五日目 後編
世界が青くそまったように零の目には映った。
「!?」
周りを視れば鐘ヶ台の校舎や焔が消え、替わりに数多の星が輝く宇宙が広がっていた。驚愕のあまり零の思考が止まる。足下には岩肌のような地面。目の前には数え切れない星の海にうかぶ、青い惑星が視えた。
思考が止まった零は気づかない。
遠野の変化に。
彼の黒髪が色素を失い銀色になっていることを。
瞳の色が限りなく透明な青色になっていることを。
存在が――希薄になっていることを。
「……まさか『世界』を創るとはな。貴様、死ぬきか?」
眉をしかめ翼をもつ少女がいった。
『世界』を、創る。
それは、現実であって、現実とは異なる世界。どの世界にも属さない、すべての世界から完全に隔離された場所――世界の創造。
「そんなに犠牲者を出したくないのか? どうせ下らん者どもだぞ?」
「……」
問いかけに答えることなく遠野はほほ笑み、見えない翼で舞う。
痛みをともなういくつもの記憶が鮮明に蘇る。
それは忘れてはならない彼の記憶。
「ぼくも遠野くんみたいに……」
ギ。
「あなたにも、いつかわかるわ」
ギ……ギッ……ギ、シッ……。
「……おとう、さん……おかあ、さ、ん……」
プッ。
「蒼は真面目すぎるんだよ。たまには英雄みたいバカになってみな?」
ッブチン!!
身体が壊れ、命がこぼれ落ちてゆく。
――こんな痛みなど!!!
「……」
少女は遠野を見上げ、六枚の翼をゆっくりと動かす。
翼の動きに合わせ焔と光の遺詞が揺れた。
飛翔。
星と星が正面から激突する。
ふたりの拳が、蹴りが、星をも砕く力でぶつかりあう。
両者の奏でる音は衝撃波を生み、地表を大きくえぐる。
だが、その命の煌めきは長くはつづかなかった。
「!!」
「――」
星がひとつ、流れ落ちた。
打ち負けたのは遠野。
白い岩肌に遠野は叩きつけられる。
口から命の色がこぼれた。
「!?」
声にならない零の悲鳴。
「褒めてやろう人間。だが、これで終わりだ」
止めを刺そうと、少女は膨大な遺詞を収束させる。
「遠野先輩! 遠野先輩!!」
駆け寄ろうとするが、零は木花知流姫の防護領域から出られない。
「……」
祝福された光のなか、翼をひろげた少女を、遠野は見上げる。
もはや『世界』を維持するだけで精一杯だった。
……我ながら情けないですねぇ……。
身体はもう、まともに動いてはくれないだろう。回復しながら戦える相手ではない。これ以上、戦闘をつづければ自分はまちがいなく死ぬ。それも、悪くはないかもしれない……。
――自分ひとりだけなら。
しかし、いまは零がいる。彼を死なせるわけにはいかなかった。
少女との『約束』を破るわけにはいかなかった。
打つ手ならまだ、ある。
「ディアナさん」
立ちあがり、遠野は虚空に呼びかけた。
「とどいているわ、あなた想い……」
白いドレスをまとった――月の女神が遠野のとなりに舞い降りた。
「……驚いたぞ。まさか、おまえまでいるとはな。ディアナ」
ディアナを視て少女はいった。
「久しぶりね、ミカエル。111年ぶりかしら?」
ミカエルに応え、ディアナは遠野に向きなおる。
「また、こんなぼろぼろになるまで戦ったの、蒼?」
「自分でやれるだけやらないと、気がすまないんですよ」
「ほんと、あなたってひとは……」
不器用なひと。
……でも、そんなあなただから、わたしは、わたしたちは……。
溢れるおもいを言葉にせず、彼女はやさしい眸で遠野を見つめる。
「ディアナさん、さすがにわたしもネタ切れです。たす――」
「いつもいっているでしょ? あなたの想いはちゃんととどいているって。だから、これはあなたを助けるためにするんじゃないの。わたしが――そうしたいだけ」
そうしたい、だけ。
遠野にほほ笑み、ディアナはミカエルを視る。
「どうするの? ミカエル。ここで111年前のつづきを始める?」
「……フフ、いまは止めておこう。ディアナに木花散知流姫。おまえらふたりを相手に戦うほど私は馬鹿ではない」
遠野を視る。
「おい、人間。名はたしか遠野・蒼といったか。なかなか楽しかったぞ」
また会おう、といい残しミカエルは姿を消した。
実にあっさりとした撤退だった。
「見逃して、くれたのでしょうね……」
苦笑し、遠野は吐息をこぼした。
彼が『世界』を解除しなければ、ミカエルは現実世界に戻ることはできない。だが、彼は深追いするつもりはなかった。自分が戦える状態にないいま、これ以上の戦闘はさけたかった。
……できることならディアナさんと姫の力を借りたくはなかったのですがね……。
だが、そのおかげで零を守ることはできたのだ。今回はそれでよしとしよう。
己の未熟を感じながら、遠野はそうおもった。
「さて、帰りましょうか」
「……」
ディアナはほほ笑む遠野を視て、おもう。
いかに最強と謳われる遠野でも、これ以上の戦闘は不可能だろう。立っていることが不思議なぐらいだ。だが、ミカエルが退かなければ、きっと、彼はその命が尽きるまで戦いつづけていただろう。
……約束を守るために。
死闘終了。
もとの世界に戻ると遠野は、
「火を消します」
燃えつづける鐘ヶ台校舎を水の遺詞で相殺。このときの衝撃で崩れかけていた校舎が完全に崩壊した。
「……」
遠野の強大な能力を視て零は疑問におもう。
……あれだけの力があるなら……。
瓦礫の上、壊れた鐘楼を見つめる遠野に零は訊ねる。
「遠野先輩」
「なんですか、天宮くん?」
零の呼びかけに遠野がふりかえると、ふたりの間に瓦礫の崩れる音が虚しくひびいた。
「……それだけの力があるなら、もっと他に、やり方があったんじゃありませんか?」
「なんのことです?」
「先輩なら人質の生徒を助けることができたんじゃないんですか? 本当に寿会長たちを殺す必要があったんですか? 始めから、殺すつもりだったんじゃありませんか……?」
「……まず、人質の件ですが。あれは、わたしには無理でした。次に寿会長たちのことですが、彼らは護国司の地位欲しさに人質を取り、南海先輩と人質をひとり殺しています。それに天宮くんとの約束を反故にして襲ってきました。話し合いの余地があったとはおもえませんし、寿会長の攻撃にはあきらかに殺意がありました。そのような相手から攻撃を受ければ反撃するのは当然ではないでしょうか。始めから殺すつもりだったのか、という質問に関してですが、わたしは始めから――そのつもりでした」
躊躇うことなくいった。
「……」
「朝の会議でもいっていましたが、こうなるだろうとわたしは予想していました。天宮くんは話し合いで済むと考えていたようですが、わたしは違います」
「……」
「天宮くん、物事がすべて理性的な対話で解決するのなら、それは素晴らしい世界といえるでしょう。ほんとうに素敵滅法です。ですが、これが現実です。相手がそれを望まず力をもってくれば、こちらも力をもって抗うか、それ以上の力を示し対話をもちかけるしかありません。しかし、それすらも相手次第なのです。今回は相手が最後まで争いを望みました。その結果がこれです。彼らのような者は、この世界からいなくなることはありません。ゆえにわたしたちは戦うことを止めません。もちろん、場合によっては殺すことも」
それに、とつづける。
「そもそも彼らが立志館に敵対行動をとらなければ、こんなことにはならなかったのです。立志館に敵対するとは、すなわち、そういうことなんですよ?」
立志館には手を出すな
立志館に敵対すれば必ず報復を受ける。それは逆にいえば、敵対しなければなにも起きないということだ。
「今回の件はこれで終わりです。お疲れさまでした。天宮くんは立志館に帰って会長に報告してください。わたしは事後処理をしてから帰りますので」
「遠野先輩」
「……」
「ぼくには……先輩の考え方が正しいとは、やっぱりおもえません……」
唇を強くむすび、零は歩き出す。
校門を出たところで零の頬に冷たいものがあたった。
反射的に空を見上げる。
雨。
さきほどまで晴れていた空に、いつの間にか灰色の雲が広がっていた。
雨が降りはじめる。
遠くから雷鳴りの音が聞こえた。
しだいに雨脚は強くなり、視界は雨のヴェールにつつまれた。
零は身体を引きずるように雨のなかを歩いてゆく。
……冷たい……。
冷たい雨だった。
「雨、ですか……」
遠野は呟き、零が去りぎわにいった言葉を反芻する。
……正しいとは、おもえない……。
たしかに正しくはないのだろう。
だが、間違っているともおもわない。
争いはなくならない。
過ちはなくならない。
戦うべき時に戦わなければ失うだけだ。
迷いがないといえば嘘になるだろう。
しかし、捨てることも、諦めることもできないものがある。
故に、戦いつづける。
これから先も、ずっと。
「……」
手を視る。
……また、殺してしまいましたね……。
消えることのない感触。
……忘れません。わたしが、殺したんです。
己の手を見つめていた遠野が、ふと、眸をあげた。
視線の先には頭一つ抜け出た高層ビルが立っている。
しばらくの間、その高層ビルを視た後、遠野は眸を閉じ、
「どうして、わたしたちは――」
曇天の空を見上げる。
天の慟哭。
激しい雨音が遠野の言葉をかき消した。
ディアナと木花知流姫も無言で彼のそばに立ち、同じように空を見上げた。
「ふふ、天気予報は当てになりませんねぇ……」
苦笑する遠野の頬に雨の筋が伝う。
激しさをましてゆく雨のなか、壊れ溶けた鐘楼が無残な姿をさらしていた。
鐘の音は響かない。
鐘ヶ台から一キロ程離れた場所に立つ、高層ビルの屋上。
そこに、ひとりの少年が雨のなか傘もささずにたっていた。
神楽だ。
崩壊した鐘ヶ台の方を視ていると、
「見られていたぞ、正義」
虚空から少女の声がした。
「そうだね、ミカエル。視線を気取られたかな? まあ、いいさ。べつに向こうはなにか仕掛けてくる様子はないし。ボクももう、帰るから。それにしても、さすがは『静謐なる蒼穹』その実力は噂と違わず、いや、それ以上だったね。ミカエルと生身の身体で戦うなんて、まったく予想以上だよ。彼の力は我らが『荊棘の戴冠』と同じぐらいじゃない?」
踵をかえし、歩き出す。
「立志館はやはり最大の障害になるかもしれないね? ボクたち――十条宰の」
私立十条宰高等学園。
それは、かつてあった『学生動乱』において西側の代表だった学校の名だ。
この学校の生徒会はほかの生徒会と異なり、役職が会長職しかない。
創立以来、生徒会の運営は会長を含む十人の生徒がおこなっていた。
『荊棘の戴冠』を筆頭に、
『千里眼』
『天国なき煉獄』
『ハッピー・ライフ』
『武神』
『マヌス・クラーレ』
『自爆スイッチ』
『無形の城壁』
『夢見る人形』
『凶器乱舞』
現在はこの十名で生徒会を運営している。
「ふふ、でも困ったなあ」
「なにがだ?」
愉しそうに笑う神楽を視て、ミカエルは嫌な予感がした。
「ボク、彼のことを気に入っちゃったよ。彼――欲しいな」
天使のように神楽は笑い、ミカエルはあきれたように嘆息をこぼした。
立志館一階にある生徒会室はいま、鐘ヶ台との戦闘における、被害状況の確認作業などが行なわれていた。大地のH・A・Lver2の映像も回復し、遠野たちの戦闘が終了したことも確認できている。
「……」
窓の外を雫は見るとはなしに見ていた。
……兄さん、早く帰ってきて……。
正午近くなるが外は暗く、先刻から激しい雨が降りつづいていた。時々思い出したかのように曇天の空が光り、雷が鳴っている。
「し~ず~く~ちゃん!」
「!?」
窓の外を不安そうに見つめる雫を、藤枝が背後から抱きしめた。
「な~にこの世の終わりみたいな、暗い顔してんのよ。零くんならもうすぐ帰ってくるよん♪」
「この世の終わりか、じつに興味深い。ふふ、この世が終わったら、一体どうなるのだろうね?」
「そのまえに、望君を終わらせてさしあげましょうか?」
「凛君、それこそこの世の終わりだよ? なぜならば、私がこの世の創造主!」
嫌な創造主だ、と朱神はおもった。それに如月が創造主ならば、この世が終わったらどうなるかなどわかっているだろう。
ティーカップを受け皿にもどし如月は、
「さて、そろそろ天宮君が帰ってくる頃合いだが……」
雫を視る。
「このままでは憂いの雨につつまれ、可憐な花が微笑まない。その姿もまた、美しいが……。ふむ。噂をすれば、かね?」
生徒会室の扉が弱々しく開かれる。
「兄さん!」
零が帰ってきた。雨に濡れたせいで髪が頬などに張りついている。
勢いよく雫は席を立ち、用意しておいたタオルをもって零に駆け寄った。
「兄さん、無事でよかった……」
「遠野先輩が……守ってくれたから、ね」
涙ぐむ雫に零は笑ってみせるが、そのようすはどこか悄然としている。
「……兄さん?」
零は報告があるからと、雫から離れ、如月の前にたった。
「鐘ヶ台における人質の救出、ならびに戦闘は終了しました。遠野先輩は事後処理をしてから帰るとのことです」
「御苦労だったね、天宮君」
ところで、と如月はシニカルに笑う。
「なぜ君はそんな浮かない顔をしているのかね? 疲れたのかな? まあ、初めての大きな戦闘だから無理もないだろう。それに、雨にも濡れている。温かい物でも飲んだらいい。ヴェルミナ君、天宮君に紅茶を」
「結構です」
間髪入れずに零は断った。
が、それにかまうことなくフェレスは席を立ち、キッチンへ向かう。
「……どうしてですか……」
わずかに震える声で零は如月に問うた。
「なにがかね? ヴェルミナ君がメイド服を着ていることかな? それは英雄君の趣味だからだよ。ふふ、素晴らしい趣味だね?」
「違うわ!」
武内が否定すると、朱神、大地、藤枝は、違うの? と彼に懐疑的な視線を向けた。
「おまえらオレをそんな眼で! しかも桜ちゃんまで……!」
「あ、わたしはべつに気にしていないのです! それにヴェルミナさんのメイド服は可愛いから、わたしも一度着てみたいのですよ!」
「桜さん。ぜんぜんフォローになっていませんわよ」
「にゃはは。あたしも着てみたいにゃー、メイド服」
「だから違うっていってんだろう!」
武内は必死に否定するが、こういう場合、事実がどうあれ弁解すればするほど説得力はなくなる。零は武内の趣味には興味がないらしく、再び、如月に問う。
「どうしてですか。どうして、先輩たちはそんなに平然としていられるんですか」
「平然としていたらなにか問題があるのかね?」
「人が死んだんですよ? 人を殺したんですよ!?」
「それが?」
「なんで平気で笑っていられるんですか!? 先輩たちほどの力があれば、もっと!!」
「もっと、なにかね?」
如月が零をまっすぐ見つめると、零はわずかに眸をそらした。
「……もっと、違うやり方があったんじゃありませんか。ほんとうに殺す必要があったんですか? ぼくにはあんな風に躊躇うことなく人を殺すことなんてできないです。それに、そんなやり方が正しいとはおもえないです……」
遠野にいったことを如月にもいった。零の科白に武内が舌打ちを鳴らした。
「紅茶の御用意ができました」
トレイにティーセットを載せ、フェレスがキッチンから戻ってきた。テーブルにティーカップをおき、白磁のような白い繊手で紅茶を注ぐ。数種類の花とバニラで香り付けしたフレーバードティーだ。
「如月様、お代わりはいかがですか?」
「無論、ありがたくいただくよ」
フェレスは如月のカップに紅茶を注ぐと、皆にもお代わりをすすめた。
「飲まないのかね? 天宮君。美しい女性が淹れてくれた紅茶だ。天上に咲く花の香りと蜜の味がするよ?」
「……」
「まあ、べつに無理にとはいわないがね」
肩をすくめ、せめて席にすわるようにと如月はうながした。険しい貌で零が席に坐る。
「さて、君の言い分はわかった。そこでまず、君の思い込みを改めておこうか。私たちは正義の味方ではないし、正しさを求めているわけでもない。故にいつも最善を選んでいるわけではない。たしかに私たちの行為は正しいとは、最善とは言い難いだろう。だが、君のいうその正しさとはなんだね? なにを根拠に自分を正しいとする? もし、君がいままで正しいとしてきたものが、ほんとうはまちがっているとしたら? 君はなにをもって自分の正しさを証明するのかね?」
「……」
「人を殺さないことかな? 命を奪わないことかな? そもそも命とはそんなに重いものなのかね? この世にある、ありとあらゆる命は、常に生産され、常に消費されている。私にはずいぶんと軽いように感じられるがね? しかし、そんな議論は先日の副会長がしてくれているから、いまさら私がするまでもないだろう。この世界にある正しさとは、唯一ではないのだから。そんなことは君にもわかっているのだろう?」
「……わかっている、つもりです」
「結構。では、私たちが平然としていることに対し、君は不満を持っているようだが、私たちが常に、喪に服し、涙と悲哀にあけくれ、暗澹たる気持ちで、悄然と日常を過ごしていればいいのかね? この世界では人類に限定しても、常に様々な理由で命が失われている。ならば、生きている私たちは自分が死ぬまで喪に服しつづけなければいけないね? 白と黒に彩られた、まさに灰色の人生だ」
「そんなのつもりでいったわけじゃ……」
「君は私たちほどの力があればといったが、この力は、私たちの持つ力は、万能ではないのだよ? 君は副会長の力を見たかね?」
さきの戦闘を思い出しながら、零はうなずく。
「普段、副会長は力をセーブしているが、その能力を完全に発揮した場合、君はどうなるかわかるかな?」
「どうなるって……」
「なんの考えも無しに、あれほどの力を使えば周囲にどれほどの被害が出るだろうね? 強大な力といっても無闇やたらと使えるわけではない。それに、この力は所詮、なにかを傷つけ、なにかを奪う力だよ。故にその逆も可能なのだがね」
どのような『力』であれ、その本質はすべて、そういうものなのかもしれない。
「君も能力者ならわかるのではないかね? 副会長のように強大な力を使えばどうなるか。あれほどの力を使えば自身に掛かる負荷も相当な、いや、あれほどの力ならいつ死んでも不思議ではないのだよ? あれは――規格外の力だ」
故に最強。
自身のすべてを天秤にかけた、諸刃の剣。
「殺す必要性については、たしかに殺す必要性はなかったかもしれない。が、それにはもう少し時間が必要だった。現実とはうまくいかないものだね。今回、立志館は死者二名。重軽傷者三十八名。私は上出来の結果だとおもっているが、君はどういう結果であれば満足したのかな?」
「それは……。でも、やっぱりこんなのおかしいです! 人を殺しても笑っていられるなんて。苦しくないんですか? 悲しくないんですか? 心が痛くないんですか? 遠野先輩は寿会長たちを殺した後でも、いつものように笑っていました。先輩たちには――」
感情がないんですか、と零がいうまえに、高く乾いた音が室内に響いた。
いつの間にか席を立った大地が、零の頬を打った音だ。
打たれた頬を押さえ、零は呆然と呟く。
「!? 大地、先輩……?」
いきなり頬を打たれ驚いた零は、大地の貌を視てさらに驚いた。いや、困惑した。彼女が涙をぼろぼろと流し、泣いていたからだ。
「天宮くんはわかってないのです。なにもわかかってないのです!!」
「大地先輩……」
ここにはいない誰かの代わりに泣くように、大地は流れる涙もそのままに、
「蒼くんが! わたしたちが! 苦しんでいないですか? かなしんでいないですか? 痛みを感じていないですか? わたしたちがすべてを忘れ、何事もなかったかのように毎日を生きていると、本気でおもっているのですか!?」
小さな手を握りしめ、全身で叫んだ。
「誰も傷つけたくないのです。殺したくなんかないのです。けど、この世界で、好きな人を、大切な人を守りたいのです……どうすれば、いいのですか……?」
か細い声でいった。
どうすればいいのか、と。
「……」
「教えてください……どうすれば、この世界で大切な人を守れるのですか?」
「……」
「もう嫌なのです。もう絶対嫌なのです! これ以上誰かを失うのは、奪われるのは、誰かが泣くのは……! わたしたちが好きでこんなことをしてるとおもってるですか? わたしだってこんなことしたくないのです。でも……でも!!」
世界は変わらない。
「だから! だから……わたしたちは戦うのです。わたしはわたしの世界の大切な人たちを守りたいから戦うのです。守りたいからっ……」
天宮くん、と大地は零を見つめる。
「わたしたちがまちがっているとおもうのなら、世界を変えてください。過ちと悲しみに満ちたこの世界を変えてくださいっ――」
「いますぐ変えて!!!」
「……」
零は大地から目を逸らした。逸らすしか、なかった。
「天宮くん、あなたは他人が傷つことを恐れているんじゃないのです」
「……?」
「あなたは自分が傷つくことを恐れているだけです!!」
「そんなこと……!」
ほんとうに、そんなことはないのだろうか?
「あなたは自分だけよければ、それでいいかもしれません。安全なところで綺麗事をいって、なにもせずに満足できるかもしれません。でも、それでは納得できない人たちがいるのです。天宮くんは蒼くんが笑っていることが不満だそうですが、ほんとうに笑っているように見えましたか? 蒼くんがほんとうに、いつも、こころから笑っているとおもっているですか。あなたには! 蒼くんがほんとうに笑っているように見えるのですか!?」
「そこまでにしたまえ、桜君」
如月が口を挟んだ。
「それ以上いうことは、副会長も望んではいないだろう」
「…………はい、です。でも、こんなのって、悔しいのです……かなしいのです……!」
この場にいることが堪え切れなくなったように、大地は零に背を向け扉に向かう。が、一度振り返り、
「天宮くん、あなたにはわたしたちの……なんでも、ないのです……」
生徒会室を出て行った。
生徒会室に鉛のような重たい空気が横たわった。
「おい、クソガキ。桜ちゃんがおまえをぶってなきゃ、オレがぶん殴ってたぞ」
腕を頭の後ろで組んですわっていた武内がいった。
「おまえ、向いてねえよ」
嘆息し、席を立つ。
「どこへ行くのかね?」
「ああ? 散歩だよ。散歩」
如月に尋ねられると、武内はぞんざいにいって部屋から出て行った。フェレスもその後につづくように一礼し退出していく。
「ふふ、散歩か。外はこんな酷い雨なのにね?」
窓の外をみて如月がいうと、
「仕方ありませんわね」
朱神が苦笑をこぼした。
組みなおし、如月は零を視る。
「天宮君、もう一度君に訊くが、君はどうすれば納得できるのかね? どうすれば納得できたのかね?」
「どうすれば……?」
「話し合いで問題が解決し、死者が蘇り、世界が平和になれば満足するのかね? それこそ機械仕掛けの神でも現れなければ不可能な話だよ。君はあの場所で、君はその場所で、なにをしたのかね? なにかできたのかね?」
「ぼくは……」
遠野先輩に守られていただけ……。
「おもうに君は、対話だけではどうにもならなかった現実に、なにもできなかった自分に、いや、なにもしなかった自分に一番不満を、憤りを感じているのではないのかな?」
「……」
「君が望むものなんだね? なにをこの世界に求める?」
「ぼくが求めるもの……?」
そうだ、と如月はつづける。
「君はなにを望み、なにを求め、なにを叶えようと、この生徒会に入ったのかね? 自分になにができるとおもったのかね?」
零は考える。
自分がなんのために生徒会に入ったのかを。
傷つけあうのではなく。殺し合うのではなく。対話という手段で争いを回避したかった。それが出来るとおもった。誰も傷つかないですむ方法が、どこかにあるはずだとおもった。だが、それは……。
「天宮君、君の理想は美しい。だが、君の理想は――永遠に叶わない」
「っ……」
叶わない? ほんとうにそうなのだろうか?
だが、そうだとしても、それを望むことはまちがっているのだろうか?
「話はここまでにしよう。君は疲れが酷い。そんな状態での思索はいい結果を導かないよ? 今日はもう、帰りたまえ。御苦労だったね、天宮君。ありがとう」
話はここまでだといわんばかりに、如月は書類を片付け始めた。
「……」
立ち尽くす零に、雫が歩み寄る。
「……兄さん、帰りましょう?」
零はしばらく黙っていたが、やがて如月に黙礼すると踵を返した。雫も如月と朱神に黙礼し後につづく。
「うにゃー! 待ってよ、零くん、雫ちゃん」
藤枝が慌てて席を立つ。
「天宮君」
如月が呼び止めた。
「――不可能を欲する人間を私は愛する。これは偉大な詩人の言葉だが、私も同様だよ?」
「……」
なにもいわずに一礼し、零は生徒会室をあとにした。
ふたりだけになった部屋で朱神が尋ねる。
「彼はどうするのでしょう?」
「ふふ、それを決めるのは彼自身だよ。ここは立志館だ。志を抱き、自らの足で起つ者が集う学び舎。違うかね?」
朱神が肯くと、如月は外を視た。
「雨は止まない、か……。ところで、凛君」
「なんです?」
「いまこの部屋には君と私だけだよ? 誰もいない部屋で若い男女が二人きり……。ふふ、なにかまちがいが起きても不思議ではないね? ああ! もう! 素晴らしいシチュエーションだとおもわないかね!?」
「な、なにをいっているんですの?!」
耳まで朱色にそめた朱神は書類の処理をつづける。
が、頭の中ではスゴイ妄想が展開されていた。
降りやまぬ雨のなか大地はひとり走った。
目指すは鐘ヶ台高校。
そこで遠野が事後処理をしているはずだ。
「……」
崩壊した校舎が視えた。
息を乱し正門をくぐる。
辺りには鐘ヶ台の教諭、文武科学省から派遣された者、特警、医師などの姿が見えた。
……蒼くん。
雨で煙るなか、遠野の姿を探し求める。
グランドのほうへ行くにつれ、戦闘の痕跡が酷くなっていることに気づいた。大地はグランドへと早足で歩き出す。時折、小学生にしか見えない彼女を咎めようとする者がいたが、彼女の制服を視て思いとどまる。彼女を視る彼らの目には畏怖や嫌悪の感情があった。彼女はそれらの視線を無視してグランドへ出る。
そこに、求める人の背中が視えた。
――!? 蒼くん、あんなぼろぼろになって……。
雨に打たれながら、遠野はひとり、曇天の空を見上げていた。
「……」
雨で視界が悪くても、その姿が遠野だと大地は確信した。たとえ距離があったとしてもまちがえない自信がある。こんなかなしげな姿で立つ者を彼女は遠野以外しらない。
息が、できなかった。
近づくことすら、躊躇われた。
どれだけそうしていただろう、大地が声をかけられずにたたずんでいると、
「桜さん」
やさしい声で、やさしすぎる声で遠野がいった。彼は振りかえり大地に歩み寄よる。
「わたしの手伝いに来てくれたのですか? ありがとうございます。ですが、事後処理のほうはあらかた済みました。あとは文武科学省の方たちがやってくれるでしょう」
「あ、蒼くん、あの……」
「どうしました?」
いつも通りの、やさしい笑みをせる遠野を視て、大地は言葉につまる。
胸が苦しい。
「蒼くん、天宮くんが――」
「天宮くんは無事に帰ったようですね。よかった。いろいろとあって彼も疲れているでしょう。あとで天宮くんにはわたしのケーキと紅茶を食べていただきましょうね」
「わたしも! 蒼くんのケーキが食べたいのです。蒼くんのケーキが一番……なのです……!!」
「ふふ、そういっていただけるとうれしいですね。ちゃんと桜さんの分もありますから安心してください」
「うれしいのです! 早く帰って食べたいのですって、ちがいます!」
「おや、そういえば桜さん。傘も持たずに来たのですか。珍しいですね?」
「は! そうでした。すっかり失念してたのです……」
「風邪を引いてしまいますよ? 傘を買ってきますから雨宿りでもしていてください」
「うう……申し訳ないのですって、その通りですがちがうのです!」
「……」
眸を憂いでゆらし、遠野は苦笑した。
彼に見つめられ、大地はいいよどむ。が、どうしてもいわずにはいられなかった。
「天宮くんは酷いことをいったのです……天宮くんはなんにもわかっていないのです!」
「それは……」
そうでしょうね、と吐息交じりに遠野はいった。
「それはそうとして。わたしはあまり誹謗中傷などを聞きたくはありません。特に桜さんのような人からは。桜さんがいまいおうとしていることが、誰かを非難したりするような内容なら、どうかおっしゃらずにいてください」
「でも!」
「桜さん」
「っ……」
溢れだすおもいを大地は咽喉でせきとめ、飲みこむ。だが、胸は悔しさや、かなしみでいっぱいだった。渦巻く感情が出口をもとめ暴れている。目が、熱い。涙が滲んでくる。
長い沈黙。
雨音がふたりをつつんだ。
「……わたしたちがしていることは無駄なのですか? おもいは……とどかないのですか?」
やがて、独り言のように大地はいった。
「そうかもしれません。ですが――」
誰にもとどかないのかもしれない。だが、
「――それでもいいと、わたしはおもっています」
それでもいいと、遠野は笑った。
「……」
胸のまえで硬く手をにぎりしめ、大地は面をふせる。
このひとは涙をながすかわりに、笑ってみせるのだ。そういう、ひとなのだ。
だが、けれど、せめていまだけは、笑ってほしくなかった。
よわさを、みせてほしかった
彼のつよさはあまりにもかなしすぎる……。
抱いたおもいが誰にもとどかなくてもいいと笑う彼。
だが。
ほんとうに抱いたおもいが誰にもとどかないのだとしたら?
「……そんなの、かなしすぎるのです……」
遠野の上着をつかみ、しずかに咽び泣く。
なにもかもがかなしかった。
この世界も。
とどかぬおもいも。
彼の、笑顔も。
雨のなか大地は泣きつづけた。
零と雫は立志館から帰ってくると、少し遅めの昼食をすまし、リビングのソファに向かい合ってすわった。ふたりの間にはガラステーブルがあり、その上には雫が淹れた紅茶が載っている。これは先日、遠野からもらった紅茶を淹れたものだ。アールグレイの香りが部屋にただよっている。
「……ぼくは、まちがっていたのかな……」
ずっと口を閉ざしていた零が、面をふせたまま力なくいった。
「それは個人の主観の問題だとおもうから、兄さんがまちがっているとおもわないです。でも」
「……」
面を上げる零。
「……兄さんがいったことで、大地先輩たちが傷ついたことはたしかです。兄さんはそれだけのことをいってしまったから……」
「……」
零は大地にぶたれた頬を左手でなぞるように触れる。
痛かった。
ぶたれた頬よりも大地の泣き顔が。こんな痛みは初めてかもしれない。彼女の泣き顔が頭から離れなかった。それに彼女のいったあの言葉。
『あなたは自分が傷つくことを恐れているだけです!』
……そうかもしれない……。
自分はなにもしらないまま安全な場所にいて、いい気になって正論をふりかざしていただけにすぎないのだろう。自分は汚れず、傷つかずに。ただ無責任に否定していただけだ。その結果、彼女を、彼らを傷つけた。
『力』で問題を解決することが正しいと、いまでも零にはおもえなかった。
しかし、現実は相手によって話し合いでの解決を望まない者もいる。その話し合いにしても、相手を傷つけてしまうことがある。どんな手段を選ぶにしても、けっきょく、誰かが傷つくのだ。この世界は。
……ぼくはただ、誰にも悲しいおもいをしてほしくないと、誰にも傷ついてほしくないとおもっていただけなのに……。いつの間にか自分が傷つくことを怖がって、現実から逃げていただけなんだ……。
そんな者に正論を、理想を、語る資格などない、と零はおもった。おもいしらされた。
……ぼくはどうすればいい……?
生徒会を辞め、元の平穏な世界に戻り生きていくのもいいだろう。そうしたところで、誰も自分を責めはしない。自分の世界が平和であればそれでいい。そう考えても悪くはないのだろう。
だが。
しってしまった。
戦い、傷つき、血を流し、涙を流し、それでも、
戦いつづける者たちがいることを。
如月はいった。
『君の理想は――永遠に叶わない』
しかし、その永遠に叶わぬ理想を誰よりも、なによりも、命を懸けてまで求めているのは、彼ら自身ではないのか?
「……ぼくはどうしたらいいのかな?」
「兄さん、この場合、選ぶのはどうしたらいいのかではなく、兄さんがどうしたいのかが大切なのだとおもいます」
どしたらいいか、ではなく、どうしたいのか。
「選ぶのは、ぼくがどうしたいのか、か……。うん。そうだね。ありがとう、雫」
「……私はいつだって兄さんの味方ですから」
眩しげに、そしてどこか寂しげに零の顔を見つめ、雫は微笑んだ。
「兄さん」
「うん? なに?」
「突然ですが三択です」
「ホントに突然だね……」
「ふふ、人生の選択はいつでも突然やってくるものですよ? さぁ、はりきって選んで下さい!一番、雨に濡れたので一緒にお風呂に入る。二番、今日はもう疲れたので一緒に眠る。三番、おやつを食べる」
「……あえて訊くけど、三番は罠だよね?」
「そんなことありません! 私はただ、身体を張って兄さんを元気づけようとおもっているだけです!」
「張らなくていいから!」
「うぅ……兄さんのわからずや! 意気地なし!」
「逆切れされた?!」
ソファから立ち上がり、雫は部屋へと駆け込む。
「ちょっ!? なんでぼくの部屋にはいるの!? ガチャリって鍵まで閉めてるし! 男の子の部屋には、友達には見られてもいいけど、家族には見られたくないものが一つや二つ――いや、もっとたくさんあるんですよ!?」
「……うふふ。まぁ、兄さんったら、こんな薄い本を買っていたんですね?」
「いやー! 見ないでー!」
あらたなトラウマが零の心に刻まれた。
立志館一階、第一音楽室。
時刻は午後十一時二十七分。
窓から月の光が差し込んでいる。
青く照らされた室内。
昼まえに降りだした雨は日が沈む頃にはあがり、いまは空に月がのぼっていた。
室内を見れば、こんな時間にもかかわらず、スタインウェイ・アンド・サンズのグランドピアノの前に誰かがすわっている。
遠野だ。
青い光が彼の横顔をしずかに照らしている。小さな花が吐息をもらしただけでも、壊れそうな横顔だった。そう視えるのは月の光のせいだろうか。
仕事を終えた彼は一時間ほどまえからここへきて、ピアノを弾いていた。
いま、奏でているのはショパンの夜想曲、第二十番嬰ハ短調。
透明な音色。
音色の奥深くにあるのは、孤独。
まるでこの惑星を、誰もいない静かの海から想い奏でるような音色だ。
――旋律が止んだ。
音の余韻が光りに溶けてゆく。
彼は鍵盤から指を離すとおもむろに席を立ち、窓辺へよった。
月の光が彼の髪をすべり降り、その影を床に映し出している。
窓を開ける。
新しい制服の上着のポケットからタバコを取り出し、彼は口にくわえた。
銀色のオイルライターで火を点け、紫煙を深く吸い込む。
「……」
吐息とともに吐き出された紫煙がゆらゆらとのぼり消えてゆく。
入学式から今日までのことを彼は考えていた。
短い間にずいぶんいろいろあったものだ。零と雫の護衛に始まり、鐘ヶ台との戦闘。この数日間、われながら、らしくないとおもう。本来、自分はこんなに、積極的に人とかかわりを持とうとする性質ではなかったはずだ。それなのに、
……ずいぶんとかかわってしまいましたね……。
苦笑。
零を視ていたら放っておけなかった。
あの純粋さが危うくて。
まぶしくて。
厳しいことをいった。
厳しい世界をみせた。
彼には辛いおもいをさせてしまったとおもう。今回のことで自分がどうおもわれてもしかたがないだろう。しかし、これで彼は、この世界のことが少しはわかったはずだ。矛盾しながらも完璧であるこの世界を。
……世界は変わらない。今も昔も。そしてこれから先も。ずっと……。
それが少しでもわかってもらえたのなら十分だ。これから先は彼自身の問題だろう。この経験を活かせないほど、彼は愚かではないないだろうから。彼自身がどうしたいのか、考えてくれればそれでいい。なるべく後悔のないような道を零に選んでいってほしかった。
後悔のない人生などありはしない。
それは、生きているとはいえない。
しかし、なるべく後悔をしないように努力はするべきだろう。取り返しのつかない後悔ならなおさだ。リセットボタンなど、自分たちには用意されてはいないのだから。
……難儀なものですね。
短くなったタバコを携帯灰皿に入れる。
新たに一本くわえようとした、その時、
「やはり、ここにいたのかね?」
教室のドアが開き、如月があらわれた。
後ろ手でドアを閉め、如月は窓辺の遠野へ歩みよる。右手にはトレイを持ち、その上にはバカラのロックグラス二つと三十年物のラフロイグ(スコッチウイスキー)が載っていた。
遠野は如月の持ってきた物を見て苦笑。
「いけませんねえ、望さん。会長ともあろうお方がお酒ですか?」
「酒とタバコは中学生になる前には覚えるものだよ。常識だね?」
「非常識ですよ」
いつも通りのやりとり。
「ふふ、困った会長と副会長がいたものだ」
「ええ。まったく困ったものですね」
シニカルに笑い、如月はトレイを机の上においた。二つのグラスにウイスキーを注ぐ。一つを遠野に差し出しと、彼はグラスを受け取り、無言で目の高さまで掲げた。如月も同じように掲げる。
「……」
「……」
ふたりは黙ってグラスに口をつけた。
熱い液体を飲み、如月はグラスをみつめる。
「泣くはきみの栄誉をけがすもの われらはきみを嘆かず きみを誇る――バイロン」
ウイスキーを一気に飲みほす。
「忘れはしない。気高き花の美しさを。いつかまた、逢おう……友よ……」
「……」
遠野は窓から空を見上げる。
月が世界を皓皓と照らしていた。
……どうか、いい夢を……。
しばらくの間、ふたりは夜空に輝く月を肴に酒を飲んだ。
静寂があたりを支配している。
「蒼君。天宮君のことだが――」
しずかにほほえみ、遠野は如月を見つめる。
「――ふっ。失礼。いまのは忘れてくれ」
如月はグラスに口をつける。
「蒼君。今回の件だが、君はどう見るかね?」
「今回の事件は鐘ヶ台の単独で行なわれたのではなく、裏で別の方々が動いていたようですね。それに、今回の彼らは本気ではなく、様子見といったところでしょうか。彼ら目的がなんだったのかわかりませんが、少なくとも立志館を潰すことだけが目的ではなかったのでしょう。おそらく、今後もなんらか動きがあるとおもわれます」
「さて、そうなってくると気になるには、凛君の情報だね。今回の件と関連付けるにはまだ情報が少なすぎるが、西側に動きがあるようだ。これは注意が必要かな? しかし、相手の正体も目的も不明瞭では、警戒しつつ情報蒐集ぐらいしかできないね」
わざとらしく嘆息する。
「やれやれ、私はのんびりと卒業したかったのだがね。実にめんどうなことになりそうで、気が重いよ?」
楽しげに笑う如月をみて、遠野は苦笑。
「わたしたちが動かずにすめばよいのですけれど……」
「まあ、あまり気に病んでいてもしかたあるまい。気楽にいこうではないか親愛なる友よ。すべては流れのままに、だ」
空になった二つのグラスに遠野はウイスキーを注ぐ。
「蒼君、明日の生徒会恒例行事はどうするつもりかね?」
「そうですね、断られるかもしれませんが、お誘いしてみようとおもいます。ですから仕事は終わらせておいてくださいね?」
素敵な笑みをうかべ、如月は遠野の肩に手をおいた。見つめること数秒。
「蒼君。今夜は寝かせないよ?」
「……」
そんなに仕事が残っているのですか、と遠野は苦笑。今頃、朱神が怒り心頭だろう。こんなところで油を売っている余裕などないはずだ。
「……わかりました。お手伝いします」
「ありがとう、蒼君。愛しているよ」
「ふふ、ありがとうございます。でも、その言葉を伝える相手は、わたしではないでしょう?」
「そんなことはない! ああ、私のこの愛が君に伝わらないとは! この現実はシェイクスピアの悲劇よりも悲劇的だ!」
たしかに現実は悲劇よりも悲劇的だとおもうが、如月ならその悲劇すらも喜劇に変えてしまうだろう、と遠野はおもった。
「それでは早速、仕事にとりかかりましょうか。凛さんがお持ちかねです」
遠野がウイスキーを飲みほし、グラスを片付けようとする。
「待ちたまえ、蒼君。こんな夜だ、一曲ぐらいリクエストしても罰はあたるまい?」
遠野の脳裏に一瞬、朱神の貌が思い浮かんだが、彼は如月の要望に応えることにした。
ピアノの椅子にすわる。
「なにを弾きましょう?」
「君にまかせるよ」
昔から如月はこうだった。リクエストしながらも曲名をいわない。
遠野はピアノに向きなおると、かろやかに演奏をはじめた。
曲はドビュッシーの『月の光』
真夜中の第一音楽室。
音と光りが手をとりあい舞い踊る。




