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「……俺はいったい何を躊躇っていたというのか」
イリアエルは、ナモクと話した後、ぼうと思いを巡らせていた。
「まったく、あいつらの言うことはいつも支離滅裂で未整理だ。ああ、ナモクは昔からそうだったか。人を導く術に長けているのは確かだが、あいつの話はいつも分かりにくいんだ。みんな、よくは分からずに結局、有耶無耶なまま付き従ってしまう。ふ……むしろそれがあいつの手なのか。
……多くの人々を信仰に導くには、よく教え諭し、導いてやらねばならん。だれもが十分に、精緻に物事を見つめられるわけではないのだからな。すべての人にそのような精神と意志を求めることなど……それぞれに持って生まれた力と質があるのだから。
俺は少しでも多くの者が、信仰に至り、辿りつくために心を砕いて来た。俺は決して本気でなかったわけではない。それは躊躇とは言わないのだ。俺は、自分の力をクルのために用いることを、躊躇ったことなどない。
それに、俺はそのために常に本気だったはずだ。これが俺自身の限界なのか? いや、俺は断じてその程度の男ではない。ナモクに従ったのも……別にそれは俺がナモクよりも劣っているからではない。俺は別に、ナモクを怖れていたわけではないのだ。決してそういう意味ではないのだ。だが、こんなことを周囲の者に何度言ってもだれも理解しないだろう。本意の見えない者に、そんなことを語っても仕方がないのだ」
イリアエルは長い間考えていた。いつの間にか自分の生き様をじっくりと振り返っていた。正確に振り返るにはあまりにも長すぎる過去であった。
「俺は、今までなにかを躊躇したことがあっただろうか」
イリアエルはふと思い付いたように立ち上がった。深く息を吐き出し、顔をまっすぐに前に向けて空中を正視した。両腕は力を入れないままに腰の前辺りに軽く構えている。イリアエルが技の修練を行う際にいつも最初に取る構えである。
イリアエルの闘技は理そのものであった。イリアエルが繰り出す大小の技はすべて緻密な思考と大いなる反復によって磨き上げられているという意味で完璧であった。体の躱し方、重心の移し方、相手の技から逃げる場合の方向や体勢の選択に至るまですべて理詰めである。現世において、ごく幼少の頃を除けばイリアエルは争いで負けを経験したことがない。
「しかし、俺は結局あれ以来、ナモクと拳を交えることはなかった」
もちろん、ナモクに対している自分を仮想したことは何度もあったが。実際に再び相対することはないままに終わった。
イリアエルは最後にもう一度大きく息を吐くと歩き出した。修練の相手を、マセルに頼もうと思ったからである。