をつぶすさ」
「聖亜、話は終わったのか?」
彼らの質素な生活に、これ以上打撃を与えたくないと思ったのか、少年が立ちあがった時、襤褸切れを垂らしただけで仕切りとした場所から、ヒスイがひょいと顔をのぞかせた。彼女の後ろには、柔らかな笑みを浮かべた女が一人、錆の浮いた盆を持って立っていた。
「ああ・・・・・・イタチ、その子は彼女か?」
「いえ、嫁です。といっても、先月結婚したばかりですがね。こいつ紗世ってんですが、風俗店の下働きをしておりやして、その時客に襲われかけていたのを助けたんですが、妙に懐かれちまいまして。元々話せないらしく、まあ邪魔にならないんで傍に置いていたんですが、情が移っちまいましてね、こっちに来てからしばらくして一緒になったってわけでさ」
「そうか・・・・・・大事にしてやれよ?」
「へ、それはもう」
照れくさそうに頭を掻くイタチと、その傍らに寄り添う自分より五歳は年上だろう女を柔らかな笑みを浮かべて見つめると、聖亜は目の前に置かれた茶碗を手に取り、その中に注がれた薄すぎる茶を一口すすった。
その薄すぎる茶が、彼らにとって何よりも大事な貴重品であることを感じながら
「随分と蒸し暑いな」
「まあ、建物が密閉しているからな、それ以外に男たちの異様な熱気もある、仕方ないだろう」
周囲に夜の帳が落ちた頃、聖亜はヒスイと共に風俗区の中を歩いていた。イタチとその子分達には女王蜂が来るまでで待つように言ってある。あの男は抜け目がないから、こちらに来るのはどんなに早くとも明日の朝だろう。これは別に乱戦になるのを警戒しての事ではない。“自分”の戦いに巻き込まれないようにするためだ。
「しかし、随分とひどいありさまだな」
地面にまき散らされた汚物を避けて歩くと、ヒスイは首をひねって周囲を見渡した。怪しげな店の前では薄絹を纏った娼婦たちが客引きをしており、マフィアやギャングとしか思えない黒服の男たちが何人も通り過ぎていく。建物の間の道には、うつろな顔をした人間が、何人も折り重なって倒れているのが見えた。
「昔はこんなんじゃなかったけどな。少なくとも仁さんが生きていた頃は、最高幹部の三人が彼の下で働いていて、今よりもっと活気があったけど、それでもしっかえりと規律は守られていて、少しずつだけど復興も進んでいたんだ。ああ、最高幹部っていうのは、当時実働部隊を率いていた女王蜂と、事務方をしていて国と交渉をしていた磯垣と・・・・・・まあ、特に何もしていなかった馬鹿が一人、な」
「そうか・・・・・・すまん、一つ分からないことがあるんだが、どうして自警団が復興活動をするんだ? そういうのは普通国がやるものだろう」
「そりゃ、国がしてくれれば何の心配もなかったさ、けど何でか知らないけど、国の復興計画は、僅か一一年で凍結されたらしい」
「それは・・・・・・大丈夫なのか? 政府とか、その」
顔なじみなのだろう、にこやかな顔で手を振ってくる娼婦に手を振り返すと、聖亜はどうでもいいという風にあくびを噛み殺した。
「さてね、噂じゃどうも政府のさらに上の奴らの命令らしい。それが誰かわからないが、そのせいで援助物資が来なくなり、外との交流も止まり、皆薄汚れたこの街で生きていくしかなかった・・・・・・まあ、俺には旧市街のほうにあったけど、あっちは俺の家じゃなくて、あくまでも養父の家だしな」
「そうか・・・・・・ところで、これから敵の拠点に行くわけなんだが、いいのか? 案内してもらわなくて」
どこか懐かしそうにつぶやく少年の横顔が、どこか寂しげなものに見え、ヒスイは慌てて視線をそらし強引に話題を変えた。幸いなことにそのことに気づかなかったのか、聖亜はああと呟くと、すっと通りの向こう側を指さした。
「目的の家はこの通りの突き当りにある。もともと俺が住んでいたからな、変に改造されていなければ大体の構造は頭に叩き込んでいる。別に正面から乗り込んで行ってもいいけど、それじゃ統馬って奴が逃げる可能性があるか・・・・・・まぁ、何とかなるだろうさ」
道の真ん中で蹲っている男を跨いで答えると、聖亜はやや速足で歩き続けた。その後に、後ろの喧騒から逃げるように、ヒスイも慌てて付いていく。
それから数分後、二人の目に、懐かしい“我が家”が見えてきた。
その建物は、大正中期にある大使の別荘として造られた。
百人を超す人数を収容できる巨大な五階建てのレンガ造りの建物で、戦前はここで毎週のように舞踏会が開かれていたらしい。その後大使が失脚し、大正から昭和に変わってからは暫く市役所として使用されていたが、建物の老朽化が進んだことと都市の東側に行政機関が移ったため、災厄が起こる前は博物館として利用されていた。その災厄でも大きな被害は受けなかったが、内部に展示してあった装飾品などは災厄直後の混乱の際に略奪され、自警団が復興街の実権を完全に握った時、褒美として聖亜に与えられたのだ。
「戦前に建てられたからな、隠し通路とかあるんだよ。で、ここもその一つって訳」
元は脱出用に作られた通路なのだろう、両端の壁にある蒸気ランプが周囲をぼんやりと照らす地下通路を、聖亜とヒスイはゆっくりと進んでいった。
屋敷の近くまで来たのはよかったが、門の所に数人の男達がいるのを確認した聖亜は強行突破を断念した。彼らぐらいなら瞬く間に潰せるだろうが、雑魚を相手にしてもつまらない。彼の獲物はこの屋敷の主人である統馬だけだった。
そのため、その近くにある蒸気パイプが入り組んでいる狭い地下道に潜り、こうして屋敷に向かっているのだが、聖亜はこの時点で統馬を“無能”と判断した。何せ隠し通路といても、調べればすぐわかるところにあるこの地下通路に、人の気配がまったくしないためだ。恐らく地下道の存在すら知らないのだろう。
「それで? この地下通路はどこにつながってるんだ?」
「俺がいた時と変わっていなければ食糧庫だろう。で、屋敷の中に入ってからの手順なんだけど・・・・・・まあ人数はそれなりにいるだろうから、ちょっと家の一部を破壊してから、向かってくる奴らを適当に相手しつつ統馬を探すってことでいいか?」
「構わない・・・・・・っと」
前方に壁がいきなり現れたため、ヒスイは思わず立ち止まった。その少女の横で聖亜は薄暗い壁に手をやると、ある地点で壁を押す。すると、手を置いてある壁の一部が奥に引っ込んだ。同時に上の方からがらがらと音を立てて梯子が下りてくる。
「じゃ、行こうぜヒスイ。お前に見せてやるよ、俺の戦い方って奴をさ」
その日、一階の警備をしていた自警団の若い“団員”は、退屈そうに欠伸をした。
「おいおい、いくら暇だからってそんなにでかい欠伸してんじゃねえよ」
「だってよ、他の奴らは今頃女と楽しくやってるんだぜ? いくら賭け事に負けたって言っても、来るはずの無い敵に対してする警備なんて、やる意味ないじゃねえか」
「確かにな。この復興街で俺達自警団に喧嘩を売る馬鹿な野郎はいねえ。しかも今夜の“商談”がまとまれば、旧市街に打って出ることもできるだろう。ま、どんなにクソの街でも、その頂点に立っちまえば住みやすいもんだ。でよ、退屈しのぎにやるか、これ?」
「お、良い物持ってるじゃねえか。いくら夏だからって夜は寒いし、きちんと暖を取らにゃならんなぁ」
賭け事に負けた相方が取り出した酒瓶を見て、兵隊はにやりと笑った。そういう事さと言いながらまず相方が酒瓶をぐいっとラッパ飲みし、催促するように手を出した兵隊に手渡してやる。濃厚な酒の香りにごくりとつばを飲み込み、慌てて口に運んだ時だった。
ドゴォン!!
と大きな音とともに、後ろの壁が爆発したと思うと、二人は目の前の壁に叩きつけられた。気絶した男の手から、酒瓶がころころと転がっていく。
「ったく、警備もしないで酒盛りとはな。いい度胸してるぜ、ったく」
その酒瓶を足で踏み割ると、聖亜は被っていたぼろ布をばさっと放り捨てた。
「ごほっ、ごほ。しかしすごい爆発だったな。まさか小麦で爆発が起きるなんて、思いもしなかった」
「ま、粉塵爆発って奴さ。立てるか?」
「ああ。けふ、ちょっと爆発が強すぎたようだな」
咳き込みながら頷くと、ヒスイは伸ばされた手をぎゅっと握って立ち上がった。
「さてと、お約束なら親玉は最上階にいると思うけど、たぶんこの爆発でこっちが来たことは知ってると思うから、ここからは手早くいくぞ。まずは二階に行く。いいな」
「ああ、了解だ」
自分の言葉にヒスイが頷くのを確認すると、聖亜は薄く笑いながら右手を振った。
「ぐあっ!!」
「ぐっ!?」
いつのまにか少年の右手の中に握られた釘が、爆発音を聞いて駆け付けた守衛の、その先頭にいた二人の喉と手に突き刺さる。彼らの悲鳴を聞き、他の守衛の動きが一瞬止まった隙を逃がさず、聖亜は彼らの懐に飛び込むと、その顎めがけて左手に持っていた金槌を振り上げた。
「こ、こいつっ!!」
顎に金槌の一撃を喰らい、さらに三人が意識を失て倒れる。最後の一人になった守衛は至近距離まで近づいた侵入者に対し、銃を撃つのではなく逆さにして振り下ろしたが、それを金槌で難なく受け止めると、聖亜は右手の中指を引き金にかけ、無造作に撃った。
「がっ!!」
肩を撃たれ、仰け反った守衛の頭を軽く殴って昏倒させると、彼が倒れるのを確認することなく、聖亜は新たに駆けつけた守衛達に向かって持っていた銃を投げつけた。
それは狭い通路を塞いでいた兵の一人にぶち当たると、どこか故障したのか、周囲に銃弾をまき散らした。それを避けるためにばらけた守衛たちを一人ずつ昏倒させていった聖亜は、横にいるヒスイをちらりと見た。彼女はちょうど巨大なこん棒を振り回してくる大男の首筋に蹴りを叩きこんでおり、周囲には十人を超す守衛が倒れている。
「やるじゃないか」
「見くびるな。しかしこんな“素人”に武器を持たせるなんて、指揮官は一体何を考えているんだ? 狭い通路で戦うから、むやみに銃を撃つこともできない」
「さあな、無能の考えなんてわかるかよ。それよりさっさと二階に上がるぞ。ここは広いんだ、さっさとしないと、統馬を逃がすどころか朝になってしまう」
「そうだな・・・・・・ふっ」
向かてきた守衛が突き出す大型のナイフを避け、相手の顔に肘を叩きこむと、ヒスイは先を行く聖亜に追いつくため、小走りで駆け出した。
「な、何やってやがるお前ら!! 相手は高々二人だぞ。しかも一人は小さいガキでもう一人は女じゃねえか、何で手こずるんだよ!!」
「し、知りませんよそんな「ぐぁっ!!」ひっ!!」
すぐ前から聞こえてきた悲鳴に、自警団に入ったばかりの若い団員は頭を抱えてしゃがみ込んだ。彼は元々雑踏区にいるチンピラで、食い扶持を稼ぐために先日自警団に入ったばかりだった。ここに入れば食い物と女が目当てで入ったのに、すぐこんな化物の相手をするなど聞いていない。
「ぐあっ!!」
「ぶぐっ!!」
「ひいい、ひいっ!!」
それでも班長に睨まれ、がたがたと震えながらバリケードの上から様子をうかがう。だが、すぐに顔をひっこめ、そして見たことを後悔した。
彼が見たのは、少年と女ではなかった。そこにいたのは自分達の数倍、いや十倍以上の仲間を叩き潰し、彼らの血に塗れた赤い化物だった。
「か、勝てるわけねえ、あんな奴らに勝てるわけねえ!!」
「ま、待ちやがれ!!」
蹲り、顔を涙でぐしゃぐしゃにしながら赤い二匹の化物から遠ざかろうとする彼のズボンを、班長は必死に押さえつけた。
「は、放せ、放してくれぇ。俺はもうこんな所にいたくねえ!! 奴らなんて見たくねえよ!!」
「うるせえ!! 泣いてる暇があるなら、さっさとこれを奴らに転がしやがれ!!」
「ひ・・・・・・ぐ」
がたがたと震えながら、それでも必死に手渡された手榴弾を受け取る。投げるタイプではなく、棒のついた転がすタイプだ。震える手でピンを何とか引き抜くと、バリケードの隙間からそっと転がす。当たり前だが、それは彼らに向かってころころと転がっていった。
「やった!! これであの化け物共も終わ・・・・・・へ?」
自分の立てた戦果に喜び勇んで立ち上がる。だがその時、彼はこちらに向かって飛んでくるそれを見た。それは彼の足元に落ち、そして、
耳をつんざくほどの巨大な爆風を、その場に生んだ。
「やれやれ、やっと道ができたか」
バリケードの破片と赤黒い肉片が散乱する中を、聖亜は別段慌てることなく前に進んでいった。足元でブヨブヨとした感触がするが、欠伸を噛み殺しながら歩く彼にはまったく気にした様子がない。それはその後に続く少女も同様だった。
「で、どうだヒスイ、エイジャと戦うお前から見て、俺の戦い方は」
「そうだな・・・・・・一言で表せば危なげのない戦い方、だな。戦いが始まってから今まで、聖亜、お前は興奮も恐怖もせず落ち着きはらっている。さっきもそうだ」
彼女の言うさっきとは、こちらに向かって手榴弾が転がってきた時のことだ。常人なら慌てて何の対処もできずにいるところを、だがこの男は全く表情を変えずに右足で受け止め、そのまま相手に向かって蹴り飛ばしたのだ。
「ま、ああいうのは焦ったら負けだからな。こいつらとは潜り抜けてきた修羅場が違うんだよ」
そう言って、聖亜は地面に転がっている黒焦げの首をぎりぎりと踏み砕いた。
『潜り抜けてきた修羅場が違うと言っていたが、小僧、人間誰しも戦闘になれば血に酔い興奮するものだぞ? だがそなたは全くそのようなことがない。なぜだ?』
「さてね・・・・・・ま、俺が人間じゃなくて、結界喰らいとかいうやつだからじゃないのか?」
『たわけ、そんなわけがあるか。結界喰らいといえど、きちんと感情は持つ。だが聖亜よ、そなたは真逆だ。戦いが長引けば長引くほど、そなたの中から感情の波は消える。そなた一体どんな訓練をしてきたのだ』
「どんなって・・・・・・まあ、俺だって最初から強いわけじゃない。俺には師匠と呼べる奴が三人いるんだ、一人は荒川白夜、知ってると思うが、俺とヒスイがバイトしている喫茶店のマスターだ」
「ああ、店長か」
自分たちがバイトをしている店の、いかにも二枚目といった感じの白夜の顔を思い出し、ヒスイは敵陣だというのにふと苦笑した。
「そう、で、残りの二人のうち、一人は自警団の初代団長だった仁さんだ。あの人は喧嘩はあまり強くなかったけど、それでも絶対に倒れない人で、俺に人として大切なことをたくさん教えてくれた・・・・・・正直、あの人と出会っていなかったら、俺は準に出会うことなく、いまもこの復興街の地下で、血に飢えた化物同然だっただろう」
「そう・・・・・・か、そ、それで、最後の一人はどんな人なんだ?」
聖亜が準の名前を出した途端、なぜか胸に感じた小さな痛みを誤魔化すようにヒスイが尋ねると、少年は眉をひそめて立ち止まった。
「・・・・・・聖亜?」
「・・・・・・ああ、悪い。そうだな、一言でいえばものすごく強い。それこそ、先日のニーズヘッグが赤子に見えるほどに」
「それは・・・・・・本当に人間なのか?」
「さあな、そいつにあったのは、遊びに行っていた協会が火事で全焼した後だった、といっても、その時の記憶は朧気でな、気が付いたらあの女の所で愛玩動物のような扱いを受けていた」
「女!? ニーズヘッグよりもすごいお前の師匠というのは女だったのか!?」
『・・・・・・ふむ、それは少々気になるの、小僧、詳しく話してみよ』
その時、ふとヒスイの胸元にあるペンダントから、旧市街にある自宅で留守を守っているキュウの声がした。
「詳しくって・・・・・・まあ、一言でいえば猿かな? 大食いで大酒飲み、好色で飽きっぽい、あっけらかんとしていて残忍、そしてそこが知れない強さを持っている・・・・・・なんだキュウ、知っているのか、あいつの事」
『・・・・・・いや、我の知り合いによく似た奴がいるが、どうやら違ったようだ。考えてみれば、奴がもう弟子を取ることはないしの。忘れてくれ』
「分かった、忘れる」
「ところでそろそろ四階だが、敵の姿がさっぱりなくなったな、どこかで待ち伏せしているの「ぬはははははっ!!」・・・・・・」
黒猫の言葉に聖亜が頷き、敵の姿が見えないことにヒスイが首をかしげた時、曲がり角の向こう側から、野太い下卑た男の笑い声が聞こえてきた。
「ぬははははっ!! 来るなら来てみるがいい侵入者め。この俺の百を超える防御術と、三丁のガトリングガンをもって、貴様をひき肉に変えてくれるわ!!」
生き残った守衛たちの真ん中で、赤黒いベレー帽をかぶった巨漢の男は再び大声で笑いだした。
その言葉通り、彼らの前には鋼鉄製のバリケードが敷かれ、その隙間からは3丁のガトリングガンが鈍く光っている。しかも生き残った兵隊が皆ここに集結しており、それぞれ銃や手製の弓矢を油断なく前方に向けていた。
確かに鉄壁の布陣ではあるが、立った二人の敵相手に数十人の仲間が倒されているせいか、皆顔色が悪い。
「あ、あの隊長、本当に大丈夫なのでしょうか? ここは一旦団長を連れて屋敷を脱出した方が「この、馬鹿者がぁあああっ!!」ふべっ」
未だに笑っている屋敷の警備隊長に、部下の一人が恐る恐る声をかけ、そしていきなり指揮棒で殴られた。
「お前は我々の職務を忘れたのか!! 我々の職務はただ一つ、この屋敷をあらゆる侵入者から護ることだ!! 現に団長は今も逃げずにすぐ上の階で俺達の活躍を見ていらっしゃるではないか!! なのにお前という男は、この恩知らずが!! それになんだその隊長というのは!! いつも言ってるだろう、俺のことは教官と呼べ、教官と!!」
バシッ、バシッと鈍い音を立てて指揮棒が振るわれる。顔がパンパンに膨れ上がるまで殴られた部下は、邪魔にならないところに捨て置かれたが、それは彼にとってむしろ幸運だったろう。
「た・・・・・・教官!! 来ました!!」
「何ぃ!! よし、相手が完全に姿を現すまで引き付けろ!!」
指揮官の言葉に、彼の部下達はごくりと唾をのんで目の前の人影を凝視した。
そして、その人影が完全に彼らの視界に入った時、
「よし、今だ・・・・・・撃てぇ!!」
ガガガガガガガガガッ
轟音とともに銃弾を吐き出す三丁のガトリングガンを中心に、彼らの持つ銃が一斉に火を噴いた。
放たれた銃弾は現れた人影に一直線に飛んでゆき、それをずたずたに引き裂いていく。やがてそれが跡形もなくなった時、ようやく銃声は止まった。
「う・・・・・・うはっ、うははははっ!! 見たか侵入者!! これが貴様の哀れな末路だ!!」
甲高い銃声に思わず耳を塞いでいた男は、もはや人としての原形をとどめていない敵を見て、再び声高々に笑った。だが、
「あ、あの教官? あいつ明らかに報告にあった侵入者と姿形が違うんですが」
「ふん、そんなはずないだろう!! 大体お前ら、その侵入者というのを実際に見たの「ほ、報告いたします!!」なんだぁ!!」
その時、一人の部下が前方から小走りに走ってきた。
「は、はい!! 例の侵入者ですが、そろそろ最上階に到達するという情報がありました!!」
「何だとぉ!? そんなわけあるか、侵入者ならそこでずたずたにしてやったわ!! 大体五階に続く階段は此処しかないのに、一体どこにいるというのだ!!」
「・・・・・・へえ? やっぱり階段は此処しかなかったか。新しく作ったりとしかしてないのな、 お前らのボスってほんと無能なんじゃないのか?」
その時になって、男はようやくその部下が、小柄で髪の長いまるで女のような男であることに気付いた。
「き、貴様・・・・・・団長を馬鹿にしおって!! 姓名と所属部隊を答えろ、厳罰を与えてくれるぅ!!」
「所属部隊? そんなのはないさ。あえて言うなら・・・・・・水先案内人って所かな、まあ、覚える必要は全くないけれど」
貴様!! そう叫ぼうとした男は、だがその言葉を発することができなかった。大きく開けた口に金槌が入れられ、そのまま地面に引き倒される。口が切れ、その痛みに絶叫を上げて転げまわっている間に、倒した敵が着ていた服を拝借して身に包んでいた聖亜は、突然のことに反応しきれていない男の部下を、わずか一呼吸で地に沈めた。
「く、くそっ!!」
それでも1人が何とか暴力の嵐から難を逃れ、ガトリングガンに飛びつく。そしてそれをこちらに背を向ける侵入者に向けた途端、
「お前、私を忘れていないか?」
「へ? ぐあっ!!」
氷のような声を最後に、彼の意識は闇へと消えて行った。
「ぐっ、ぐぐっ、お、おのれ貴様、何者だ!!」
口を押えながら、それでも教官はなんとか起きあがり、侵入者である少年に懐から取り出した銃を向けた。
「ぬははははっ!! これは商談相手から友好の印に譲られたマカロフPMを、さらに改良し殺傷能力並びに速射性を高めた至高の一品!! これを喰らえば貴様の頭はザクロのように吹き飛ぶこと間違いなし!! さあ、いまこそこの俺に懺悔しながら死んでゆくがい「敵を前に台詞が長いんだよ、このボケ」ぐがっ!!」
と、今度は頭の横を思い切り蹴られた。衝撃でふらつく彼の足をさっと払い、再び床に無様に転がった彼の腹部を起き上がれないように踏みつけると、聖亜は残虐な笑みを男に向けた。
「ば、馬鹿な・・・・・・この俺がこんな所で死ぬというのか、かつて最狂と互角に渡り合い、敗退させたこの俺が!!」
「・・・・・・あ? 俺が敗退したって? そりゃ一体いつの事だ?」
そう呟いて、聖亜は彼の顔を覗き込んだ。相手の目の中に自分の顔がくっきりと浮かぶ。そのうち、男の顔が目に見えて青くなった。
「なっ!! き、貴様その顔・・・・・・まさ、まさかさ、さいきょへぶっ!!」
「正解だよ、ああ・・・・・・その情けない顔見て思い出した。お前、自警団に最後までたてついた勢力のボスだった男だな、部下がみんなやられるのを見て、土下座してもう二度と楯突きませんって懇願する姿が面白かったから見逃してやったが・・・・・・どうやらその事、すっかり忘れているようだな」
「ひっ、ひいいい!!」
喚く男の額に、ごとりと硬い物が押し当てられる。それが先ほどまで自分が持っていた銃の銃口で、押しつけているのが自分にまたがっている少年だと認識した時、じわりと男の下半身が濡れた。
「おいおい、漏らしたのかよ。けどあの時お前は二度と楯突かないと俺に言ったんだ。その言葉通り二度目はない。ああ、それから地獄に行く前に二つほど指摘しておいてやる」
男の額に銃口を強く押し当てながら、聖亜は心底楽しそうに笑っていた。
「まず一つ目、銃の種類を叫ぶな、馬鹿が。マカロフといったな、ロシア製の銃か・・・・・・となると商談相手というのはロシアン・マフィアだな? しかもこんなクソみたいな街に来るなら、恐らく勢力争いで負けている方のマフィアだろう。ま、俺に楯突いた以上、いずれ必ずぶっ潰すけどな。そしてもう一つ」
そう言うと、聖亜は男に押し当てていた銃を窓に向けて放り投げた。銃は曲線を描いて窓に向かい、パリンと音を立てて外に消えて行った。
助かった、一瞬そう思った男の額に、再び硬い物が押し付けられる。
「武器なんてものは、必ずしも銃やナイフである必要はないんだ。相手に苦痛を与えて、負傷させて、死に追いやることができればそれはもう立派な武器だ。例えば俺が今持っているこの金槌もな。勉強になったろ? さて、じゃあ今習った事を胸に秘め、さっさと地獄の閻魔様にでも会いに行け。じゃあな」
ガゴッ!!
振り上げられた金槌が、まったく躊躇されずに振り下ろされる。それを額に受けた男は、ひび割れた床にめり込んだ。
「・・・・・・ちっ」
だが、起き上がった聖亜の顔は不機嫌そうに歪んでいた。床に倒れている男の上半身は完全にめり込んでいるが、突き出ている下半身はぴくぴくと痙攣している。
「生きているのか・・・・・・大した頑丈さだな」
「牛乳の飲みすぎで骨が丈夫なんだろ。こういう“非常識”な奴が一番手に負えない。ま、この騒動が収まるまでは寝てるからほっとけ」
ぶつくさと呟き、床から突き出した足を思い切り蹴ると、非常識の最もたる少年は薄暗い階段の先を仰ぎ見た。
「さてと、これで守衛はほぼ倒した。後は団長と面会といこうか。それでヒスイ、ここまでのご感想は?」
「百人以上を叩き潰すのにかかった時間は三十分。これだけの力量しか持たない相手なら、私でもこれぐらいはできるが、ここまでの感想を一つ・・・・・・聖亜、お前は大した狂人だ」
「当たり前だろ? 何たって俺の異名は“最狂”なんだからな」
ヒスイの言葉にからからと笑うと、聖亜は一足先に階段へと足を踏み入れた。
最上階はひっそりと静まっていた。以前この屋敷の主であった少年の記憶が正しければここには一つの部屋しかなく、階段とその部屋の間には、ただ長く薄暗い廊下が伸びているだけだった。
だが自分の部屋があったこの階に足を踏み入れた時、聖亜が感じたのは懐かしさではなく強い嫌悪だった。窓から太陽の日差しが照らす、両端に花壇が置かれていただけの素朴だが温かい廊下は、だが今では部屋まで伸びる赤い絨毯を初めとして、壁には蒸気で光るシャンデリアが幾つも光り輝いており、なんと大理石の彫像まであった。
「随分と趣味が悪いな、この屋敷の主人は」
「言っておくが俺じゃないからな。俺はひっそりと静かな方が好きなんだ」
「ああ・・・・・・確かにそうだな」
軽く笑うと、ヒスイは彼の部屋の状態を思い出した。物があまりなく、狭い彼の部屋は、とても遊び盛りな十代の若者の部屋とは思えなかった。
「で、俺達は向こうの部屋に行くわけだが・・・・・・やっぱりそう簡単に通してくれるわけないよな」
「ああ、そうらしいな」
少年の呟きに、ヒスイは廊下の突き当りにある扉と、その前にいる二体の巨大なそれを見た。
それは、三メートルはあるだろう巨大な体躯を白い体毛でびっしりと覆った、まさに怪物という文字がふさわしい生物だった。復興街の地下に住み、人を襲う化物と呼ばれる種族の中で最も腕力に優れる、狒々という名の怪物である。二人は知らないが、二日ほど前スヴェンが圧倒したのと同じ種族であった。
「キュウ、こいつが何かわかるか?」
『狒々、と呼ばれる怪物だ。まあスフィルよりは弱いから案ずる必要はない。が、むろん並の人間なら十人いてもかなわんだろう。だが』
「だが、私たち魔器使なら別だ。そもそもスフィル以下だといううなら敵ではない、さっさと片付ける「いや、こいつらは俺がやる」・・・・・・聖亜?」
どこか感情を押し殺すような声で前に進み出た少年を、ヒスイはあっけにとられたような表情で眺めた。
「おい、無理するな、こいつらは確かにスフィルより格下だが、並の人間よりははるかに強いぞ」
「そんなこと、お前に言われなくともわかっている。実際に戦った時があるからな、それこそ何百回も」
「どうしたんだ聖亜、お前少し変だぞ?」
『・・・・・・なるほどな、ヒスイ、奴らの足下をよく見てみよ』
「よく見ろって、いったい何が・・・・・・あ」
キュウの言葉に、狒々たちの足下を見たヒスイは絶句した。そこには彼らの足に隠れるように、数個の頭蓋骨が転がっていた。しかも、どれもまだ小さい、おそらく子供の物であろう。
『なるほど、あれを見て激情したか。冷めきっていると思ったが、なかなかどうして』
「暢気に話している場合か、止めないと」
『いや、もう遅い』
ペンダントから聞こえてくる黒猫の声に、ヒスイがはっと顔を上げた時、隣にいるはずの少年の姿は、狒々の懐近くまで入り込んでいた。
「あいつ、一瞬であの距離を!?」
『なるほど、縮地か。まあ珍しいものでもない、それに練度が甘いな、本来ならば一足で敵の首を刈り取ってしまわなければならん。だがまあ、使う機会はそうないだろうが』
「そうなのか? 便利だとは思うが」
『否、いくら便利だといっても、あの練度ではエイジャには通用せんし、逆に敵が単なる人間ならば、あの小僧は縮地を使わずとも勝てるからな、使うとすれば、あのように中途半端な存在を相手にするときだけなのだろう』
「まったく、聞こえているぞ」
後方で話すヒスイたちの声を聴きながら、自分に向かって振り下ろされる、白い体毛に覆われた剛腕を聖亜は苦笑しながら避けた。別に腹が立つことはない、黒猫の言う通り、先ほど移動したさい、狒々たちの後方に着地することができれば、後は狒々たちの息の根を止めるだけで済んだ、それが出来なかったのは、自分が未熟だった、ただそれだけに尽きる。一度鍛えなおさないといけないが、そのためにも目の前にいる二体の怪物を倒さなくてはならない。幸いなことに相手の攻撃は大振りで避けやすい。振り回される腕の下を何度か掻い潜りながら、聖亜はベルトの右側に付けた小袋の中に手を入れると、その中から導火線のような物が飛び出ている、小さな丸い球を取り出した。壁にサッと擦り付け、発生した火花で導火線に火をつけると、こちらに向かってくる狒々の顔めがけて投げつけた。
パンッ
と、小さい破裂音がして狒々の目の前に赤い靄のようなものが広がる。むろん、そんなもので狒々はひるみはしない。多少驚いて動きをわずかに鈍くしたものの、いきり立ってこちらに向かってきた。だがその巨体が赤い靄の場所を過ぎた時、化物は咆哮を上げ、両手で顔を抑えて床を転げまわった。
「何だ、いきなり」
『少し待て・・・・・・なるほど、随分とえげつないことをするのう。あれはな、火薬を丸めた物の表面にハバネロやワサビの粉末やら、漆やらを練りこませたものだ。あれが目や鼻に入ったら、いかな巨体といえどもどうしようもあるまい。いおや、視覚や嗅覚に優れたけものには、なおさら効果があるか』
黒猫が少女に説明しているその前で、聖亜はベルトの左側に付けた杭のように太く長い釘の一本を手に取ると、それをのたうち回る獣の口内にタイミングを見計らって突き刺した。分厚い皮膚と鋼のような体毛に覆われた狒々であっても、口内はそうはいかないのだろう。激痛に叫ぶが、それは口内に突き刺さっている太い釘のせいで音として出ることはなく、ただ空気の漏れるような音がしただけであった。
「・・・・・・」
その狒々の口に突き刺さった釘を、少年は無言で踏みつけた。針の切っ先がぶちぶちと音を立てて後頭部を潜り込み、ついには貫く。それでも狒々は最初ひくひくと痙攣していたが、やがて事切れたのか、ピクリとも動かなくなった。
「こんなものか。じゃあ、残りの一体を・・・・・・うわっ!?」
狒々が動かなくなったのを確認すると、聖亜はもう一体の狒々に向き直った。獣はこちらに向かってくるが、その動きは先ほどと同じく大振りであり、とてもこちらを捕えられるようには見えない。だが冷笑し、一歩踏み出した時、彼にとって予想外の出来事が起きた。完全に事切れたはずの狒々の腕が動き、少年の足を払ったのである。直前で気配を感じて何とか避けたが、体勢は大きく崩れた。そして、それを見逃すほど狒々は愚鈍ではない。体勢を崩した聖亜に近づくと、その頭を右手で掴み、近くの壁に力任せに叩きつけた。ガラガラと壁が崩れ、少年の身体は瓦礫と煙の向こうへと消えていった。
「聖亜!? くそっ」
『待てヒスイ』
「何を待てというんだ、聖亜が死ぬかもしれないんだぞ!!」
『その心配はない。まったく猿め・・・・・・あの術まで仕込みおったか』
「あの術? いったい何のことだ?」
黒猫の言葉に、駆けだそうとしていたヒスイがその動きを止めた時である。少年を食い殺そうと瓦礫の中に入っていった狒々が、絶叫とともに出てきた。その右目には、いつの間にか杭のように太く長い釘が突き刺さっている。必須に抜こうとしているが、どういう仕掛けになっているのか力任せに引っ張っても全く抜ける様子がない。ヒスイがあっけにとられて眺めていると、狒々の頭に小さな影が飛び降りた。
「聖亜?無事だったの・・・・・・か」
その小さな影、即ち先ほど狒々に壁に叩きつけられた少年を見て、ヒスイは安堵と喜びの声を上げ、そしてくっと押し黙った。少年の身体はところどころに擦り傷ができ、血が流れだしている。最もひどいのは額にできた擦り傷で、底から流れ出した血で顔が真っ赤に染まっていた。
「悪いけど、それは先端が曲がっているからな、いくら力任せに取ろうとしても取れるもんじゃないさ」
狒々の頭に飛び乗り、まったく感情のこもっていない声で囁くようにそう呟くと、聖亜はベルトに差していた別の釘を取り出し、それをただ一つ残った狒々の目に、躊躇なく突き刺した。両目に走る激痛と周囲が闇に包まれた恐怖に、狒々はもはや釘を抜くことすら忘れ、絶叫するだけだ。
「痛いか? だがな、お前たちに食われた子供たちは、その何百倍も痛いし苦しかったんだ。ああ、勘違いするな、別にお前たちが何を食おうと、それは俺の知ったこっちゃない。俺が苛立っているのは、俺の家だったこの場所で、子供を殺したことだ」
声を荒げることなく、むろん泣き叫ぶこともなく、淡々とそう呟くと、聖亜は右手に持った金槌で、狒々の両目に突き刺さった太い釘を打った。何度も打っていくうち、やがて釘は狒々の脳まで達し、化物は一度大きく体を震わせると、ゆっくりと倒れた。
「聖亜・・・・・・」
「・・・・・・ん? ああ」
狒々が二体とも倒れたのを見てこちらにやってきたヒスイを、聖亜はほとんど感情のこもっていない目で見た。その目で見られ、そして自分と狒々の血で真っ赤に染まった姿を見て、少女は数日前に聞いた彼の異名を思い出した。すなわち、
血染めの吸血鬼という異名を
「さて、邪魔者はいなくなったし、ちょっとこの部屋の中にいる奴に用があるから行ってくる。悪いけど、ヒスイはここで残党が来ないように見張っておいてくれないか?」
「私も一緒にいたほうがよくはないか、その傷では、万が一ということもあるだろう・・・・・・し」
「いや、傷はもうほとんど止まっている。それにこれは自警団の問題だ、部外者は引っ込んでおいてくれ」
「・・・・・・・・・・・・あ、ああ」
だが、ヒスイの提案は少年が拒絶するように彼女に向けた手のひらに遮られた。もしこれが少年の唯一である少女であれば、彼の頭を引っ叩いて襟首をつかみ、部屋の中まで引きずっていったことだろう。しかし、ヒスイにはただ、黙って見送るしかできなかった。
かつて自分の部屋に入って、まず初めに聖亜が思ったことは“こんな部屋で暮らしたくない”だった。窓際には首が痛くなるほど巨大なテレビがどんと置かれており、その両側には大理石の彫像が並んでいる。真ん中には巨大なチェスの台とソファがあり、台の上には一本数十万はするかというワインが並んでいた。部屋の奥にあるキングサイズのダブルベッドからは、酒と体液と血と、そして死臭ともいうべき臭いが離れたこちらまで漂ってくる。近寄ると、ベッドの上にはうつろな表情をした四人のまだ幼い少女が全裸で横たわっているのが見えた。いや、正確には少女だった物が、全身をナイフで切り刻まれ転がっている。恐らく犯されながらナイフで切り裂かれ、切り裂かれながら死に、そして死んだ後もその身体を犯され続けたのだろう、その顔には深い絶望の表情が浮かんでいた。
それを見たせいだろうか、こみ上げてくる強い吐き気と不快感を感じた聖亜は、それを誤魔化すように高級絨毯の上にベッと唾を吐くと、台の上にあったビリヤードの球を一つ掴み、今まさに自分が入ってきた扉に駆け寄ろうとしている黒い影に向かって投げつけた。
ガシャァン!!
「ひ、ひい!!」
適当に投げたためだろうか、ビリヤードの球は陰には当たらず、その頭上を通り過ぎて窓にぶち当たった。ガラスが割れる音と同時に、床に身を投げ出した影から情けない悲鳴が聞こえてくる。重い頭を呆れたように振ると、聖亜はその影に向かって歩き出した。
「ひぃいいっ!! く、来るな!! 来るんじゃねえ!!」
「・・・・・・」
割れた窓から差し込む月の光に照らされて、影の正体が浮かび上がる。それは両手で重い鞄をしっかりと抱きしめた小太りの男だった。艶のない乾いた黒髪とひげを持ち、その目は逃げ道を探しているのか、絶えず左右にぎょろぎょろと動いている。
「何なんだ、何なんだよ手前はっ!! 俺に何の恨みがあってここに来た!!」
「恨み? あんたなんかに恨みなんてないよ。ちょっと尋ねたいことがあるだけだ」
「ひへ!? そ、そうなのか?」
「ああそうだ、だからその重い鞄をおいて、さっさとこちらに来い、な?」
聖亜の言葉に、途端に安堵した表情を浮かべる男の手から黒い鞄を取り上げると、それを床の上に放り投げる。きちんと閉じていなかったのか、カバンの中から数十カラットはするであろう大粒の宝石が幾つも床に散らばった。
「や、やめろ馬鹿野郎!! そ、それはこの統馬様のものだぁ!!」
その男、統馬は立ち上がると、こちらを見つめる聖亜を押しのけ、床に散らばった宝石を這い蹲って拾い始めた。
無能だ。聖亜は心の底からそう思った。恐らくこの男は、目の前にある富にしか興味がないのだろう。そしてそれを手に入れるためなら平気で他者を利用し、簡単に裏切る。話し合う価値もない男、そう結論付けると、聖亜は台の上に置いてあるビリヤードのキューを手に取り、宝石を必死に拾っている男に近づいた。
「なあ、お前さんが統馬でいいんだよな?」
「だ、だったらどうだって言うんだよ、その前にお前もこっちに来て手伝えよ!! お前がばら撒いたんだか・・・・・・ぐえっ!!」
ぶつくさと文句を言ってくる統馬の襟首を片手でつかむと、聖亜は男の体を台の上に放り投げ、先ほど手に取ったキューを彼の肩に思い切り突き刺した。
「ぐぎぇっ!?」
蛙がつぶれたような声を出し、小男はしばらくの間白目をむいていたが、少年が頬を何度か張り飛ばすと、我に返り大声でわめき始めた。
「て、手前何すんだ!! お、俺には何百人という部下がいるんだぞ!! この屋敷にだって数十人という守衛がいるんだ、こ、こんなことしてタダで済むと思ってんのか!!」
「あのな、俺がここに来たことでそれぐらい察しろ。その数十人以上いる部下は、俺がここに来るまでに皆殺すか再起不能にしてやったよ」
「な!? さ、騒ぎが始まってまだ一時間と経っていないんだぞ!! な、何者だ手前!!」
「おや、これは失礼。まだ俺の名前を言っていなかったな。俺の名は星聖亜。かつて自警団に最高幹部として在籍し、同時に親衛隊隊長、そして粛清係を務めた、以前ここで暮らしていた男さ」
「聖亜? 誰だそ・・・・・・ひっ、ま、まさかお前、ち、血染めの吸血・・・・・・!!」
少年が誰なのか、やっと理解したのだろう。台の上でじたばたと騒ぐ男の上に乗ると、聖亜は男の右手の指に、いきなり釘を突き刺した。
「ぐぎぇ!!」
「騒ぐな屑。さて統馬、これから俺はお前に質問をするが、それは頭の回転が遅いお前でも簡単に答えられるように、はいかいいえの二択にしてやる。だからそれ以外の言葉をしゃべったり騒いだりしたら容赦なくお前の指をぶち切る。分かったな」
「う、うるせえ!! 何の権利があってお前にそんな事されなきゃ・・・・・・ぎっ!?」
「はいかいいえ以外はしゃべるなといったはずだぞ?」
突き刺した釘に、上着から取り出した金槌を思い切り振り下ろす。ガキンっという音と共に、床に赤黒い“それ”がぽとりと転がった。
「がぁあああああっ!!」
「まあ悲鳴ぐらいは許してやろう。ではまず一つ目の質問だ。磯垣を殺したのはお前か?」
「い、磯垣? そ、そんな奴はしらな・・・・・・ぎゃあああああっ!!」
ガキン、という音と共に、別の指がまた床に転がる。台の上はもう血で赤黒く染まっていた。
「はいかいいえの言葉で答えろと言ったはずだぞ? それで、はいか? それともいいえか?」
「い、いいえだ!! いいえ!! 磯垣を殺したのは俺じゃねえ!! だから、だから許してくれぇ!!」
「・・・・・・まあいいだろう。では次だ。最近旧市街と新市街にこちら側の薬が出回っているが、それはお前の仕業か?」
「ち、違う!! 俺じゃねえ!! 大体俺は薬なんて今までやったことは一度もね・・・・・・ぐぇええ!!」
「嘘をつくなよ、お前が薬の取引をしているのを見たという奴がいるんだ。おっと困った、まだ質問は二つ目なのに、指がもう三本も飛んでしまった。このままでは質問が終わる前に指が全部なくなってしまうな、まあいいか、指が全部なくなったら手首をもらって、その後は足首を、最後は首でも貰うか」
「ま、待てぇ!! 分かった!! 分かったよ!! 確かに俺は薬で商売をしている!! それで得た資金をばらまいて、自警団を乗っ取った!! けど最近橋の向こうで薬をばらまいているのは俺じゃねえっ!! 幻馬の野郎だ!!」
涙と血でぐちゃぐちゃになった顔を振り回し、必死に叫ぶ男を見て、聖亜は軽く首を振った。恐らくこいつの言っていることは正しいだろう。そもそもこんな小物に、ここ復興街はともかく 旧市街や新市街で警察の目を掻い潜り薬をばら撒くことなどできそうにない。
「分かった、信じよう。じゃ、続けるぞ? 肝心のその幻馬という男は、今一体どこにいるか分かるか?」
「い、いいえだ!! けど奴のねぐらがどこにあるかは知っている!! ほ、本当だ!! 嘘じゃねえ!!」
四目の指を叩き落そうとした聖亜に懇願するような視線を向けると、彼は暫く金槌を振りかぶっていたが、やがて舌打ちと共にそれを下ろした。
「いいだろう、それで? そのねぐらは一体どこにある」
「放してくれたら案内してやる!! だから、だからもう勘弁してくれ、このままじゃどっちみち死んじまう!!」
「・・・・・・ふん、まあいい。質問はこれで最後にしてやる。旧市街からこっちに香という女が来たはずだ。彼女は今どこにいる?」
「そ、その名なら知ってる!! 五日ほど前、子分の一人が連れていた女の名だ!! け、けどその子分は翌日五万十川に浮かんでいて、そのあとその女の姿を見た者はいねぇ!! 本当だよ!!」
「・・・・・・そうか、香の奴やっぱりこっちに来ていたか。分かったよ、放してやるからさっさと幻夜の所に行く準備をしろ」
「ぐぇっ!! くそ、言いたい放題言いやが・・・・・・いや、何でもねえよ、本当に」
ビリヤードの台から床に放り投げられ、カエルが潰れたような声で呻くと、統馬は赤黒くそまっている、先程より“半分”ほどに減った指をタオルで抑えると、小さな声でぶつくさと文句を言っていたが、聖亜に睨みつけられ慌てて口を閉ざした。
「それより、なあ最狂、あんたどうして乗り込んできたんだ?」
「先程言っただろう? お前に質問するため“だけ”だ」
「質問するためだけに数十人の以上の人間を叩き潰したのかよ!? はぁ、さすがは最高幹部の中で最も恐れられた粛清係だけのことはあるぜ・・・・・・ん? まてよ、なら別に俺を殺して自警団の頂点に立ちたいとかそんなわけじゃないんだよな?」
そう尋ねながら、外に行くため上着を取り出すふりをして、洋服ダンスの中にしまっていたそれを取り出すと、背中にそっと隠した。
「今の自警団はクソの海にに浮かぶぼろぼろの小舟のような物だ。誰が好き好んで頂点になんて立つかよ」
「そ、そうか!! そうだよな!! よし聖亜、お前の強さを見込んで頼みがある。俺の親友になってくれ!! あ、いや、別にここにいてくれというつもりはねえよ、ただ名を貸してくれれば良いだけさ。“最狂”が後ろ盾にいるとすれば、もうこの街で俺達に楯突く者は誰も居なくなるからな!!」
「・・・・・・ま、この用事がすんだら考えておいてやるよ」
外にいるヒスイに声を掛けようと、聖亜がこちらに背を向けた時だった。統馬はまだ指が五本ともそろっている方の手の方で銃を構え、その銃口を彼の背中に向けた。相手がどんな化け物でも、この距離で撃たれた銃を避けることはできないだろう。
「そうそう、だからな親友、この街じゃ誰も信じない方がいいんだ・・・・・・ぜっ!!」
最後の台詞と共に、銃の引き金を引く。だがどんなに引き金を引いても、銃弾どころか煙一筋も出なかった。それどころか、しっかりと握っていたはずの銃が、手からぽとりと落ちる。
「くそっ!! あれ? あれ!? おかしいな・・・・・・と、取れねえ!! 何でだよ!!」
「忠告ありがとうな統馬、かなり勉強になったぜ。でだ、俺からも言いたいことは山ほどあるが、親友としてのよしみだ。お礼にたった一言で勘弁してやろう・・・・・・お前、俺を聖人か何かだと勘違いしてやしないか?」
“液体”の中に浮かぶ銃を必死に取ろうとしている統馬を心底軽蔑した目で一瞥すると、聖亜は彼を台の上に置いたとき、念のために手首に巻きつけていたそれを、くるくると巻いた。
「どうした? きちんと取れよ・・・・・・自分の“手”をな」
「う、うぉっ!! うぉおおおおおっ!!」
雲が晴れ、月の光で再び照らされた部屋の中、統馬は床に落ちている物を見て、驚愕と後から押し寄せてきた痛みに絶叫を上げた。何度やっても銃をとることができない理由が分かったからだ。取れないはずだ。なにせ赤い液体の中に浮かんでいるのは、銃と、そしてそれを持っていた自分の手首なのだから。
「まあ、久しぶりに使ったが、切れ味は衰えていないようだな」
自警団にいた際、愛用していたただのピアノ線、しかし極限まで研いだため、刃のように鋭いそれを上着の胸ポケットにしまうと、聖亜は取り出した金槌を蹲る統馬に向け、にやりと笑った。
「さて統馬、もうお前に用はないからさっさと死んでくれ。俺はこれから幻馬の居場所を探して奴と“話し合い”をして、その後香を連れて行かなきゃならないんでな」
「ま、待てよ、なあ、許してくれよ、ほんの出来心だったんだよ、自警団も、この街も全部お前にやるから、だから、だから命だけはぁ!!」
「うるさいな、今まで散々楽しんできたんだろ? ま、人間誰しもは死ぬんだ。お前の場合、それが今日になっただけの話さ。じゃあな、いろいろと楽しかったぜ」
まったく感情を出さず、淡々とした表情でそう囁くと、聖亜は蹲る男の頭めがけ、最初の一発を無慈悲に振り下ろし
「・・・・・・ふん、遊びすぎたか」
かけた瞬間、壁の向こうから近づいてくる強烈な気配に、その体を地面に投げ出した。
ガァン!!
少年の動きとほぼ同時に、部屋の右側の壁が粉砕し、その破片がこちらに向かってくる。避けられないと悟ったのか、身体を低くして腕で顔を守る少年の身体に、破片がビシビシと当たっていく。やがてすべての破片が飛び散ると、ガラガラと崩れる壁の向こうにいた“その物体”がのそりと這い出してきた。
「く・・・・・・そ、遅ぇんだよ、数馬」
それは、先ほどの狒々にも勝るほどの巨人だった。先ほど戦った二匹の狒々と比べても劣ることはないだろう、身体だけでなくその縦に長い顔すら筋肉で覆われ、分厚い額の奥で眼孔が鈍く光を放っていた。
その巨人は血を流しすぎてぐったりとしている兄の姿を見ると、聖亜に怒りの目を向けた。
「で、でめえがぁ、おでのあにぎをやっだのは!!」
「・・・・・・だったらどうした、お前もこうなりたいのか? そらよ、お前の愛する兄ちゃんの手だぜ?」
瓦礫が当たったためか、全身が打撲とすり傷だらけになっている聖亜が、それでも余裕そうな表情を崩さずに床に転がっている手首をぽんと巨人に蹴り飛ばしてやると、その巨人、数馬は目に涙を浮かべてそれをキャッチした。
「あ、あにぎのでぐびぃ!! ずまねえあにぎ、おでがでがげでいだばっがりに!! ごいづはおでがごろずぅ!!」
うぉおおんと一声鳴くと、数馬はこちらに向かって、恐らく本人は全速力なのだろう、だが先ほどの狒々の動きと比べれば、亀より鈍い速度で走ってきた。
「・・・・・・」
「ぐががががっ!! じねぇ!!」
だが聖亜はどこにも逃げずに、自分に向かって振り回された、本来なら簡単に避けられる巨人の右腕をあえて受ける。がぎり、と硬い音がして、巨人は満足そうに微笑んだ。
「ん~、じんだが「おいおい、誰が死んだって? くだらないこと言ってんじゃねえよ」・・・・・・んが?」
数馬が手をどけた時、そこにいたのはこちらを笑みを浮かべて眺める少年の姿だった。
「ご、ごいづ、なんでじんでねぇ!?」
「ふん、昔取った杵柄というやつだ、猿女から教わったいくつかの技術の一つ、硬気術・・・・・・だったか。それよりいいのか? お前の大切な兄貴とやらが、今にも死にそうだぞ?」
先ほど廊下で狒々の攻撃に耐えるために使った術を再び使うと、聖亜は目の前の巨漢ににやりと笑って見せた。
「う? がっ、あに、あにぎぃ!!」
「馬鹿、気付くのが遅いん、だよ」
顔の色が青からどす黒い紫色に変化した統馬を見て、数馬は泣きながら彼を抱えると、先ほど自分が開けた穴から外に飛び出していった。
「逃げたか・・・・・・まあ、ここまでは予定通りだな。けど、ここ地上から二十メートルは上だぞ? よく飛び降りたな」
重苦しい息を吐いて呟くと、聖亜は壁に開いた穴のすぐ近くに激痛の走る身体で寄り掛かった。重く響く頭を振って、ふらふらと外に出て行こうとする。
「聖亜、お前何してる!!」
「・・・・・・」
その動きを止めたのは、部屋の中に響き渡る少女の声だった。部屋の中に入ってきたヒスイは、決して健全とはいえない少年の様子に、慌てて彼の小さな体を抱きかかえた。
「・・・・・・ヒスイ? 離してくれないか、俺はこれからあのクソ共を追わなきゃならないんだ。奴らは十中八九黒幕の所にいる。そいつを抑えれば、今回の件は全て解決するはずなんだ・・・・・・くっ」
統馬たちには平気な表情を見せていても、やはり痛みは強かったのだろう、絶え間なく襲ってくる激痛に思わず呻くと、聖亜は自分の身体を支えるヒスイに向かって倒れこんだ。
「ほら、お前ほとんど歩けもしないじゃないか。少し休め」
「休む暇なんてないんだよ、あいつらを見失ってしまう」
遥か遠くにいて、時間とともにさらに遠ざかっていく巨体を思い浮かべ、聖亜はヒスイの腕の中で必死になって起き上がろうとした。そんな彼を、気絶させてでも止めようか、とヒスイが思った時である。
『ふむ、致し方あるまい。少々力を貸してやろう』
「・・・・・・キュウ?」
ヒスイの腕の中で必死にもがいていた時、耳元でいきなり聞こえてきた黒猫の声に、聖亜はかすむ視線でペンダントを見た。
「けどキュウ、お前ここにはいないんだろう? どうやってあいつらを追うんだよ」
『別に直接追うわけではない、気配を探れば、おのずと居場所も知れる。むろん、知り合いに頼んで監視もつける』
「・・・・・・・・・・・・降参だ、分かったよ。けど一つだけいいか?」
『ふむ、何だ?』
ヒスイに抱かれ、彼女の温かく、そして微かに甘い匂いに身を任せながら、聖亜はぼんやりと部屋の外を見た。
「頼むから、俺が眠っている間に片を付けるなんてことだけはしないでくれよ、これは、俺のケジメってやつだから・・・・・・さ」
最後にふぅっと深く息を吐くと、少年はヒスイの腕の中で、静かに目を閉じた。
「眠ったようだな」
『うむ。最後の最後まで言いたいことを言ってな・・・・・・しかしなるほど、こやつが最狂と言われる理由がもう一つ分かった。この歪んだ町で、この男は結局他人を助けようとする。それがこの街では狂っているように見えるのだろう、狂人だけが集まる街では、普通の人間こそが狂っているように見えるものなのだ』
「そうか・・・・・・それで、キュウ」
『分かっておる、ゴリアテのごとき巨人の追跡であったな。案ずるな、すでに気配は追いかけているし、念のため見張りもつけている。万に一つも取り逃がすことはあるまいよ』
ぶつくさとそう呟きながらも、やる気を見せている黒猫に苦笑すると、ヒスイは彼女の胸に寄り掛かって眠っている少年の長い髪を手で優しく梳いてやり、ふと、額にそっと唇を落とした。
まるで、眠っている幼子を見守っている、母親のように
「ふぅん、それでおめおめと帰ってきたんだ。とことん無様だね、兄さん達」
「・・・・・・うるせぇ」
赤い炎が点る暖炉の前にしゃがみ、傷だらけの統馬とそれを抱えている数馬を見て、少年は薄く微笑んだ。
「大体幻馬、テメエが悪いんだぞ。どんな邪魔も入らない、なんて大口叩きやがるから、薬をばら撒くことを許可したのに・・・・・・おかげでこの様だ。手下も百人ほどが奴一人に叩き潰された。もう再起を図ることもできねぇ!!」
「ふぅん、それはご愁傷様。ま、生きてればそんな事もあるよ。それよりさ」
幻馬と呼ばれた少年は、体のあちこちに包帯を巻いてぐったりとしている統馬にきらきらと目を輝かせながら近づいた。
「どうだった最狂は? 僕の言ったとおりとっても強かったでしょ」
「強いというより、あいつは異常だ。その名の通り狂ってやがる。人の指を、手を、まるで蠅を手で追い払うように簡単に叩き落としやがる。奴には良心ってものがねえのか!!」
「あはは、そんなのあるわけないじゃん。だって狂ってるんだよ? この狂った街の中で最もね。ああ、もう一度見たいなぁ。あの人が戦って、敵を無残に切り刻んで殺していくところを・・・・・・そのために薬をばら撒いていたんだけどね」
「・・・・・・おい幻馬、今聞き捨てならねえことを言わなかったか? 奴が戦うところを見たくて薬をばら撒いただと? まさかテメエ、最初から奴がこっちに来るのが分かってたっていうのか!!」
くすくすと笑っている義弟を、統馬は血の気がない表情で睨み付けた。彼の後ろで数馬がのそりと立ち上がるが、幻馬は当然じゃん、という風に肩をすくめて、冷たい笑みを見せた。
「そもそも何で僕が兄さんに自警団をやったと思ってるんだい? この日のためじゃないか。向こうに去ったあの人が、こっちに来て自分が所属していた自警団を食い物にしている兄さんをぶっ潰せるようにじゃないか!!」
狂ってる
笑いながら再び炎に目をやった彼を見て、統馬は心底そう思った。幻馬から遠ざかるようにじりじりと後退すると、先程自分がこの家に入るときに使った入り口に向け、脱兎のごとく駆け出した。だが、
「おっと、これは失礼を」
「うがっ」
その動きは、目の前に突然現れた壮年の男にぶつかることで止まった。いや、ぶつかっているのではない。彼は男の指一本で額を抑えられ、それ以上前に進むことも、それ以前に離れることもできないでいた。
「ですが困りますねえ、せっかくの余興の前に退出されるのは。もう少しここにいてくれませんかね?」
「う、うるせえ!! 誰がこんな所に居たいと思うんだ、か、数馬ぁ!!」
自由にならない体の中で、唯一自由になる口を動かし、力以外に何も持っていない義弟を呼ぶ。だが、彼がこちらに向かってくる気配は一向にしなかった。
「くそっ、何やってやがる数馬、この脳無しがっ!! さっさとこのくそ野郎をぶっ殺せ!!」
「おやおや、無駄ですよ? そんな事を言っても。さ、見てください」
「何だよ、何だってんだよ・・・・・・ひっ」
男の指に額をはじかれ、くるくると駒のように回転した統馬は、その回転が止まった瞬間、目に映るそれを見て、声にならない絶叫を上げた。
目の前では、数馬がこちらを見返してくる。口も鼻も床に沈んで、残った二つの目だけでこちらを!!
「あ・・・・・・あ・・・・・・あ」
「どうです、喜んでくださいましたか? まあこんなもの、これから起こる“劇”からすればほんのお遊びにすぎません。ではあなたもその二つの目で・・・・・・二つの目だけでご覧になっていてください。現実と空想が混じり合う、狂気の劇を」
「もしかして大鳥さん、あの人がここに来るの?」
「ええ、もうそろそろここに到着いたしますよ幻馬様。さて、彼をお招きする準備を始めなければ・・・・・・ねぇ?」
統馬の体をずぶずぶと床に沈めながら、暗闇でごそごそと動く影に目をやると、大鳥はくくくっと不気味に笑った。
数馬と同じように、目だけを床の上に出している統馬は、その笑みを見て、先程死んだ方が百倍マシだったと思いながら、唯一流せる涙を流し続けた。
「本当にここなのか?」
『ほう聖亜、そなたいい度胸だの。我の事を疑うとは』
「あのな、疑うのが普通だろう」
ペンダントの中から聞こえる黒猫の声にそう反論すると、聖亜は目の前に広がる洞穴を見て眉間にしわを寄せた。
二時間ほど眠りについた後、ヒスイの腕の中で目覚めた彼は、なぜか残念そうにしている彼女の腕の中から飛び起き、統馬達の所在を突き止めたという黒猫の言葉を信じ、屋敷からそれほど離れていないこの砂浜までやってきていた。
「ここには子供のころに何度か入ったことがあるけど、入って少し進むと行き止まりになっているし、逃げ隠れするには適さない場所だぞ?」
『さっきからごちゃごちゃと。聖亜、そなたなぜそれほど不満そうなのだ』
「だってキュウ、監視していたお前の知り合いって、さっき飛んで行った鴉だったろうが!!」
少年が目覚めて最初に見たのは、ヒスイが鴉と向かい合っている姿だった。彼女に尋ねると、どうやらその鴉はキュウの知り合いで、統馬達の動きを見張っていてくれたらしい。
鴉は少年がこちらを見ていることに気付くと、目をギラリと光らせ、漆黒の空に向かって飛んで行ったのだ。
「まあ鴉は鳥の中でも高い知能を持っているからな、これぐらいの事はできるのだろう・・・・・・キュウが鴉と知り合いだったというのは初めて知ったが」
『ヒスイよ、そなたまで文句を言うか。ではこうしようではないか。もしこの洞穴の中に奴らがいたら、そなたらには我に向かって頭を下げてもらうぞ』
「上等じゃないか。分かった。ヒスイもそれでいいだろ?」
「私もか? 分かった。この中にもし家でもあったら、聖亜と一緒にお前に謝る」
『ふん、言ったな。ではさっさと入るぞ、そして謝ってもらおうではないか』
ペンダントの中で喚く黒猫に急かされるように、二人は薄暗い洞穴の中へと足を踏み入れた。
「「ごめんなさい」」
『ふん、分かればよい』
平たい岩の上に置かれたペンダントに、聖亜とヒスイの2人が深々と頭を下げたのは、それからわずか数分の事だった。
なぜなら洞穴に入ってしばらく進み、奥の広場のようになっている場所に着いた時、そこには少年が数年前に来た時にはなかったログハウスのような家が、しっかりと建てられていたからである。
『ま、これで自分達が未熟だと分かっただろう。せいぜい精進するがよい』
おそらくペンダントの向こう側で胸を張っているだろう黒猫の声に、聖亜とヒスイはため息を吐いて顔を上げた。
「さて、ちょっとここで待っててくれ。恐らく統馬と数馬も中にいるだろうから、これから中に入って、
皆まとめてぶっ潰してくる」
「あ、ああ。気をつけろ、よ?」
恐ろしげなことを言う少年に、ヒスイが口ごもりながら激励の声を送ると、その声に右手を上げて応えつつログハウスに近づくと、聖亜は目の前にあるドアを蹴った。ガシガシと何度か蹴ると、何の補強もされていないのだろう、木造の扉はは簡単に後ろに倒れた。
「さて、暗くてよく見えないが、はたして蛇が出るか、それとも鬼が出てくるか」
中に入ると、床代わりに敷き詰められた丸太を蹴りながら、聖亜は薄暗い部屋の中を見渡した。木で作られた椅子とテーブルが部屋の真ん中に一つと、あとは壁際に炎が消えた暖炉があるだけで、他には何もない。それどころか、ここに入ったはずの統馬達の姿すらどこにも見当たらなかった。
「・・・・・・いるな」
だが、聖亜はそれほど広くはないログハウスの暗闇の中で動く、一つの気配を感じ取っていた。その気配は最初炭の方でうずくまっていたが、やがてこちらに向かって走り寄り、彼にぎゅっと抱き着いた。
ばっと飛びのこうとした聖亜は、自分に抱きついているその少年を見てふと眉を潜めた。自分より幾分背が小さい少年は、胸に頬を摺り寄せてくる。数年前と同じ相手の仕草に、彼は深々と息を吐いた。
「・・・・・・なぁ、放してくれないか」
「やだよ、久しぶりなんだもん、兄ちゃんにこうやって抱き着くの」
少年がそう答えた瞬間、家の四隅に備え付けられていたランプが、いっせいに光り輝いた。
「そうだな、久しぶりだ。けど話がしたいから、一端離れてくれ、幻麻」
「・・・・・・はぁい」
抱きついてくる少年の頭に優しく手を置くと、彼は名残惜しそうにしながらもしぶしぶ体を放した。
「で、久しぶりだな。幻麻」
「うん、兄ちゃんもほんとに久しぶり!!」
木で出来た椅子に腰かけると、すかさず少年、幻麻がすり寄ってくる。その頭を優しく撫ぜてやると、聖亜は不意に真顔になった。
「でだ幻、少し聞きたいことがあるんだが、構わないか?」
「もちろんだよ兄ちゃん。兄ちゃんの知りたいことならなんでも答えるよ? えっとね、じゃあ最初に、僕がどうやってクズを解体していくかなんだけど」
「いや、そんなこと誰も聞いてないから、俺の質問だけに答えろよ? でだ、幻、お前が三馬兄弟の最後の一人である、」
「うん、そうだよ。僕が“最悪”幻馬。よくわかったね、さすが兄ちゃん。それで? 次は次は?」
「磯垣を殺したのはお前だな?」
「うん。だってあいつうっとおしかったんだもん。抱かせろってさ。で、いいよって返事して、あいつが帰ろうと背中を向けた途端、銃で撃っちゃった」
人を殺したにもかかわらず、それを羽虫をつぶすのと同程度に話す目の前の少年を見て、聖亜は微かに表情をゆがめた。
「次、新市街に薬をばら撒いているのもお前か」
「もちろん。だってこうでもしないと兄ちゃん来てくれないでしょう? 別にいじゃん、“豚”が何匹廃人になろうがさ・・・・・・で、考えた通り、兄ちゃんは僕の所に来てくれたんだ。でさ、兄ちゃん」
「何だ」
足の位置をずらした時、靴底に丸太とは違う感触が伝わった。ちらりと下を見ると、涙を流しながらこちらを見上げる充血した二つの目が見えた。それに気づいたことに気づかれないように、そっと足を戻す。
「兄ちゃんがこっちに帰ってきてくれたってことはさ、この腐った街の頂点に立つんだよね? この街を狂気と恐怖で支配して、旧市街と新市街に打って出るんだよね? そしてずっとずっと、僕のそばにいてくれるんだよね?」
「・・・・・・」
少年の問いに、聖亜は目を瞑って無言で応えた。そのまま、幻麻がじれて口を開きかけるまで沈黙した後、両目を開け、目の前の少年をじっと見つめた。
「幻麻。お前の問いに、一つだけ答えてやる。俺がこっちに来たのは薬を流している奴を見つけて、そいつを潰すためと、行方知れずになった知り合いを探すためだ。それがすんだら、俺はさっさとこの街から出ていく。だからお前が薬を流している張本人というなら、俺はお前を叩き潰してさっさと家に帰る。それだけだ。それで? 何か最後に言いたいことはあるか?」
「・・・・・・・・・・・・」
「何もないようだな、ならさっさとすませよう。まあ知り合いとしてのよしみだ。安心しろ、殺しはしない。ただ今後薬を扱おうなどと馬鹿な考えが浮かばないようにするだけだ」
口を開きかけている状態で固まっている少年を一瞥すると、聖亜は床に転がっている、先ほど破壊した扉の一部である細長い木の棒を拾い上げ、一度振った。ビュッと風を切る手応えに頷き、口を閉ざし、うつむいている少年に視線を向けた時、彼はふと動きを止めた。
彼は、俯きながら笑っていたのだ。
「・・・・・・」
「・・・・・・ふ、ふふっ、残念だよ兄ちゃん。せっかくこの街をあげる機会を与えてやったのに。けどそうだよね、兄ちゃんは人から与えられるものには興味ないよね。いつだってそうだ・・・・・・だから僕は兄ちゃんがこの世で一番好きなんだ。だから、だからね兄ちゃん、力づくで僕の物にしてあげるよ。じゃ、よろしく頼むよ、大鳥さん」
「他にまだ誰かいるのか? だがそんな気配はどこにも・・・・・・ちっ、そういうことか」
「聖亜っ!!」
「はい、お任せくださいお客様。我々バード商会は、お客様の求めるすべての欲望にお応えいたします」
先ほどまで目の前の少年の気配しかなかったのに、いきなり聞こえてきた声に、少年が誰と、いや、どんな存在と手を組んだのかわかった聖亜が顔をゆがめた時、家の中に突然湧き上がった強烈な気配を察知したヒスイが駆け込んできた。だが、家の中に入った途端、重圧により床に縫い付けられる。
一度強く舌打ちすると、聖亜は今までいた場所を飛びのき、倒れているヒスイを守るように彼女の前に立つと、目の前の闇からその存在が出てくるのを、ただじっと待っていた。
続く