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食事の後、二人は最初の部屋に戻って向かい合って座り、茶酒を飲みながら長い間話した。
イラの説では、天国では本当に加害的な行為や実行不能な欲望は予め抑えられているから、そもそも人は実現不可能な望みは抱くことができないのだという。人々はこれをクルによる「調整」と考えている。そして裏を返せば、この調整の力が信じられているために、人々は現世のように罪とか戒律といった人間が作った観念をもはや必要としないのだ。すなわち、望むことが許されるなら、その行為はすべて許されることになる。
しかし、リギルは納得しなかった。
「それが自由と言えるか? 彼らは本当に自分の意思であのような振る舞いをしているのか? それでは己の欲望さえ、本当に欲しているかどうか疑わしいではないか」
「リギル。あなたが言っている彼らって、だれ?」
リギルは思わずクセルの名を挙げようとしたが躊躇した。そして、じっと考えると、何かに踊らされているように見えて実は最初からクセル自身が望む通りのことが起こっているだけなのではないかという気もしてきた。もし本当に調整というものがあるなら、そもそも望みとは何なのか? 己の意思かどうかを確かめる術すらないのか?
「クルの力によって調整されていることと、クルを信仰して従おうとすることと何が違うの? 自分の選択で生きたい? みんな自分で選択して生きているんじゃない。現世でも、ここでも。そうじゃない?」
「そうかもしれない。だが何だか腑に落ちない話だ」
「ねえ。現世でよく言われたことだけど、何の制限もなく己自身の意思で生きるべきだと言うのはだれ?」
「それは……神ではなく、悪魔だ。しかし」
「もちろんクル教にはそんな教義はないけれど、でも思い出してみて? 現世でも、クルを信じない人々は必ずこういうわ。自分の考えで生きろ」
イラを遮ってリギルは言った。
「なぜあなたはそんなことまで言えるのか。なぜそんなことが断定できるのか! あなたはいったい……」
「いいえ。ただ私はあなたの疑問に答えたいと願っているだけ。すると何を言うべきかが自然に出てくるような気がするの」
リギルはしつこいほどに試みたが、どうやってもイラにうまく反論できそうになかった。そうするうちにイラの言っていることのほうがだんだん実しやかに思えてきた。それを頑なに拒もうと不毛な問いを繰り返している自分が滑稽に思えてきた。
煮詰まった感覚を察してイラが席を立った。茶酒を入れ直して戻ると、イラは今度はリギルのすぐ横に寄り添うようにして座った。リギルは、イラと体が少しだけ触れ合うことを最初ほど意識しなくなっていた。
「私の話をしていい? ……私は、こう見えても生きていたときは純真な娘だったのよ。ふふ。私たちの会衆に新しい信仰の人たちがどんどん加わっていた。でも、その中に、本当はクル教など信じていない異教の男たちが紛れていて、会衆の女を次々に犯して行ったのよ」
リギルは、イラの顔をじっと見た。かける言葉がなかった。
「最初、女たちは抵抗できずにいた。恐かったからよ。公にすればどんな報復があるか分からないし。何よりも、もしそのことで自分が会衆の中で孤立してしまったら。恐くてみんな黙っていた」
「でもだんだんそういう噂が広まって。信じない人もいたけど、若い娘や妻を持つ家は警戒するようになった。でも無駄だった……殺されたのよ。私の父と母は。私が犯されそうになったとき、抵抗して声を上げた私に気が付いて、助けようとした。それを、男たちが何度も殴って、押さえつけて床に頭を何度も打ち付けて殺した」
「私は絶望した。私は父が持っていた短剣で、自分の胸を突いて死んだわ。私は自殺したのよ」
イラは終始落ち着いた様子で淡々と話していたが、リギルは胸が熱くなった。同時に、強い怒りのような感情が沸き起こった。
「それならばなぜ! なぜあなたはこんなことをしているのだ!」
リギルが声を荒げてもイラは驚く様子もなく、リギルから離れようとしなかった。
「これは私が望んでいることです。たとえば、もし私が本当に望めば今すぐ父と母のもとに戻り、ずっと一緒に暮らすこともできるでしょう。しかし私はそれを望んでいないの。私はこの暮らしが好きなの……」
「だから! それも調整のせいかもしれないじゃないか!」
リギルはイラの言葉を遮って、イラを強く抱きしめた。それは欲情というような気持ちではなく、イラの深い絶望を自分も受け止めようとするような悲しい感覚だった。イラにはリギルのその心の動きが読み取れた。しかし、リギルはそれがまだできない。少しの間、二人はそのまま動かなかった。
「リギル……良かったら、しばらくここにいて」
リギルはそれが誘惑なのか、情なのか、それとも役目を遂行しているだけなのか判断できなかった。
「せめて、人の心が読めるようになるまで、私といっしょにいるのがいいと思うわ」
リギルは回していた腕をほどき、ゆっくりと頷いて笑った。それを見てイラも同じようにゆっくりと頷いた。もちろん最初会った時からイラが若く美しいことは分かっていたが、何というかリギルは初めてそれを意識してついイラの全身をまじまじと見た。
「どうしたの? 恥ずかしいわ」
「いや、そんなつもりでは……」
リギルが狼狽えるとイラは悪戯っぽく笑った。
「ふふ。分かっています」
二人はまた笑った。