05
「ほああああぁぁぁ!?」
破壊され尽くした大陸西部から吹きすさぶ、砂混じりの緩やかな風が窓を叩く――つまり、いつも通りの天気なのだが。そんな中、やはりいつも通りに執務を行っていたソルイユが、いきなり声を上げた。
手元には、一枚の紙がある。ただの報告書だが、それを破れんばかりに握りしめ、彼はわなわなと震えた。
「何事ですか?」
聞いたのは、オーギュストだ。
これまたいつもと変わらない様子ではあるが、内心疎ましく感じているのは、雰囲気から分かる。手に抱えた書類を落とさぬよう調整しながら、一歩引いていた。
「か……帰ってくる……」
「誰がです?」
「アーリーが……」
「貴方様の秘書でしょう」
何の問題があるのか、とばかりで、オーギュスト。ついでに、話は終わったとばかりに、仕事に戻っていた。
そんな彼の様子に、ソルイユは机を叩いて主張した。
「俺が……っ、私が彼女を苦手にしているのは知ってるだろう」
「左様でございますか」
口調だけは穏やかだったが。表情は、強くしかめられていた。聞き分けのない小僧を叱りつける時の顔だ。当然手は止まらない。
「出張させてたのに、こんなに早く帰ってくるとは……」
「そもそも秘書に任命したのはソルイユ様だと記憶しています」
「あいつを野放しにするわけにはいかないんだよ! 言っとくけどな、そうして後悔するのはお前らだぞ!」
戻りかけた表情が、またしかめられる。が、今度は口調に対して説教をするときのそれではない。ひどく怪訝そうに、振り向いてきた。
「何がです?」
今度はソルイユがオーギュストを無視して、書類を漁り始めた。傍目には読み飛ばしているとして思えない速度で、紙をまき散らす。
探っている山は、未処理の仕事だった。まあ、処理済みの書類は回収されるので、卓上で避けてあるもの以外は全部未処理なのだが。とにかくそこらを、山が崩れるのも気にせずかき分ける。
「どこか……どこかにないか……数ヶ月くらい出張しなきゃならんような仕事が」
新しい転移門の設置。各国の軍やら騎士団やらから、魔剣使いか魔術師の選別。自治区内の見回りを兼ねた、今後の予定の調整――仕事自体はいくらでもある。だが、そのどれも、他人には任せられないものだ。同時に、秘書に任せなければいけない仕事も、都合良くおいてはいない。
「ソルイユ様」
オーギュストが、制するように言った。
言葉で、ソルイユはいったん手を止め、あたりの惨状を見回す。分類ごとに分かれた書類が混ざるほどではないが、山は完全に崩れていた。魔法で整頓し、頭を抱える。
分かってはいた。どこかに追いやれるなら、とっくにそうしている……
紙の檻に身を埋めたことで、とりあえずは収まったと判断したのか。オーギュストが続けてきた。
「貴方様がアーリーを苦手としているのは知っています。ですが、彼女の何が……」
言葉は、最後まで発せられなかった。
だん! と、壊さんばかりの勢いで、扉が開かれる。扉は跳ね返り、やはり音を立てて閉まる。その僅かな間に、部屋には人影が一つ、増えていた。
小さな姿だ。背丈は子供ほどしかない――し、見た目もおおむね子供だった。大きな瞳に、あどけない顔立ち。ただでさえ幼く見える顔を、満面の笑みでさらに強調していた。白に近い灰色の長髪は後ろで縛り、その隙間から自然で露出している獣のような耳が、ぴんと立っていた。服装は制服であるマント姿ではなく、旅人のような装束であり、その背後で灰色のしっぽがぶんぶんと振れている。
まるで子犬が飼い主に、全力で喜びを表現している様であり。それはおおむね正しかった。
扉の近くにいた影は、忽然と消え。次の瞬間には、ソルイユの近くに――近すぎるほどの距離にいた。
「ソルイユ様! アーリー・テスラただいま帰還しました!」
「そ、そうか……でもあれだ、ちょっと近くないか?」
「そんなことないです!」
甲高い声で断言する少女。座っているソルイユより頭半分ほど低い位置に、礼をしたまま姿勢を固定している。つまり、撫でろと言っているわけだ。
わしゃわしゃと少女の頭をかき回し、ついでに押す。そうしないと、べったり張り付いてくるからだ。
その様子を見て、オーギュストは呆然としていた。ただそうするしかなかったのは、単純にアーリーに無視されているからだ。もしかしたら、彼がいること自体に気づいていないかもしれない。
「で、今回の仕事は……」
話すことを許せば、延々と語られ続ける。それを知っているソルイユは、先制して言葉を発したが、すぐに失敗を悟った。
アーリーの瞳がぱっと輝き、服をつかんできた。言葉を発さずとも、言いたいことは分かる。「聞いて聞いて」だ。
ソルイユは即座に割り込んだ。
「今回の話は報告書で聞くとして! ええと……そうだ! 君に一つ仕事を頼みたい」
「なんでも仰ってください!」
顔の横で手などを組みつつ、ぱっと笑顔を咲かせ――なんでも嬉しいのだ、この娘は――言葉が言い終えるか終えないかという内に答えた。
まあ、言い終わってからだとは言い切れるのだが。アーリーがソルイユの言葉を遮ったことは、過去に一度もない。同時に、即答しなかった事も。呼吸か筋肉の音か、それとも別の何かを聞き分けているのか。アーリーのレスポンスは高速かつ一定だ。
「アーリーはイール・エルスを知っているか?」
「はい! あのソルイユ様に対して妙になれなれしい、クズでカスな劇場型ですね。拷問しますか? 吊しますか?」
「…………」
にっこりとしたまま(というか若干今までより嬉しそうですらある)言い切ったアーリーに、ソルイユは頭を抱えた。
ここでやれと言えば、彼女は本当にやる。というか、むしろ嬉々としてやる。そういった血なまぐさい事が楽しいわけではない(と、彼には信じるしかない訳だが)。単純に、ソルイユの約立つことが嬉しいのとイールが嫌いなだけだ(これもまた、そう信じるしかない)。
「いいかい、アーリー。イール・エルスは優秀な教師なんだ。手を出す理由はないし、出してもいけない」
「はい! でもあのなれなれしいカスが邪魔になったときはいつでも言ってください! すぐに始末しますから!」
(平常心平常心……。彼女に悪気はないんだ。ただちょっと純粋で、偏りが強すぎるだけなんだ……)
今すぐ55階から飛び降りて、地面にたたきつけられたい気分になる。きっとこの高さなら、骨まできれいに砕け散るだろう。きっと、悩みも同じように飛び散ってくれるはずだ。悩みがないというのは素晴らしい。何にも煩わされる事はない……
現実逃避しかけた脳を呼び戻す。
「彼には、一つ仕事を頼んでいるんだ。ある生徒の状況を調べてもらっているんだが、その進展状況を聞いてきて欲しい。ゆっくりと」
「分かりました! ゆっくりと急いで聞いてきます!」
言った瞬間、また少女の姿は消えていた。ただし、今度は扉も何も――それこそ空気すら動かない。
空間を割り、その中に潜り込んで、誰にも知られることなく行動する。彼女の得意技法だ。こうなると、そこにいると分かっていても、よほどの魔法使いでなければ察知は困難である。
ソルイユは時計を見て、安堵の息を吐いた。今の時間は授業中であり、終わるにはまだ時間がかかる。
アーリーは(あれで本当に)有能だ。授業の終わりを待って、話を聞いてくるだろう。
「なんとか時間は稼げた……。今のうちになんとか考えないと」
呟きながら、ソルイユはオーギュストの方を見た。彼は立ち位置は同じまま、扉の方を見ていた。アーリーを目で追ったつもりなのか。
「君にも考えて欲しいのだけどな」
わざとらしく大賢者の態度を作りながら、指先で机を叩く。彼ははっとして振り向いた。
「……あれは誰ですか?」
「耄碌したか? まあ使えなくなるまで引退させる気はないが」
「貴方様も自分で思っているほど普通ではありませんな」
うるせえよ――そう言ってやりたかったが、とりあえずは後回しにする。
「アーリー・テスラでなければ誰だ。どちらかと言えば、君の方が多く接触しているだろう」
主にソルイユが接触を避けているからだが。その間の取り次ぎは、彼がしているはずである。
オーギュストは、未だに信じられないと言った調子だ。
「私の知る彼女は、もっとこう……犬のような」
「犬だろう。ほかの何に見えた」
「ああ、いえ。言葉を間違えました」
言って、彼は抱えていたものを、近くの棚に置く。珍しい様子だった。仮面の厚さとという意味で、オーギュストのそれは、ソルイユを遙かに上回る。少なくともソルイユは、彼のそれが剥がれかけたのを見るのは初めてだった。
元から厳めしい顔をさらに歪めて、あごひげを撫でる。
「猟犬や番犬のような……なんと言いますか、鋭く冷たいものです。もしかしたら何とかなるかもしれない、などという甘い願望を抱ける相手ではありません」
そう、きっぱり言い切る。
「神出鬼没であり、必要最低限の話しかしません。いえ、そもそも業務上必要な会話しかしたことがありませんし、個人的な友好関係がある相手すら知りません。正直に申しますと、作り物だと言われた方がしっくり来ました。つまり、私から見た彼女はそういう人間なのですが……」
「……私が任命しておいて何だが、よくアーリーと仕事ができたな」
「貴方様の言ったとおり、有能ではあるのです。ただ、仕事以外の全てが、彼女から欠け落ちているだけで。先ほどの様子を知って考えれば、見当違いも甚だしいと分かりましたが」
「ふうん、それはまた、全く想像できない姿だな」
ソルイユの記憶にある限り、アーリーの姿は常にああだった。
元々は戦友であったため、戦闘時は(比較的)マシな姿ではあったが。
いや、と思い直す。
「そういえば、本当に最初の頃は……そういった様子があった気がしなくもないな」
一番余裕がなかった時期の話なので、あまり自信はない。当時はそれこそ誰がどんな様子であろうと、余裕がないだけだと、気にもとめなかった。
「まあ、それはどうでもいいか。あいつが誰にどんな態度を取ろうが、問題にならないレベルなら本人の問題でしかない。それで、彼女を一定距離遠ざけるのに、何かいい案はないか?」
「必要がありますか?」
男は巌の表情を取り戻し、必要ないと断じるような口調でそう言った。
ソルイユは片眉をつり上げながら答える。
「ある。実際にそうなってみなければ分からないだろうがな。自分の言葉に対して常に肯定しか返さない者が近くにいるというのは、ひどく居心地が悪い。そして、致命的な失敗に気づけない。お前も前に言っていただろう――貴族の間で行われるパーティーのおぞましさについて、だったか?」
「ふむ、そう言われてしまえば、否定のしようもありませぬが……」
オーギュストはわざとらしくあごに手を当てて、思案するふりをして。視線だけをこちらに向けた。
「でしたら、私はこう言います。貴方様は、裏切る心配のない側近がどれだけ貴重かを理解していません。それが、どれほどの無能であろうと、愚者であろうと、です。私でしたら、居心地の悪さを無視してそばに置いておきます」
そして――二人は睨み合った。
どれほど続いただろうか。数分程度か。十分は経っていないだろう、とソルイユは量ったが。まあどれほどであろうと、全く実のない時間ではあった。
先に根を上げたのは、ソルイユだ。目を閉じながら振り払うように手を振り、ついでに椅子に寄りかかる。オーギュストも合わせたように、視線をそらした。
「やめよう。不毛だ」
「そうですな」
ソルイユは手元の書類を漁った。といっても、仕事を再開するためではない。相変わらず、アーリーを何とかするための手段を探してだ。
物言いたげなオーギュストの視線に、今度は顔を向けずに言う。
「実際問題、あいつをある程度大人しくさせておくのは必要なんだ」
「それほど問題があるのでしたら、いっそのこと解任なされたらどうですか?」
かなり面倒くさそうに(そしてどうでもよさそうに)、オーギュスト。
ソルイユは冗談では済まないとばかりに続けた。
「駄目だ。何度も言うが、彼女を野放しにするのが一番危険なんだ。私の秘書として押し込めておくこと自体は、それほど悪い案ではないんだよ」
「なぜ彼女だけを? 貴方様の信奉者など、珍しくもないでしょう?」
「ただの信奉者ならな」
冗談のような、馬鹿みたいな、そんな話なのだが。大賢者信奉者はどこにでもいる。大戦果と、後の(上辺は)青天白日な様は、わかりやすく人気を集めた。誤算があるとすれば、想定よりも広まってしまったことと。主に脳筋が、かなり多く真に受けてしまったことか。
そいつらも扱いづらい事この上ないが、しかしある程度放っておけはできる。
「…………」
ソルイユは口を開きかけて、とっさに閉じた。その情報は、オーギュストに与えていい物か、分からなかったからだ。
今こうして尽くしていると言っても、彼の忠誠はアルタンス王国にある。いざという時に、それを使われるかもしれない。火種になりかねないという事だ。
しばらく、どちらがマシかを測り。彼は続けることにした。
「あいつはな、元勇者なんだよ」
「…………、なんですと?」
その言葉に。オーギュストの仮面が、完全に剥がれた。