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「クルよ……あなたの御心を、あなたのご意思を……本当に知ることなどできようか?」
タミルノは祈りながら考えていた。いや、と言うよりも、祈りを通して今自分の中に湧き起こった疑問をクルに投げかけていた。
もちろん、すべて人間の解釈の域を出ない。それはタミルノも分かっているつもりだ。
タミルノ自身、むしろ生前は会衆の長として、警告していた一人だったのである、人々の信仰に、人間の解釈が過度に入り込むことの危険を。
盲信からくる不毛な諍いや、都合のいい期待、それは信仰の名の下に結局人の固執と疑念を昂ぶらせ、最後には絶望と背信に繋がることを、タミルノはいつも会衆の人々に説いていたのである。
にもかかわらず、結局妻は他教の知恵に誘われて不信仰に至り、自らも絶望と疑念の内に死を迎えた。これはタミルノ自身にとって、地獄に分けられるに十分過ぎる罪だと思えた。
だが……マセルは、人の思い込みこそ信仰だと言う。信じたところに従って生きるしかないと言う。
それで良いのか?
そもそもマセル自身、人が復活する世界が必ずあると生前から信じ続けていたらしい。今になって思えば、それは事実としてあるということが分かる。だが、問題はそれが結果として正しかったかどうかということではないだろう。
それはつまり、人間が、それぞれの人がそれぞれに自分なりの信仰上の解釈を持つことが許されるということだ。むしろそのようにすべきだという意味だ。
しかし、マセル自身、人間の解釈という言葉を何度となく吐いたではないか? そうやって他人の考えを一瞥もせずに切って捨てるようなことを、マセルはむしろ平気でする男だ。それは今まで何度となく見てきたはずだ。
それはつまり、それが他人から見れば単なる幼稚な思い込みや、時には誤解であってさえ構わないということだ。それどころか、それが単に我欲や感情から来るものでさえ、何の呵責も、自省も、他人との共有も協調も不要だと? マセルはきっとそう考えているのだ。
では、それでは、クルの意思はどうなる? それでは人々が、人間が各々勝手に都合の良い考えに凝り固まって、それはクルのご意思からどんどん離れてゆくではないか? そんなことが許されるか。
それで何の信仰か? 何のための会衆なのか?
クルよ。私は間違ったのでしょうか。しかし、今、私はまさにこの男の、マセルの言に真実があるように感じるのです。理屈で解釈しようとすれば受け入れ難い。しかし、マセルには何か、それを真実と信じさせる何か力があるように思えてならない。
クル。私はこれからどうすれば……」
ヌルが祈りを終えて目を開けたが、マセルとタミルノはまだずっと深い祈りの中にあるようだった。ヌルはそのまま二人をじっと待っていた。