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食事の後、ヤヨニはまたリギルを連れまわした。劇場では長い芝居と扇情的な舞踏が繰り返される出し物を見せられて、リギルは感動というよりは動揺に近い強い衝撃を受けた。リギルは、劇場を出てもしばらくの間、自分自身が半ば現実に戻れないような不思議な浮遊感が消えなかった。
ここは刺激が強すぎる、とリギルは思った。自分の意識や思考が知らぬ間に浸食されているかのような危険な感覚がある。リギルはまずいと思った。このようにして自分がいつの間にか調整されているのではないかという疑念が生じて、不安になった。
一休みしてヤヨニがまた通りで配っていたソルディをもらって飲んでいるとき、リギルはヤヨニに告げた。
「さて、ヤヨニ。俺はそろそろ発とうと思う」
ヤヨニは意外に素っ気なく答えた。
「そう? それなら、世話人を呼びましょうか。リギル、馬機持ってないのでしょう? 世話人が用意してくれてるはずだわ」
リギルは、自分が旅立とうとすれば、おそらくヤヨニが引き止めるのではないかと心配していたので逆に少し寂しいような気分を感じた。しかし、ヤヨニはまったくそんな素振りは見せず、繋心具を取り出すと世話人にリギルの旅立ちを知らせた。
「じゃあ、すぐに部屋に戻りましょう。世話人もそちらに向かうって」
ヤヨニが先に立ってどんどん歩いてゆくので、リギルも追いかけるように後を急いだ。
いったん部屋に戻ると、残してあった手荷物を確かめた。ヤヨニはリギルが持っている少し大げさな剣を手に取ると、まじまじと眺めた。
「ねえ、これいったい何に使うの?」
「まあ、特に使うこともなかったが、安心のため、かな?」
「へえ。こんなもので安心するのだったら、世話人はいらないってね」
茶化すようにヤヨニは笑い、その剣を袋に納め、リギルに手渡した。
一瞬沈黙が流れたが、すぐにヤヨニは笑顔に戻って行った。
「もう降りましょう。世話人が待っているかもしれないわ」
リギルは昇降機に乗った時の感覚にだいぶ慣れてきた。下の広間に行くと、最初ここへ案内してくれた顎髭をたたえた世話人の男がすでに座っていた。ヤヨニは急ぎ足で近付くと、立ったまま言った。
「ご苦労様、ヤンムアンダ」
リギルは、そう言えばこの男の名はそんなだったかな、とつい考えてしまった。だがすぐに心を読まれるかもしれないと気が付いて、わざと男から気を逸らした。
男はそんなリギルの内心には無関心だったようで、最初会った時の印象そのままに不自然な慇懃さで話しかけた。
「リギル様、もう旅立ちとのことで。もう少しゆっくりと楽しんでいただきたかったのですが。ヤヨニは、失礼はありませんでしたかな?」
「ああ、特に何も」
ヤヨニは黙ってリギルを見つめていた。
「ご用命の件ですが、もう旅立つとのことですので、私としましては馬機のほうでご用意はさせていただきました。動力車となりますとさらに少しお時間が必要になりますので……よろしかったでしょうか?」
「ああ」
「そうですか? それは、よろしゅうございます。それでは、こちらが馬機でございます」
男はそういうと座っている椅子の脇から人の頭ほどの袋を卓の上へ置いた。リギルが想像していたものよりずっと小さかった。
「どうぞ」
男は言ったが、リギルはそれをどう使ってよいのかも全く分からなかったので袋に触れることも躊躇していた。ヤヨニがそれを察して代わりに袋を開き、中からそれを取り出した。
「ヤンムアンダ。私がリギルに馬機の操作を説明してもいい?」
男は少しヤヨニの顔を見ていたが、意を得たように頷いた。
「分かりました。ではヤヨニに頼みます。しっかりお伝えするんだぞ」
「はい」
リギルは、ヤヨニが使い方を教えてくれると聞いて安心した。それに、二人の形式張ったようなやり取りを見て急に可笑しく思えてきた。
「ではリギル様、私はここで失礼させていただきとうございます。ありがとうございました」
男は最後まで慇懃に頭を下げると身を翻し、立ち去った。