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「俺はヌルの亡骸から剣を抜いてヌルを横たえてから、左手で自分の胸板を探った。剣はヌルの背中を貫いて俺自身に達したが俺はまずヌルの急所を狙ったから自分は僅かに出血しただけだった。
ヌルの顔をもう一度見た。苦しんだ表情はない。俺はすぐに自分の胸を突き刺して死ぬつもりだった。
剣を握り直そうとして、しかし俺はもう一度部屋を見回した。もう炎に囲まれている。逃げ出すのはやはり不可能だろう。しかし、
なぜ俺は、不可能だとしてもヌルを抱いてこの炎に……飛び込まなかったのか?
自分自身は火に包まれても身を挺して突破すれば、あるいはヌルだけでも生きられたかもしれないと思った。
しかし。万に一つヌルがここから脱け出せたとしても。
ではそのヌルをだれに託すと言うのか?
この家に火を放ったのがだれかは分からない。そうだ。ヌルを託せる者などこの世にいないではないか。なぜだ? なぜヌルまで手にかける……」
少しの沈黙があった。
「とにかく、それで俺はこの地獄に一番乗りしたってわけだ」
タミルノは、それだけを声に出して言った。マセルは目を開けるまで気が付かなかったが、仲間たちが数人、少し離れて取り巻くように集まっていた。
「俺は、結局自分を剣で殺さなかった。先にヌルを逝かせておきながら……俺は湧き起こってくる疑念に憑りつかれ、そのまま火に包まれ、すべてを呪いながら死んだのだ」
死んだときの様子を思い出すのはたいてい辛いことである。特に、その後地獄に来た者にとって。タミルノは今、マセルに伝えるために強いて詳細に心に浮かべようとしていたので、気が付いた周囲の者が何事かと半ば心配になって見に来たのだ。
ヌルは何も言わずまっすぐに空を見つめていた。タミルノが顔を近づけて覗き込むと、その父の顔を見てヌルはほとんど表情を変えないままに涙を流した。感情になる前に勝手に流れ出した生理的な涙であった。タミルノはじっとその顔を見つめていた。
だれも声をかけることも、動くこともできずにいた。しかし、他の者と違ってマセルだけは平然と体を起こすと、言った。
「タミルノ。あんたはヌルに嘘は言っていない。どういう死に方にしろ、あんたもすぐに逝ったんだろ? だから何も嘘は言っていない」
タミルノは何も答えなかった。だが周りで心配そうに見ていた仲間たちはそれを聞くと少し驚いて互いに確認するように目配せした。だれも口には出さないがマセルのその淡々とした言葉と態度を咎めるような空気になった。
ヌルの顔をじっと見ていたタミルノが、急にマセルのほうを見て言った。
「お前クルを呪ったことはないか? 人を憎んだことはないのか?」
「あるよ……何度も。どうしてこんなにも弱いのか。どうしてこんなに弱く作ったのか、ってね」
マセルは独り言のように続けた。
「だが弱きものは儚い。儚きものこそ愛おしい」
それを聞いてか、ヌルは急に起き上がって思いっ切りタミルノに抱きついた。泣いているのかどうかは見えなかったが、頭を強くタミルノの胸に押し付けて、両腕で縋りついていた。タミルノもヌルを強く抱きしめた。そして独り言のように呟いた。
「儚き人の思いを調え、か」
『クルは儚き人の思いを調える』は十言の中の一句である。しかし、周りの者たちはタミルノとマセルがそれをもって何を言おうとしているのか飲み込めなかった。