第一章
彼は目覚ましが鳴る数分前に目を覚ました。
ここ最近、ほとんど毎日そうだった。最初は気にしていたが、やがて利用し、今ではただ「そういうものだ」と受け入れている。
視線の先には天井。変わらない。
それがこの部屋で一番正直なものだった。
しばらく横になったまま、自分の状態を確認する。眠気はない。身体は問題なく動く。頭も冴えている。五十に近づくにつれ、「調子がいい」よりも「正常に動いている」ことの価値の方がはっきりしてくる。
起き上がり、キッチンへ向かう。昨日と同じ光景。水、コーヒー、余計なもののないテーブル。使わないものは持たない。それは思想ではなく、判断を減らすための習慣だった。
コーヒーを淹れながらノートパソコンを開く。仕事は切り替えなしに始まる。
メール、タスク、修正。ひとつ通話が入る。
「どんな問題を解こうとしていますか?」
相手は長く説明する。細部にこだわり、結論を避ける。よくあることだ。人は問題そのものではなく、その周辺を語る。
彼は遮らない。聞き終えてから整理する。
「それは違います。問題はそこではない。ここが詰まっています。そこを直せば他は自然に整います」
短い沈黙のあと、相手が納得する。
「……確かに。ありがとうございます」
「ええ」
通話を切る。
苛立ちはない。予測できることは時間の節約になる。人がどこで間違えるかは、だいたい見える。
念のためもう一度確認する。疑っているわけではない。単なる習慣だ。ミスは時間より高くつく。
昼前には今日の分は終わっていた。明日の分も一部片付いている。
画面を閉じると、すぐに静寂が戻る。
スマートフォンを見る。特に返すべきものはない。
それもまた、いつものことだった。
人と会うことはある。少ないが、ゼロではない。ただ、そのほとんどは最初の瞬間で分かってしまう。
部屋に入った瞬間、誰と会話が成立するかが見える。
好みではない。
嘘の有無だ。
余計な演技がない相手とは話せる。そうでない相手とは、最初から無理をしない方がいい。
特別な能力ではない。ただの経験だ。
昔、彼はヒッチハイクをしていた。路肩に立ち、車を待つ。止まる車、開くドア。数秒あれば十分だった。
視線、声、間の取り方。
乗るか、やめるか。
たまに外れるが、ほとんど当たる。
それはそのまま残った。人に対しても、判断に対しても。
女性に対しても同じだった。
彼は誰かを「代わり」として扱ったことはない。ひとりひとりが別の物語だった。突然現れ、流れを変え、そして去る。それは計算ではなく、性質だった。
彼は約束をしなかった。だが、感情がなかったわけでもない。
むしろ、その逆だった。
彼は確かに愛していた。
その都度、違う形で。
何十年経っても、ひとりひとりを思い出せる。過去ではなく、自分の一部として。
戻ってくる者もいれば、そうでない者もいる。それで価値が変わることはない。
ただ、終わりが「義務」にならなかっただけだ。
それは繰り返しではなかった。ひとつの人生の中にある、複数の人生だった。
そして今、そのどれもが続いてはいない。
うまくいかなかったわけではない。ただ、最後にはならなかった。
コーヒーを飲み終え、冷蔵庫を開く。食料は十分。店は下にある。時間に意味はない。
閉める。
動画を開く。異世界もの。
死んで、転生して、力を得る。
途中で止める。
「都合がいいな」
感情はない。ただの観察だ。
問題は可能性ではない。提示の仕方だ。
もし世界を越える仕組みが存在するなら、それが偶然であるはずがない。
それは構造を持つはずだ。
ならば条件がある。
彼は椅子にもたれた。
問題は「なぜ行くか」ではない。
「なぜ選ばれるか」だ。
信じてはいない。
だが、否定もしない。
仮説として保持する。
期待はしない。期待は観測を歪める。
彼はただ、時々その考えに戻る。
もし仕組みがあるなら、それは反応するか、選別するかのどちらかだ。
どちらにせよ、入力条件がある。
強さでも善良さでもない。
もっと具体的なもの。
判断の仕方。速度。不完全な情報への対応。
窓の外を見る。
景色は変わらない。車の位置も、人の流れも、ほぼ同じだ。
繰り返し。
理解された構造。
だからこそ、無意味。
夜も同じように過ぎる。
食事、いくつかの通知、それだけ。
灯りを消し、横になる。
天井。
同じ。
状態を確認する。変化はない。
だが目を閉じたとき、違和感に気づいた。
外ではない。
内側。
わずかな不安。恐怖ではない。何かが起きる直前の、説明のつかない予感。
彼はそれを分解しようとする。
身体的なものではない。疲労でもない。
思考の残滓か。
目を開ける。
何も変わっていない。
「気のせいだ」
そう結論づける。
退屈な日常が生む、錯覚の一種。
再び目を閉じる。
違和感は消えない。
ただ、そこにある。
彼はそれを記録し、意味づけを保留する。
そしてその日、唯一の例外として――
それを、かすかな希望の残滓として処理した。
そして眠りに落ちた。




