07
「さあ、本日の授業はこれで終わりだよ。各自、予習復習を怠ってはいけない。学べるというのはとても貴重なことだ。それでは――」
言葉は、最後まで言い切ることができなかった。単純に、誰も聞いていなかったのだ。
内心だけでため息をついて、イール・エルスは持っていた教材をしまい込む。分かってはいたが、やはり思わずにはいられない。下院教師とは忍耐の仕事であり、成果の見込めない仕事でもある。
(やはり下院クラスは、根本的にやる気に欠けるね)
とりわけ、自分たちが担当をしているクラスは。
下院の中でも、格差は存在する。同じ孤児でも商人の子などは勉学の重要さを分かっているし、亜人部族の子は勉強を軽んじ体技に重きを置くも真面目ではある。平民の子であれば、前者らには劣るも、とりたてて問題はなかった。
厄介なのは盗みを覚えた子供たちだ。それも、集団で他人の成果を奪う事になれてしまった子。他人から奪えばどうにでもあると本気で考えているし、学院の中でも、群れをなして強気でいれば問題ないと思っている節がある。
そういった問題ある生徒を教えるのは、主にソルイユの旧知の人間だった。
苦労ばかりだと分かって担任を持っているのは。ソルイユに頭を下げられて断れる人間はまずいないのであり、そして教師たちは、彼の方が遙かに苦労しているのも知っている。あとは、まあ。世の中を甘く見た子供の相手が仕事であっても、他の仕事をするよりは待遇がいい。
(もう少し生徒を混ぜて配置できればいいんだけどね)
現在、生徒の割り振りは、作為で決まる。元の知識に差があるから、仕方なくはあるが。だが気力で割り振りを決めるのだけは何とかして欲しい。
問題のない生徒を見るのは、各国から派遣されてきた教師になる。政治的な駆け引きやらがあるため、口出ししづらいのいうのは分かる。だが、うらやむ気持ちというのは止められるものでもない。
(根本的には、彼の生徒に対する態度が甘すぎるのが問題なんだ。問題あるならあ問題あるなりの態度があると思うんだけどね)
生まれによるものなのだろうか。
ソルイユが貴族の出自、ないしは裕福であったことは、簡単に分かる。知識量は舌を巻いたが、常に見通しは甘かった。そして、周囲もよほど善良であったのだろう。度を超えたと言ってもいいほどの博愛主義者だ。
血や階級を平等に扱うのは、まだいい。だが、善悪を平等に置くというのは、控えめに言っても愚か者のすることだ。
(彼には悪いけど、今度議題に出すべきだろうね。ソルイユに近しい者が一同になれば、いくら他国から来た教師たちでもあっても、無視できない)
と、自分の顔がしかめられているのを感じた。いったん教材を置き、自分の顔を揉みほぐす。
(いけないな。私は道化だ――悩む姿など見せれば、不安に思う者が出てくる)
それしかできない人間なのだから、それくらいは貫き通さねばならない。
教材を持ち直し、教室から出る。次に何をするべきだったか、思い出そうとした時だ。
「イール・エルス」
不意に声をかけられて、ぎょっとした。気配がまったくしなかったのだ。
振り返る。真横には、いつの間にか少女がいた。小柄な人狼族が、そっとこちらを見上げている。瞳にも表情にも、感情の色はない。仮面というのでも、ただの無表情というのでもない。もっとこう、死者の貌を思わせる無機質さだ。
アーリー・テスラ。知るものは少ないが、ソルイユの側近である。何かと忙しい彼の手足となって、いつも学院の外で仕事をしている。
イールは、自分の不幸を呪った。アーリーは、彼が最も苦手とする人間だ。いや、得意な者がいるならば、聞いてみたい。彼のソルイユですら(全く別の意味でだが)彼女を苦手にしていた。
「ソルイユ様より賜った仕事は?」
忌々しそうに言われて、イールははっとした。
彼女は用がなければ、絶対に接触してこない。というか、姿も見せない。積極的に関わろうとする相手はソルイユだけなので、それ自体はなんらおかしくないが。それとは別に、イールはアーリーから嫌われていた。ソルイユに対する付き合いの長さと態度に嫉妬しているのだ。そう言えば、かわいいものだと思うかもしれないが。アーリーは武力行使するだけの実力があり、そして行動するのに迷わない。彼女に疎ましがられるというのは、実際、かなり危険な事だった。
「いや、まだ終わってないんだけど……」
体が硬直し、普段通りの態度が出てこない。声も震えていた。
少女は、その可憐な(と表現して、合っているのかどうか)容貌に似合わず、吐き捨てる。
「無能が……」
「仕事の内容は」
「え?」
「早く言え」
聞き返すと、彼女の目が細まった。それがどんな感情によるものかは分からないが、いい表現ではあるまい。
応えようとするが。それより早く、教室の扉が開かれた。
「あーっ! センセー教室の外で逢い引きかよ。つーか相手ガキじゃん! ロリコンかよ、私らヤバくね?」
げらげらと笑い出した女生徒。併せて、教室内の生徒たちも笑おうとしていたが。
女生徒が何の前触れもなく崩れ落ちる。白目をむいて、口元から涎を垂らし、人形のように手足を投げ出して。
一瞬にして教室が静まりかえった。全ての視線が、唯一視線を向けたかった者――アーリーへと突き刺さる。とうの本人は気にもしない。むしろ、もう忘れた風ですらあった。
「私は――」
声は、ひたすら冷たかった。そして妙に響いた。
「ソルイユ様の偉大さも分からぬゴミと戯れに来たんじゃない。早くお前の仕事を答えろ」
よほど察しが悪くなければ、気がついただろう。その少女は、調子に乗って無事で済む相手ではないと。
「げ、下院の中から才ある者をソルイユ……様が探していたので、一名推薦しました。ですが素行に問題があり、対象の現状調査をするように、と言われています」
すでに普通に話すだけの気力はなく(ついでに、呼びつけにした時は、気を失うのではないかというくらいの殺気を浴びせられた)背筋を伸ばして言う。
「せいぜいそれだけの仕事が、まだ終わっていない、と」
(無茶言わないでよ!)
直接会って、ちょっと世間話をして終わり、という訳にはいかないのだ。
何をするにしても、まずは対象の担任に話を通す必要がある。話を通して資料をもらい、それをある程度纏めて――ここまでは終わっている。肝心の生徒に会うのが難しい。呼び出しには応じないし、どこにいるかも分からない。態度の悪さも手伝い、イールが持つ権限では遅々として進まなかった。
「行くよ」
「あの、何が」
「その生徒の所」
言うアーリーは、口元以外が全く動かない。実は彼女はここにいなくて、目の前のこれはただの人形ではないか。そんな考えが浮かんできた。
「なぜと聞いても?」
ソルイユに頼まれた仕事は調査であり。彼女も状況の報告だけが仕事であるはずだ。
もし急いでいるならば(危険なので)絶対にアーリーには頼まれない仕事だ。
「私に。まさか。クズの無能が何もしていませんでした、などという全く意味のない報告をしろと?」
――死んだかと思った。
優しさや容赦とは無縁の瞳が、イールの全身を貫いている。小さく、しかしはっきりと頷く。それ以外にやりようもない。
アーリーは何も言わなかったが、しかし舌打ちをしたい心境だろうと言うのは分かった。イールを一別すると、姿を消した。見えないだけで、そこにはいるのだろうが。高度な魔法だ。
(見えなくなったのはありがたい)
とりあえず、恐れから幾ばくかは解放された。
イールは小走りで走り始める。目的は、対象生徒の教室だ。そこにまだいるかどうかは分からないが、いなければ担任に聞けばいい。後は……イールは小さく願った。生徒よ、どうか反抗的な態度だけは取るな、と。願いはたぶん、届かないことは分かりながら。
●○●○●○●○
学生寮からすぐ、戦争後のクレーター近くにある、半壊した資材置き場。近隣の寮生ならば誰もが知っている場所ではあったが、近づく者はほとんどいなかった。というのも、近づけば必ずたちの悪い連中がいるからである。
そのたちの悪い連中は、今日もそこに集まっていた。
「あーダリィ。なんか面白い事ねえ?」
言ったのは、リーダー格の少女であるネスティアだった。
長身で、赤みのかかった長い髪は無造作に跳ねている。気が強そう、というよりは、純粋に目つきが悪い。体はひたすら細身で、貧相とすら言えた。まあ、それはその場に集まっている者全てに言えるのだが。
「ないっすねー」
「気にいんねえ事ならいくらでもあるッスけどね。クソ、あの羽根付きどもめ……」
資材置き場に半ばはみ出る形で、8人ほどの男女がいた。全員が数年来の仲間であり、同時にネスティアの部下でもある。つまりは、子供の窃盗団だ。やせ細っているのも、太れるだけの余地がなかったらかである。
まあ、食糧事情『だけ』につては、今年に入ってからだいぶマシになってる。それだけは、彼女も認めた。
「ふん、それこもこれも、あのソルイユとかいう胡散臭い野郎のせいだ」
ネスティアはそう言って、ついでに唾を吐き捨てる。
彼女たちは数ヶ月前、無理矢理学院なるものに押し込まれた。生活習慣まで強要され、机にかじりつかされる。そんなことを偽善者面でしている奴が、ひたすら気に入らない。それでも学院を抜け出さなかったのは、ひとえに食う心配だけはなくなったからだ。
何をして悦に浸ろうが勝手にすりゃいいさ。だけど、思い通りになると思うなよ。こっちは利用するだけ利用して、利用価値がなくなったらとっとといなくなってやる――それが、彼女たちに共通する意見だ。
まあ、顔も知らない奴は、今はどうでもいい。目下の敵は羽根付きどもだ。
「どこの国のお偉いさんだか知らなねえが、奴ら調子に乗ってンだよ」
「何が「君たち生まれも育ちも下賤な者とは違うのだよ」だ、殺すぞトリ公が」
「あいつらの羽を全部毟ってやれば、ちっとはしおらしくなるんじゃないっすか?」
「そりゃいい。今度羽根なしにでもしてやるか!」
言って、全員でげらげらと笑い出した。
今の台詞は冗談だが、そのうち冗談ではなくなるだろう。そうネスティアは確信していた。日々の不満は積もっていたし、実際、奴らとの関係は、それだけ抜き差しならないところまで来ていた。
(いっそすぐやってやるのいいかもね。くそったれの教師どもにも、あたしらは思い通りになんざできないって事を思い知らせてやれる)
そう考えると、案外悪くない案にも思えた。
と――
足音が聞こえた。
近づいてくる音に、ネスティアは自然と緊張感を高めた。仲間も同様だ。
ここに自分たち以外が来たことは、ほとんどない。幾度か迷い込んできた奴はいるが、そういうのは小突いて追い返せば、二度と来ない。来たのが今日でなければ、さほど気にする必要もなかったが。
(ここしばらくは、あたしに探りを入れてる奴がいる。そいつなら……)
少し厄介な事になるかもしれない。まあ、いざとなれば叩きのめせばいい、というのは変わらない。やることは同じだ。
姿を見せたのは、一人の優男だった。脅しをかければすぐ泣き出しそうな、頼りない容貌ではある。だが。
(このマント――教師か!)
来たのは厄介ごとの方だ。
ネスティアは積み上げた廃材の上から降り、優男の前に進み出る。
「はっ、教師サマがいったい何のようだい?」
強くにらみつけて、脅しをかける。優男の反応は予想通りだった。つまり、ネスティアに怯えて、腰が引ける。
(あんたらみたいな腰抜けに、あたしらがどうにかできると思ったのか?)
やはり、教師なんてこんなものだ。腰抜けの作った学校なんぞに、まともな奴が来るはずがない。
仲間たちもにやにやとした笑いを作って、優男を囲むように動き始める。
「いや、用があるのは私ではなくてね……」
「どれがそう?」
急に、声が増えた。気づけば、いつの間にか一人増えている。
ネスティアはぎょっとして思わず構える。足音は確かに一人分だった。人影だって、今まではそこになかったと断言できる。
「なんだ、このガキ……?」
そう言ったのは、仲間の誰かだ。背後の戸惑いは、そのままネスティアの戸惑いでもある。
現れたのは、少女だった。こちらは教師ではないようで、普通の(どこかに遠出をするような)格好をしている。容姿は整っていると言っていいだろう。ただし顔つきは、控えめに言っても気持ちが悪い。まるで人形を見ているようだ。
「おい、てめえら何なんだ?」
強気な姿勢は崩さず。内心の不安を振り払って、詰問したのだが。少女の方には、完全に無視された。男の方も、ちらりと一瞥はするものの、視線は少女の方に向いている。
「中央の、目の前にいる彼女なんだけど」
「これ?」
言って、向けてきた少女の視線は。物でも見るそれだった。
(クソが……ナメやがって!)
怒りで、頭に血が上る。今まで感じていた不気味さなど、一瞬で吹き飛んだ。それを煽るように、少女の様子が僅かに変化する。
「こんなものが?」
無感動からあざけりと侮蔑へ。
ネスティアの、ただでさえ低い我慢の限界が、たやすく突破した。
「殺す……!」
言葉と同時に、魔法を発動する。
溢れた魔力は然るべき変化を遂げ、右手に雷光を生み出した。
彼女にはいくつか才能があった。それは、小さなコミュニティを即座に掌握、君臨する能力であったり。上手い具合に盗みを成功させる力であったり。学院に来てみれば、頭の回転も悪くはなかった。そして極めつけが、魔法に対する感度だ。
これは学園に来てから知ったことだが、彼女はごく自然に、魔力による身体強化を行っていた。身体強化魔法は基礎中の基礎――というか、魔法とも言えないものだが。それでも、扱い方を学ぶ前からできるのは異常だ。
天才である彼女に最も適正があったのが、魔法の即時発動。小規模な魔法であった場合、必要な手順をかなり無視して(正確には違うらしいが)発動できる。それこそ、教師などよりもよほど早く。
最速で放った魔法は、会心の出来だった。拳を放つ動作に至るまで。
が――
それは、あっさりと掴まれた。
「!?」
今日一番の驚愕に、思わず体ごと引く。だが、全体重をかけてもびくともせず、少女は僅かも影響された様子がない。
(こいつ、何だんだよ本当に……!)
なぜ拳を掴めたのか。強力な雷撃は、人が死ぬほどではないものの、耐えられるレベルのものでもないはずだ。それを、身体強化で突き出された拳ともども耐えて見せたのか。もしくは、ここに到着する前から防御の魔法を使っていたのか。または、ネスティアを上回る速度、気づけない隠密性で魔法を発動したかだ。どれであっても尋常ではない。けんかを売るのが間違っている相手だ。それでも、中前の手前、引けない。
「テメェ、離せ!」
とにかく体を振り回し、なんとか逃げだそうとする。
ふと、視界が下がった。次は何も分からなくなり、気づいたときには、地面が垂直になっている。鼻っ柱に、強烈な痛みが走る。そこでやっと、叩きのめされたのだと知った。
膝を崩されて、倒れ込んだ所に膝を合わせられた。簡単に分かる。ただ、全てが終わるまで動作の一つにも気がつけなかったが。
(つ……え……)
攻撃は強烈なものでこそなかったが、要所を押さえたものではあった。ダメージの回復には、もうしばらくかかる。
いい加減理解した。少女が今もネスティアを相手にせず、優男をにらみつけているのは、相手にならないと分かっていたからだ。
「君の言いたいことは分かっている。分かっているから、無言で人殺しの視線を送るのはやめておくれよ。本当に仕方がないんだ。彼の要望通り、無所属の下院でありながら短期間でものになる生徒っていうのは、君が思っているより遙かに少ないんだよ」
「……本当に使えない」
その言葉は、早口でいいわけを始めた男に向けたのか。それとも転がるネスティアに向けたのか。
(本気でまずいぞ……なんでこんなやつに目を付けられてんだ)
こんな化け物に襲われる理由というのは、全く思いつかない。とにかく今は大人しくして、ダメージの回復を待つ。そして、何とかして――なんとかの内容は、何も思いつかないが――逃げなければならない。もう学院になどつきあってられるものか。
状況が変わったのは、本当にすぐだった。新しい足音が、近づいてきたのだ。
現れたのは。変な男だった。とにかく、容姿に関わる全てが変である。黒に近い髪や瞳というのは、そこそこいるのだが。完全に黒い髪と瞳をした人間というのは、初めて見た。顔立ちもどこかおかしい。美醜以前の問題で、こう、何かが違う。
男が来て、なぜだろう。空気がやたらに華やいだ。こう、ぱっと。
発信源は、少女だった。
(…………は?)
自分でもその光景が信じられる、呟く。まるで化け物にしか見えなかった少女が、普通に笑顔を作っている。そして、ちょろちょろと(冗談のようだが、本当にそんな感じで)男に近づき、べったり張り付きそうなほどの距離で言った。
「ソルイユ様あ! どうしてこんな所に?」
声質はさほど変わらないはずなのに、やけに甲高くなた印象さえある。本気で、全くの別人である。双子が入れ替わったと言われた方が、まだ納得できた。
「いや……君が遅いから様子を見に来たんだが……」
「あ……ご、ごめんなさい! ソルイユ様をお待たせさせてしまうなんて……!」
「それ自体は特に気にしていないんだが……。この状況は何なんだ?」
最後の言葉は、優男の方に問いかけた様子だったが。答えたのは少女だった。
「無能のカスと身の程知らずのゴミがとっても、とーっても私の邪魔をしたんですよぅ」
体を起こせるくらいには回復したが。もう少女の暴言に言い返そうと思えないくらいには、へこまされていた。
「って、ソルイユ?」
聞いた名前だ。学院にいて、知らない事はありえないレベルの。いや、世界中ですら、その名を知らない者はいないくらいの名だ。
と。浮かせた頭が、再度地面とキスを交わした。上から押さえられた、というか踏みつけられたのだと、またしても終わってから気づく。さらに、ぐりぐりと頭を踏みにじられ、か細い悲鳴が上がってしまう。
「ぶうぇえええぇぇぇ……」
「誰がお前に発言する事を許可した?」
ドスの聞いた声で、そこにいるのが同一人物だったという事だけは知れた。全く嬉しくない発見だ。
「ちょ、なにやってんの」
想像の人物像よりは遙かに普通に、そして引いた様子で言う。
「はい! 勘違いした馬鹿を躾けています!」
ものすごくいい笑顔で(顔を踏みつけられているため、表情は見えないが。まあそんな感じなのだろう)断ずる少女。
ソルイユ理事長は、今度は様子だけではなく、実際に半歩退く。そして、そういう事を聞いているんじゃないと言いたげに、頭を振っていた。歴代最高の魔法使いだアブソリュート・ブレイカーだと物々しいあだ名がついているが、案外普通の人かも知れない。少なくとも感性は。
だったら是非この人を止めて欲しいものだ。そうネスティアは祈った。
「とりあえず足をどけなさい」
「はい!」
ドムッ! と、上から押さえて動きを制する変わりだろう、つま先が横隔膜にめり込んだ。痛みより、呼吸ができなくなる苦しさの方が強い。当然、何もしゃべれない。これが狙いなのだろうが。
「蹴るのもやめなさい!」
「はーい!」
再び姿を消して、いつの間にかソルイユ理事長のそばに立つ。やはり動きは全く見えなかったが、もう驚く気にもなれない。
少女はぶんぶんとしっぽを振って(今更気づいたが、少女は亜人だった)甘えている。
「犬かよ」
などという、余計な事を言ったのが誰かは分からなかったが。続いて響いた大きな打撃音と、何かが崩れる音で、吹き飛ばされたのだと分かった。
指摘するのも諦めたのか、横槍を入れたのが悪いと思ったのか、理事長は黙って頭を抱えただけだった。
「アーリー……私は彼女の、あー……」
「ネスティアですよ」
「そう、ネスティアだ。ネスティア下院生の成績とおおまかな潜在能力、そして生活態度の報告が欲しかっただけなんだ。別に何をしようとも思ってないし、ましてやネスティア下院生をどうにかしようなんて全くだよ」
「はい! ソルイユ様に良い報告を持って行くためには、最低でも汚い口を塞ぐことが不可欠と判断しました」
「ソルイユ……彼女は全く話を聞いていないね」
「いつもこうなんだ……」
やたらに哀愁漂う姿ではある。同時に、教師と理事長、二人そろってため息を吐く姿が、少女の扱いづらさを表していた。
「いいかい、アーリー・テスラ。私が欲しかったのは、あくまで現状ままの報告だ。改変する必要はないし、させる必要はもっとない。それに、口が悪かろうが問題ないんだ。たとえその対象が私であっても。分かるな?」
「はい、当然です! ちゃんと二度と不埒な事を考えられないようにします!」
「ははは、分からないときは正直に申告しなさい」
諦めかけたような表情ではあったが。それでもなんとか、説得のための言葉を探していた。
ネスティアはようやく呼吸が整い始め、寝返りをうった。いつでも逃げられるようにはしていたが、それは愚かな選択だとは分かっている。この場にいるのは教師と理事長と、その(極めて察しの悪い)部下らしき女。少女をなだめる事はしてくれても、逃げようとすれば彼らも捕縛しようとするだろう。いや、そもそも相手が少女一人だとしても、逃げ切れないだろうが。
「なあ、ソルイユ。もういいんじゃないかい?」
優男が痛ましげに大げさに、傾けた頭を片手でそっと押さえながら、言った。舞台にでも立ってるような様子だ。
(思い出した。こいつ変態教師のイール・エルスか。勘違いナルシスト……)
有名な教師だった。いい意味でも悪い意味でも。大げさな変態と馬鹿にされる事は多かったし、それと同じくらい、好かれてもいた。まあ、好悪のはっきり分かれる人物像だった、という事だろう。
今までどう思うこともなかった。姿を見たこともないのだから、思いようもない。ただ、馬鹿な教師をあざ笑うにはちょうど良いの一人相手だった、というだけだ。
目の前にすると嫌っていた人間の気持ちも分かる。この様子で話しかけられたら、ひっぱたきたくもなる。
その変態が、理事長と仲が良さげだというのは以外だった。
「何が?」
「彼女に任せてしまえば、さ」
調子を取り戻したであろうイールに、怪訝そうな理事長。そしてなぜか、殺気を発散している少女。
「実際問題、どうなるにしたって、矯正する必要はあるんだ。彼女に限った話ではなくてね。そういう役割は必ず必要だよ」
「しゃれにならない事になるぞ」
「『そんなのはごめんだ』と思われるようになるなら、それはそれでいいんだ。最低限のラインを超える者は少なくなるだろうしね。彼女がちゃんとできていたなら……まあ、これについては悩む必要もない」
言われて、理事長はふと悩み始めた。
まずい――ネスティアは感じた。何がまずいって、理事長が「もう面倒くさいからとりあえず終われば何でもいいや」という雰囲気を出している事だ。このままだと、自分が生け贄にされる。ここで自己主張しないと、本当にそうなりかねない。
「ちょっと待……」
「黙れ」
瞬間移動でもしたように、少女が急に消えて、現れ。ネスティアの後頭部を踏み抜いた。真後ろから押されたのだから、当然顔面から地面と激突することとなる。眼前一面に土の黒が広がり、鼻孔の奥から強い鉄のにおいが広がった。
「これ見て大丈夫だろうって言いたくないんだが……」
「この際だからはっきり言うよ。君は甘すぎる。清廉潔白な超常者たらねばならない、というのは誰も否定することはできないだろう。でも、それと人を甘やかすのは別問題なのさ。君のそれは優しさじゃない」
「そうですよソルイユ様! そこの生体特殊ゴミ箱に同意するのは業腹ですが、ソルイユ様に楯突くウジ虫は全て処断すべきです」
「アーリー、考え事をしたいから少し黙ってて」
「はい!」
うーん、などと一つ唸り。
「アーリーはともかくとして、イールにまでそう思われてたとはなあ。締め付けるべきじゃないと思ってたんだけど……イールに言われるくらいなら、俺のやり方が合ってなかったのかね」
「そんなこと……!」
「アーリー」
「はい、黙ります!」
「こういう所だけは通じるんだよなぁ」
なんだかなあ、という様子で、理事長。
「私は難しく考える必要はないと思うね。これは学院の変革かい? 違うよ、ちょっとした変化の一つだ。なら、担当者を誰に任命するかとう程度の話だ」
「その担当者が最大の問題な気がしないでもないんだが」
「相場で言うなら、強面の軍人でも呼ぶんだろうけど……ついこの間まで戦争していたと考えると、効果があるかは微妙だね。なら彼女みたいに、圧倒的な力を持っていた方がよほど適任だよ」
「力じゃなくて人格だろ」
「君よりはマシだよ」
「……殺すぞ!」
「アーリー!」
今度は絶叫に近い声を出して黙らせる。
声を荒らげて、理事長は押し黙り。そしてため息をつく――まずい、そうネスティアは感じた。あのため息の意味だけはよく分かる。あれは、諦めのそれだ。
(まずいまずい……! 本当にまずい!)
これができの悪い劇だというのでなければ、もしくはこいつら……というか理事長が偽物というのでなければ。この頭のいかれた女と、ずっと一緒と言うことになる。確かに今まで反抗やら盗みやら、いくらでもしてきた。だが、これだけは違う!
「んんー! ん゛ん゛ん゛ーーー!!」
「うるさい」
一言何かを言おうにも、少女は鉄壁だった。暴れて抜け出すどころか、まともに声を出すことすらままならない。
「他に案もないし……まあいいか」
彼が言えば、その通りになる。少なくとも学院内で、彼はそれだけの影響力を持っていた。
どれほど抵抗したくとも、どうにかできた時というのは、とっくにすぎていた。
これが、後に下院出身者初の騎士団幹部候補生として卒業する者となるのだが。その始まりは、まあ、こんなものでしかなかった。