01
大賢者の塔と呼ばれる、実に地上60階にもなる、巨大な塔がある。
それは一年ほど前――つまり魔王が倒されてすぐだ――に建造が開始され、完成したのは僅か二週間後だった。それが偉大なる大賢者の御業によるものであることは、疑いようがない。
大賢者 (なるもの)は、荒廃した世界と人の現状に憂い(まあこれは嘘ではない。実際はただ単に必死だっただけだが)、人々に希望を与えた(これについては全く心当たりがない)。
人間が魔王に与えられた傷跡は、強く深い――
一年たった今でも、廃材を重ねただけの、家とも言えないような家屋に住まう者が多い時点で、ごまかしようのない事実だった。それでも要所――たとえば首都であったり、交通の要であったり、たとえばここ、大賢者の塔であったり。ただの見栄といってしまえばそれまでだが、しかし見栄は重要だ。権力や権威に見栄はつきものだし、見栄も張れない力など誰も信じない。見栄を張れば、だまされる者と察する者が出てくる――面倒ごとの大半をなくせる。
彼もまた、同じだった。黒目黒髪で、そこそこの身長。全身を纏うローブは、かなり上質なものだと分かった。髪は丁寧に整えられ、額には見るからに苦労からだと分かるしわが寄っている。
自分には威厳などないと知りつつも、あると信じている者のためにそう振る舞わざるを得ない。ここで無視をできる性分だったら、こんな苦労もなかったかな――つまらない考えはすぐに忘れた。比喩抜きに、数万という人を戦に駆り立て、数千という仲間を犠牲にした。それを忘れられるほど神経は太くないし、太くなりたくもない。
(昔の俺は、ほんとつまんないことを考えたもんだ……)
不意に、呆れとともに過去を懐かしむ。
もう四年もたったのか、と彼は懐古した。あの頃は、ただの高校生でしかなかった。ただ漠然と「偉い人」「凄い人」なるものになりたいと思っていたし、ほんの少し後には死ぬような目に遭うとも思っていなかった。
実際にそうなってみて分かるものがある。「偉い人」などというのは、なったところで面白い訳でもなく。自尊心で満足するには、気苦労が絶えなさすぎだ。
などと考えながら。ふと気がついたように、顔を撫でた。
(そりゃそうだ。俺だってもう、二十歳近いんだし。いやというほど現実も知った。いい加減、夢見る年頃でもない……)
立ち上がる。重厚な椅子にテーブルは、お世辞にも使いやすいとは言いがたかったが。これも見栄だ。あると不便だが、ないと厄介ごとを生む。
数歩歩けば、窓辺まで近寄る。地上55階は、見下ろせば足もすくむような高さだったが。いい加減、この高さにも慣れたものだ。窓は薄く、この高度の気流に耐えられるものではない。だが、塔を魔法で補強することは一番最初に行ったことだ。おそらくは、向こう数十年は問題ないだろう。
地上からここまでの距離は、まるで自分の四年を指しているようでもあった。距離も、慣れも。
(それこそ、悩んでも仕方ない事か)
割り切って――あるいは諦めて――デスクへと戻る。
残った書類を片付けようとして、ふと、引き出しに手をやった。文具やらが乱雑に詰まっている中を、強引に掻き出す。
取り出したのは、一枚の木の板だった。
それを見るのは久しぶりだった。これだけ奥に詰まっていたのだから、最低でも半年は前だろう。作ったのは――もう思い出せない。が、まだ故郷へ帰る事に希望を持てていた頃だろう。そうでなければ、こんなものは残さない。
板をひっくり返す。汚れも多く、無数の線が彫り込んである。
それが漢字とカタカナだという事だけは、忘れていない。ただし、何と書いてあるかを思い出すのに時間はかかったが。
御階陽――ミハシヨウ
かつての自分の名前。今はもう、誰も呼ばない名前。
一瞬、板を破壊してしまおうかとも考えたが。行動には移せなかった。まだ、未練を捨てられそうにはない。
名札を一番上に置いて、引き出しを閉める。次に取り出す頃には、一番下になっているだろう。
そして、置かれた書類にサインをした。ソルイユ――古代語で、太陽を意味する言葉を――
《大賢者の塔》の立場は、少々特殊で複雑だ。
まず、アルタンス王国の国土内にありながら、所属は不明。でありながら半自治区という扱い。
前者には一応理由がある。魔王の進撃《黄昏の時》による被害で、国境が曖昧になった事だ。国境の根拠となる山やら建造物やらが、軒並み破壊されたため、分からなくなったのだ。ほぼ確実にアルタンス王国国土だろうが、明確な線がないから線がないまま処理する。アルタンス王国は自国のものだと、他国は違うと主張したい。だからこそ、半端な状態で残してある。
つまり、ソルイユはそういう立場でいる事を求められた訳だ。
「ご苦労だ、オーギュスト」
「はっ」
言ったソルイユに短く返したのは、もう老齢と言って差し支えない男だった。
完全に白くなった髪とひげを長く伸ばしてる。背は高く、ソルイユよりも頭一つは大きい。体格も身長に見合ったもので、ローブの上からでもがっちりした体格が分かった。しかし、何よりも目につくのは、威厳だ。ソルイユの、名声に頼ったわざとらしいそれとは違う。明らかに天性のものと分かる貫禄。
(そりゃそうだ。あっちはガチの貴族だからな)
オーギュスト・アルダ・イグノーン。アルタンス王国の元執政。《黄昏の時》初期の失策により、貴族称号イグノーンまでも取り上げられた元大貴族である――というのが世間の認識であるが、これは正解ではない。
失策は事実であるが、これは彼のせいではない。というか、誰のせいでもない。あえて言うならば、魔王に対抗しようとした、という点からして間違いだった。もっとも、座して待てば滅ぼされるだけなので、正解などはなかったが。
オーギュストは敗北の恨みと不満を、自分に集中させていた。そして、執政解任と貴族称号の剥奪を国王に提案することで、溜飲を下げさせた。彼の努力により、アルタンス王国は三年の延命に成功したと言われている。そして、大陸国家連合では常に死地で尽力し、魔王討伐に大きく貢献した。
そんな経緯であるから、当然国王からの信は厚いし、有能でもある。
戦後はイグノーンを再度拝命され、こうして大賢者の腹心などという仕事も、その巨腕でそつなくこなしてくれていた。現在、国家間の綱引きが安定しているのも、オーギュストの力によるところが大きい。
「それではソルイユ様、失礼いたしました」
「ああ」
一礼をして、政治界の巨人が去って行く。
その姿を見届けてから、ソルイユは大きくため息をついた。
「おかしいだろ、どう考えたって立場が逆だ」
元から座っているのに、さらに倒れ込む心地で、体重を預ける。
敬語を使うことは許されない。頭を垂れることも、ましてやがんばって作った威厳をなくすことなど。大賢者ソルイユは、偉大で完璧でなくてはならない。それが不可能だと分かっていても。つまりは見栄だ。
「でもなー……あの人近くにいるだけで頭下げたくなるんだよなー。そもそも戦争と魔法研究で名をあげた人間にこんなことしろってのが無茶ぶりなんだよ……」
椅子に体を支えられたまま、デスクに視線を落とす。上には書類がかなりの枚数積まれていた。
ただの学生でしかなかった自分が見れば、めまいの一つでもおこしただろうが。慣れてしまえば、まあ、少なくはないが、多いわけでもない。内容がすべて理解できるだけ良心的ではあるのだろう。と、思わなければやっていけない。それに、オーギュストはこの数倍、もしかしたら十数倍の書類を片付けているのだし。
まあ、どれだけの書類仕事であろうと、人前で大賢者をやるよりマシではあった。
気分を切り替えるためにと、書類に手を伸ばす。
手に取った紙束は、報告書だった。塔近辺の状況(領地ではない。明確な線引きはされていないので)に始まり、下階で行われている魔法研究の成果、品種改良で作られた農作物の生産量や病気への耐性など。知っておかなければいけない事はいくらでもある。
目を通していくうちに、気になるものだけを避けていく。残ったのは、四枚ほどの紙だった。
「うーん、一回見に行くべきか……」
報告書の中には、すでにソルイユの手を離れたものもある。が、それで無視することができないのが、上に立つ者の辛いところだった。
しばらく逡巡し、用紙を持ったままエレベーターに近づく。
塔は改築と増設を繰り返している。というか、今もなお行われ続けている。初期の《大賢者の塔》は、60階もの高さを階段で上り下りするという馬鹿みたいな構造だったので、当たり前だが。
エレベーターは近年増設されたものだ。支柱であった塔の中心、螺旋階段を撤廃し、入れ替えた。エレベーターといっても、日本にあったそれとは完全に別物だ。人が近づけば空間を固定した足場が現れ、そこに足を踏み入れると、転落防止の壁が展開し、好きな階層に動ける。余計な荷物を持っていなければ、同時に30人は自由に上り下りできる構造になっていた。
足場が現れる直前で、しかしソルイユはぴたりと止まった。
昔を懐かしんだためだろうか。意味のない行動をした。テレポートをした方が遙かに早いし、誰の迷惑にもならない。
「いや、疲れてんのかもな。行くのは明日にしよう」
決断し、一階層上にテレポートした。
そこは55階の執務室に比べれば、かなり殺風景な部屋だった。そして、エレベーターがあるべき場所には、階段がある。
56階以降は、ソルイユの私室だ。エレベーターでは上がれず、テレポートも特殊な手順を踏まなければ弾かれる。進入しにくさという意味では、それこそ下手な要塞よりもよほどだった。
肩をならしながら階段を上ろうとすると(最近の運動不足を解消するため、なるべく階段を使うようにしている。効果のほどは、まあ、あえて確認しないようにしていた)、ぱたぱたと近づいてくる音がした。
ひょこり、と顔を覗かせたのは、小さな少女だった。年の頃は4歳くらいで、長い赤髪をしている。大きな瞳はぱちりとソルイユを捉えており、いたずらっぽい気性を表しているようでもあった。
それだけであれば、ただの子供なのだが……
少女は、耳がとがっていた。瞳は紅色に輝き、なによりもその背中――獣の牙を無数に組み合わせたような翼が、二対生えていた。
「ねえねえおじさん、今日はもうお仕事終わり?」
きらきらと瞳を輝かせ。期待に満ちた目で、ソルイユを見つめてきた。
「終わりと言うかサボりだな」
「あーっ! サボっちゃいけないんだー。悪い人だー」
「そうかそうか、悪い人か。悪い人じゃいけないし、仕事に戻るかな」
「えーっ、ダメー!」
言って、少女はソルイユの足にまとわりついてきた。がっちりと太ももに手を回し、足を進ませんとする。
「悪い人は悪い人だからおさぼりするんだもーん」
ついでに、きゃいきゃいと声を上げながら、背中をよじ登ってくる。はっきり言ってうっとうしいことこの上ないが、だからといって外そうとも思えない。彼女の今までを思えば、それくらいはさせてやるべきだ。
ここには特殊な手順を踏んだテレポートでしか入れない。そして、少女はテレポートを使えない。
この少女は、ソルイユによって軟禁されている。しばらく自由に出切りすることは許されない。誰も望まない。それこそ現実を知れば、恐らくは少女自身も。
「じゃあ悪いおじさんの、今日の仕事は終わりだな」
「わーい! ねえねえあそぼあそぼ! 何してあそぶー?」
指を握られ、ついでにぶんぶんと振り回されながら引っ張られる。ソルイユは抵抗せずに、されるがまま歩いた。
見栄とは得てして、見せたくないものを隠すためのものだ。
少女の名前はフィースエティア。この世でただ一人、唯一無二の悪魔。魔法、身体能力、ともにばかげた力を持っているため、制御方法を覚えるため大賢者に育てられている。そういう事になっている。建前の上では。
――フィースエティアの父親は、魔王だった。
世の中にはいくらでも『ある』。知るべき事。知らない方がいい事。どうにもならない事。愚かだと分かっていても、しなければならない事。余計な苦労を買わなければならない事。そして――それらすべてを承知で、守らなければならない事。
大賢者ソルイユ。もう本人すら忘れそうな名を御階陽という。この世界の人間ではない。
かつては早く帰りたいと思っていた。生きるのに必死なうちに、守りたい人ができた。さらに世界に愛着もわいた。数千数万という人を殺させた責任がある。今は、何万人になるかも分からない人の生活と平穏を守る義務がある。
一つとしてたやすいことなどなかったが。それでも、大賢者ソルイユは、大賢者としてその地に存在した。