「家のことは任せる」と白い結婚を言い渡されたので、お言葉に甘えて三年間、一銭も違わず帳簿をつけました
「君を妻として扱うつもりはない」
初夜の部屋で、夫となったばかりのユベール・ファロー伯爵は、婚礼の礼服のまま私にそう告げた。
寝台の白い布には皺ひとつなく、暖炉には惜しみなく薪がくべられている。扉の外の廊下には、まだ祝いの花が香っていた。
その真ん中で、夫だけが、婚礼と関係のない顔をしていた。
「王都に大切な人がいる。この結婚は家同士の都合だ。君も、そのつもりでいてくれ」
「……そうですか」
「君には伯爵夫人の名を与える。屋敷での不自由はさせない。それから――」
彼は、面倒な引き継ぎでも済ませるように言った。
「家のことは、任せる」
「家のこと、とは」
私が聞き返すと、彼は初めて怪訝な顔をした。泣くなり、すがるなり、するとでも思っていたのだろう。
「どこからどこまでを、お任せいただけるのでしょう」
「……全部だ。私は王都で忙しい。屋敷のことにいちいち口を出すつもりはない」
全部。
私は胸の内で、その一言を丁寧に写し取った。
帳簿に、書き留めるように。
「承知いたしました。では、そのように」
私は膝を折って礼をした。
夫は拍子抜けした顔のまま部屋を出て行き、翌朝には王都へ発った。馬車に積まれた荷物は、九割が社交服だった。
私はエステル・ファロー。旧姓をクレネという。
子爵家の三女。実家は貧しく、持参金はろくに用意できなかった。
その代わりに、父は私をこう言って売り込んだのだ。
「うちの三女は、勘定ができます」
嘘ではない。私は十歳から実家の帳簿を任されていた。姉たちが刺繍を習う横で、私は納品書の束と格闘して育った。
泣いても数字は変わらない。
けれど、書けば数字は残る。
それが、私が実家で学んだすべてだ。
だからあの夜、私は泣かなかった。泣いてどうにかなる婚姻なら、最初からあんな初夜にはならない。
代わりに翌朝、老家令に言った。
「ベルナール。帳簿を見せてください」
銀髪を後ろで撫でつけた老家令は、一瞬だけ動きを止めた。
「……帳簿を、でございますか」
「旦那様から、家のことは全部任せると言われました。家のこととは、まず帳簿のことです」
「左様でございますか」
ベルナールは深く、それはもう深く一礼した。
新参の奥方に向けるにしては、深すぎる礼だった。
運ばれてきた帳簿は、ひどい有様だった。
いえ、一見は立派なのだ。表紙は革張り、文字は端正。
ただ、中身が嘘つきだった。
「ベルナール。この『夫人衣装費』というのは」
「昨年度、金貨四十枚が計上されております」
「私は昨年、この家におりませんが」
「先代の奥方様は五年前に亡くなられております」
「では、どなたのドレス代なのでしょうね」
ベルナールは答えなかった。答えないという答えだった。
納品書の束をめくる。仕立て屋の宛先は、伯爵家ではない。
――王都、ラマール男爵未亡人邸。
オデット・ラマール様。
なるほど。旦那様の「大切な人」は、お名前と住所と、ドレスの寸法まで、うちの帳簿に残してくださっているらしい。
「ベルナール。あなたはこれを、知っていましたね」
「……四十年、この家の帳簿を見てまいりました。名目と宛先が食い違い始めたのは、三年ほど前からでございます」
「直さなかったのですか」
「私が名目を書き換えれば、それは私の改竄になります。決裁印は、旦那様のものですので」
老家令は静かに言った。
「証明できる方が現れるのを、お待ちしておりました」
……この老人、思ったより頑固だ。
いいでしょう。頑固なのは、私に似ている。
「では、今日から方針を一つだけ変えます」
「はい」
「請求の名目は、そのまま写します。そして隣に、実際の宛先を併記します。納品書の通りに。一銭も、違わずに」
偽の名目を、偽の名目だけでは終わらせない。
「夫人衣装費」の隣に、「王都・ラマール男爵未亡人邸あて仕立て代、金貨三枚」。
名目は嘘をつく。けれど、宛先は嘘をつけない。
私は何も告発しない。何も騒がない。
ただ、帳簿を正直者にするだけだ。
それから、私の三年間が始まった。
毎朝、納品書と領収書を突き合わせる。出入りの商人の顔と名前を覚える。支払いは期日通りに。値切るときは理由をつけて。
半年もすると、市場で妙なことを言われるようになった。
「ファロー家は、奥様の代になって信用が戻った」
支払いの遅れがなくなったからだ。前は家令が旦那様の決裁を待つ間に、平気で二月遅れていたらしい。
信用というのは、金貨より安く買えて、金貨より高く売れる。
商人の息子だった祖父の言葉だ。子爵家に婿入りした変わり者の祖父は、正しかった。
ちなみに、私自身の生活費はどうしているかというと。
「ベルナール。私の記帳給与を、今月分、正規に計上してください」
「奥様ご自身に、給与を……でございますか」
「帳簿係を一人雇えば月に銀貨三十枚。私はその仕事をしています。ですから同額を。私のドレスも本も、そこから出します」
「伯爵家の財から出されても、誰も咎めませんが」
「咎める咎めないの話ではありません。私の帳簿に、宛先の曖昧な支出は一行も載せないだけです」
ベルナールは、また深すぎる礼をした。
この老人の礼の深さは、どうやら呆れと敬意の合算らしい。
夫は、ほとんど帰ってこなかった。
季節に一度、着替えを取りに戻る程度。私と交わす言葉は、多い月で三往復。
「変わりはないか」
「ございません」
「そうか」
以上。夫婦の会話としては貧しいが、記帳としては楽でいい。
その間も、王都からの請求書は律儀に届き続けた。
仕立て代。宝石商。観劇の桟敷席。名目だけ「視察」の宿代が、視察記録のない月に十七泊。
そして、毎月一日。
欠かさず届く、花代の請求。金貨一枚。宛先は、いつもの男爵未亡人邸。
毎月、一日に、必ず一枚。
……愛人への誠実さだけは、本物でいらっしゃるのね。
私は今月もその一枚を、日付の通り、宛先の通り、帳簿に写した。
小さな数字だ。誰も気に留めない。
でも、帳簿は覚えている。
帳簿は、頑固だから。
「奥様。東翼の雨漏りの修繕見積もりが参りました」
「見せてください。……この足場代は高すぎます。西の工房にも相見積もりを」
「かしこまりました。それと、旦那様より手紙が」
「読み上げて」
「『家の金の使い方が細かすぎると商人から苦情が来ている。伯爵家の体面を考えろ』……以上でございます」
「苦情の出どころは」
「宝石商のドールソン。奥様が先月、請求書の石の目方の相違を指摘なさった店です」
「では体面は守られていますね。騙されない家、という体面が」
「返信はいかがいたしましょう」
「『仰せの通り、家のことは任されておりますので』と」
「……それだけで、よろしいので?」
「それだけで十分です。あの方は、私の返事を最後まで読みません」
ベルナールが、こらえきれずに小さく咳をした。咳に聞こえる何かだった。
三年目の春が来た。
帳簿は十二冊になっていた。一年に四冊。季節ごとに一冊。
私はその日、十二冊目の最後の頁を書き終えて、ふと指を止めた。
嫁いできてから、ちょうど三年。
この国の法では、婚姻の実態がないまま三年が過ぎれば、どちらの側からでも婚姻無効を申し立てられる。
白い結婚の、満期だ。
夫がこの日を待っていることは、分かっていた。指折り数えていたことも。
なにせ、うちの帳簿にはもう載っているのだ。
王都の代訴人への相談料が、二月前から、三度。
「ベルナール」
「はい、奥様」
「近いうちに、旦那様がお帰りになります。おそらく、お客様を連れて」
「……お茶の用意を増やしましょうか」
「ええ。それから」
私は書き上げたばかりの十二冊目を閉じ、書棚の仲間の隣に並べた。
革の背表紙が、一年目から順に、静かに整列している。
三年分。一銭も、違わずに。
「帳簿を運ぶ台車を、磨いておいてください」
一方その頃。王都のラマール男爵未亡人邸では、上等な茶葉の香りの中で、暢気な算段が交わされていた。
「ねえ、ユベール様。本当にうまくいくのかしら」
オデット・ラマールは、新しい指輪を光にかざしながら言った。
「奥様、三年も放っておかれて、何もおっしゃらないなんて。かえって不気味ですわ」
「不気味なものか」
ユベールは笑って、茶を含んだ。
「あれは実家仕込みの帳簿係だよ。屋敷にこもって、数字をいじっていれば満足な女だ。手紙の返事も一行しか寄越さない。感情というものがない」
彼にとって、この三年は計算通りの三年だった。
持参金のない子爵家の娘。婚姻の実態がないまま三年が過ぎれば、婚姻無効を申し立てられる。
無効であれば、婚姻は最初から「なかったこと」になる。離縁と違って、慰謝料の根拠すら生まれない。
安く娶り、安く手放す。そのための三年だった。
「ただ、一つだけ厄介がある」
ユベールは指で卓を叩いた。
「家の金だ。この三年で、思ったより減っている」
「あら。心当たりがおありでしょうに」
「馬鹿を言うな。伯爵家の当主が王都で交際するのは務めのうちだ。……だが、義父上や社交界がどう見るかは別だ。無効を申し立てた途端、金の話を蒸し返されては面倒になる」
だから、と彼は続けた。
「代訴人の入れ知恵でな。王室財務院の監察官を連れて行く」
「監察官を? ご自分から?」
「そうだ。家の帳簿を検めさせ、家政の乱れを公式に記録させる。『家のことは妻に任せていた』――これは三年前から一貫している。管理していたのはあの女だ。つまり、乱れの責はあの女にある」
ユベールは満足げに指を組んだ。
「家政不行届の妻。婚姻無効の理由としても十分、金の行方の説明としても十分。監察官という中立の証人つきでな」
「でも、もし帳簿に……その、記録が残っていたら」
「女の帳簿だぞ」
彼は心底おかしそうに笑った。
「金にうるさい女だとは聞いている。商人の請求に目方がどうのと文句をつけたそうだ。……だがな、オデット。うるさいのと正確なのは、別の話だ」
「そういうものかしら」
「そういうものだ。刺繍の合間につけた小遣い帳だ。どうせ穴だらけさ。むしろ穴だらけの方が都合がいい。管理不行届の、何よりの証拠になる」
彼は知らなかった。
その帳簿を、三年間、一度も開いたことがなかったから。
その日、伯爵家の車寄せに、二台の馬車が停まった。
一台からはユベールと代訴人。もう一台からは、王室財務院の紋章を胸につけた男が降りた。
監察官、ジェラール・ヴォークラン。
三十を少し越えたくらいの、愛想のない顔の男だった。挨拶より先に、玄関の柱の傷を見て、修繕の年代を目で数えたのが分かった。
……数字の側の人間だ。
応接間。私と夫が向かい合い、代訴人と監察官が卓の端に着く。
夫は三年ぶりに、私の顔を見ないまま口を開いた。
「単刀直入に言う。婚姻無効の申立てを行う。この結婚には、三年間、実態がなかった」
「はい」
「争わないのか」
「事実ですので」
夫は一瞬詰まり、それから咳払いをして続けた。ここからが本題なのだろう。
「それとは別に、確認したいことがある。この三年で、家の財が著しく減っている。家のことは、君に任せていた」
「はい。全部、と伺いました」
「ならば説明してもらおう。ヴォークラン監察官に、家政の記録を検めていただく。……記録が、あればの話だが」
私は立ち上がり、扉を開けた。
「ベルナール。お願いします」
磨き上げられた台車が、車輪の音も立てずに入ってきた。
革張りの帳簿、十二冊。一年目の春から、三年目の春まで。
季節の順に、静かに整列して。
「三年分、ございます」
私は監察官に向き直った。
「納品書と領収書の原本は、年度ごとに別箱で。突き合わせ済みです。どうぞ」
夫の顔から、余裕が一枚、剥がれた。
ヴォークラン監察官は、一冊目を開いて五分、黙って頁をめくり続けた。
十分が過ぎた頃、彼は初めて口を開いた。
「……失礼。この帳簿は、どなたが」
「私です」
「記帳の形式は」
「祖父から習った商家式に、財務院の家政報告の様式を足しました。写しやすいように」
監察官は私を一度だけ見て、また帳簿に戻った。
頁をめくる速度が、上がった。
「読み上げます。よろしいか、ファロー伯爵」
「あ、ああ。存分に」
夫はまだ、勝ち筋の中にいる顔をしていた。
「一年目。『夫人衣装費』名目、計金貨三十八枚。夫人による併記――納品先、全件、王都ラマール男爵未亡人邸」
「……は?」
「二年目。『視察滞在費』、視察記録の存在しない月に、王都の同じ宿へ十七泊。同年、宝石商ドールソン、首飾り一式金貨二十五枚。納品先、同上」
代訴人が、そっと夫から半歩離れた。
「三年目。仕立て代、観劇桟敷、香水、以下同文。……それから」
監察官は、頁の隅を指で押さえた。
「毎月一日。花代、金貨一枚。三年間、三十六か月。一度の欠けもなく、三十六枚。宛先、すべて同上」
応接間が、静まり返った。
「几帳面なことだ」
監察官の呟きだけが、やけに響いた。
「ち、違う……妻だ! 妻が捏造したんだ! 私を陥れるために、勝手に書き」
「決裁印は、全件あなたのものですが」
監察官は動じなかった。
「加えて、納品書の原本は商人の発行です。夫人の筆ではない。なんなら宝石商ドールソンを呼びますか。石の目方をごまかして、この夫人に指摘された店ですが」
「なら……そうだ、妻の私怨だ! 放っておかれた妻が、腹いせに」
「その点も確認済みです」
監察官は、帳簿の別の頁を開いた。
「この夫人は三年間、月銀貨三十枚の記帳給与を正規に計上し、自らの支出をすべてそこから賄っている。つまりこの記録は、放置された妻の日記ではない。雇われた帳簿係の、業務記録です」
彼は帳簿を閉じ、初めて夫をまっすぐ見た。
「伯爵。あなたはご自分で仰いました。『家のことは妻に任せていた』と。任された者の記録が、これほど正確で――何が、ご不満か」
オデット・ラマールが呼び出されたのは、その翌週、財務院での聴取の席だった。
後日、ベルナールが聞き及んだところによると、彼女は読み上げられる三年分の品目と日付に青ざめて、こう口走ったそうだ。
「わ、私はいただいただけで……そんな、全部記録されていたなんて、聞いていませんわ」
「聞いていれば、お受け取りにならなかったと?」
監察官の問いに、彼女は答えられなかったという。
答えないという、答えだった。
婚姻無効は、成立した。
「これで、この結婚は最初からなかったことになる」
書類に署名を終えた夫が、吐き捨てるように言った。
「三年、無駄にしたな。お互いに」
「いいえ」
私はペンを置いた。
「私も三年、待ちました。あなたが数えていた三年を、私も数えていただけです。……無駄にしたのは、あなたの側の帳尻だけかと」
伯爵家は、王室財務院の正式な監査対象となった。私の十二冊は、その基礎資料として財務院に移管される。
家政不行届、という筋書きは、監察官の報告書の中でこう書き換えられていた。
――当該三年間において健全であった家政記録は、夫人の記帳部分のみである。
荷物をまとめるのに、半日もかからなかった。
嫁いできた日の、鞄が一つ。
「奥様。最後に、今月分の記帳給与の清算がまだでございます」
ベルナールが、小さな袋を差し出した。
銀貨三十枚。両替すれば、ちょうど金貨一枚。
「……奇遇ね」
「はい?」
「あの方が毎月一日、王都の花に払っていた誠実さと、同じ額だわ」
ベルナールは何も言わず、四十年分ほど深い礼をした。
玄関を出るとき、夫が立っていた。
署名のあとからずっと、何か言いあぐねていたのは知っている。
「……君が笑うところを、見たことがなかった」
「見ようと、なさらなかっただけです」
「エステル。私は」
「ファロー伯爵」
私は旧姓に戻った名で、最後の礼をした。浅く。客に向ける深さで。
「お花は、これからもお忘れなく。毎月一日。あなたの、数少ない美点ですので」
彼は、何も返せなかった。
帳簿と違って、人の言葉は、あとから書き足せない。
一月後。王室財務院の一室に、私は呼ばれていた。
「単刀直入に言います」
ヴォークラン監察官は、私の十二冊を卓に積んで言った。
「財務院は、貴族家の家政報告の形骸化に頭を抱えています。九割の家が、家令の丸めた数字を出してくる。検める側の様式も古い。……あなたの帳簿を、教本にしたい」
「教本に」
「ついでに、書いた本人も欲しい。監査補佐官として」
あまりに事務的な求人だったので、私はつい、事務的でないことを聞いてしまった。
「私が、お役に立つからですか」
役に立つから、置いてもらえる。
実家でも、嫁ぎ先でも、私はずっと、そうやって居場所を測ってきた。
監察官は、少しだけ考えて、首を振った。
「いいえ。間違えないからです」
「……同じことでは?」
「違います。役に立つかどうかは、周りが勝手に決める。だが、あなたの数字は、あなたが決めている。三年間、誰も見ていない帳簿を、一銭も違えなかった。……財務院が欲しいのは、その方の椅子です」
誰も見ていなくても。
誰も、見ていなくても、だ。
私は目の奥が熱くなるのを、勘定違いのふりをして、二秒でしまい込んだ。
「承知しました。ただし一つ、条件が」
「伺いましょう」
「給与は規定通りに。一銭も違わず、計上してください」
監察官は、この一月で初めて、笑った。
新しい職場、新しい机、新しい帳簿。
私は真新しい一頁目を開き、ペンを取った。
日付。所属。氏名――エステル・クレネ。
旧姓に戻った名前は、書き慣れているはずなのに、少しだけインクが滲んだ。
まあ、いい。
帳簿は頑固だ。滲んだ跡も、そのまま残す。
私に、よく似ている。
「さて」
一行目に、ペンを置く。
今日から数えるのは、私の人生の分だ。
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