三日目(前編)
♪ 三日目
午前十時。
授業の最中だが、鐘ヶ台の生徒会室には役員全員と神楽が集まっていた。
生徒会や保安部の者は授業を免除されている学校もあるので、特に問題があるわけではない。もちろん相応の学力が認められている者に限った話だが。彼らの多くは単なるサボタージュだろう。鐘ヶ台の生徒は授業をサボタージュしても、咎められることはなかった。教員たちが生徒と争いになることを避けているためだ。
以前、新任の教員が授業を受けずに遊んでいた生徒を注意したことがある。さして時をおかずに、その教員は大怪我を負い、学校を退職した。本人は事故に遭ったといっていたが、噂では闇討ちにあったのではないかと囁かれていた。このような事があってから教員たちは生徒を叱ることをしなくなった。
テーブルを挟んで寿と神楽がソファにすわっている。
寿の前にはグラスに入ったビール、神楽の前には先日と同様にコーヒーがおかれていた。
グラスをあおる寿の隣には、一般の女子生徒がひとり。
彼女から香水の香りはしなかった。
先日とはちがう、真面目そうな少女。
目と頬に、涙のあとがある。
虚ろな眸は、なにも視ていなかった……。
周りいる役員たちはそれぞれ適当な位置で控えていた。皆、笑っているように視えるが、その貌はどこかぎこちない。
寿は咽喉を鳴らし、ビールを飲み干す。
「これからどうするんだ? 昨日、手に入れた力で俺は立志館最強と謳われる『静櫃』にも勝てる自信がある。いますぐにでも潰しに行くか?」
空になったグラスを勢いよくテーブルに置き、卑しく笑いながら神楽にいった。
「そんなに慌てないでください。そうですね、とりあえず明日にでも生徒会の方と保安部の方を数名お借りして、下準備をします」
寿の後ろに控える不機嫌そうな木野原と一瞬、目を合わせる。木野原は怪訝な貌で神楽を見返すが、彼はすぐに視線を寿に戻した。ふたりの様子に寿は気づかない。
「なにに使うつもりだ?」
「たいしたことではありませんよ」
コーヒーを飲む。が、先日とは異なる理由で神楽は美味しいとはおもえなかった。
「わかった。なにに使うかはしらんが、誰でも好きに使え」
「会長!?」
了承を与える寿に木野原が不満の声を上げる。が、寿に睨まれると彼はすぐに口をつぐんだ。
昨日の件がある。ここで寿の不興を買うのはまずいだろう。我が身の危険をおかしてまで、彼は寿に諫言を呈する気にはなれなかった。
寿は神楽のことを信用しているのか、なにも問いたださない。
……この力があれば、俺は……。
自分の明るい未来予想図を描き、寿はソファに身を深く沈みこませた。口元が笑みの形に歪む。その様子を視ながら神楽はコーヒーの残りを飲み干した。静かにカップを受け皿に戻す。
「それでは、今日はこれで。ボクは授業がありますから失礼します」
神楽は真面目だな、とあからさまな寿の嘲笑を笑顔で受け流す。一礼すると彼は踵を返し、生徒会室を出て行った。
「会長。本当に神楽の奴を生徒会に入れるつもりですか?」
神楽が出てゆくと木野原が尋ねた。
ふっ、と寿は鼻で嗤う。
不愉快に感じたのか木野原は右側の眉をわずかに動かした。
「おまえは、俺が本当に神楽を生徒会に入れるとでもおもってるのか?」
「……」
「立志館さえ潰してしまえば、神楽は用なしだ。それが済めば奴からもらった能力でちょいと痛めつけて黙らせるさ。なんなら、立志館と殺り合っているどさくさに紛れて――」
あらたに注がれたビールを飲む。
「まあ、そういうことだから、それまではせいぜいあいつに協力してやれ」
「わかりました……」
寿の前から下がり、女子生徒からコーヒーを受け取る。
このままいけば、あと一年間は寿の下で働かなければならい、そうおもうと木野原は暗澹な気持ちになった。しかし、彼は生徒会を辞めようとはおもわない。蜜の味は甘く、辞めるには惜しすぎた。
「……」
寿がほんとうに立志館を潰せば、いま以上に甘い蜜が吸えるだろう。立志館に負けたとしても投降すればいい。無抵抗の者を殺すほど立志館は非情ではないはずだ。寿に脅され、仕方なくやったとでもいえばいい。口裏を合わせるため、何人かに声をかけておいたほうがいいだろう。あとは状況を見ながら判断すればいい……。
コーヒーを飲みながら木野原は誰に声をかけるか考えはじめた。
昨日からずっと、零は考えていた。
生徒会に入るか否か。
……ぼくに生徒会の仕事は向いていないとおもう。断ろうとおもってはいる……。
だが、彼のこころには引っかかるものがあった。
「……」
誘いを断ることに対して、自分はうしろめたさを感じているのだろうか?
彼はいままで他人から誘われたり頼まれたりすると断れないことが多かった。断ったときの相手の反応がこころを重くするからだ。それでもほんとうに嫌なこと、無理なことなら、心苦しくおもいながらもなんとか断る努力をしてきた。相手が強引なときは、雫がそれとなく彼を助けてきた。(このことに関して、彼は自分でも情けない兄だな、とおもっている)
今回は頼まれたわけではない。誘われただけだ。それに彼らなら、断っても嫌な貌はしないだろう。断りたいのなら、断ればいい。だが、自分が感じている、このかすかな引っかかりはなんだろうか? いったいなにが引っかかっているのだろう……?
『あなたは――いままでそうして生きてきたのですね……誰も傷つけないように……』
初めて遠野に逢ったときにいわれた言葉。その言葉からは、強いおもいが感じられた。
しかし、それがどのようなおもいなのか、零にはわからなかった。
それに、どうして? と彼はおもう。
あのとき、遠野はまちがいなく襲ってきた相手を殺すつもりだった。生徒会の仕事上そういう事もあるだろう。だが、彼に躊躇いはないのだろうか? 人の命を奪うこと、殺すことはほんとうに赦されることなのだろうか? あれほどの能力を持っているのなら、相手を殺さずに他の方法を選べるのではないか……?
授業中も彼は考えつづけた。授業に集中しようとしても集中できなかった。
ふと気づけば、すでに昼食の時間になっていた。
教室のなかにあたたかな風が吹いている。誰かが換気のため開けたのだろう、窓が半分ほど開いていた。外を見ればどこまでも青い空が広がっていた。太平洋側気候の地域にしてはめずらしく晴れの日がつづいている。昼食を食べ終えたらヒュプノスの誘惑に負けてしまいそうな、そんな春の一日。
「今日の零くん、なんかノリが悪いねー。どうしたのかにゃ?」
朝から気になっていたのだろう、藤枝は弁当をつつきながら零に尋ねた。
「え? そ、そうかな」
笑ってごまかす。
「うにゃ。もしかして昨日のことを考えているのかにゃ?」
「昨日のこと?」
『ネバネバ感を活かしました! 香り広がる納豆クリームパン(果肉入り)』と書かれた菓子パンを食べる奥森が首をかしげた(手もとには『良薬口に苦し! ゴーヤソーダ』もおいてある)。彼は昨日、零たちと生徒会室に行っていないので事情がわからない。
「昨日、生徒会室に行ったら、会長に生徒会に入らないかって誘われたんだ……」
説明する零の声からは迷いが感じられた。
「いまの生徒会っていったら、二十二年前の学生動乱を終結させた東側の英雄、十九代会長『煌星』相模・星史郎率いる生徒会に匹敵するほどだっていわれてるよね。その生徒会長から直接誘われるなんて……すごいね、零君」
食べていたパンを離し、一瞬、複雑な貌をする。が、すぐに奥森は笑顔をみせた。
「にゃははー、スゴイでしょうー♪」
なぜか藤枝が自慢げに平たい胸を張ってみせる。
「どうして藤枝さんが誇らしげにいうんです?」
ツッコミを入れる雫も自分が褒められたかのように嬉しそうだ。
零自身は、そんなことないよ、と困惑気味に苦笑している。
「それで、零くんはどうするのか決めたのかにゃ?」
弁当を食べ終えた藤枝が尋ねた。
「いや、まだどうするかは決めてないんだけど……」
「え、どうして? 護国司の生徒会だよ? 入ればいろいろとメリットがあるのに」
不思議そうに奥森がいうと、
「うん……たしかにメリットはあるけど、それは立志館に入れただけでも十分あるし。それに生徒会に入れば……嫌ことも、あるから……」
零は言葉を濁し、うつむいた。
「嫌なこと?」
「戦わなきゃ、いけなくなるから……」
「零くんは優しいにゃー……」
あたたかな、けれど、かなしさもふくんだ声で藤枝がいった。
もう、ふれることのできない面影を視るような眸で、彼女は零を視ていた。
「兄さんは争いごとに向いていませんよ。それは自分でもわかっているはずなのに、どうして断ることを迷っているんです?」
「……」
迷っているのはたぶん、遠野にいわれた言葉が気になっているからだろう。
だが、零は正直に答えず曖昧にごまかした。
奥森が話しをつづける。
「零君は、そんなに戦うのが嫌なの? 生徒会に誘われたってことは、零君になんらかの異能か技術があるんだよね? その能力で誰かを護るのはいいことだとおもうけど?」
「うん。そうだね。……でも、ぼくはこの能力で誰かを傷つけたりしたくないんだ……」
「兄さんは優しすぎですよ」
「たしかに、零君は、優しすぎるかもね……」
苦笑をこぼし、奥森は零に尋ねる。
「でも、さっき雫ちゃんもいってたけど、それならなぜ、断らずに迷っているんだい? 断りにくいの?」
「いや、そんなことはないんだけどね……」
「兄さんの性格上、断りにくいのはあるとおもいます。他人から頼られると、嫌なことでもけっきょく引き受けてしまうことが多かったですから」
「うにゃー、零くんってたしかにそんな感じするよね。まあ、でも、遠野先輩はゆっくり考えていいっていってたし、焦らず考えればいいんじゃないかにゃ?」
「うん。そうだね……」
気楽な調子でいう藤枝に、零は笑ってみせた。
……雪さんのいうとおり焦ってもしかたがないんだろうな……。
そうおもいながらも、零は出口を求め、迷路をさまようように、
……どうして……。
胸のうちで問いつづけた。
校舎の周りを零はひとりで歩いていた。
帰りのショートホームルームが終わってから雫と藤枝につきまとわれたが彼はひとりにして欲しいといって放課後の誘いを断った。めずらしく彼が強い意思をみせたので、雫は心配そうな貌をしながらも、おとなしく引き下がり、藤枝はしばらく彼の貌を視てから、そっか、と笑顔でいって彼の肩を軽くたたき、それ以上なにもいわなかった。
「……」
漠然と考えながら、彼はとりとめもなく足を動かす。
……どうしてこんなにも、遠野先輩の言葉が気になってるのかなぁ……。
かすかに聞こえてくるのは運動部の元気な掛け声。春を歌う小鳥のさえずり。
周囲には若葉を茂らす木々や花壇に咲く色とりどりの小さな花々。
人の気配は感じられない。
……ゆっくり考えていいっていってたけど、あんまり返事を待ってもらうのも悪いよね。
いつの間にか下がっていた眸を上げる。
視線の先に見えるのは他の桜から離れて咲く、一本の桜。生徒会室から見えた桜だった。
「……すごい……」
無意識に言葉がもれた。
それは他の桜とはあきらかに異なっていた。
長い年月を生きぬいた存在だけが持つ風格が、その桜からは感じられる。
しかし、それと同時に、誰知らず散ってゆく花のような、春先に降ってしまった粉雪が消えるような儚さを視る者に感じさせた。
魅入られたように彼は茫洋と桜を見つめる。
この桜から感じられるのは、
――優しさと……悲しみ?
見ているだけで涙がこぼれそうになる、切なく、苦しい、美しさ。
考えることも忘れ、桜に魅入る。
夢と現。
永遠と刹那。
出逢いと別れ。
忘我の岸辺に心が溶けてゆく。
そこへ――、
「天宮くんじゃないですか。どうしたのです? このような場所にひとりで来るなんて」
不意に声をかけられ彼の意識は現実に戻された。
「……遠野先輩……」
桜に魅入っていたせいか、人の近づく気配にまったく気づかなかった。いや、普段の自分でも遠野の気配を感じることはできないのではないか?
初めて遠野と出逢ったときのことを、入学式の朝を彼は思い出す。
……あのときも、ぼくは遠野先輩の気配にまったく気づかなかった。しかも防護領域を中和され、遠野先輩に限定して張った封縛も破られたっけ……。
しずかにほほ笑むこの少年は、事も無げに零の防護領域の中に入ってきた。力任せに防護領域を壊す者はいるだろう。だが、壊すことなく干渉するとなれば、よほどの能力差がなければ難しい。
具現化された能力は自分の身体、または精神の一部のような感覚だ。能力のイメージを具現化しているとき、外からなんらかの刺激(干渉)があれば能力を使用している本人にもその刺激が伝わる。だが、零は防護領域に干渉されたとき、なにも感じられなかった。
自分と遠野の能力差はいったいどれほどあるのだろうか、と零はおもう。
だが、遠野が立志館の副会長だとしったいま、零はその能力差もうなずけた。
立志館の庇護を受ける者、受けた者は絶対的な信用と信頼を寄せている。並の犯罪組織なら絶対に関わらない立志館生徒会執行部。数々の噂のなかには、もはや眉唾もの、伝説的なものまであった。だが、それも納得できるだけの実力者が生徒会にはそろっていた。
各学校に一人ぐらいは二つ名で呼ばれている者がいるが、現在の立志館生徒会は全員、敬意、畏敬、恐怖、憎悪などの感情から二つ名が与えられていた。
『戯言遊戯』『廻る涙』『慈しむ息吹』『万旗を征く者』『黄昏に見る夢』そして、その中にあってわずか一年で歴代最強と謳われる『静謐なる蒼穹』(一部の者は『静櫃』と皮肉と憎悪をこめて呼んでいる)。
彼らは本名ではなく二つ名が先行するほどの能力者であり、『学生動乱』を終結させた十九代会長『煌星』率いる生徒会に匹敵、またはそれ以上といわれていた。この国の東側は無論、西側にもとどく二つ名の持ち主たち。
――東の守護者。
しかし、ほほえむ遠野を視ていると、
……そんな凄い人には見えないよね……。他の人たちも……。
彼には争いよりもケーキと紅茶のほうが似合うようにおもえた。
噂から想像していたイメージと現実との差に零は戸惑いを覚える。
「どうしたのですか、天宮くん。心ここにあらずって感じですけれど」
茫洋としていたことに気づき、零は慌てて首をふる。
「あ、な、なんでもありません。すみません、ボーっとしてしまって」
「そうですか。具合が悪いのでしたら保健室まで御案内しますよ? いろいろと問題がありますが立志館の校医、沖田先生は名医ですから」
「だ、大丈夫です」
断ってから、
……いろいろと問題がある名医……。
どんな人なんだろうとおもったが、あえて訊かないことにした。
夕暮の冷たい風が吹きぬけ、桜がしずかに花を散らす。
ふたりの髪がゆれた。
「天宮くん、不躾で質問でもうしわけありませんけれど。生徒会に入る件ですが、決まりましたか?」
「いえ……正直、迷っています……」
「ふふ、そうですよね、すみません。こんなことを訊いてしまって。昨日の今日ですからね。当然です。昨日もいいましたが、焦らずゆっくり考えてください」
苦笑し、
……焦っているのはわたしのほうですかね……。
軽率な質問だったと彼は反省した。
しずかにたたずむ遠野に、零はなにかいおうと口を開くが、
「……」
躊躇われ、すぐに口を閉ざしてしまう。眸を遠野から逸らし彼は桜を見上げた。
遠野は零を急かすようなことはせず、同じように黙って桜を見上げる。日が傾いてきたせいか彼の顔に影がさした。やが、彼は零へと眸を戻し、
「天宮くんは、わたしになにか訊きたいことがあるのではないですか?」
やわらかな声で尋ねた。
「え……」
「ふふ、顔に書いてありますよ」
「……」
うつむき、問うことを躊躇う。
「天宮くんはいま、迷っているとおっしゃいましたが……天宮くんは生徒会に入ることを迷っているのではありませんよね?」
零の心臓が跳ね上がった。ふせていた面をあげ、遠野を視る。
「おそらく、天宮くんが迷っているのは命を奪うこと――殺すことでしょう」
「?!」
今度は心臓をつかまれたように感じた。思わず遠野の顔を凝視してしまう。
「違えましたか?」
「……いえ」
肯定し、一度眸をふせる。
「遠野先輩は初めて逢ったとき、ぼくにいいましたよね」
「わたし、なにかいいましたっけ?」
「とぼけないでください」
非難の眼差し。
「ぼくが……誰も傷つけないように生きてきたっていったじゃないですか」
「そういえば、そんなこといいましたね……お気になさらないでください」
「気にしますよ!」
その生き方ではいけないのだろうか。
傷つけることが、殺すことが出来る生き方のほうがいいのだろうか。
「……」
零の視線を正面から受け止める遠野の貌は、ほほ笑んだままだ。ただ、そのほほ笑みには、いつもとは少し違う色が視えた。
それは、限りなく透明な色。ゆえに、零は気づかない。遠野のおもいに。
「ぼくは誰かが傷つくのも嫌だし、傷つけたくもありません。ましてや殺すなんて……。まちがっていますか、ぼくの考え方は?」
零の口調が普段のそれよりも厳しくなった。この場に雫がいたなら驚いていただろう。
「まちがっているとはおもいません。天宮くんが入学式の朝とった行動を視て、そう考えていることはなんとなくわかりました。ですが、わたしは必ずしもその考え方が――正解とはおもいませんけれど」
「……?」
まちってもいないが正解でもない。どういうことだろうか。彼がなにをいっているのかわからない。
零は眉根を寄せ、訝しげな貌をする。
……あの時、遠野先輩はなんの躊躇いもなくあの人たちを……どうして……。
どうして、そんなことができるのだろうか?
なぜ、遠野はなんの逡巡もなく相手を傷つけ、殺すことができるのか。入学式の朝も、もしかしたら話し合いで解決できたかもしれない。いや。じっさい、誰も傷つくことなくあの場は収まった。ならばなぜ、彼はたった一度の警告で話し合いを止めてしまったのだろう。なぜ、相手を傷つけ、殺すことも已むなしと判断をくだしたのだろう。ほんとうに、その必要があったのであろうか?
「遠野先輩はどうして、あの人たちを――」
「殺そうとしたのか、ですか?」
みなまでいわせず、ほほ笑む。
放たれた言葉が世界を変えるのを、零は感じた。
鈍色の空のように世界が重く、息苦しいものへと変わる。
零と遠野のようすを一階生徒会室の窓から視ている者がいた。
如月だ。
ふたりのようすはテーブル上にあるディスプレイで視られるのだが、彼は窓辺に立って視ていた。(窓は特殊加工された硝子で、外から室内が視えないようになっている)
部屋の中では他の役員たちも椅子にすわりディスプレイを視ている。
室内にはフォーレの鎮魂曲が流れており、テーブル上にはティーセット、キャンディ(セイロン産の紅茶の一種)とカモミールで淹れたハーブティーが人数分のっている。この場に遠野がいないいま、紅茶を淹れたのは侍女服に身をつつんだフェレスだ。
「う~ん。やはり遠野様が淹れる紅茶の味にはおよびません」
フェレスはティーカップを受け皿にもどし、右手を頬にあてながらいった。
「そうか? 俺は十分旨いとおもうぞ?」
紅茶をほとんど味わうことなく飲み干した武内に、
「英雄君、貴方は口に入る物ならなんでも同じでしょう」
あきれた声で朱神がいった。
「なっ、失礼な奴だな! オレだって味の区別ぐらいつくぞ!」
「ほんとですの?」
「あったりまえだろ! 食えるか食えないかわからないと生きてけねぇからな!」
「……」
ふたりのやり取りを楽しそうに視ながら、ゆっくりと紅茶を飲んでいた大地は、
「でも、ヴェルミナさんが淹れてくれた紅茶もほんとうに美味しいのです」
ほっ、と息をつき、抱きしめたくなるような笑みをフェレスにむける。
「ありがとうございます、大地様」
うれしそうに会釈し、すっと席から立つ。
「如月様、紅茶を淹れなおしましょうか?」
窓辺に立つ如月に尋ねた。時刻は午後四時を過ぎ、気温が下がってきていた。さきほど淹れた紅茶が冷めはじめている。
「いや、大丈夫だよ、ヴェルミナ君。美しい君が淹れてくれた紅茶だ。ありがたくいただくよ」
窓から離れ、席に着く。ぬるくなった紅茶を一口。
「美味しいね。ヴェルミナ君が淹れてくれた紅茶もエレガントでじつに素晴らしい味わいだ」
「お褒めに預かり恐縮です」
紅茶を飲み終わると如月はふたたび窓辺にたった。
……やわらかな羽はすぐに傷つき、いずれ力尽きてしまう……。風は木々と語らい、花と舞うだけではないのだ。強い翼を持つ者だけが飛ぶことをゆるされる世界……。この世界はあまりにも……。
ふたりをとおして彼はこの世界の姿をおもう。
そんな彼のようすを朱神はそっと横目でうかがうが、
「……」
部屋の明かりが邪魔をして、ガラスに映る、彼の貌を視ることができなかった。
「殺そうとしたのか、ですか?」
やさしいが、揺るぎない声で遠野はいった。
「……そうです。どうして先輩はたった一度の警告で、話し合いでの解決をあきらめ、躊躇ことなく相手を傷つけようと、殺そうとしたんですか」
純粋で穢れをしらない零の瞳が、まっすぐに遠野を見つめる。
なぜ、遠野が躊躇うことなく相手を殺そうしたのか零には疑問だった。いや、彼の行動に対して、憤りすら感じているかもしれない。
また、あのときの選択が、いままでの生き方が、否定されているような気さえしていた。入学式の朝にいわれた、彼の去りぎわの言葉で。
「躊躇ことなく殺そうとした理由……」
胸のうちで遠野は苦笑する。
ほんとうに、零は純粋な瞳をしている。まるで神の存在を信じる幼子のような、穢れをしらない瞳。だがそれは、この狂った世界のほんの一面しかしらないからだろう。彼はしらない。死より残酷な現実を……。恵まれた世界、幸せな世界で生きてきたがゆえに。
しかし、これからもこのままでいられるわけがないのだ。生きていれば必ずどこかで不条理を、矛盾を、非情を、無情を、救いがたい愚劣で残酷な現実を、救う価値もない現実をしることになる。
そのとき彼はどうするのだろうか……。純粋な光を失い、穢れ、絶望して終わってしまうのだろうか。絶望の果てをしってなお、そのさきを望むことができるのだろうか。……おそらく無理であろう。いまのままでは、その優しさゆえに自分が、大切な人が失われてしまうこともある、ということをしらない聖痴愚者だ……。できればそのとき判断を、選択を、決断をまちがってほしくはない。取り返しのつかない後悔を、この身を裂いてなお足りない慟哭など、彼にさせたくはない。させたくは、ないのだ……。
零を見つめながら遠野は、
「……」
これから話そうとする内容をおもうと気が重くなった。
……まったく、わたしらしくないですね……。
だが、放っておくことはできなかった。
――出逢ってしまったから。
こんなことは如月のほうが向いているのだろう。しかし、零はいま、あのまっすぐな瞳を自分にむけているのだ。曇りひとつない瞳を。適当な言葉でこの場を濁すことはできない。そんなことはしたくない。
気づかれないよう重い吐息をこぼし遠野は――問う。
「では逆に、天宮くんにお聞きしますが。なぜ他の者の命を奪っては、殺してはいけないのでしょうか?」
「え、それは……」
それは?
法律で決まっているからだろうか。法的に許されていればいいのだろうか。
ならば、遠野たちの殺傷行為は法的に許されており悪にはならない。
では――なにをもって悪となす?
「……失われた命は、二度と戻らないから……あの人たちだって死んでしまったら、きっと誰かが悲しむとおもいます」
慎重に言葉を選び、零は答えた。
「ヒューマニズムからくる感情論ですか。わからなくもありませんが、天宮くんがいう感情論は――甘い、ですね」
「甘い……?」
即座に否定され、感情がざわつく。
「ええ、甘いです。わたしたちは感情のある生き物ですから、感情論もたしかに大切です。けれども、それでは被害者の方たちの感情はどうなるのでしょう? 天宮くんはそこまで考えていっていますか?」
「?! ……」
零は唖然となった。
自分はいままでに一度でも、被害者の立場になって考えたことがあっただろうか。
想像したことはあっただろうか。
……考えたこと、なかったかもしれない……。
そう、人とは実際にその立場になって経験しなければわからないことが多い。自分がその立場(被害者)になるまで想像することも、考えることもしない者がほとんどなのだ。
「ふふ。まあそれは、おいおい話すとして。根本的なところからいきますが。わたしたち生きている者、肉体を持ち、生命活動を行う存在は、生きているだけで常になんらかの命を奪っているという厳然とした事実があります。天宮くん。あなたは御自分の手が汚れていないと、ほんとうにおもっているのですか?」
「?」
「天宮くん。あなたはお肉を食べますよね」
「? はい」
「お野菜も食べますよね」
「……はい」
「その食べた物にも命といわれるものは、ありますよね?」
「………………」
「つまり、わたしたちは常に他の命を奪い、殺し、それらの命を日々の糧としています。天宮くんは生まれてから一度も食事をとることなく生きてきましたか? そんなことはありませんよね。他の種族、神族、魔族、幻獣族、精神生命体といわれている彼らなら話はべつですけれど。わたしたち肉体(物質)を持つ種族は食事という生きるために必要な行為、本能からくる生理的欲求が必ずあります。誰でもお肉やお野菜を食べるように」
一息。
「それは悪いこと、罪でしょうか?」
「……いいえ」
「おや? おかしいですね。食事という目的で殺すのも、犯罪から自分や誰かを守るために相手を殺すのも、行為としては同じなのに。それとも、食物連鎖の頂点に立っているといわれる人類だけは特別で、殺してはならないというルールがこの世界にはあるのでしょうか?」
そんなルールはこの世のどこにも存在していない。あるとしても、それは人類が勝手に作り上げたルール、もしくは宗教のなかでだけだ。ならば何故、人だけがかくも特別であるかのごとくふるまっているのだろうか。考えれば考えるほど人を殺してはならないという明確な論拠はどこにも見当たらない。
「天宮くん、自分がすでに矛盾していることに気づいていますか?」
「……」
気づき、困惑する。
焦りを感じた。
零の立っている世界が不確かなものになってゆく。
「彼らは喜んでわたしたちに食べられているのでしょうか。また、彼らの命は、わたしたち人類の命よりも尊くはないのでしょうか?」
「……そんなことは、ない……と、おもいます……」
「では、天宮くんの言い分はこういうことですね。人の命を奪うことは罪で、他の種の命を奪うことは罪ではないと」
「……」
なにもいえず、うつむく。
「たしかに、命は尊いかもしれません。ですが、それは人の命だけが尊いのでしょうか?」
人類はまるで自分たちだけが特別な存在であるかのように食物連鎖の環から外れ、無制限に節操なく、繁栄してきたのではないだろうか。命は尊いと謳いながら平気で他の種の命を奪い殺して。
「この世界に存在しつづけるということは生存競争のなかで闘い、勝ちつづけること、生き抜くことです。他の命を殺しつづけることです。生の本能の前では、命を奪い殺すことは自然なことではないでしょうか?」
「そ、それは詭弁だとおもいます! それでは生きるための行為は全て許されることになる!」
なんとか面を上げ反論する。
「すべては許されている、といった哲学者もいましたね。ですが、それは万人には危険な思想です。なぜならその考えは、選民意識とはちがった意味で限られた人間だけがもてるものですから。その哲学者は『超人』といっていましたがね。弱い者が考え違いをしてこの哲学を基にすれば、さて、この世はどうなってしまうのでしょう?
「ふふ、失礼、話しがすこし逸れましたね。天宮くん、わたしがいったのはあくまで生きる存在の本質です。許す許さない、善悪の問題ではありません。そもそも宗教や道徳、倫理などからくる善悪の基準は人に限られ、他の種のことなど考えていないようにお思いなりませんか? これらの考え方のほうがわたしには矛盾だらけの詭弁、歪にゆがんだ綺麗事におもわれますが。ありきたりですけれど、弱肉強食。これがこの世界の根幹にありつづける、否定したくとも否定できないルールだと、わたしはおもいますよ」
「……」
反論ができない。遠野がいっていることは間違ってはいないのだろう。間違ってはいないとおもう。
だが、彼の感情はそれを認められなかった。
「天宮くん、人に限定しても、戦争といった行為を人類はこの世から無くしたことは一度もありません。それが人のいう善くないこと、悪いことだといいながら」
人類は人を殺すことが罪(悪)だという。
ならばなぜ、人類はそのさいたる戦争を無くすことができないのだろうか。
「国と国の争いの場合、どちらも自分たちの正義、大義名分を用意して争います。戦争中、敵とする国の人を殺しても基本的に罪には問われません。敗戦国側の人は戦犯者として軍法会議などで処分されますが。戦争のなかで、兵士やそこに住む人たちが自分の命を守るために、相手を殺すことは罪なのでしょうか。殺したくて殺すのではありません。そうしなければ生きていけないからです。まあ、世の中には殺人狂もいますが、それは例外として。そんな状況でも天宮くんは人を殺すなというのですか」
「……状況が違いすぎます」
「状況が異なればいいのでしょうか? では、話のスケールを戦争ではなく、日常で起こりうる個人レベルにしましょうか。天宮くんとわたしが初めてお会いしたとき、天宮くんは襲われていました。そのとき天宮くんは、能力によって防護領域を展開し自分と妹の雫さんを守りましたよね」
「……」
歯を噛み締め、手を強くにぎりしめる。
「あのとき、天宮くんには能力があるから自分と雫さんを守ることができました。ですが、能力のない人ならどうだったでしょうか? 身を守る術を持たない人たちは、おとなしく傷つけられ、殺されればいいのでしょうか。そういう人たちを護るために、相手を殺すこともあり得るのではありませんか」
「でも、それなら、必ずしも相手を殺す必要はないとおもいます……」
「そうかもしれませんね。話し合い、または相手を行動不能な状態にすることは可能でしょう。ですが、また同じ人が襲ってきたら、違う人が襲ってきたら、その都度同じことを繰り返すのでしょうか。切りがありませんね。四六時中守ることも不可能ですし」
苦笑。
「罪を犯した者を捕らえたとして、彼らが収容所に入っている間に改心する人はどれぐらいいるのでしょうね? そして再び罪を犯す人はどれだけいるでしょうか?」
残念ながら、この国の再犯罪率は極めて高い。いまから半世紀以上前になるが、ある国の防衛長官がメジャーな新聞社のインタビューで「九十年代の寛容主義が社会の犯罪を増加させ、道徳の退廃を広げた」と評したとおり、以後この国を含む世界中の犯罪率は右肩上がりだった。
寛容な社会ではなく、堕落した社会。腐った果実のような世界。罪に甘いだけの、見せかけの平和が、いまの世界にしてしまったのではないだろうか。
「でもっ! 一度の過ちで見切りをつけてしまってもいいんですか!? やりなおす機会も与えられず、殺されなければならないんですか!? 失われた命は、もう二度ともどらないのに!?」
「たしかに、失われた命は二度と戻りません。さて、ここで天宮くんがさきほどおっしゃった感情論ですけれど、殺された人の感情は、おもいはどうなるのでしょう。殺されていなければ、あったはずの未来はどうなるのでしょう。殺された人の家族、恋人、親しい友人のおもいはどうすればいいのでしょう。……天宮くんはご存知ですか? 被害者の遺族や親しかった人のおもいを」
「……」
「彼らのおもいは『この手で犯人を――殺したい』です」
「!?」
息が止まった。零はあえぐように言葉を探すがなにも出てこない。
遠野は生徒会という立場上、遺族たちの声を何度も聴いてきた。すべての遺族たちが犯人を殺したいとおもっているわけではない。だが、多くの遺族がそうおもっているのが現実だった。彼らは犯人が憎いと、この手で殺したいと、涙を流しいっていた。死ぬまで赦すことはできないだろう、とも。彼らの悲しみと苦しみは一生つづくのだろう……。
「天宮くんは妹の雫さんやご両親、親しい友人を殺されても、その機会を与えられますか。赦すことができますか。しかたなかったと、運が悪かったと、なっとくできるのですか?」
「ぼくは……」
ほんとうに、そんなことができるのだろうか……?
「天宮くんのいうとおり、機会を与えれば、人が持っている善悪の概念から、後悔や、罪の意識を感じて、改心し罪を背負って生きていく人もいるでしょう。殺したくて殺したわけではないのかもしれません。なかには理由をしれば憐れみや義憤を感じるものもあるでしょう。ですが、ほとんどの犯罪者はなにも考えず、己の私利私欲だけで悪戯に人を傷つけ、殺しています。そういう人たちは反省も、後悔も、罪の意識もありません。逆に逆恨みする者さえいます。そういう人たちはどうすればいいのでしょか。死ぬまで収容所に閉じ込めておけばよいのでしょうか。
「それもいいかもしれませんね。ですが、それは不可能です。毎日どこかで目も当てられないような残忍で残酷な殺人事件や、口に出すのもはばかられるような事件が起きています。それらの犯人を捕らえ、裁判をし、判決の結果、一生収容所に閉じ込め、社会から隔離することなど不可能なのですよ。
「そんなことをすれば膨大な時間と費用がかかりますし、収容所はすぐに一杯、満員になってしまう。それに法の死刑という最終手段ですが、これにも問題があります。重度の傷害や殺人に対して、法は極刑を与えることができます。ですが、こんな世の中になっても死刑が執行されることは少ないのです。特に未成年者の犯罪者に対しては。天宮くん、あなたは死刑に反対ですか?」
「……」
沈黙はなによりも雄弁な肯定だった。
「ふふ、愚問でしたね。そう、世のなかには天宮くんのように優しい人がいます。犯罪者の人権まで守ろうとするような。しかし、それではなんのために法律があるのでしょうか?」
「……社会秩序を守るため、ですか」
「素晴らしい(フオーアツユークリヒ)! じつに理想的な答えです。天宮くんのいうとおり、法律とは社会秩序を乱すことなく、そのなかで暮らす人たちが安全に安心して暮らしていけるよう作られました。法律というものがちゃんとできる前にも、そういったルールは集団生活のなかで自然とできていたといわています。
「集団で生活する以上、これは必然的なことなのでしょうね。昔はそういったルールに従わない者、破る者に対して厳しい処置をとってきました。こんなことをされるぐらいなら罪を犯したくないとおもうように。ですが、犯罪は無くなりません。なぜなら、すべての人々が理性的に生きてはいけないからです。そして、天宮くんのような人たちが犯罪者の人権を主張し守るからです。人道的、または宗教的に。
「この社会自体、いまだにそのような傾向があります。罪を憎んで人を憎まず――なんて、慣用句を使うまでもなく、当事者でもない第三者の、もっともらしい論理によって犯罪者は守られている。収容所に入っても衣食住、医療完備。作業賞金だってもらえます。しかも二十四時間警備付。リストラされ、ホームレスになった人たちよりも、生きる保障はいいですよね?
「これでは犯罪も減らないのではないでしょうか。未成年の犯罪も増え、大人だけでは処理しきれなくなり、その結果、五十九年前に少年法が改正され、わたしたち生徒会が作られました。相対的に見て、生徒会ができてから少年犯罪は減り、一般犯罪も減りました。わたしたち公的機関が抑止力になっているからです。
「しかし、それでも罪を犯す者は後を絶ちません。天宮くんは機会を与えればいいとおっしゃいますが、その機会を与えても、また罪を犯したらどうするのですか? それにより誰かの命が失われたら誰が責任を負うのでしょう? また、その責任はどういったものでしょうか? 失われた命に、被害者に、どう償うのでしょうか?
「天宮くんはどのようなことでも話し合いで解決できるとおもっているようですけれど、わたしたち個という存在が、互いに言葉で完全に理解し、赦しあえるのなら、この世界から犯罪、争いはなくなっているのではないでしょうか。それに、言葉だけで理解を得ようとしても、それができる者とできない者がいます。誰もが聖人君子になれるわけではありません。
「天宮くんはこの世界に存在するすべての者が、理解しあえるなんて世迷言を信じているわけではありませんよね? さて、天宮くん。それでは、話し合いで解決できないとき、わたしたちはどうすればよいのでしょう?」
「……」
どうすればいいのだろう……?
「天宮くん。あなたはほんとうに優しい人だとおもいます。誰も傷つけたくないという気持ちもわからなくはありません。ですが、既存の善悪に対する先入観に縛られていると、その優しさで自分の命を、大切な者の命を失ってしまうこともあるのですよ。いえ、その優しさゆえに殺してしまうこともあるのです」
「……それでも、それでもぼくは納得できません……誰かを殺して生き残るぐらいなら、ぼくは殺されたほうがいい!」
遠野が吐息をこぼした。
「天宮くん、あなたはそれが浅はかだと、甘い考えだとわかっていないのです。ほんとうに殺されそうになってもその科白がいえますか。あなたは死んで満足かもしれませんが、残された者のことを少しでも考えていますか。本気で、ただ、自分が死ぬだけでいいだなんておもっているのですか?」
「……」
答える代わりに、零は睨むように遠野を視る。理性ではなく反発する感情からくる行為だ。
「……」
雨の降り止まない曇天の空を見上げるように、遠野は空を見上げた。
空は、なにも応えない。あたりまえだ。空は空でしかないのだから。
それとも、彼が見つめる空の果てには、すべての矛盾に答えてくれる存在がいるのだろうか……。
一度だけゆっくりと、遠野は眸を閉じた。
「……いいでしょう。叶わぬ幻想に――沈みなさい」
明確な殺意をその眸に宿し、彼はいった。
張りつめていた空気が砕けるように、爆ぜた。
「それにしても今日の副会長は饒舌だね。しかも容赦がない。ふふ、ああいう副会長もいいものだ。ゾクゾクするね?」
窓辺に立ちふたりの様子を視ていた如月がおもむろにいった。このなかで遠野と一番付き合いが長いのは如月だ。ふたりが知り合ったのは三年前。桜の代わりに淡い雪が、かなしみをつつむようにふる季節(その出逢いにはひとりの女性が深くかかわっている。忘れることのない、出逢いと別れ。だがそれは、いまは語るべき物語ではない)。
その頃から付き合っている彼がいうのだから、普段の遠野は必要以上に話すことがないのだろう。
「趣味が悪いですわ」
朱神がたしなめた。
「でも……らしくねえよな」
呟くように武内がいうと、
「おや、英雄君。副会長のことをよくわかっているじゃないか。なんだかんだいっていても副会長のことを気にかけているんだね?」
からかうように如月がいった。
「ばっ、オレはべつにっ!」
「まあまあ、英雄様落ち着いてください。お顔が赤くなっていますよ?」
「ヴェルミナ!」
顔を逸らし武内はテーブルの上におかれたティーカップに手を伸ばす。が、中身はすでに空だった。ちっ、と彼が舌打ちをすると、フェレスが空のティーカップに紅茶を注いだ。その横顔には笑みがうかんでいる。彼は面白く無いとでもいうように、また舌打ちをこぼした。
「それにしても、天宮君は蒼君がいっていることを理解し認めることができるでしょうか……。もしできなければ、彼は生徒会に入っても長くはつづかないでしょう。生き抜くことすら難しいですわね……」
メガネに紅茶の水面を映しながら朱神がいうと、フェレスがかなしげに肯いた。
「天宮様はとてもよい環境で育ったのでしょう。世界の暗部に触れることなく。でも、いつかはその暗部にふれるときが、誰にでも必ずきます。遠野様は天宮様がそのとき、御自分の意志で進む道を決められるようにと、選び、進んだ道を悔やまないようにとおもって、このような話をしているのではないかとおもうのですが……」
大地の様子をうかがう。彼女はふたりの映像を黙って見つめていた。その様はなにかを必死に堪える者の姿に視えた。フェレスはそっと彼女のティーカップに紅茶を注ぐ。
「わざわざ副会長が嫌われ役となってね。自分で考えるきっかけになればいいとおもっているのだろう。しかし、天宮君にあの内容は少々重過ぎるのではないかね? 副会長の話には笑いがぜんぜん無い。この世には大事なものが幾つかある。そのうちの一つが――」
「エロス! ぐお?!」
如月よりも先に武内がいった瞬間、フェレスが彼の首をあらぬ方向に曲げた。
「うむ。それも大事だね? だが、やはり笑いも大事だろう。副会長はその辺りがまだまだだね。そう、世の中はこんなにも面白い。退屈している暇などないのだよ。つまらないというのなら、私が面白おかしくしてやろう。さあ、いつでも相談に来るがいい!」
「おかしいのは望君の頭だけで十分です」
嘆息まじりに朱神がいった。
「そんなに褒めないでくれたまえ、凛君。照れてしまうじゃないか」
「褒めてません!」
彼女がツッコミを入れたその直後。外から有無をいわせない、強烈な殺気が伝わってきた。
「!? ちっ、あの馬鹿なに考えてやがる?!」
武内がすわっていた椅子から窓まで瞬時に移動。窓を開けようと手をかけた――
「ダメなのです!」
が、悲痛な大地の声が彼の動きを止めた。驚いたように武内は振り返る。
「桜ちゃん?」
「いま、止めに入ったらきっと……きっと蒼くんに怒られるとおもうのです」
「でも、あのバカ本気だ! あの一年坊主ヘタすりゃ死んじまう!」
大地は首を振り、小さな手でスカートの裾をぎゅっと握った。
「蒼くんなら大丈夫……大丈夫、なのです……」
自分自身に言い聞かせるような声。
「蒼くんはちゃんと考えているとおもうです。望くんのように――」
如月を視る。
「メチャクチャなことにはならないとおもうのです」
「ふっ。まさか桜君まで私のことを誤解しているとは。哀毀骨立とはまさにこのことだね?」
「んなこたぁどうでもいい! 桜ちゃん、ほんとうに大丈夫なのか?」
再度の問いに大地は肯く。
武内は数秒、彼女の貌を見つめた後、
「ヴェルミナ、そのまま待機してろ。もしものことがあったら困るからな」
フェレスにいった。
「了解しました、英雄様。汎用プログラムから戦闘プログラムに移行のまま待機します。対物・対魔防護領域プログラム起動中。いつでも展開可能です」
燐光のような金色と黒色の光がフェレスを中心に舞い踊っている。
「これぐらいはいいだろう、桜ちゃん?」
「はい。ありがとうです、英雄くん」
照れたように武内は頬をかき、眸を窓の外に戻した。
「凛君も心配は無要だよ」
外を視たまま如月がいった。
ガラスに映る朱神は硬い息を吐き、ブレザーの内側に入れた右手を戻した。
「さて、話はまとまったが桜君。いまの殺気を感じとった保安部の連中から、問い合わせのメールが殺到している。すまないが私の名でその対処をしてくれるかね?」
如月のいうとおり生徒会室に問い合わせが殺到していた。大地の周囲にも小さな画面が無数に展開している。内容はどれも遠野が放った殺気の件だ。保安部の者たちは敵が来たのかといきり立つ者、なかには不安を感じている者もいた。彼女は少し考え、如月の名ではなく遠野の名を使って対応メールを作成した。
如月は外のふたりを見つめ、
……人間であることが赦されないほど腹ただしいことはない――ゲーテ。人間であろうとすればするほど、溝は深まり距離は離れる、か……。
すくってもすくっても、すくいきれない澱のような嘆息が彼の口からこぼれた。
「? なにかいいましたか、望君」
「いや。幻聴を聞くとは凛君も疲れているようだね。どうだろう? こんど息抜きに、私とリストの『ためいき』のような、甘美なデートでもしないかね?」
「な、ななななにを突然いってるんですの!?」
「おや? 嫌かね? それはそれは残念至極」
「そ、そんなことはいっていませんわ! ええ! どうしてもというのならわたくしも無下に断りません。そうですわね、昨日、オーダーしてあった服ができあがってきましたから、その新しい服を着て、それから……」
真剣にデートの予定を考え、朱神は顔を紅くする。
乙女の想像の翼はどこまでも広が――
「!!!?」
それは広げすぎだろう……。
ガラスが割れる音を、零は聞いた気がした。
次の瞬間。
左側から来た遠野の袈裟斬りを、零は左手で顔を防ぐように障壁を展開。遠野の殺気に、防衛本能が反応して無意識に展開したのだろう。ふたりの実力差を考えれば彼の防御は僥倖といえる。
いまの太刀筋には明確な殺意があった。
もし、障壁を展開していなければ零は死んでいたかもしれない。
「上出来です。良く反応できました」
互いの呼吸が聞こえるほど、接近した遠野がほほ笑む。
遠野がいつ抜刀したのか、零にはわからなかった。そしてこの状況を冷静に理解できるほど彼の心は逞くない。いままで経験したことのない感情が彼を支配し、思考を混乱させている。
「ですが、天宮くんではわたしを止められませんよ?」
たしかに、遠野の美しい日本刀が少しずつ零の防護領域を突破していく。さすがの遠野も必死に展開された防護領域を中和するのは困難なのか、入学式の日のようにすんなりとはいかない。
「はあ、はあ、はあ、はあ……!」
零の呼吸が否応もなく乱れる。息を吸っているのか吐いているのかさえわからない。
彼は心臓を何者かの手に握られ、全身を蛇の鎖で縛られている錯覚を覚えた。身体がいうことを利かない。全身から冷たく嫌な汗が滲みでていた。額の汗は珠となり、頬をつたって細い顎から流れ落ちてゆく。彼はいま、初めて感じている感情の正体がわからなかった。そして、それはなにに対して感じているのかも。
「天宮くん。いま感じている感情がわかりますか?」
答える余裕など零にはない。刀がさらに防護領域に食い込む。
「それは恐怖です。死に対する恐怖です。(デイー・フルヒト・フオーア・デム・トート)どうです? 理不尽な暴力にさらされた感想は。我が身を守るだけでやっとの、いまのあなたになにができますか? 言葉で説き伏せますか。都合よく誰かが助けに来るのを待ちますか? それとも――奇跡でも願いますか?」
「っ!」
これはなんの冗談だろう? 冗談だとしても性質が悪すぎる。どうして自分がこんな目に遭わなければならないのか。意味がわからない。わけがわからない。なにか死ななければならないようなことを自分はしたのだろうか。
混乱している頭を零は必死に働かせる。
どうすればいい。自分の能力では遠野に敵わない。このままでは殺されてしまう!
そこまで考えて、彼は気づく。
……殺される?
誰が?
……ぼくが……死ぬ!?
死。
現実にすぐそこまで迫った死に対し、零はよりいっそう恐怖に縛られた。
思考と身体は石化したように自由を失っていく。
おもうように動かない口を動かし、
「や、止めてくださいっ! どうしてこんなことをするんですか!?」
震える声でいった。その声は哀願と納得できない状況に対する憤りの声。
「どうして? 理由なんてありませんよ」
「な?!」
そう、理由などないのだ。
だが、あえてここに、このような行為に及ぶ人間性を持たない者たちの理由(意識の根底にあるもの)をいくつか簡単に挙げるのも無駄ではないだろう。
まず、人間らしさ、人間性とはなんであろうか?
他の種(高度な知性をもつ精神生命体を除く)と人間をわけるものは、知性。考える力、高い思考能力だろう。そしてそこから生まれる豊かな想像力、創造力、理性、精神、自己の内面と自己の外面(自己以外の全て、つまり世界)に対する理解力、理解欲ではないだろうか。
これらを持たない者にあるのは、際限のない原始的な欲望を満たすことだけである。節度を超えた三大欲求の他に、自己顕示欲と物欲しかもたず、それを満たすためだけに存在している。その欲望を満たすために他者を虐げる。
傷つけ、殺し、奪う。
その行為には人間としての理想も理念も無い。
彼らは自らの行為を省みることもなく、その行為の結果、相手がどうなろうと、気に病むことなどない。そしてその行為によって自分がなにを失っていくのか、彼らは理解できないのだ。想像力がない故に他者を平気で虐げ、創造力がない故に簡単に物を破壊し、理性がない故に欲望を抑えることができず、気高い精神がない故に他者を思い遣ることができない。
魂が震えるほどの、喜び、怒り、悲しみ、苦しみ、痛み、そして孤独。目には見えない己の内面を高め、成長させるこれらを知らず、理解もできない者は、己の精神を、魂を高めることはできない。
彼らは目に見えるだけの内面の貧しい物質的豊かさ、権力、暴力による自己顕示で他者と自分を比べ、快楽と優越感に浸ることを全てとし、鏡に映る自分の姿がどれほど醜悪であるか気づかない。
人間性を持たない者の利己的行為ほど、愚昧で驚異となるものはないだろう。
その行為は芸術、知識、技術など、これらを育む精神、魂を破壊する。
簡単に破壊してしまう。
さて、これらの人間性を持たない者を、人間と定義しても本当にいいのだろうか? それはただ、人の形をした、最高に最低で最悪な生き物になるのではないだろうか?
まさに怪物である。
人は生まれながらにして人間なのではなく、人間性を経験や努力によって獲得し、人間になるのだ。しかし、残念なことにこういった人間性を持たない輩が多いのが現実なのかもしれない。
「これが人の世であり、この世界の姿です。いままで普通に、幸せに暮らしていたのに、ある日突然、犯罪に巻き込まれ殺されたり、事故に遭ったりして死んでしまう。特に悪いことをしていなくても、です。いまの状況は前者ですがね。
「天宮くんはこの状況でも相手を傷つけるのが嫌だからといってなにもせず、わたしに殺されるのですか? 助かる可能性があるのに反撃もせず? じっさい、専守防衛なんてものは、相手より自分が優位に立っているときだけ実現可能な論理ですよ。話し合いにしてもそうです。なんなら、試しにわたしを説き伏せてみますか?」
「……」
なにを? この状況でなにをいえば助かるのだろうか。
これは悪いことですから止めましょうとでもいえばいいのだろうか?
――そんなことをいってなんになる!?
そんなことはわかりきっているのに犯罪は無くならない。直接間接を問わず、こんなことが世界中で毎日毎秒起きている。理不尽に傷つけられ、殺され、死んでしまう者たちがいる現実。命乞いをしたところで嘲笑を買うだけだ。
「話し合いはなしですか? それでは、誰かが助けに来てくれるのを待ちますか? 妹の雫さんをお呼びしてもかまいませんよ? 遠慮なさらずお呼びください。待っていますから」
一瞬にして、遠野は最初の距離まで戻った。
ただし、依然すさまじい殺気は感じられ、刀は抜かれたままだが。
「……」
零は携帯が入っているスラックスのポケットを視る。遠野が離れたことで、少しだけ思考が冷静になった。
……雫を呼べば、なんとかなるかもしれない……。
だが、雫の能力でも遠野にはかなわないかもしれない。しかし、隙を突いて逃げることぐらいなら……。いや、駄目だ。遠野がそんなミスをするとはおもえない。そんな甘い人ではない。雫を呼んでもふたりとも殺されるだけだろう。この状況で誰か来ても、よほどの能力者でもないかぎり助からない……!
「どうしました。呼ばないのですか? わたしとしては、呼んでくれたほうがよかったのですがね。わたしが雫さんを天宮くんの目の前で殺しても、あなたがわたしを赦してくれるのか試せましたし。天宮くんは自分に近しい人が殺されても、殺した相手を憎んだり怨んだりもせず、なおかつ人権まで守ってくれるのでしょう? あなたがさきほどいったことは、そういうことですよ?」
「!? そんなことっ……」
反射的に言葉を返した。が、後がつづかない。
「それに、天宮くんがいま考えていたことは、自分の手を汚さずに、他人に手を汚してもらうことなのですけれど、わかっていますか? 自分では相手を傷つけることをせず、誰かに傷つけさせる。自分だけなにもせずに奇麗なままでいようだなんて、ずいぶん虫のいい話しですね。ご自分で偽善的だとはおおもいになりませんか?」
零の思考を読んだように遠野はいった。
「!」
ふっと呼気を吐き、遠野がふたたび、零との距離をつめる。今度は逆方向から横一線に切りつけた。
攻撃されることがわかっていた零は明確な意思で強固な防護領域を展開。襲われるのがわかっているのと、わかっていないのとでは、実戦で生死を分けるほどの差がある。
しかし、それは遠野も同じだ。最初の障壁よりも強い防御をされることは予想できた。彼は先の攻撃のように一撃では止まらず、今度は連撃を仕掛ける。
長い髪と刀が、桜の花びらとともに舞う。
白拍子が舞うように、見る者を魅了する動きだが、零はその動きに見惚れるほどの余裕はない。目で刀の軌跡を追うので精一杯だ。
「天宮くん。反撃も、説き伏せることもできず、相手に実力が及ばず、助けを求めることもできないこの状況で、あなたに残された選択肢は、あとなにがあるでしょうか。奇蹟でも起きるのを、死の瞬間まで願い、祈ることぐらいですか?」
「っ!」
一撃でもまともに受ければ致命傷になるだろう、遠野の重い連撃。防ぐだけで精一杯の零は応えることが出来ない。
「奇蹟? ふふ。天宮くんは奇蹟とはどういうものだとお考えでしょうか。一般的にいわれる奇蹟とはどういうものでしょう?」
話しているあいだも、遠野の攻撃に反撃の隙はない。
「例えば――そう、例えばいま、突然わたしが死に、天宮くんが助かることが、奇蹟といえるのでしょうか?」
遠野の攻撃に耐えながら零はおもう。
……これでぼくが死ななかったら、奇蹟じゃないのか!?
確実に死ぬとおもわれるような事柄、事故や病気、天災、人災などからの生還。九死に一生を得ることが、世の中には稀にある。多くの場合それは『奇蹟』といわれる。
「わたしはそうはおもいません。それは単に確率の問題です。脳内の血管が破裂したり、心臓が止まったり、遺詞が崩壊したりするのは内面的要因であり、現実に誰にでも起こり得ることです。万が一にも、可能性があるということです。
「外的要因も同じです。限りなくゼロに近い可能性でも、まったくのゼロではないのであれば、起こり得る事象なのです。それは奇蹟ではなく、助かった者は運が良かった――助かる可能性があったということ。奇跡的な可能性だといってもいいかもしれませんが、それは『奇蹟』ではなく、せいぜい『奇蹟風味』がいいところですね」
この発言を聞いて「さすが副会長。それは実に美味しそうだ。こんど、購買部で試験販売する、新商品の売り文句はそれで決まりだね。食べたらきっと後光が見えるよ?」と喜んだ者一名。その直後に「不謹慎ですわ!」と突っ込みを入れた者一名。その他の反応を示した者三名。
「これは私見ですが、奇蹟とはこの世の法則では不可能だと、その事象の起こり得る確率が、まったくのゼロだという事象が起きれば、それは奇蹟だといってもいいのではないでしょうか。この世から争いが無くなる。人々がお互いを完全に理解する。すべての存在が幸せになる。死んだ者が、生き返る。どれもわたしたちの世界には不可能なことですよね? 遙か昔からあるこれらの願い、祈りの成就がなれば、それは掛け値なしの奇蹟といえるでしょう」
これらの叶わぬことを願い、祈ることは果たして無駄なのであろうか。いや。そうはおもわない。叶わぬと理解し、絶望の深淵に落ちてなお、死に物狂いで足掻き、もがくことは決して無駄ではないはずだ。気高く誇り高い精神、魂を持った者たちが模索しつづけ、行動してきたからこそ、いまが――在る。
「この世界より高次元の存在、『神』と定義してもいい存在なら、この世界の外側にある法則、力で干渉し、奇蹟を起こすことはたやすいかもしれません。ですが、一つ二つ上の存在でもすべての問題を、矛盾を解決できるとは、わたしはおもっていませんけれど」
高次元の存在? 外側? 遠野がなにをいっているか零にはわからない。
「わたしは奇跡的な結果を否定するつもりはありません。ですが、奇蹟的な結果だけが素晴らしいともおもいません。どうにもならないことを、どうにかしようともがき、足掻いて、最後まであきらめずにいる精神。己の意志で、絶望と戦いつづけた者こそ、わたしは素晴らしいとおもうのです。
「そして守りたいもの、譲れないもののために、自分の意志で進み、選んだ道で戦う者だけに、意味のある、価値のある奇蹟的な結果が生まれるのです。……願い、祈ることが悪いとはいいません。すべては願い、祈ることから始まるのですから。
「でも、考え違いをしないでくださいね。ただ願い、祈ってもそれは無意味です。なにもせず、安全な場所で安穏と生き、一方的な見方で、世界を知ろうともせず、口先だけの正論をいったところで、世界は変わりません。なにも得られません。ただ、与えられるだけの奇蹟など、わたしはすべて斬り伏せます。たとえ相手が――」
「『神』であろうと!!」
裂帛の一閃が零を吹き飛ばした。
「――――――ッ!?」
地面に背を打ちつけた瞬間、衝撃で呼気がもれた。防護領域が精神疲労といまの一撃で消失。地についた背を急いで起こそうと手をつき、零は前を視る。
視界に映ったのは沈み行く太陽を反射して光る、夕暮れ色の刃。遠野が持つ美しい刀。
零を吹き飛ばすと同時に遠野は自らも追うように移動していた。
「天宮くん。あなたは奇蹟をおもうまえになにかしましたか? あなたはなにもしていませんね。なにもしないあなたに、奇蹟を願う資格などないのです。傷つけるのが嫌だと、一方的な見方で殺すことは悪だと決めつけ、なにもしなかった。それこそ、過ちではないのでしょうか? 最後にもう一度問いましょう。天宮くん。すべての可能性をあきらめ、このままなにもせずに、わたしに殺されますか?」
「………………」
震える手が土を掴む。乱れた呼吸が、心臓の鼓動が、血管を流れる血の音がうるさい。
……わからない……ぼくは、ぼくは……ぼくはどうすればいい!?
視界が歪む。
零の眸に涙が滲んでいた。それはなにに対する涙なのか? 死に対する恐怖だろうか。理不尽な遠野に対する憤りだろうか。それとも、無力な自分が悔しいのだろうか。いままであまりにも無知だった己が憐れにおもえたからだろうか。
「天宮くん、わたしたちの持つ時間は無限ではなく有限です。いまの状況で迷っている時間などありませんよ?」
我々に与えられている時間は有限であり、選べる選択肢の数は少ない。
「天宮くん、いまのあなたには足りないもの、無いものがあります」
「?」
「それがわからないから、あなたは迷い、なにもできないのでしょうね……」
「それは――」
「タイムオーバーです」
それがなんなのか零が問うまえに、遠野の刀が彼の首を一閃した。
最後まで、零はなにもできなかった。
死という圧倒的な恐怖で混乱していた彼は、
……ああ、こんなときはほんとうにスローモーションで視えるんだなぁ……。
音の無い世界でおもった。スローモーションの映像でも、遠野の一撃はかすんで視えるほど疾い。
……これが遠野先輩の本気の一撃。このまま首が飛んでぼくは――。
死ななかった。
来るはずの斬撃は零を通り過ぎ、彼の背後で衝撃波が霧散した。
「……生きて、る?」
呆然とする零に遠野は、いいえ、と首を振った。
「天宮くん、あなたはいま、死にました。理不尽な死をまえにしてただ迷い、なにもしなったからです。その結果、あなたは自分の命をこんなにも簡単に失うことになった。ここに他の誰か――妹の雫さんもいればその命も失われていたでしょう。あなたが、なにもしなかったために。大切なものを、かけがえのないものを失う可能性もあったのにもかかわらず、あなたはなにもしなかった。その逆も然りです」
やさしいが、厳格な声で遠野はいった。声にはかなしみの音があったが、零は気づかない。
「あなたは生きることをあきらめ、すべてを失った。生きる意味も知らずに、浅はかな考えから、安直な死を招くことになった」
「生きる、意味……?」
遠野はそっと吐息をこぼし、いいですか? と前置きしてから話をつづける。
「天宮くん。倫理、道徳、善悪などの概念はたしかに必要です。わたしたちは弱い存在ですからね。そういう概念がなければあっというまに滅んでしまいます」
それ故に法やルール、善悪の概念が生まれたといったらいい過ぎだろうか。しかし、これらの概念はさまざまな形で存在する上に万能ではない。いってしまえば、バランスをとっているにすぎないのだ。人は善悪、法律などで規制しなければたやすく人間性を失い、己の欲望を満たすためだけに生きてゆくのではないだろうか。人は楽な方へと流されやすく、意志薄弱な生き物であり、この世でもっとも欲望多き生物だ。もちろんそうではない、人間もいる。だが、そういう人間は少ないのではないか?
「ですが、それら既存の概念に縛られていると結果として、法などとは異なる意味で罪になるときがあります。自らそれを後悔し、罪だと、過ちだったと感じるのです。生きている限り、死ぬまでつづく悔悟の念を一生背負うことになるのです」
「……」
「善悪といった概念の基準はそれぞれに、個々に存在するものです。それは時代、社会、生きていく環境が変わればおのずと異なるでしょう。不変的なものではありません。多くの人が基準にしているもの、教えられたものは、あくまで基本です。料理のレシピのようなものですね。なにが善く、なにが悪いのか、最後に判断し決めるのは自分自身です。
「専守防衛もいいでしょう。しかし、それが通じない状況もこの世界にはあるのです。傷つけたくない、殺したくないという気持ちはわかります。わかりますが、ときには決断し、行動を起こさなければならない。今回、あなたは自分の意志がともなわない、他人が作った一方的な善悪に縛られ、助かる可能性があったのにもかかわらず、決断し行動できなかった。それは誤りであり、わたしからすれば、罪です」
構えをとき、刀を鞘に収める。
空気を震わすほどの殺気が消え、死の影が零から遠ざかった。
「天宮くん。わたしたちが生きる世界に善悪という概念を作った時点で、すでに矛盾が生じているのです」
善を生み出せば悪も生じる。幸せがあれば不幸があるように。物事は常に対極を持って成っている。特に人という種はなにかと比べることによっていろいろなことを認識する生き物だ。
「本来、世界には善悪など無いのですよ。そこにあるのは生きようとする意思だけです。始めにもいいましたが、それが世界と、この世界に生きる存在の本質なのです。善悪なんてものは人が勝手に生み出したものにすぎません。
「あなたのいうことが唯一絶対の答えだとしたら、わたしたちは生きているだけで、悪をなしつづける罪人です。生まれたことが罪となり、自分は悪だと嘆きつづけながら生きなければならない。まるで――贖罪の道ですね」
「……」
呆然自失の状態のまま零は遠野の言葉を聞いていた。生まれて初めて経験した圧倒的な死の恐怖。それを味わったばかりなのだから、この状態はしかたがないだろう。こういうときの人の反応は彼のように呆然となるか、異常なほど興奮するかのどちらかだ。
「天宮くん。あなたはこの世界のことをほとんどしらないのです。残念ながらわたしたちが生き、営む世界は、あなたがおもっているほど綺麗な世界ではありません……」
上着のポケットからハンカチを取り出し、膝をつく。
涙に濡れた零の頬をやさしくぬぐう。
「何度も、何度でもいいますが、ほんとうに大切なことは他人が作った善悪で決めるのではなく、自分自身で決めることです。選んだ道を他人が見れば、それを滑稽だと、愚行だというかもしれません。例え悪行だといわれ、非難されようとも、自分で選び進むのなら、それがあなたにとって一番いい道なのです。胸を張って進めばいい。天宮くん、願い祈るだけでは世界は変わりません。いえ。世界のすべてを変えることなど、わたしたちには不可能なのです」
いつかの落胆、失望、あきらめ、かなしみ、絶望、そして流れ流した血と涙を、いまあるほんのわずかな『なにか』でつつみ込んだ、視る者の胸を締めつける笑み。
「ですが、せめて自分の手がとどく世界は、自分がいるほんの小さな、ささやかな世界なら、変えることができるのではないでしょうか。そのなかにある、大切な存在を守ることはできるのではないでしょうか。自分が生きる小さな、ささやかな世界を少しでも、よりよいとおもえる世界に変えてゆくことはできるのではないでしょうか?」
ハンカチをやさしく、零に握らせる。
「天宮くんの考え方はたしかに悪くはありません。ですが、すべての人々がそうおもって生きているわけではないのです。わたしたちは利己的な生き物ですから個人個人に様々な善悪、生き方、考え方があります。ゆえに傷つき、傷つけ、争いつづける。そういう存在なのです。天宮くん、あなたは他人に、期待しすぎなのです……」
「……」
そうかもしれない。
……いままでぼくがおもっていたことは、一方的で都合のいい理想。歪んだ、ただの幻。でも、それでも……。
たとえそうなのだとしても、零は自分の身勝手な期待や希望を振り払うことはできなかった。
「世界の在りようを、矛盾を、争いを、戦うことを否定している限りは、正論をいっているだけでは、なにも始まりません。わたしたちはこの世界をしり、そのなかにある矛盾や争い、戦うことを否定するのではなく、そういう世界なのだと肯定し、認めた上で、自分がどうするのか、どうしたいのか決めるべきではないでしょうか?」
零は恵まれた才能と、恵まれた平和な環境・社会(限定された世界)で育ってきた。ゆえに、甘いだけの理想を、教えられた善悪の概念を鵜呑みにした。それらを無意識に絶対的なものだと思い込んで、物事を考えてきた。それらに不審不満を感じることなどなく、懐疑的になったことなど一度もなかった。
幸せゆえに。
だが、果たしてそれは、ほんとうのしあわせなのだろうか?
「わたしたち生徒会のやり方がまちがっているとおもうのなら、あなたは行動し、それを示すべきでしょう。ですが、しなくてもいいのです。それは自分で決めることですから。これからも世界をしろうとせず、視ようとせず、恵まれた世界で無知なまま生きるのもいいでしょう。そして、なにもせずに、もっともらしい正論をいって、わたしたちを否定するのもいいでしょう。
「ですが、これから先、もし、今日のような状況になった場合、あなたはどうするのか、どうするべきなのか、よく考えてみてください。いまのままでは今日と同じことを繰り返し、大切なものをすべて失うだけですよ?」
遠野のいっていることはわからなくもない。が、やはり零には納得できなかった。
「わたしはさきほど、あなたには足りないもの、無いものがあるといいましたが、それがなにかわかりますか?」
「……」
「それがわからない限り、天宮くんは生きることがどういうことなのか一生わからないでしょう。生きる意味をしることも、見出すことも、あなたにはきっとできない。ゆえに理念を、信念を持って理想を求めることが、行動することができないのです。
「それに、ほとんどの人は、天宮くんが経験したような状況下では動けません。躊躇ってしまう。または、動けても力が及ばないこともあります。そのすべての人たちを責めるつもりはありません。いろいろな状況がありますからね。そういう人たちをできるだけ助け、守りたいとおもっているから、わたしたちは戦いつづけます。そして、それ以上に、己の私利私欲のためだけに他者を虐げ、殺す者たちをわたしたちは――」
眸を閉じる。そして零を、その向こう側にあるなにかを視るように、
「――わたしは赦しません。ゆえに、わたしは己の理念に、信念に従いこれからも戦いつづけます。ふふ、これも利己的なおもいなのですけれどね」
強い意志を宿した貌でいって、遠野は苦笑した。
「天宮くん、これから先、あなたがどう生きてゆくかはわかりませんが、忘れないでほしいことがあります」
「忘れないでほしいこと……?」
小さな声で呟くと、遠野はうなずいてみせた。
「天宮くんがいまはまだ納得できないとしても、あなたが平和だとおもって生きている世界は、わたしたちのような者がいるからです。あなたが血と涙を流さなくとも、直接その手を血に染めることがなくても、その影であらゆる理不尽な行為、犯罪から、できるだけあなたたちを、あなたたちが大切におもっているものを護りたいと、己の理念に、信念にしたがって戦いつづける者たちがいることを、いたことを、忘れないでください。
「その戦いの中で相手を殺すこともあるでしょう、また逆に、わたしたちの誰かが殺されることもあるでしょう。世界には常に血と涙が流れている。戦う者たちが流す血涙によって維持している、小さく、ささやかな平和の上に、あなたが立っていることを、どうか忘れずにいてください」
この惑星はたしかに青い。
だが、見方を変えれば空も海も大地も、赤い血で染まっているのだ。
遙か昔から絶えることなくつづく争いによって。
遠野は静かに立ち上がり、零に背を向けた。
「ま、待ってください! 遠野先輩は、ぼくが生徒会に入ることに反対なんですか?」
遠野は苦笑を浮かべ、ええ、と肯きを一つ。
「反対です。いまのあなたが生徒会に入れば、死ななくてすむ者まで、死んでしまう可能性が出てきてしまいますから」
厳しい現実だけをいって、
……それに、あなたのような人には……。
誰も殺めてほしくはない、という本心を遠野はいわなかった。
「あなたはこちら側ではありませんよ」
「? どういう意味ですか」
「そのままの意味です。天宮くんはこちら側にくる必要はないとおもいますよ? 天宮くんが、いま生きている世界で、わたしたちの生きる、この世界のことをしり、あなたなりに戦えるようになってくれればいいと、わたしはおもっています」
校舎へと歩みを進め、思い出したかのように足を止める。
一陣の風が吹き、花びらが舞った。
「……天宮くん、あなたがいうように誰も傷つけることなく、自分も傷つかない道が仮にあったとして、果たしてそれは、ほんとうに生きているといえるのでしょうか?」
殺し合うことだけが闘うことではない。
身体が傷つくことだけが、傷つくことではない。
世界には存在の数だけ争いと闘いがあり、痛みと傷がある。
「……」
零は既視感を覚えた。入学式の朝を思い出す。あの時は聞き取れなかったが今度はちゃんと遠野の言葉を聞き取ることができた。できたが、なにもいうことはできなかった。
遠野は桜を見上げ、
「それでは、失礼します」
一抹のさびしさと、なにかをふくんだ笑みを残し、校舎へと歩き去った。
遠野の姿が見えなくなると、残された零は極度の緊張から開放された。
地面に両手を着く。
その手にあるのは遠野のハンカチ。
「っ!?」
死の恐怖がよみがえり、嘔吐感に襲われる。呼吸は乱れ、立ち上がろうにも手足が小刻み震えた。彼は無理矢理、息を深く吸い、ゆっくりと吐いた。何度か繰り返すうちに空気の味を感じた。しだいに、遠くのグランドにいる運動部の掛け声、帰宅する生徒たちの声が聞こえるようになった。風が吹くと顔に冷たさを感じ、全身で大地を感じた。
空を見上げる。太陽がだいぶ西の空へと傾いていた。
夕暮れの風が前髪を揺らす。
ひらひらと舞う桜の花びら。
花びらが飛んできたほうを見れば、はかなく幻想的な桜がしずかに咲いている。
しばらくの間、彼は桜の木を見つめ、
「ぼくは……」
ひとり、呟いた。
……生きているのか? ほんとうに……?
彼の問いに応える者は誰もいない。
花びらが甘い夢幻へと誘うように舞っている。
しかし、夢は夢、幻は幻でしかない。
現実は理不尽で、残酷だ。




