魚の夢
「おかあさん、おとうさん、おやすみなさーい」
恵流がそう言うと、リビングのソファーにいた父はにこやかに「お休み、恵流」と言い、母は立ち上がって恵流の部屋までついてきた。
「明日の準備はちゃんとした?」
「うん。あしたきるふくも、くつしたも、じゅんびした!きれいなハンカチもほいくバッグにいれた!」
「そう、えらいわね〜」
子供部屋に入りベッドに入る恵流が寝冷えしない様に母親は掛け布団を整える。
「お魚さんの夢、見られるといいわね?」
「うん!」
体を横にし、母親とお話ししている間に恵流の瞼がゆっくりと閉じてゆく。
眠りを見届けた母は静かに部屋を出ていった。
――恵流が寒さにふるりと体を震わせ、ゆっくりと目を開けると、暗い砂漠の上に寝ていた。
体を起こし周りをきょろりと見渡す。
真っ暗だけれど、不思議と物の形は見える。
足元は砂の大地、上を見上げれば白い綿の様な雪がゆっくりと漂う様に降りてくる。
立ち上がってパジャマと裸足の格好を見て、また周りを見る。
「おさかなさん」
目を向けた先にゆっくりとこちらに向かってくる大きな白い魚を見つけて恵流は笑いかけた。
「きょうはねー、ユカちゃんとトモキくんがケンカしてたいへんだったんだー」
砂の上に指でお絵描きしながら話す恵流の周りを白い魚は泳ぐ。
五才になる恵流と白い魚はほぼ同じ大きさだ。
初めて出会ったのは三才くらいの頃。
寝ていた筈なのに、暗く寒い砂漠に一人ぽつんといた恵流の下に現れた白く大きな魚。
細長い体に胸びれと尾びれが大きな見たことのない魚だった。
自分より大きな魚が宙を浮いて泳ぐ姿に三才の恵流は驚き、また子供ゆえに直ぐに受け入れ、魚に話しかけたり後をついてまわり、気がつけばまた自分の布団の中にいた。
それから時々見る様になった魚の夢はもう二年近くになる。
子供の言葉はとりとめもなくコロコロと変わりながら、自分の周りであった事を話してゆく。
「あっ!きのうねー、“にじ”みたんだよ!おさかなさん、にじみたことある?」
魚はゆったりと周りを泳ぐだけだが、恵流は気にせず、指で大きく半円を幾つも重ね描く。
「おっきくってねー、いろがいっぱいあるんだよ!あかにー、あおにー、えっと、むらさきにー…」
虹の絵が描き終わると魚は泳ぐのを止め、じっと見た。また動きだした魚は恵流の体を撫でる様に身を擦り付けてから彼の周りを泳ぎ、目の前に降ってきた雪をパクリと食べた。
恵流は魚にたくさんの事を話した。楽しかった事、悲しかった事、思い付くままに。
「オムライスおいしかった」
「ヒコーキがくものせんをかいてたんだよ」
「おかあさんにおこられた…」
「どうぶつえんにいったよ!」
「おとうさんのたんじょうびだった!」
「ともだちとケンカした…」
「おゆうぎかいでおどったよ!」
「ころんでひざからちぃでたー…」
「カミナリがね、ゴロゴロゴローってなったんだよ!」
「おえかき、ほめられたー!」
「おまつり、おもしろかった!」
「はなびがね、バーン!って、キラキラってなったの!」
「カズくんがね、モーチョーなったんだって。ぼくもなるのかな…」
「くりひろい、いったよ!トゲトゲなんだよ!」
「…かぜひいたー…」
魚は傍にいるだけで話す事はなく、それでも恵流の拙い身振り手振りや砂の上の絵を見て楽しんでいる様だった。
夢の中の自分だけの不思議な友達。
ずっと続く夢だと思っていた。
「メグルくん」
一人と一匹しかいないこの場所で、自分じゃない声が聞こえて恵流はびっくりして顔を上げた。
周りを見てもやっぱり白い魚しかいない。だから魚を見て声をかけた。
「おさかなさん?」
「うん」
白い魚が初めて声を出した。
初めて聞く魚の声に恵流はポカンと口を開けたまま聞いていた。
「たくさん、おはなし、ありがとう」
小さな声は少し高めで子供っぽく、たどたどしかった。
「たのしい、かなしい、いろんなものをおしえてくれて、ありがとう」
魚の体が近づき、その身を恵流の掌に擦り付けてまた正面に戻る。
「あなたがいなくなっても、あいにきてくれたから、さびしくなかったよ」
手に触れた魚の体は少しザラリとしていて、その表面は幾つもの傷跡があり、胸びれも尾びれも破けた様に傷んでいた。
「こんどは、あたしがあいにゆくね」
「おさかなさん?」
魚が恵流の周りをクルリクルリと泳ぐ。
その姿を見ているうちに辺りが見えなくなってきて――、
魚の姿も消えた。
――それから魚の夢は見なくなった。
* * *
ふわりと空から雪が落ちてくる。
暗い夜道にゆっくりと降る雪は、子供の頃に見た夢の光景に似ていた。
「……おさかなさん」
冷たい空気の中に気泡の様に言葉を出しても“彼女”は現れない。
大人になるにつれ子供の頃の事など忘れてゆくものだが、不思議と“おさかなさんの夢”を忘れる事はなかった。
小さい頃の夢の中の友達。
夢の影響か、魚に興味を持った恵流は大人になった今は水族館で働いている。
熱帯魚や深海魚などの様々な魚や甲殻類の他に、クラゲやペンギンといった人気者もいる中規模の水族館で入館料も手頃なのでなかなか人気がある場所だ。
空がよく晴れた行楽日和は屋内型施設の水族館もお客で賑わっている。
ふれあいコーナーの定期チェックの時間になり、チェック表を持って水温、展示されている魚やヒトデ、ヤドカリなどの具合を見て、コーナーについている係員にお客さん用のアルコール消毒剤とタオルに不足がないか聞き、スタッフルームに戻ろうとした時だった。
「あの〜…、水族館のお兄さん?」
「はい、何ですか?」
声を掛けられた方を向くと高校生くらいの女の子がいた。
「えっと、行き成りすみません。あの、…こんな感じのお魚知りませんか?」
見せられたのは女の子が持っている鞄につけられた掌大のぬいぐるみ。
白く光沢のある布地でできた、細長くて胸びれと尾びれがやけに大きな魚だった。目はユーモラスに黒目が動く物がついている。
「多分、深海魚だと思うんですけど、何て魚か分からなくて。…あっ、大きさはもっとあると思います」
女の子の掌にある魚のぬいぐるみに遠い記憶が鮮明になる。
「……これ、どうしたの?」
「えっ?あ、これ手作りなんです」
「手作り?」
「その…、この魚の事知りたくて。でも姿しか分からなくて」
(その魚を知っている)
「見覚えがある」
「えっ!ほんとですか!?」
答える恵流に彼女は嬉しそうに顔を綻ばせた。
(でも、その正体を知らない)
「……ごめん、見た事があるだけで、名前とかは分からないんだ」
「…あ、そうなんですか…」
欲しい答えを得られず、肩を落とす彼女に恵流は続けた。
「でも、俺もその魚を知っている人に初めて出会ったから嬉しいよ」
「あ、あたしもです!本とかネットとか調べてもどこにも載ってなくて。…この魚、本当にいるんだ」
「……多分、まだ未発見の魚なんじゃないかな」
「未発見。新種、とか?」
「うん。深海にはまだまだ知られていない生物がいるからね」
「そっかあ〜。教えてくれてありがとうございました」
ぺこりと頭を下げて彼女は去っていった。
その日はそれきりだった彼女とは元々互いが地元だからか、それ以後は商店街や本屋、ショッピングモールなどで見かける事があり、軽く手を振って挨拶したり、買い物途中で出くわした時はその買い物にアドバイスを貰ったりと接点が増えてゆく。
たった一度の出会いから二人の時間は重なりあってゆき、水族館での出会いから一年が過ぎて、高校生だった彼女は大学生になっていた。
「……初めて会った時の事だけどさ、どうして俺に声かけたの?」
恋人となった彼女、由希と休日にショッピングモールへと出掛けた。
「え、突然何よ?……う〜ん。勘みたいなもの、かな?」
由希は恵流の顔を見上げて笑った。
「勘?」
「うん。あの水族館で恵流を見かけてね、普段なら知らない人に声かけるなんてしないけど…、『この人なら大丈夫。あたしに教えてくれそう』って何故か思ったの」
「ふーん、…そうか」
「何よ〜?」
彼女の動きにあわせてフワリとなびく少しウェーブがかった黒髪が遠い記憶と重なった。
結局、白い魚の正体は未だ分からない。
彼女にどこで白い魚を知ったのかも聞いてみたが「秘密です」と教えてはくれなかった。
……でも彼女といると、浮かぶ思いがあった。
『あなたがいなくなっても、会いに来てくれたから、寂しくなかったよ』
何故あの夢を見続けたのか子供の頃には考えもしなかったが、今なら分かる気がした。
(……俺の前世って魚だったんだな)
自分が魚だった記憶は無い。
だが生まれ変わっても彼女に会いたくて、何度も夢を使ってあの海の底へと降り立ったのだと思う。
『今度はあたしが会いにゆくね』
(君が人になる前にした約束)
彼女は約束を果たしてくれた。
二人並んで歩く夜道に雪がふわりと降ってきた。
「あ、雪」
見上げればふわり、ふわりと大粒の雪が風のない空からゆっくりと降りてくる。
「ああ。……マリンスノーみたいだな」
「マリンスノー?…あ〜!そうだね」
同意してくれた彼女が嬉しくて手を繋ぐ。
――もうあの深海に行く事はないけれど。
海に降る雪の中を二匹で寄り添っていた時の様に、これからも二人一緒にいよう。