ヴァルデマール氏の病気の真相
ヴァルデマール氏の奇妙な病気が議論を呼んでいるけれど、このことに敢えて驚いてみせる、なんてことは勿論しない。これは奇跡かもしれないし、そうじゃないかもしれない……特にこんな状況ならね。少なくとも当面の間、つまり私たちが更なる調査の機会を得るまでは、皆このことが公にならないようにと願っていたし……その願いを実現させる努力もしてきた。
こういった背景があったからこそ……故意に捻じ曲げられたり、大袈裟に誇張されたりした噂が世間の中に入り込み、そして多くの不愉快な誤解の種へと姿を変えたわけだよ。それと、これは確かに当然なことなんだけれど、この手の噂はとても多くの疑惑の元にもなっていくからね。
さて、今や避け難いことに、この私がその真相を伝えることになったわけだが……勿論、私の理解の及ぶ範囲でのお話さ。まあ、その真相というのはだね、ズバリ、こういうことなんだよ……。
ここ三年の間、私の興味は催眠術という話題に幾度も惹き付けられてきた。しかし、九ヶ月くらい前だったろうか、全く以て突然なことだけど、或る事実に気が付いてしまったのさ。つまり、今まで行われてきた催眠術に関する一連の実験にね、とても意外で、それでいてかなり不可解な欠陥があったんだ。……そう、死のまさに間際という瞬間に催眠術を掛けられた人は、今まで一人としていなかったことになるんだよ。
催眠術には生体磁気というものを使うのだけれど、臨終のときに催眠術を掛けるには、まず磁気が被験者に作用して、何か反応を示すかを調べる必要があったのさ。そしてもし何か反応があったなら、次は被験者の病状に応じて、その反応が弱くなるか、それとも強くなるかを確かめなければならなかった。さらにそういった手順を経ることで、どの程度まで、もしくはどれだけ長い間、死の侵入を喰い止められるのか、ということを確認する必要がある。
確かめるべきことは他にもあったのだけれど、私の好奇心を特に掻き立てたのはこの三つの手順だった……それもとりわけ最後の手順がね。何しろその結果がとても重要な意味を持っていたのだから。
こういった事項を調べるのに最適の被験体は誰かいないものか。そう思って探していると、私の友人であるアーネスト・ヴァルデマール氏のことに思い至った。
氏は『法廷弁論全書』の編纂者としてよく知られていて、それにポーランド語版の『ヴァレンシュタイン』と『ガルガンテュア』の著者でもある(ただしイッサハル・マルクスの筆名を使っていたのだがね)。そして一八三九年以来、主にニューヨークのハーレムに住んでいたという御仁だ。
極度に痩せ細った身体付きのため、氏はとりわけ人目を引いてね(いや、人目を引いていたというべきか)。……氏の貧弱な下肢なんてまるで、一昔前に死んだあの古共和党のジョン・ランドルフのそれにソックリだったんだよ。そして髪の黒さと比べても、対照的なまでに頬の鬚が白い。そんな極端な容姿も相まって……しばしばカツラと間違われていたわけさ。
氏の気質は明らかに神経質なものだったから、催眠実験にとっては恰好の題材だったんだ。二、三度、私はほとんど苦労することも無く、氏を催眠術に掛けて眠らせたことがある。だけど、眠らせる以外のことは全く駄目だった。氏の特異な気質から考えても、当然期待されていたその他の結果については、もう残念と言うしかないよ。明らかに、いや、全く一度たりとも、氏の心は私の思い通りにならなかった。それに、催眠術でよくやる千里眼の実験に関してもね、氏の信頼を勝ち取れるようなことは何も成し遂げられなかったのだよ。
こんな失敗を、私はいつも氏の体調の不規則さのせいにしてきた。私が氏と知り合いになる数カ月前、彼の主治医は氏に慢性的な肺結核だと告げていたらしいからね。確かに、忌避することも後悔することも無いというように、迫り来る自分の死について静かに語り出すのが氏の癖だった。
さて、先程から臨終催眠についてほのめかしているわけだが、その計画を思い付き、それからヴァルデマール氏のことを思い出したのは至極自然な流れだったんだ。何しろ私は、その男の揺らぐことの無い人生観をとても良く知っていたからね。彼が躊躇するなんてことは心配もしなかったよ。それにね、ここアメリカには、氏に口を出してくるような親戚は一人もいなかったんだ。
氏に、実験の被験者を探している、と素直に話してみると、氏は明らかに好奇心を掻き立てられている様子だったから、私は驚かずにはいられなかったよ。そう、驚いたんだ。今までにも氏が文句も言わず、実験のために自分の身体を差し出してくれることは何度もあったけれど、私が何をしようとも、共感している素振りすら見せてくれはしなかったのだからね。氏の病気はあの性格によるものだったと言ったけれど、最期の瞬間に関して緻密な計画を立てるぐらいの余裕を氏は持っていたらしい。だから、主治医が病の最期の刻を告げる二十四時間ほど前に、氏が私に連絡をくれる。そんな取り決めが、最終的に私たちの間で交わされたんだ。
私がヴァルデマール氏自身から手紙を貰ってから、もう七ヶ月以上も経っているのか。その手紙にはこう付け加えられていた。
『親愛なるP君へ、
もう君が来ても良い頃だろう。
D医師とF医師も明日の深夜まではもたないだろうと言っている。
そして彼らはその時刻をほぼ正確に当てている、と私は考えている。
ヴァルデマール』
書かれてから一時間半以内に手紙を受け取り、それから十五分後には私は死に瀕している男の部屋に居たんだ。十日ほど氏には会っていなかったけれど、短い間にもたらされた恐ろしい変化にはゾッとしたものだよ。顔は鉛のような灰色を帯びていて、瞳はすっかり輝きを失っていた。そして、そのやつれ方があまりにも酷いものだから、頬骨が皮を突き破ってしまうのではないかと思ってしまった。咳や痰も度を越して酷く、心拍はかろうじて聞き取れる程度のものだった。
それにも関わらず、氏の態度はまさに目を見張るほどでね。そんな態度で以て、氏は精神力と多少の体力を維持していたわけさ。そして、氏の口調は実に明瞭だった。……誰の助けも借りずに自力で鎮痛剤を飲んでいてね。……そして私が部屋に入ったとき、氏は手帳にメモをするのに忙しかったらしい。氏は寝台の上で枕をいくつも支えにしていてね、それにD医師とF医師もその場にいたのさ。
ヴァルデマール氏と握手を交わした後、私はお医者さま方を部屋の隅に呼び寄せて、短い話ではあったけれど彼らから患者の病症について聞き出した。
十八ヶ月の月日を経て、左側の肺は骨になりかけている、もしくは軟骨状になってしまっていたらしい。そして勿論、生命活動に関係する全ての目的において、それは全く以て使いものになっていなかった。右肺の方も上部が完全では無いかもしれないが、部分的に骨化していたという。そのうえ、下部があちこちに足を延ばすだけの膿んだ腫瘍の塊になっていたらしく、いくつか大きな穴も開いていて、ある処では肋骨との永久癒着が起きていたそうだ。右の肺葉に見られたこれらの症状は比較的最近のものだったらしく、異常なほど急激に骨化が進んでいたのだ。一か月前にはそんな兆候は見られなかったし、癒着なんてものはここ三日でようやく見つかったのだという。
結核とは無関係に、この患者には大動脈瘤の疑いもあったのだが、この点については骨化の症状のせいで正確な診断が不可能になっていたようだ。ヴァルデマール氏は明日(日曜)の真夜中に息を引き取るであろう、というのが両医師の見解だった。この日は土曜、時刻は夕方の七時である。
自分自身の考えを纏めるために病人の枕元を離れると、D医師とF医師が氏に最後の別れを告げに来た。彼らは再び戻って来るつもりなんてなかったのだが、私の頼みを聞いて、明日の夜十時頃に患者の様子を見に来てくれると約束してくれた。
彼らが出て行ったから、私は気兼ねなく氏と話すことが出来たよ。話題は、今まさに迫り来る死についてでね。もちろん、提案していたあの実験についても同じだけ綿密に話し合ったものさ。氏は実験にすっかり乗り気だと言っていたし、それどころかその成功を強く望んでいるともはっきり述べていた。その上、実験をすぐに始めようと私を急き立てていたくらいだ。確かに、その場には看護士が男女一名づついたけれど、なにしろ彼らでは証人としては役不足だったからね。万一、突然不慮の事故が起ろうとも、はっきりと証言してくれる。そんな証人がいなければ、思うがままこういった仕事に取り掛かってやろう、なんて気は全く以て起きなかったんだよ。
だから私は術式を翌夜の八時まで先延ばしにしたのさ。……というのも、その時刻にちょうど、とある医学生(シオドア・L・I君と言ったかな)が訪ねに来たんだよ。途方に暮れて仕方なかった私を救ってくれたのが、多少は面識のあった彼の登場だったというわけさ。元々はあの医師たちを待つというのが私の思惑だったんだが、すぐに術式を始めなければという気になってきてね。それには理由があったんだが、一つはヴァルデマール氏の切迫した懇願のため。もう一つは一瞬も無駄には出来ないと確信していたからだった。氏がみるみると衰弱しているのは、誰の目にも明らかだったからね。
ところで、L・I君はとても親切な人でね。これから起こることを全て書き留めておくように、という私のお願いにも首を縦に振って了承してくれたよ。だからね、今ここで言わなければならない事柄は、みんな彼のメモから引っ張ってきているのさ。もちろん、一字一句そのまま同じって処もあれば、短く纏めてみた処もあるわけだけれど、もうほとんどの部分をね。
そして、折りしも八時五分前頃、私は病人に手を貸しながら、こんなことを氏に頼んでみた。
その当時、病気であった氏に対して私が催眠術実験を施そうとする。これをヴァルデマール氏が心から望んでいるのかを、L・I君に向かって出来るだけはっきりと伝えてくれるように、と頼み込んだのだ。
氏は弱々しいけれど、はっきりと聞き取れる声で答えた。
「ああ、私は催眠術を掛けられるのを望んでいるのだ」
……そしてすぐ後にこう付け加える。
「君が術式をあまりに長く先延ばしにしてしまうのを、私は恐れているんだよ」
氏がこんな風に話している間にも、私はもう催眠術を施し始めていた。この術式は私がそれまでに探り出してきたもので、氏の意識を支配するのには最も効果的なものだった。初めに氏の眼前を横切るように、私の手を左右に揺らす。明らかに、氏はその手の動きから催眠効果を受けているらしかったが、私がいくら全力を尽くしてみても、もっとはっきりと目に見えて分かるような効果を引き起こすことは出来なかった。
そのとき時刻は十時過ぎで、約束の通りにD医師とF医師が訪ねて来てしまった。そこで、彼らに私の計画を手短に説明してみると、彼らは一切反論もせず、患者はもう既に死の激痛の渦中にあるのだから、と言っただけだった。だから、私は躊躇などせず同じように術式を続けたのさ。それから、手の動きを変えてみた……とは言っても、左右に揺らしていたのを下向きの動きに変えただけだけれどね。病人の右目にも視線をじっと注ぎこんだりもしてみた。
この時までに、氏の心拍は聞き取れぬほど微弱なものになっており、呼吸は鼾のように大きくなっていた。そして、その鼾は三十秒ごと聞こえてくるのだ。
こういった状態のまま、十五分間、ほとんど変化はなかった。しかし、この状況も終りに差し掛かったのか、死の淵にいる男の胸元から、自然ではあるもののとても深い溜息が漏れだしてきたのだ。そうして、あの大鼾のような息が止まった。……そう、鼾はもう姿を見せなくなったのだ。そして、呼吸の間隔が縮まるどころかさらに長くなった。患者の四肢は氷のように冷たくなっていく。
そして、十一時五分前、催眠が効いているというハッキリとした証拠を見つけたんだよ。硝子玉みたいに生気無く動いていた眼が、不安に満ちた内省的な表情へと変わっていった。見間違えるわけがない、あの眼こそが、眠りに落ちるかどうかという時にしか見ることの出来ない眼差しなんだから。手を二、三度、素早く左右に揺らし、氏の瞼をブルブルと震わせてみると、氏は眠りに落ち始める。もう少し続けてみれば、瞼もすっかり閉じてしまったよ。
しかしね、私はこれで満足したわけじゃないんだ。氏の手足を楽そうな姿勢に置き変えた後でも、眠りに落ちたその四肢が完全に硬く強張ってしまうまでは熱心に催眠術を掛け続けたし、出来る限りの努力は続けていたのさ。氏の両脚は真っ直ぐに伸びていてね、腕もほとんど同じ様子で、腰から適度な距離を取ったままベッドの上に投げ出されていたよ。頭はほんの少しだけ持ち上げられていたかな。
事を終えたときには、もうすっかり真夜中になっていた。私はその場に居た紳士の方々に、ヴァルデマール氏の病症を診てくれるように頼んだんだ。二、三の検査をした後で、彼らは氏が完全に催眠夢遊状態にあるという判断を下したのだ。両医師の好奇心はいよいよ強くなってきてね、D医師はすぐに心を決めて夜通し患者に付き添うことにしたし、一方のF医師も、夜明け頃には戻って来るなんて約束を取り付けて、部屋を後にしたのさ。もちろんL・I君や看護士たちもその場に残っていたよ。
私たちは明け方の三時頃まではヴァルデマール氏をそっとしておいた。時間を経た後、氏に近寄ってみると、ちょうどD医師が出て行った時と同じような状態にあることが分かったのだ。……そうだな、言うならば、横たわっている氏の病症があの時と全く同じだったんだよ。心拍はかろうじて聞き取れるかどうかというもので、呼吸は穏やかなものだった(もちろん、唇に当てた鏡が曇るのを見なければ、その呼吸もほとんど分かりはしないのだけれどね)。そして瞳は自然に閉じられており、手足は硬直していた。凍りついているかのようでもあり大理石のようでもあった。にもかかわらず、全体の印象は間違いなく死人のそれなどでは無かったのだ。
そこで私はヴァルデマール氏に近づいて、言わば生半可な努力とやらを始めてみた。つまり、氏の右腕を私の思い通りに動かしてみようという試みでね。氏の身体の上で、行ったり来たりと自分の手を動かしていたのさ。今までこういった実験をこの被験者に施してみても、完璧な成功を遂げたことは一度たりとも無かった。だから自信を持って言うけれど、そのときの私は成功するなんてこれっぽっちも思っていなかったんだよ。だけど驚いたことに、氏の腕は弱々しくはあったけれど、とてもあっさりと私の手に従ってくれて、自由自在に動かすことが出来たんだ。そこで私は賭けに出た。少し言葉を交わしてみようと心を決めたのである。
「ヴァルデマールさん……眠って、いますか?」
そう私が尋ねるも、氏の口から返答は無かった。しかし、私はその唇が震えていることに気が付いて、もう同じ質問を繰り返さずにはいられなかった。何度も何度も繰り返した。
三度目になって、氏の体躯は非常に微々たる振動に突き動かされたらしく、両の瞼が開いて線のように細く白い目が姿を現したのだった。そして唇がゆっくりと緩慢に動き出したかと思えば、その隙間から聞き取れるか否かというほどの、囁くような言葉が発せられたのである。
「そうだ……眠っているのだ、今は。起こさないでくれないか!……死なせてくれ!」
私はこのとき氏の手足が気になって、今までと同じように硬いままであることを確かめた。右の腕はさっきと同様、私の手から下される指示に従って動いている。私はこの夢遊患者にまた質問してみた。
「胸はまだ痛みますか、ヴァルデマールさん?」
今度はすぐに返答が来たが、前よりさらに聞き取りにくくなってしまった。
「痛みは無い――私は今まさに死に向かっているのだから」
このとき、氏の心をさらに掻き乱すのに、この質問は適当では無いなと気付いたのだが、話すべきことはもう何も思い付かなかったし、出来ることも何も無かったのだ。もっとも、それはF医師が駆けつけてくれるまでの話だがね。彼は日の昇る少し前にやって来ると、まだ息をしている患者を見るにつけ、堪えられず驚きの声を上げてしまったのさ。脈を診、唇に鏡を近付けて呼吸を確認した後で、彼は、夢遊患者にもう一度話しかけてくれないか、と頼んできた。
だから私はヴァルデマール氏にもう一度言ったんだ、「ヴァルデマールさん、まだ眠っているんですか」と。
それから数分経つか経たないかというとき、返事が戻って来た。そして、答えが返ってくるまでの間、死の淵に立つ男はまるで言葉を発するために自分の生命力を掻き集めているかのようであった。四度目の質問を繰り返したとき、氏はとても弱々しくほとんど聞き取れない声でこう答えた。
「ああ、そうだ。まだ、眠っているよ……それに、命の灯も消えかけている」と。
それを聞いた両医師の見解はこうである。見たところヴァルデマール氏の病状は落ち着いているようだから、死の兆候が見えるまではこのまま安静にさせておく方が良かろう、というものだ。だが、これはむしろ要求と言った方が良いだろう。……まあもちろん、それには二つ返事で同意したわけだが。何しろ、死はすぐに訪れるに違いなかったからだ。それも数分以内にやって来るのだ。
しかし、私はもう一度、氏に話し掛けることに決めた。まあ、さっきの質問をただ繰り返したにすぎないのだが。
話し掛けていると、著しい変化が夢遊患者の表情に顕れ始めた。
両の眼がくるりと開き、瞳は釣り上がって姿を消してしまった。皮膚は死人のように青褪めた色を全体に帯び始め、羊皮紙のような鈍い乳色では無く、まるで洋紙のように純白であった。そして、これまで頬の真ん中に至極はっきりと見えていたのに、あの熱を帯びた丸くて紅い痣はすぐ消え去ってしまった。私がこんな言い方をするのには理由があってね。それが突然と消えたものだから、蝋燭の灯が吹き消されるのを連想せずにはいられなかったのさ。
また同じ頃、元々は歯をすっかり覆い隠していたはずの上唇は、歯から離れんばかりに捩れ上がっていた。一方、下顎は音を立てながら痙攣して垂れ下がると、そのまま口が大きく拡がっていき、膨れ上がって黒ずんだ舌が丸見えになっていた。
その時、その場に居た人達の中には、死の間際の恐怖というものに不慣れな人間は一人として居なかった。私は今でもそう考えている。だがしかし、この瞬間のヴァルデマール氏の形相は想像を絶するほどに恐ろしいもので、皆総じて恐怖の念に駆られてしまい寝台の傍から身を遠ざけたほどだ。
どうやら、もう物語の核心に辿り着いたようだ。きっとこれを読む人は皆、不信感を抱かずにはいられなくなるだろう。しかし、ただ話を続けること、それが私の役目なんだよ。
もはやヴァルデマール氏には、生きているという兆候が微塵も見られなくなってしまった。だから、私たちは氏が死んだのだと結論を下して、氏のことは看護士たちに任せることにした。だがその時、氏の舌に強い震えが観られたんだ。おそらく、それは数分ほど続いただろうか。震えが止まると、開いたままで動きもしない口から、声が吐き出されたんだよ。……言うならば、そう、狂気の声が。
ああ、確かにもっと相応しい言い方が多少なりともあったのだろう。例えば、酷く耳障りな音だったとか、壊れきった虚ろな音だったとか言えば良かったのかもしれない。だが、あの忌まわしいものは、いくら言葉を尽そうとも言い現わすことは出来ないのだ。何故かって? 単純な理由だ。あの声にどんなに似ていようとも、人間の耳にあれほど不快な衝撃を与える音なんて今まで存在しなかったのだからな。
それでも二つの特徴があの声には挙げられる。その時からずっと考えていることなんだが、抑揚上の特性と言うべきものがあったのかもしれない。……その特徴ならば、この世のものとは思えないあの声の奇妙さを、いくらか伝えてくれるはずである。
まず第一に、私たちの……少なくとも私の耳に届いたあの声は、まるで果ての無いほど遠くから、もしくは地中深くの洞窟から聞こえてくるかのようであった。第二に、あの声が私に与える印象というのは、ゼラチンや膠のような粘物質が触れる感覚なのだ(もっとも、こんな表現では私の言わんとしていることが伝わらないかもしれない、と不安になっているのだがね)。
さっきから「音」と「声」の二つを使って話しているが、その音というのは明瞭な……それでいて、不思議なほどゾクゾクする、ハッキリとした音節の一つで、私が言いたかったのはそういうことなんだ。そして、ヴァルデマール氏が紡ぎ始めた言葉……それは言うまでも無く、質問への答えだった。数分前に私が彼にした質問のね。思い出したかい、私が氏に尋ねていただろう、まだ眠っているんですか、とね。だけど、氏の答えはこうだったんだよ。
「ああ、眠っている。……いや、違う。……私は、眠っていたのだ……そして、今……私は、死に、向かっているのだよ!」
この、言葉では表せぬほどの戦慄する恐怖。氏の口から吐き出された、この僅かな語句が精細に伝える恐怖。その場には、これを否定しようとした者はおろか、その恐怖を抑えつけようとする者すらいなかった。
L・I君(あの医学生)は卒倒した。看護士たちはすぐに部屋を飛び出したが、どうしても戻って来る気にはなれなかったようだ。私自身が抱いたその恐怖感についても、それを読者諸君に分かりやすく言い換えることは出来そうにない。私たちは無言のまま、一時間近くL・I君の意識を取り戻すのに必死になっていた……そう、一言も発すること無くね。
彼が意識を取り戻すと、ヴァルデマール氏の病態を調べるため、私たちは再び話し合った。私が先程まで書き並べていた氏の病状は全てそのままだったのだが、例外もあった。呼吸の跡がもう鏡に映らなくなっていたのだ。氏の腕からの瀉血も試みたが、それも失敗に終わった。それと、このことも言っておかないといけないだろう。氏の腕はもはや私の意志に従わなくなってしまったのだ。無駄だとは思いながらも、その腕を操ろうと私は手を動かし続けた。
しかし、催眠術が掛っているという確かな証拠は、もう私がヴァルデマール氏に質問を投げ掛けるときに見せる舌の震えだけになってしまったのだ。返事をしようと力を振り絞っているかに見えたが、氏はもはや十分な精神力を持ち合わせてはいなかったらしい。私以外の人が質問をしても、氏は全く以て無関心のようであった。……その場にいた人たちにも皆、手ほどきをして、氏に催眠術を掛けさせてみたのに、だ。
今、必要なことは全て話してしまったように思う。その瞬間の、この夢遊患者の病状を理解するのに必要なことをね。それから看護士を他に連れて来て、私は十時になると家を後にした。二人の医師やL・I君らと一緒にね。
午後になると私たちは再び集まり、患者の様子を確かめた。だが、氏の病状は全く以て変わらず、依然として同じままであった。それから、私たちは氏を目覚めさせることの妥当性と可能性について審議を重ねたのだが、それをしたところで有意義な結果など得られそうもなく、満場一致の賛成というのは少々難しいものがあった。
これまでのところ、死(もしくは一般的に死と呼ばれている何か)が、催眠術のおかげで足止めされているというのは明らかだった。それに、ヴァルデマール氏を目覚めさせたところで、すぐさま死に至るか、もしくは少なくとも死期が早くなるだけのことだろう。それを保証してくれるにすぎないのだ。私たちとって、それはまるで自明なことのように思われた。
こういったことがあってから、先週の終わりまで……そう、七ヶ月近い間、私たちは絶えず氏の家を訪ね続けたものだよ。時折、医学やその他の知り合いも連れて行ってね。それに、あの夢遊患者の病症はいつも、私がこれまで書いてきた病状と寸分違わずそのままで、看護士たちは怠ることなく世話を続けていたよ。
氏の目を覚ます実験を実行すると決めたのは、いや、その努力をしてみようと思い至ったのは、結局、先週の金曜日ことだった。しかし、その実験が色々な界隈で多くの議論を巻き起こしてきたわけだが……私にはどうしても、その議論の多くが馬鹿げた大衆感情に思えてならなくてね。こういったことも、この実験の(おそらく)不幸な結果なのだろう。
ヴァルデマール氏を催眠夢遊状態から解放する。そう決意して、私はいつもと同じく手を左右に振ってみたのが、しばらくしても上手くいく気配は見えなかった。しかし、瞼の裏に隠れていた瞳が少しづつ元の位置に戻ってくるの見て、覚醒の第一兆候を認めたのだ。そして、見えてきたものは、私たちの注意を酷く引きつけた。刺激的で酷く不快な臭気を持ったおびただしいほどの黄色い膿漿が、(瞼の裏から出て来たものであるが)瞳の下の方にこびりついて今にも流れ落ちそうだったのだ。
このとき、以前と同じように患者の腕を操ってみるべきだという声が上がり、さっそく試してみたのだが、どうしても上手くいかない。すると、質問を投げ掛けてみた方が良いのではないかと、D医師がほのめかすものだから、私はそれに従ってみることにした。
「ヴァルデマールさん、私たちに教えてくれますか? 今、どんな気持ちですか? 何か望みはありますか?」
すると、いきなり頬の紅斑が元通りに戻り、かと思えば舌がぶるぶると震え出した。いや、それどころか口の中で舌が激しく暴れ回っていたのだ(もちろん、依然として顎や唇は硬直したままだったのだが)。
そして、私が先程すでに述べたとの寸分違わぬあの忌まわしい声が、とうとう暴発してしまったのだよ。
「お願いだ!……早く!……はやく!……私を眠りに就かせてくれ……それが無理なら、早く!……私を起こしてくれ!……はやくしてくれ!…………ああ、教えてやろう、私は、死んでいるんだ!」
私はすっかり肝を潰してしまい、少しの間、何をすれば良いか分からないという有様だった。まずはあの病人をなんとか落ち着けようとしてみたのだが、気力をすっかり失ってしまったらしく、失敗に終わってしまった。そんな中、私は自分の術式を振り返りながら、氏を目覚めさせようと必死に足掻いていたのだ。足掻き始めてすぐに、この試みが成功するはずだと思うようになった。……いや、いずれにしろ成功するに決まっているのだ。私はそんなことを思い描いていた。……この部屋にいる人は皆、病人が目を覚ますのをすることが目に出来ると心から思っていた。そうに違いないのだよ。
しかしながら、実際に起こったのは、誰一人として予測出来るはずもないことだった。
私が急いで催眠術を解こうとすると、「死んでいる! 死んでいるんだ!」という絶叫が炸裂した。それも、苦痛に悶える病人の唇では無く、間違い無くその舌から弾け出したのである。
叫び声が轟く中、氏の体躯はみるみるうちに……たった一分かそこらで、縮み上がり……粉々に砕け散り……私の手の真下で、完全に腐り果ててしまった。皆の目の前で、寝台の上に広がっていたのは、液状に近い何かだった。嫌悪の込み上げてくる……酷く忌み嫌われた、腐敗した液塊であった。
原著:「The Facts in the Case of M. Valdemar」(1845)
原著者:Edgar Alln Poe (1809-1849)
(E. A. Poeの著作権保護期間が満了していることをここに書き添えておきます。)
翻訳者:着地した鶏