第1話 吉備高原の風がふたりを結ぶ日
バスを降りた瞬間――
櫻は思わず息を呑んだ。
見渡す限りの緑。
澄んだ空気の向こうに、白い校舎と大きな寮棟が寄り添って立っている。
まるで、「ここから全部やり直せる」と言ってくれているみたいだった。
胸の奥がじわりと熱を帯びる。
入学式を終え、櫻は制服のスカートを整えながら
寮へ入るための案内を受けた。
鐘の音が静かな高原に響く。
校舎までほんの数十歩。
これからは毎日、ここで笑い、泣いて、眠るのだろう。
「櫻さん? あなたのお部屋はこちらですわ」
寮母に案内され、櫻は部屋の前に立つ。
胸が高鳴る。どんな人とルームシェアになるのだろう。
軽くノックをして、ドアを開けると――
「…………」
ブロンズがかった髪。
透き通るような薄い青灰の瞳。
制服のリボンを片手に、ひとり窓の外を眺めている少女。
振り向いたその横顔は、絵画のように美しかった。
「あなたが……同室?」
「あ、はい! 河野 櫻です。よろしくお願いします!」
櫻が笑顔を向けると――
「…………アネモネ」
音を置くように、短く名乗る。
けれど表情は硬く、目線はどこか警戒していた。
櫻は無理に話題を広げず、荷解きを始めた。
夕方、チャイムが鳴る。
『一年生は寮生食堂へ移動してくださーい!』
寮の出口を出ると、すぐ目の前に食堂と校舎。
本当に数秒。走ったら3秒で着く近さだ。
「行こう、アネモネさんも」
「……別に、ついてこいなんて言ってない」
ぶっきらぼうな言い方なのに、
少しだけ櫻の袖を掴んでついてくるアネモネ。
その仕草が、妙に可愛かった。
広い窓から、夕焼けが差し込む食堂。
新入生たちのざわめきと、漂う味噌汁の香り。
「好きな席、座ろう?」
櫻が言うと、アネモネは無言でコクンと頷く。
ぎこちないけれど、隣に座ることは拒まなかった。
「いただきます」
櫻が手を合わせると、アネモネの動きが止まる。
「無理しなくていいよ。私の真似とか」
「……勘違いしないで。やり方が分からないわけじゃない」
少し赤くなりながら、照れ隠しのように
アネモネも手を合わせた。
カチャ、カチャ――
スプーンの音だけがふたりの間を埋める。
……どれほどの沈黙が続いただろう。
ふと、アネモネの視線が櫻のトレイに落ちた。
「それ……甘いの?」
「あ、デザート? プリン。好き?」
「…す、好きじゃないけど。気になっただけ」
早口で否定してから、ぷいっと横を向くアネモネ。
櫻はそっとプリンを半分にし、彼女の皿へ滑らせた。
「よかったら、どうぞ」
「な……なに勝手に! 子ども扱い?」
「違う違うっ、仲良くなれたら嬉しいなって」
「……………」
アネモネは何かを言いかけて飲み込んだ。
そして小さくスプーンで一口。
「……っ」
驚いたように目が丸くなる。
「甘いの、嫌いだった?」
「………ちが、う……」
声が掠れている。
「ど、どうしたの?」
「…………、おいしい」
小さく、小さく。
今にも泣き出しそうな声で。
櫻は、その横顔が苦しくなるほど愛おしく感じた。
この子は――
どれだけ傷ついたら、そんな顔になるんだろう。
櫻はそっと、自分の胸に誓った。
この子を、一人にしない。
私が、彼女の居場所になる。
夕焼けの食堂で、ふたりの距離が
静かに、確かに、縮まり始めた。




