仮面の下の相続人
1897年、イギリス。
嵐の夜だった。
雨が激しく窓を叩き、風が木々を揺らしていた。ロンドンから北へ百マイル、ヨークシャーの荒野に建つグレイソン邸の執事トーマスは、玄関のドアを叩く音を聞いた。
こんな夜に、訪問者?
トーマスが扉を開けると、ずぶ濡れの若い女性が倒れ込んできた。
「お嬢さん!」
トーマスは女性を抱き起こした。二十代半ば。濡れた黒髪、青白い顔、震える体。ドレスは泥だらけで、靴は片方なくしていた。
「大丈夫ですか?」
女性は、うわ言のように呟いた。
「手紙……手紙を……届けなければ……」
そして、意識を失った。
トーマスは館の主人を呼んだ。
エドワード・グレイソン。三十五歳の紳士。五年前に父を亡くし、この館と広大な土地を相続していた。独身で、学者肌の物静かな男だった。
「客人室に運んでくれ。医者を呼ぼう」
女性は暖炉のある部屋に運ばれ、ベッドに寝かされた。メイドたちが濡れた服を着替えさせ、温かいブランデーを飲ませた。
医者が到着したのは、一時間後だった。
「高熱があります。風邪でしょう。それに——」
医者は、女性の頭を診た。
「後頭部に打撲の跡があります。かなり強く打ったようです」
「記憶は?」
「目を覚ませば分かります」
翌朝、女性が目を覚ました。
エドワードが、ベッドのそばにいた。
「気分はいかがですか?」
女性は、ゆっくりと体を起こした。そして、周囲を見回した。
「ここは……」
「グレイソン邸です。昨夜、嵐の中で倒れていたところを保護しました」
女性は、自分の手を見た。そして、エドワードを見た。
「あなたは……?」
「エドワード・グレイソンです。この館の主人です」
女性は、何かを思い出そうとするように額に手を当てた。
「私は……」
そして、顔が青ざめた。
「私は……誰ですか?」
医者が再び呼ばれた。
「記憶喪失です」
医者は、診察の後に言った。
「頭部の打撲が原因でしょう。一時的なものか、永続的なものかは、まだ分かりません」
エドワードは、女性に尋ねた。
「何か、思い出せることは?」
女性は、目を閉じた。
「手紙……誰かに手紙を届けなければならなかった気が……でも、誰に? 何のために?」
彼女の持ち物を調べたが、手がかりはほとんどなかった。
泥だらけのドレス。上質な生地だが、刺繍や装飾がなく、持ち主を特定できない。
ポケットには、小さな鍵が一つ。真鍮製で、何かの箱を開けるものらしい。
そして——乾燥したラベンダーの小枝が、ハンカチに包まれていた。
「ラベンダー……」
女性は、それを手に取った。
「これは……何か、大切なもの……」
でも、それ以上は思い出せなかった。
エドワードは、女性をしばらく館に滞在させることにした。
「記憶が戻るまで、ここにいてください。身寄りがないのなら、危険です」
「でも、ご迷惑を……」
「いいえ。この館は広すぎて、一人では寂しいくらいです」
エドワードは、微笑んだ。
「それに、もしかしたら記憶を取り戻す手がかりが見つかるかもしれません」
女性は、感謝の言葉を述べた。
「ありがとうございます……でも、私、名前も分からないんです」
「では、仮の名前を」
エドワードは、窓の外を見た。庭に、ラベンダーが植えられていた。
「ラベンダー。どうでしょう?」
女性は、自分の手の中のラベンダーを見た。
「ラベンダー……はい、それでお願いします」
こうして、名もなき旅人は「ラベンダー」と呼ばれることになった。
彼女は、グレイソン邸で暮らし始めた。
最初は、客人として扱われた。でも、日が経つにつれ、彼女は館の仕事を手伝うようになった。
図書室の整理。庭の手入れ。メイドたちの指導。
不思議なことに、彼女は貴族の作法を知っていた。食事のマナー、刺繍、ピアノ、フランス語。すべて自然にできた。
「お嬢さんは、きっと良家の出身ですよ」
メイドのマーガレットが言った。
「その立ち居振る舞い、言葉遣い。間違いありません」
でも、どこの家なのか、思い出せなかった。
ラベンダーは、毎晩、記憶を探った。
でも、靄がかかったように、何も見えなかった。
ただ、断片的な映像だけが浮かんでは消えた。
馬車。広い邸宅。誰かの笑い声。そして——悲鳴。
何かが、起きた。
でも、何が起きたのか、思い出せなかった。
エドワードは、ラベンダーを助けようとした。
ロンドンの警察に問い合わせ、行方不明者の情報を集めた。
新聞広告も出した。
「記憶喪失の若い女性を保護しています。心当たりのある方は、グレイソン邸まで」
でも、返事はなかった。
まるで、彼女は存在しない人間のように。
そして、二ヶ月が過ぎた。
秋が深まり、庭のラベンダーが枯れ始めた頃。
ラベンダーとエドワードは、図書室で時間を過ごすことが多くなっていた。
「この本、面白いですね」
ラベンダーは、詩集を読みながら言った。
「テニスンの『イン・メモリアム』。私も好きです」
エドワードは、暖炉の前で本を読んでいた。
「あなたは、詩がお好きなようですね」
「そうみたいです。なぜか、心が落ち着くんです」
ラベンダーは、窓の外を見た。
「でも、時々……何かを忘れている気がして、不安になります」
エドワードは、本を置いて、ラベンダーの隣に座った。
「焦らなくていいんです。記憶は、いつか戻るかもしれない。戻らないかもしれない。でも——」
エドワードは、ラベンダーの目を見た。
「あなたは、ここにいる。今、この瞬間に。それだけで、十分じゃないですか」
ラベンダーは、エドワードの言葉に心を動かされた。
この二ヶ月、エドワードは優しかった。
決して詮索せず、でも常に気にかけてくれた。
そして、ラベンダーは気づいていた。
自分が、エドワードに惹かれていることに。
でも——自分が誰なのかも分からないのに、恋をしてもいいのだろうか?
その夜、ラベンダーは夢を見た。
大きな屋敷。豪華な広間。
そして、仮面舞踏会。
無数の人々が、仮面をつけて踊っている。
ラベンダーも、そこにいた。白いドレスを着て、銀の仮面をつけて。
誰かが、近づいてきた。
男性。黒い仮面をつけている。
「お嬢様」
男性の声。
「遺言書は、もう手に入れました。これで、すべてあなたのものです」
ラベンダーは、何か答えようとした。
でも、その時——
別の男性が現れた。
「嘘だ! その遺言書は偽造されたものだ!」
混乱。叫び声。
そして——誰かが、ラベンダーを突き飛ばした。
階段から、転げ落ちた。
頭を、強く打った。
「ラベンダー!」
エドワードの声で、目が覚めた。
ラベンダーは、ベッドで汗をかいていた。
エドワードが、部屋に入ってきた。
「悲鳴が聞こえました。大丈夫ですか?」
「夢を……見ました」
ラベンダーは、震える声で言った。
「仮面舞踏会。遺言書。そして——階段から落ちる夢を」
エドワードの顔が、険しくなった。
「それは……もしかしたら、記憶かもしれません」
「でも、意味が分からないんです」
ラベンダーは、エドワードを見た。
「遺言書って、何の? 誰の?」
エドワードは、しばらく考えた。
「明日、ロンドンに行きましょう」
「ロンドン?」
「ええ。遺言書を扱う弁護士事務所を訪ねます。もしかしたら、何か分かるかもしれません」
翌日、二人は馬車でロンドンへ向かった。
秋の空は曇っていて、風が冷たかった。
馬車の中で、ラベンダーは窓の外を見つめていた。
ロンドンの街並み。見覚えがあるような、ないような。
馬車がある建物の前を通り過ぎた時、ラベンダーは何かを感じた。
「待ってください!」
馬車が止まった。
ラベンダーは、外を見た。
古い石造りの建物。看板には「ハーヴェイ&サンズ法律事務所」。
「この建物……」
ラベンダーは、馬車を降りた。
建物に近づく。何か、引き寄せられるような感覚。
「ここに、来たことがあります」
エドワードも、馬車を降りた。
「確かですか?」
「はい……でも、いつ、なぜ……」
二人は、事務所の中に入った。
受付の老紳士が、顔を上げた。
「いらっしゃいませ。ご用件は?」
エドワードが説明しようとした時、老紳士がラベンダーを見て、顔色を変えた。
「あなたは……まさか……」
「ご存知なんですか?」
「エリザベス・アシュフォード様……?」
ラベンダーは、その名前を聞いた瞬間、めまいがした。
エリザベス・アシュフォード。
その名前が、何かを呼び覚ました。
老紳士——ハーヴェイ弁護士は、二人を奥の部屋に案内した。
「お座りください」
ハーヴェイは、厳粛な表情で言った。
「エリザベス・アシュフォード様。あなたは、三ヶ月前に行方不明になりました」
ラベンダー——いや、エリザベスは、震える声で尋ねた。
「私は……誰なんですか?」
「あなたは、故チャールズ・アシュフォード卿の一人娘です」
ハーヴェイは、ファイルを開いた。
「アシュフォード卿は、イギリス屈指の富豪でした。広大な土地、複数の邸宅、そして莫大な財産を所有していました」
「父が……亡くなった?」
「はい。今年の五月に。病死でした」
エリザベスは、何かが頭の中で繋がっていくのを感じた。
父。大きな屋敷。そして——
「遺言書……」
「ええ」
ハーヴェイは、厳しい顔で続けた。
「アシュフォード卿は、すべての財産をあなたに相続させるという遺言書を残しました」
「でも……」
「でも、問題が起きました」
ハーヴェイは、別の書類を取り出した。
「あなたが行方不明になった直後、別の遺言書が提出されたのです」
「別の遺言書?」
「はい。それには、財産のすべてを、あなたの従兄弟であるヴィクター・アシュフォードに相続させると書かれていました」
エドワードが、口を挟んだ。
「二つの遺言書? どちらが本物なんですか?」
「それが、問題なのです」
ハーヴェイは、深いため息をついた。
「両方とも、故人の筆跡で書かれています。署名も、正式なものです」
「では、どちらを——」
「法律では、より新しい日付の遺言書が優先されます。そして、ヴィクターが提出した遺言書の方が、三日新しい日付でした」
エリザベスは、記憶の断片を追った。
ヴィクター。従兄弟。
顔が、ぼんやりと浮かんできた。
背の高い男。冷たい目。そして——
「彼が……私を……」
「何か、思い出しましたか?」
「ヴィクターが……私を階段から突き落としました」
エリザベスは、手を震わせた。
「仮面舞踏会で。遺言書のことで、口論になって……」
記憶が、洪水のように戻ってきた。
父の死。遺言書の朗読。そして、ヴィクターの登場。
「父の遺言書は、私にすべてを相続させると書いてありました。でも、ヴィクターは納得しませんでした」
エリザベスは、涙を拭った。
「彼は、もう一つの遺言書を見せました。それには、彼が相続人だと。でも、私はそれが偽物だと分かりました」
「なぜ?」
「父は、亡くなる一週間前、私に言ったんです。『すべてをお前に託す。ヴィクターには渡さない』と」
エリザベスは、記憶の中の父の顔を思い出した。
「父は、ヴィクターを信用していませんでした。彼が放蕩息子で、借金まみれだと知っていたから」
ハーヴェイは、頷いた。
「その通りです。ヴィクターは、多額の借金を抱えていました」
「だから、彼は偽の遺言書を作ったんです。そして、私が邪魔だから——」
エリザベスは、震えた。
「私を殺そうとしたんです」
エドワードが、エリザベスの手を握った。
「でも、あなたは生きている」
「ええ……階段から落ちた後、目が覚めたら、馬車に乗せられていました。誰かが、私を運んでいました」
「誰が?」
「分かりません。でも、その人は私に言いました。『逃げろ。ヴィクターが追ってくる』と」
エリザベスは、その時の記憶をたどった。
「私は、馬車を降りて、逃げました。雨の中を。そして——」
「グレイソン邸にたどり着いた」
エドワードが続けた。
ハーヴェイは、深刻な顔で言った。
「エリザベス様。あなたは、今も危険です」
「ヴィクターが……」
「はい。彼は、あなたが死んだと思っています。もし生きていると知れば——」
「また、狙われる」
エリザベスは、決意を固めた。
「でも、このままでいるわけにはいきません。父の遺産を、ヴィクターに渡すわけにはいかない」
「しかし、証拠が必要です」
ハーヴェイは、書類を見た。
「偽造を証明するには、何か決定的な証拠が」
エリザベスは、ポケットから鍵を取り出した。
あの、真鍮の小さな鍵。
「これ……何かを開ける鍵だと思うんです」
ハーヴェイが、その鍵を見て、目を見開いた。
「それは……故人の私物箱の鍵ではありませんか?」
「私物箱?」
「はい。アシュフォード卿は、大切な書類を小さな箱に保管していました。その箱は、卿の書斎にあります」
エリザベスは、記憶をたどった。
父の書斎。大きな机。そして——
「人形……」
「人形?」
「父の机の上に、小さな人形がありました。陶器の、女の子の人形」
ハーヴェイは、頷いた。
「ええ、ありました。卿の母親——あなたの祖母が、卿の幼少期に贈ったものだと聞いています」
「その人形の中に……箱があります」
エリザベスは、確信を持って言った。
「人形は、開けられるようになっていて、中に小さな空洞があるんです。そこに、父は箱を隠していました」
エドワードが言った。
「では、その箱を取りに行かなければ」
「でも、危険です」
ハーヴェイが警告した。
「ヴィクターは、今、アシュフォード邸に住んでいます。相続人として」
「では、どうすれば……」
エリザベスは、考えた。
そして——ある考えが浮かんだ。
「来月、仮面舞踏会がありますね?」
「はい」
ハーヴェイは、驚いた顔で頷いた。
「恒例の、アシュフォード家の秋の舞踏会です。ヴィクターが、新しい当主として主催します」
「では、そこに忍び込みます」
エリザベスは、決意を込めて言った。
「仮面をつけて。誰にも気づかれずに」
エドワードが、心配そうに言った。
「危険すぎます」
「でも、他に方法がありません」
エリザベスは、エドワードの目を見た。
「私は、取り戻さなければならないんです。父の遺産を。そして——真実を」
エドワードは、しばらく黙っていた。
そして、決意を固めたように言った。
「分かりました。でも、一人では行かせません。私も行きます」
「エドワード……」
「あなたを守ります。何があっても」
エリザベスの目から、涙がこぼれた。
「ありがとう……」
ハーヴェイは、二人のやりとりを見て、小さく微笑んだ。
「では、準備をしましょう。舞踏会は、二週間後です」
こうして、計画が動き始めた。
エリザベスは、記憶を取り戻した。
そして、自分が誰なのか、何をすべきなのかを知った。
でも、同時に——大きな危険が待っていることも。
ヴィクター・アシュフォード。
彼は、一度エリザベスを殺そうとした。
そして、もし彼女が生きていると知れば、また襲ってくるだろう。
でも、エリザベスには、もう恐れはなかった。
エドワードがそばにいる。
そして、真実を明らかにする決意がある。
馬車でグレイソン邸に戻る途中、エリザベスは窓の外を見つめていた。
「エドワード」
「はい」
「私、もうラベンダーではありません」
エリザベスは、エドワードを見た。
「エリザベス・アシュフォード。それが、私の本当の名前です」
「ええ」
エドワードは、微笑んだ。
「でも、私にとっては、あなたはあなたです。名前が何であろうと」
エリザベスは、エドワードの手を握った。
「ありがとう。あなたがいなければ、私はここまで来られませんでした」
「いいえ。あなた自身の強さです」
馬車は、夕暮れの道を進んだ。
そして、グレイソン邸に着いた時、エリザベスは決意を新たにした。
二週間後、仮面舞踏会で、すべてを取り戻す。
父の遺産。
自分の人生。
そして——真実。
二週間が、あっという間に過ぎた。
エリザベスは、グレイソン邸で舞踏会の準備をした。
ドレス。仮面。そして——心の準備。
エドワードは、ロンドンで情報を集めていた。
アシュフォード邸の見取り図。警備の配置。舞踏会の招待客リスト。
「ヴィクターは、百人以上を招待しています」
エドワードが、報告した。
「貴族、実業家、政治家。彼は、自分が正当な相続人だと世間に示そうとしています」
「では、人混みに紛れやすいですね」
エリザベスは、仮面を手に取った。
金色の、鳥の形をした仮面。目元だけを隠し、口元は見える。
「でも、もしヴィクターに気づかれたら——」
「その時は、私が守ります」
エドワードは、自分の仮面を見せた。
黒い、シンプルな仮面。
「あなたが証拠を手に入れるまで、私が時間を稼ぎます」
エリザベスは、不安そうに言った。
「でも、危険です。ヴィクターは——」
「分かっています。でも、あなた一人で行かせるわけにはいきません」
エドワードは、エリザベスの手を取った。
「エリザベス、あなたに言いたいことがあります」
「何ですか?」
「私は……」
エドワードは、言葉を探した。
「あなたが、ラベンダーと名乗っていた時から、あなたに惹かれていました」
エリザベスの心臓が、高鳴った。
「名前も、過去も知らない。でも、それでも——あなたという人間が、好きでした」
エドワードは、エリザベスの目を見つめた。
「そして今、あなたがエリザベス・アシュフォードだと知っても、その気持ちは変わりません」
「エドワード……」
「私は、あなたを愛しています」
エリザベスは、涙を浮かべた。
「私も……私も、あなたを愛しています」
二人は、抱き合った。
そして、長い口づけを交わした。
そして、舞踏会の夜が来た。
十一月十五日。
空は厚い雲に覆われ、風が冷たかった。
夕方、エドワードとエリザベスは、馬車でアシュフォード邸へ向かった。
「準備はいいですか?」
エドワードが、仮面をつけながら尋ねた。
「ええ」
エリザベスも、金色の仮面をつけた。
鏡を見る。まるで、別人のようだった。
「行きましょう」
馬車がアシュフォード邸に着いた時、すでに多くの客が到着していた。
豪華な馬車が列をなし、着飾った紳士淑女が館に入っていく。
エリザベスは、深呼吸をした。
ここは、かつて自分の家だった。
でも、今は敵の手に落ちている。
そして、これから取り戻す。
館の大広間は、煌びやかだった。
シャンデリアの光。オーケストラの音楽。色とりどりのドレスと仮面。
エリザベスは、一歩一歩、館の中を進んだ。
見覚えのある廊下。階段。絵画。
でも、何かが違った。
ヴィクターが、すべてを変えていた。
父の肖像画は外され、代わりにヴィクターの肖像が飾られていた。
「あれが、ヴィクターです」
エドワードが、広間の中央を指差した。
背の高い男。三十代半ば。黒いスーツに、黒と赤の仮面。
彼は、客たちと談笑していた。傲慢な笑み。勝利者の表情。
エリザベスの中で、怒りが燃え上がった。
「落ち着いて」
エドワードが、エリザベスの腕を軽く掴んだ。
「計画通りに」
エリザベスは、頷いた。
二人は、広間の端を通り、書斎へ向かう廊下へ進んだ。
でも——
「お客様、そちらは私邸ですので」
執事が、二人を止めた。
エドワードが、即座に対応した。
「すみません。お手洗いを探していまして」
「お手洗いは、あちらの廊下です」
執事が、別の方向を指差した。
「ありがとうございます」
二人は、いったん引き返した。
「警備が厳しいですね」
エリザベスが、囁いた。
「別の方法を考えましょう」
エドワードは、周囲を見回した。
「あなたは、ここの構造を知っていますね?」
「ええ」
「では、裏口は?」
「庭からなら、書斎の窓に回れます」
「では、私が陽動します」
エドワードは、決意を込めて言った。
「ヴィクターの注意を引きつけます。その間に、あなたは庭から書斎へ」
「でも、危険です」
「大丈夫です。私を信じてください」
エドワードは、エリザベスの頬に手を当てた。
「必ず、戻ります」
「約束してください」
「約束します」
二人は、別れた。
エドワードは、広間へ戻った。
そして、ヴィクターに近づいた。
「失礼」
エドワードは、ヴィクターに声をかけた。
「あなたが、新しい当主のヴィクター・アシュフォード様ですね?」
ヴィクターは、エドワードを見た。
「そうですが……どちら様でしょうか?」
「エドワード・グレイソンと申します。ヨークシャーの」
「ああ、グレイソン家の」
ヴィクターは、興味を持ったようだった。
「お父上の代から、名家だと聞いております」
「光栄です」
エドワードは、冷静を保ちながら続けた。
「実は、ご相談がありまして。土地の売買について」
「ほう」
ヴィクターの目が、輝いた。
金の話だ。
「詳しく聞かせてください。書斎へ参りましょう」
エドワードの心臓が跳ねた。
これは、まずい。書斎に連れて行かれたら、エリザベスと鉢合わせになる。
「いえ、ここで構いません。簡単な話ですので」
でも、ヴィクターは首を振った。
「いやいや、ビジネスの話は、落ち着いた場所で。さあ」
ヴィクターは、エドワードの肩に手を置いた。
その時——
大広間の入口で、悲鳴が上がった。
「火事だ!」
誰かが叫んだ。
「厨房から煙が!」
混乱が始まった。
客たちが、ざわめいた。
ヴィクターは、舌打ちをした。
「執事! すぐに確認しろ!」
ヴィクターは、エドワードを残して、厨房へ向かった。
エドワードは、ほっとした。
そして、気づいた。
あれは、偶然ではない。
誰かが、意図的に——
その時、エドワードの隣に、一人の女性が近づいてきた。
年配の、メイドの服を着た女性。
「マーガレット?」
エドワードは、驚いた。
グレイソン邸のメイド、マーガレットだった。
「お嬢様から、手紙をもらいました」
マーガレットは、小声で言った。
「もし危険があったら、助けてほしいと。だから、火事の騒ぎを起こしました」
「ありがとう」
エドワードは、感謝した。
「今、エリザベスは——」
「書斎へ向かったはずです。急いでください」
エドワードは、書斎へ走った。
一方、エリザベスは——
庭を抜け、書斎の窓に到着していた。
窓は、鍵がかかっていなかった。
エリザベスは、窓を開けて中に入った。
書斎。
父の匂いが、まだ残っている気がした。
本棚。机。そして——
人形。
机の上に、陶器の人形が置かれていた。
少女の形をした、白い人形。
エリザベスは、人形を手に取った。
そして、底を回した。
カチリ。
人形の胴体が、開いた。
中に、小さな木の箱があった。
エリザベスは、ポケットから鍵を取り出した。
真鍮の鍵。
箱の鍵穴に、差し込んだ。
ぴったりと合った。
回す。
カチリ。
箱が、開いた。
中には——古い手紙の束と、一枚の羊皮紙。
エリザベスは、羊皮紙を取り出した。
それは、遺言書だった。
父の直筆。
『私、チャールズ・アシュフォードは、正常な精神状態において、以下の通り遺言する。
私の全財産、全土地、全資産を、愛する娘エリザベス・アシュフォードに相続させる。
ヴィクター・アシュフォードには、何も相続させない。
彼は、私の信頼を裏切り、私の財産を狙っている。
この遺言書こそが、真実である。
1897年5月1日
チャールズ・アシュフォード』
エリザベスの目から、涙がこぼれた。
父は、すべて分かっていたんだ。
そして、自分を守ろうとしていた。
「見つけたようだね、エリザベス」
背後から、声がした。
エリザベスは、振り返った。
ヴィクターが、扉の前に立っていた。
仮面を外した顔。冷たい笑み。
「まさか、生きているとはね」
エリザベスは、遺言書を胸に抱いた。
「ヴィクター」
「よく戻ってきたものだ。前回は、階段から突き落としてやったのに」
ヴィクターは、ゆっくりと近づいてきた。
「でも、今度は確実に始末する」
「あなたは、父を裏切った」
エリザベスは、震える声で言った。
「父は、あなたを信じていたのに」
「信じていた?」
ヴィクターは、笑った。
「チャールズ叔父は、私を軽蔑していた。放蕩息子だと。でも、私には権利があるんだ。アシュフォード家の血を引く者として」
「でも、財産は——」
「財産は、力のある者が手に入れるものだ」
ヴィクターは、懐から拳銃を取り出した。
「お前のような、か弱い女ではなく」
エリザベスは、後ずさった。
「あなたは、父の遺言書を偽造した」
「そうだ。簡単だったよ。叔父の筆跡を真似るのは」
ヴィクターは、拳銃をエリザベスに向けた。
「でも、今、お前がその本物の遺言書を持っていても、意味がない。お前が死ねば、それも消える」
その時——
窓が開いた。
エドワードが、飛び込んできた。
「エリザベス!」
エドワードは、ヴィクターに体当たりした。
拳銃が、床に落ちた。
二人は、もみ合った。
でも、ヴィクターの方が体格が大きかった。
エドワードを突き飛ばし、拳銃を拾おうとした。
その時——
エリザベスが、机の上の燭台を掴んで、ヴィクターの頭を殴った。
ヴィクターは、倒れた。
「エドワード、大丈夫?」
「ええ」
エドワードは、立ち上がった。
そして、床に落ちた拳銃を拾った。
ヴィクターも、起き上がろうとした。
「動くな」
エドワードが、拳銃をヴィクターに向けた。
ヴィクターは、動きを止めた。
そして、憎悪に満ちた目でエリザベスを見た。
「お前……」
「ヴィクター、あなたは終わりです」
エリザベスは、遺言書を掲げた。
「これが、真実です」
その時、書斎の扉が開いた。
警察が、入ってきた。
「何事ですか!」
警部が、状況を見て驚いた。
「あなたは……エリザベス・アシュフォード様?」
「はい」
エリザベスは、警部に遺言書を渡した。
「これが、父の真の遺言書です。そして、この男が偽造犯です」
警部は、遺言書を読んだ。
そして、ヴィクターを見た。
「ヴィクター・アシュフォード、あなたを遺言書偽造および殺人未遂の容疑で逮捕します」
警官たちが、ヴィクターを取り押さえた。
「離せ! 私が正当な相続人だ!」
ヴィクターは、叫んだ。
でも、もう遅かった。
彼は、手錠をかけられ、連行された。
エリザベスは、その場に座り込んだ。
すべてが終わった。
エドワードが、エリザベスを抱きしめた。
「よく頑張りましたね」
「ええ……でも、あなたがいなければ、私は——」
「いいえ。あなた自身の強さです」
二人は、抱き合ったまま、しばらく動かなかった。
外では、嵐が近づいていた。
雷鳴が、遠くで響いている。
でも、エリザベスにはもう恐れはなかった。
真実を取り戻した。
父の遺産を。
そして——自分の人生を。
三ヶ月後。
冬が終わり、春の訪れを感じる頃。
エリザベスは、正式にアシュフォード家の全財産を相続した。
裁判は、エリザベスの完全勝利だった。
ヴィクターの偽造は証明され、彼は七年の実刑判決を受けた。
エリザベスは、アシュフォード邸に戻った。
でも、一人ではなかった。
エドワードが、そばにいた。
そして、マーガレットをはじめとする、グレイソン邸の使用人たちも移ってきた。
「お嬢様、いえ、レディ・アシュフォード様」
マーガレットが、嬉しそうに言った。
「この館が、またあなたのものになって、本当に良かったです」
「ありがとう、マーガレット。あなたの助けがなければ、私たちはヴィクターに捕まっていました」
エリザベスは、庭を歩いた。
父が愛した庭。
そして——ラベンダーの花壇。
まだ、季節には早かったが、若い芽が出始めていた。
エドワードが、エリザベスの隣に立った。
「ラベンダー。あなたを初めて知った時の名前です」
「ええ」
エリザベスは、微笑んだ。
「あの時、私は何も知りませんでした。自分が誰なのかも」
「でも、今は?」
「今は、分かります」
エリザベスは、エドワードの手を取った。
「私は、エリザベス・アシュフォード。でも、同時に——あの嵐の夜、あなたの館にたどり着いたラベンダーでもあります」
「両方とも、あなたです」
「ええ。そして——」
エリザベスは、エドワードの目を見た。
「私は、あなたの妻になりたいです」
エドワードの目が、見開いた。
「エリザベス……」
「あなたは、私が何も持っていない時、受け入れてくれました。名前も、記憶も、財産もない私を」
エリザベスの目から、涙がこぼれた。
「だから、今、私が全てを持っている時——それを、あなたと分かち合いたいんです」
エドワードは、エリザベスを抱きしめた。
「私も、ずっとそう思っていました」
「では——」
「ええ。喜んで、あなたの夫になります」
二人は、長い口づけを交わした。
庭のラベンダーが、風に揺れていた。
まるで、祝福しているかのように。
その夜、エリザベスは父の書斎にいた。
机の上には、父の遺言書。
そして——父が残した、もう一つのもの。
手紙の束。
エリザベスは、一通を開いた。
『愛するエリザベスへ
もしお前がこの手紙を読んでいるとしたら、私はもうこの世にいないだろう。
お前には、辛い思いをさせてしまうかもしれない。
ヴィクターは、私の財産を狙っている。そして、お前を害するかもしれない。
でも、私は信じている。
お前は、強い。賢い。そして、誰よりも優しい。
だから、お前は乗り越える。
そして、お前自身の人生を生きる。
私の願いは、ただ一つ。
お前が、幸せになること。
財産など、二の次だ。
お前が、愛する人と共に、笑顔で生きること。
それが、父の最大の願いだ。
ラベンダーの花言葉を、覚えているかい?
「献身」「沈黙」「期待」。
私は、お前に献身的に愛を注いだ。
でも、多くを語らず沈黙を守った。
そして、お前の未来に期待している。
庭のラベンダーを見る時、私を思い出してほしい。
そして、前を向いて歩いてほしい。
愛を込めて
父より』
エリザベスは、手紙を胸に抱いた。
涙が、止まらなかった。
「お父様……」
エドワードが、部屋に入ってきた。
「エリザベス?」
エリザベスは、涙を拭いて、微笑んだ。
「大丈夫です。ただ——父の手紙を読んでいました」
「そうですか」
エドワードは、エリザベスの隣に座った。
「お父上は、素晴らしい方だったのですね」
「ええ。そして——私に、すべてを託してくれました」
エリザベスは、窓の外を見た。
月明かりが、庭を照らしていた。
「私は、父の期待に応えたいです」
「あなたは、すでに応えています」
エドワードは、エリザベスの手を握った。
「あなたは、真実を取り戻しました。そして、これから——」
「これから?」
「これから、私たちは新しい人生を始めます。一緒に」
エリザベスは、エドワードに寄り添った。
「ええ。一緒に」
二人は、静かな夜を過ごした。
そして——
翌朝、エリザベスは決意を新たにした。
父の遺産を、正しく使う。
貧しい人々のための学校を作る。
孤児院を支援する。
そして——愛する人と、幸せな家庭を築く。
記憶を失った旅人として始まった物語。
でも、その旅は、終わりではなく始まりだった。
エリザベス・アシュフォード。
いや——もうすぐ、エリザベス・グレイソンになる女性。
彼女は、もう迷わなかった。
自分が誰なのか。
何をすべきなのか。
そして、誰と共に生きるべきなのか。
すべてが、明確だった。
庭のラベンダーが、春の風に揺れていた。
紫色の花が、まもなく咲くだろう。
その香りは、記憶を呼び覚ます。
失われた過去の記憶ではなく——
これから作る、未来の記憶を。
エリザベスは、エドワードと手を繋いで、庭を歩いた。
「エドワード」
「はい」
「私たちの結婚式、ここでしたいです」
エリザベスは、ラベンダーの花壇を指差した。
「ラベンダーが咲く頃に」
「素晴らしい考えですね」
エドワードは、微笑んだ。
「では、六月に」
「ええ。そして——」
エリザベスは、エドワードを見た。
「私たちの子供が生まれたら、この庭で遊ばせたいです」
「子供……」
エドワードの目が、優しく輝いた。
「ええ。男の子でも、女の子でも」
「どちらでも、愛します」
二人は、抱き合った。
未来が、明るく見えた。
困難も、あるだろう。
でも、二人なら乗り越えられる。
愛があれば。
信頼があれば。
そして——記憶があれば。
失われた記憶ではなく、これから作る記憶。
ラベンダーの香りと共に。
嵐を乗り越えた後の、穏やかな春の日々。
それが、エリザベスとエドワードの、新しい人生の始まりだった。
そして、遠い未来——
彼らの孫が、この庭で遊ぶ日が来るだろう。
ラベンダーの花を摘んで、香りを楽しむ。
そして、祖母が語る物語を聞くだろう。
「昔々、嵐の夜に、記憶を失った旅人がいました」
「その旅人は、優しい紳士に助けられ、愛を見つけました」
「そして、真実を取り戻し、幸せに暮らしました」
「その旅人が、あなたたちの祖母です」
子供たちは、目を輝かせて聞くだろう。
「おばあちゃん、すごい!」
「本当に、記憶を失ったの?」
「ええ。でも、それは呪いではなく、祝福だったの」
エリザベスは、微笑むだろう。
「なぜなら、すべてを失ったからこそ、本当に大切なものを見つけられたから」
「大切なものって?」
「愛よ。そして——自分自身」
子供たちは、まだ理解できないかもしれない。
でも、いつか分かるだろう。
人生は、時に記憶を奪う。
でも、それは終わりではない。
新しい始まりなのだと。
庭のラベンダーが、永遠に咲き続けるように。
愛も、記憶も、受け継がれていく。
世代を超えて。
時代を超えて。
そして——
嵐の夜から始まった物語は、
春の庭で、新しい章を開き続ける。
永遠に。




