第十話 初任務と欧州での火の手
――昭和十四年(1939年)
播磨にとって、それはあまりにも静かな初任務だった。
中国沿岸。
鈍色の海はうねりも少なく、低く垂れ込めた雲が、艦の巨大な影を水面に落としている。播磨は、空母加賀の右舷外側を一定距離で保ち、規定通りの速力で淡々と航行を続けていた。戦時下ではある。だが、決戦の気配はない。任務は、沿岸部への艦砲射撃による制圧支援。航空作戦の補助であり、戦艦としては最も単調な仕事の一つだった。実際、艦内ではそれを「実戦」というよりも、「実地訓練」と受け止める者が多かった。
だが、播磨にとっては違う。それが、初めて戦時任務に就く瞬間だった。
「目標、沿岸部集落外縁。距離一万三千」
砲術長の声が、艦内放送に淡々と流れる。前部主砲塔の旋回音が、低く、規則正しく響いた。
三連装砲四基。
十五インチ砲十二門。
播磨の存在意義そのものとも言える主砲が、初めて実戦で装填される。装薬の重み、砲身の圧力、装填機構の唸り――
砲員たちは、一つひとつの動作を確認するように、慎重に持ち場を守っていた。
「一番砲、装填よし」
「二番砲、装填よし」
確認の声が続き、やがて、短い沈黙。
「撃て」
重低音が、海と空を揺らした。
巨大な衝撃が艦を貫き、砲口から吐き出された砲弾は、はるか彼方の大地へと飛翔していく。
着弾。
土煙が上がり、観測機から修正が入る。
再び、射撃。反撃はない。
対空砲火もなく、敵機の影すら見えない。それでも、砲員たちは汗を流し、測距員は数字を追い、艦橋では進路と風向を確認し続ける。
「……これが、戦争か」
若い兵の呟きは、誰の耳にも届かないほど小さかった。それでも、隣に立つ下士官は静かに答える。
「違うな。これは、戦争の端っこだ」
播磨はこの任務で、何かを沈めたわけではない。敵の砲弾を受けたわけでもない。だが、得たものは確かだった。
空母と行動を共にするということ。
艦隊の速力、進路変更の癖、警戒配置の間合い。
航空隊の発艦と帰投に合わせ、戦艦がどこに位置すべきか。
対空戦闘配置に就いた水兵たちは、双眼鏡越しに空を睨み続ける。
何も来ない。
だが、来ないことを確認し続ける――
それが護衛艦の仕事だということを、彼らは体で覚えていった。播磨はまだ、戦艦として試されてはいない。だが、艦隊の一部として戦場に存在するという感覚を、確実に積み重ねていた。
九月一日。
任務を終え、播磨が内地へ戻る航路についたその日、無線室に短い電文が届く。
「独逸、波蘭に侵攻」
最初は、誰も声を発しなかった。だが意味を理解した瞬間、艦内の空気が変わる。
――ついに始まった。
欧州の戦争は、遠い大陸の出来事ではない。
それは、ワシントン・ロンドン体制という薄氷の上に築かれた均衡が、ついに音を立てて崩れ始めたことを意味していた。
数日後、英国とフランスがドイツに宣戦布告。誰もが予期し、誰も止められなかった流れ。艦橋で報告を受けた播磨艦長は、双眼鏡を下ろし、静かに海図へ視線を落とした。
「いずれ、我々の番が来る」
その言葉に、反論する者はいなかった。
播磨は無傷だ。新鋭艦として、期待と注目を一身に集めている。だが世界は、確実に戦争へと傾いていた。この艦が、本当の意味で火力を問われる日はそう遠くない。
静かな航跡を残しながら、
播磨は次の時代へと進んでいった。
初任務は穏やかだった。
だが、世界はすでに、荒れ始めていた。




