第五十章
戦場は静まり返っていた。本来なら戦いが始まる直前の緊張に満ちているはずの空間が、どこか異様なほどに静かで、まるで世界そのものが一瞬息を止めているかのようだった。両軍は互いに向かい合い、整然と陣を組み、すべての準備は整っている。それでも、まだ何も動き出していなかった。
彼はすぐに異変に気づいた。
魔術師たちの列。
そしてその前に並べられた盾。
それは通常の装備ではなかった。厚く、重く、明らかにこの状況のために用意されたもので、狭い覗き穴と腕を通すための開口部だけが設けられている。その盾は魔術師だけでなく、その背後にいる者たちまでも覆い隠していた。すなわち、彼女たちもまた完全に視界から遮られていた。
どこにいるのかも分からない。
何人いるのかも分からない。
存在の気配すら読み取れない。
彼はその列をじっと見つめるが、何も捉えられない。そしてそのとき初めて、自分の魔法がこの防御を貫けるのか確信が持てないことに気づく。仮に貫けたとしても、その先に何があるのかが分からない。
それは、明確な対策だった。
敵は学んでいる。
彼は短くアヤノを見る。
言葉は不要だった。
二人は同時に前へ出る。
急ぐことも隠れることもなく、ただ列から離れ、両軍の間の空間へと歩み出る。その距離はすでに単なる間隔ではなく、境界となっていた。
彼はバスタードソードを。
アヤノはエスパドロンを。
互いに抜き身のまま。
並んで立つ。
敵に向かって。
そして、動かない。
沈黙が長く伸びる。最初は理解されていない。ただの異常な動きとして受け止められる。しかしやがて、その波は広がっていく。視線が動き、ざわめきが伝わり、認識が形を持ち始める。
彼女が見られている。
彼らの聖女が。
拘束もなく。
壊されてもいない姿で。
武器を手にし、別の召喚者の隣に立っている。
それは、彼らの理解の枠を外れていた。
二人の召喚者が同時に存在し、同じ側に立っているという事実は、単なる戦力の問題ではない。それは前提そのものを崩すものだった。
沈黙はさらに深まる。
誰も動かない。
命令もない。
風すら止まったかのように感じられる。
そして、その中で。
何も起こらないはずの瞬間に。
事態は動いた。
攻撃は来ない。
隊列も崩れない。
突撃もない。
代わりに、ゆっくりと、しかし確実に。
敵軍の前線が動く。
最初はわずかに。
やがて明確に。
それは混乱ではなかった。逃走でもない。統制の取れた動きだった。
彼らは戦わないことを選んだのだ。
静かに、整然と、隊列を保ったまま方向を変え、そのまま後退していく。戦場を離れていく動きは乱れず、まるで最初からそうするつもりだったかのようだった。
彼はしばらく動かなかった。
何かが続くのではないかと、まだ構えていた。
しかし何も起こらない。
戦場はそのまま、空白のまま残される。
戦いは始まらなかった。
それが、何よりも現実離れしていた。
帰還したあとも、その感覚はすぐには消えなかった。身体には疲労がなく、心にもいつもの重さがない。ただ、静かな驚きと、ようやく訪れた緩みのようなものだけが残っている。
統治者エドラン・ケルヴィスは自ら彼らを迎えた。その言葉は簡潔だったが、そこには隠しきれない理解があった。
「戦の流れを変えたな」
それは評価ではなく、事実の確認だった。
祝福は控えめだったが、だからこそ重みがあった。
翌日、使者が到着する。
和平の申し出だった。
複雑な条件はなく、時間稼ぎの意図も見えない。ただの意思表示だった。彼らは自分たちの聖女に対して剣を向けることを望んでいない。その存在を損なうことを拒んでいる。
それが理由だった。
彼はその報告を聞きながら、自分がまだすべてを理解しているわけではないことを感じていた。世界そのものを変える方法はまだ分からない。それでも、確かなことが一つある。
この瞬間、少なくとも。
戦場での大量の死は止まった。
平和が訪れた。
そしてそれは、初めて空虚ではない言葉としてそこにあった。
彼は窓の前に立ち、城の庭を見下ろす。日常がゆっくりと戻り始めている。その光景を見ながら、これが終わりではないことを知っている。
これは始まりだ。
いつか、彼はこの世界をさらに大きく変える。
そう確信しながら。
終わり




