第六話 ビスマルクの衝撃
――昭和十三年(1937年)
それは、もはや噂ではなかった。在独武官から届いた報告は、簡潔で、そして重い。
「独逸新造戦艦
主砲十五インチ級
排水量四万五千トン前後
条約非加盟のため制限なし」
艦名はまだ確定していない。
この一隻の存在が、ワシントン・ロンドン体制の前提を根底から揺さぶっていた。条約は、違反を想定していなかった。正確に言えば、**「加盟国が違反する場合」**しか想定していなかった。だがドイツは、条約に加盟していない。したがって違反ではない。しかし結果として均衡を破壊する。という、制度の外側から現れた存在だった。
昭和十三年秋。条約加盟五カ国による緊急会議が、パリで開催された。各国ともに意識する議題は明確だった。ビスマルク級の登場によってもはや条約型の新造艦は価値を失う。そうさせないために、軍備バランスと財政に目配りしながらエスカレーター条項を、どこまで作動させるのか会議室の空気は、重い。
日本代表団は、早い段階で立場を明確にした。「排水量のみの緩和では意味がない」「主砲口径こそが、戦艦の実質的な戦闘力を決定する」
日本側は、エスカレーター条項を最大限に適用し、
標準排水量:45,000トン
主砲口径:16インチまで緩和
とすることを正式に主張する。
これは拡張主義ではない。制度上、正当な要求であった。「自由設計の戦艦に対抗するには、同等以上の火力を制度内で認めるべきだ」という主張である。
これに対し、英国とフランスは共同歩調を取る。
「排水量の緩和は理解できる」
「しかし主砲口径の全面緩和は拙速である
15インチ砲が上限となるべき」
英仏が示した上限は、15インチ砲だった。理由は明確だった。既存の15インチ砲資産を活用できなくなる、16インチ競争は建艦費を急激に押し上げる。建造コストを抑えながら、同等の主砲なら充分対応可能という現実的な落としどころである。
フランス代表は密かに研究していたリシュリュー級が15インチを搭載する予定から、対独軍備バランスを維持するためにも英国案に乗った。
英国代表は、静かにこう述べる。
「一段階ずつ進むべきだ。
エスカレーターは、非常用である」
米国代表は、両者の主張を理解していた。技術的にも、戦略的にも、日本の主張が合理的であることは否定できない。しかし、国内世論がそれを許さない。
「条項は存在する。
だが、発動の是非は慎重に判断すべきだ」
米国は、結論を先送りする立場を取るが、英仏の意見にも押され、次第に同調する方針を取るようになっていった。
日本の立場としては16インチまでの拡大が最も望ましいものの、裏では15インチで妥協しても可能という議論も支持を集めていた。というのも、2年前に英国より輸入した15インチ砲の実射データをもとに新規開発中の新型15インチ長砲身砲で既存の16インチと変わらない貫通力を実現できる目処が立っていたからである。そして口径にこだわる艦隊派が力を失ったことも交渉における自由度を飛躍的に広げていた。
結局、英仏が押し切るかたちでエスカレーター条項についての議論はまとまり、実務者合意という形をとって以下のように纏められた。
・置き換えの新造艦に限り15インチ砲まで搭載可能
・排水量制限を40000tまで拡大
・条約加盟国は、新造艦への相互確認を実施
帰国後、艦政本部では静かな再検討が始まる。播磨型は、まだ14インチ砲のままで建造が進んでいる。だが、
バーベット径
砲座構造
船体強度
それらは、すでに次を見据えた数値で計算されていた。即座に新規開発中の15インチ砲について播磨型への搭載検討が始まる。14インチ3連装砲を15インチ3連装砲へと交換するのだ。
しかしながら、船体の工事がある程度進んだ一番艦、二番艦については船体防御力を強化する時間的余裕があるかどうかについては大激論となった。元々14インチ砲防御で設計されている艦を15インチ砲防御に引き上げるのは排水量や重量バランス、速力を一気に悪化させるデメリットを伴う。しかし、それらを整備して、竣工まで予定より時間をかけても完全な形で戦艦として竣工させるべき、という議論の戦いである。
ここは日本的な妥協の末、一番艦、二番艦については15インチ砲搭載のみで防御据え置き、来年起工の三番艦から船体設計を見直して抜本的改良を加えた改播磨型として整備する、という結論を見た。




