英雄の炎は、静かに、だが確かに燃え続ける。
空気が乾いていた。肌を撫でる風に湿り気はなく、肺腑に直接触れるような無機質さがあった。
空に広がる雲は、どれも灰白色で、まるで遠い場所で燻り続ける火の煙が、ここまで流れてきた名残のようだった。昼下がりの陽差しも、その厚い雲の奥で力を失い、地表に届く光はくすんで濁っていた。
この辺境の町に漂うのは、どこか遠い記憶を呼び覚ますような匂い――焦げた土と、錆びた金属と、いまにも消え入りそうな火の匂いだった。
グロースベルク。
大陸西縁の、地図にも載るか定かではない辺境の町。かつて戦場から逃げ出した者や、戦火に追われた人々が安住の地を求めて流れ着き、崩れかけた石壁と煤けた木材で、まるで貼り合わせるように日々を組み立てている場所だ。
町の東外れ、荒涼とした崖に張り付くように建てられた見張り台に、一人の男が腰を下ろしていた。
アラン・マクガバン。
その名を口にする者は、今ではほとんどいない。人々の記憶の底に沈んだ、遠い過去の名前だ。
男の顔には無精髭が伸び放題で、額には幾本もの深い皺が刻まれている。着ているのは、かつての軍用品と思しき、くたびれた外套。長年の風雨に晒され、本来の色は判別しがたい。
腰には、幾度となく戦場を共にしたであろう、鞘に収められた剣。その柄や鞘には、無数の傷跡が生々しく残っている。そして、指先には、白紙を丁寧に巻いた一本の煙草。
彼はゆっくりとそれに火を点けた。淡い煙が立ち上り、ただじっと、くすんだ空を眺めていた。
「また煙草かよ、あのオヤジ」
「昼間っから崖の上でボーッとしてやがって。あれで用心棒のつもりなんだから、笑えるぜ」
石畳の路地を歩く若い兵士たちが、明らかに聞こえるように、揶揄めいた声で言い捨てていく。彼らは真新しい革鎧に身を包み、無駄に大きく足音を立てて通り過ぎる。
アランは彼らに反応しなかった。あるいは、最初からその言葉を耳に入れていなかったのかもしれない。彼の視線は空から動かず、ただ、ふう、と煙を吐き出し、目を細めた。
――なんて平和な罵声だろう。
今は大きな戦争がない。血塗られた死もない。耳を劈くような悲鳴も、絶望的な命令も、踏みしだかれる血の海もない。かつて彼がいた場所とは、何もかもが違う。
誰かに頼られることもなく、ただ移ろいゆく空を見て、煙を吸い、日が暮れるのを眺めている。それが、彼がこの町で得た、静かな平穏だった。
――煙草ってのは、吸ってる間だけ時が止まるんだ
かつて誰かがそう言っていた。遠い過去の、もう顔も思い出せない誰かの言葉。
それが誰だったかも、いまではもう記憶の霧の中に消えてしまった。
アランは左手で咥えた煙草を軽く弾いた。燃え尽きた灰が小さな塊となって落ち、石垣の上に白く散る。町の風がそれに触れ、あっという間に攫ってゆき、崖の下へと消えていった。
(そろそろ……巻き足しておくか)
彼は腰の、使い込まれた革の小袋から、紙と乾いた草を取り出した。無駄のない動きで、指先が器用にそれらを扱う。何度も繰り返された熟練の動作だった。手元を見ずとも、紙の上に均等な厚みで草を乗せ、くるくると巻き終える。最後に舌先で紙の端を湿らせ、しっかりと封をする。
その手つきは、まるで長年使い込んだ兵器の手入れでもするように、滑らかで、そしてどこか厳粛だった。それは、彼にとってひとつの“備え”。来るべき何かに向けた、あるいは何も来ない日々をやり過ごすための、欠かせない儀式だった。
「アランさん」
小走りの弾むような音とともに、少女の呼びかける声がした。
振り返ると見習い薬師の娘、ミーナが立っていた。まだ十四かそこらの年頃で、背丈よりも大きな革鞄を、いつも体の横で引きずるように持ち歩いている。その鞄には、薬草や材料がぎっしりと詰まっているのだろう。
「やっぱりここにいたんだ。宿のおばさんがね、お昼を届けてくれって。冷めないうちに、だってさ」
ミーナはそう言って、布に包まれた器をアランに差し出した。
「ああ、ありがとよ」
アランは傍らに置いてあった、空になった金属製の缶を横に寄せ、温かな包みを膝に乗せた。湯気はもうほとんど立っていなかったが、手触りには温かさが残っていた。
「……ねえ、アランさんって、いつも煙草吸ってるよね」
ミーナが、遠慮がちに、しかし真っ直ぐな目でアランを見上げてぽつりと聞いた。興味というよりは、どこか心配の色が滲んだ、やわらかな声音だった。
「身体に悪いってうちの師匠が言ってたんだ。あんまり吸ってると、肺が真っ黒になるって」
「そりゃあ、死んだときにゃ棺桶がヤニ臭くなって、周りの人間に嫌がられるだろうな」
アランは、自嘲めいた笑みを浮かべて応えた。だが、その目はミーナを見ていなかった。どこか遠い空の彼方を、過去の光景を見ているようだった。
ミーナもそれ以上は何も言えず、ただ小さく頷いた。「じゃあ、またあとでね」と、鞄を引きずるようにして、再び小走りで去っていった。
再び静寂が戻る。聞こえるのは、遠く町の喧騒と、時折吹き抜ける風の音だけだった。
そこに残ったのは、アランが吐き出した煙の、乾いた匂いだけだった。
そしてアランはまた、火打石を取り出し、新しい一本に火を点ける。
ただの煙草――この町の誰もが、そう思っている。
彼もまた、何も言わない。わざわざ語る必要などない。彼の行動の裏にある、深い理由を。
この煙がなければ、自分はすでにこの世にいない。
戦場で、あるいはその後の長い放浪の旅路で、剣を捨てた哀れな男として、どこかで静かに死んでいたかもしれない。
だから、生きていることを確かめるように吸う。毎日、何本も。朝から晩まで。
身体の奥底に、かろうじて、擦り切れる寸前で残った“芯”のようなものを、かすかに温めるために。
燃やすためではない。
消えないために、ただ吸うのだ。
その日、町の空気はどこか張り詰めていた。いつもの活気はなく、まるで大きな獣が息を潜めているかのような、不穏な静けさがあった。
朝から吹いていた風は止み、空には鳥の影ひとつ見えない。普段なら賑わっているはずの市場も閑散とし、商人たちの荷車は軒並み道の脇に足を止めていた。いつもなら、昼過ぎには教会の鐘が鳴り響き、子どもたちの甲高い笑い声が狭い路地を跳ねていく時間だ。だが今日は、すべての音が消え失せ、妙に静まり返っていた。
アランは、まだ崖の上で煙草を咥えていた。
一本の煙草は短くなりつつあり、指先には使い込まれた道具のように、うっすらとヤニの色が焼き付いていた。
燃え残りを惜しむように、あるいは味わうように、ゆっくりと吸いきる。先端の灰が長くなったのを確認すると、石畳の上に向かって軽く弾いた。小さな火花がひとつ、石畳の隙間へと転がり落ち、やがて静かに、名残なく消えた。
「……におうな」
彼は、わずかに鼻を鳴らした。遠い戦場で幾度となく嗅いだ、血と硝煙の混じった空気を思い出すかのように。
風の中に、乾いた鉄の臭いがする。それは雨の匂いでも、血の臭いでもない。鋭く、どこか焦げ付いた刃物の臭い――それは、幾度となく彼の命の危機を告げてきた、戦いの始まる臭いだった。
町の西側、深い谷に向いた門の方角から、かすかに低い唸りが聞こえた。
地を這うような、胎動めいた声。あるいは、地の底、土の中から這い出てくる何かの、重々しい断末魔。
「おい、アラン! そっち、異常ねえか!」
息を切らして、駆けてきたのは、町の門番を任されている若い兵士だった。先ほどアランを揶揄した兵士の一人だ。
彼の顔は恐怖に引き攣っている。真新しい鎧も、その締め方がどこか甘く、実戦経験の乏しさを物語っていた。
「魔獣だって話があったんだ! 近隣の村が一晩で消えたって……っ」
若い兵士は言葉を続けようとしたが、声が上ずり、それ以上何も言えなくなった。
アランは彼の言葉には答えず、ゆっくりとした動作で立ち上がった。
片膝に重心を移し、全身の体重を支えながら、腰の鞘に手を添える――はずだった。しかし、彼の右手は鞘ではなく、外套のポケットへと向かった。
そして、そこから一本の巻き紙と、乾いた葉を取り出す。
「……なんで今、煙草巻いてんだよ!」
若い兵士が、我慢ならないといった様子で声を荒げた。それは怒りとも、理解できないものへの恐れともつかぬ、混乱した調子だった。眼前の危機を前にして、この男は何をしているのか。
「吸わなきゃ、始まらねえ」
アランは、まるで独り言のように、ぼそりと呟く。
声は、決して大きいものではなかったが、かつて無数の戦場を駆け抜け、幾多の血の匂いを吸い込んできた者が、魂の血の底から引き上げてくるような、低く、重い響きを孕んでいた。彼の言葉に、若い兵士は思わず口を噤んだ。
火打石の音が、カチリ、とひとつ響く。喧騒の中でも、その音は異常なほど大きく聞こえる。
巻きたての煙草の先端に火が灯り、そこから淡い煙がゆらゆらと昇った。
その時、谷の向こうで、大地を揺るがすような魔獣の咆哮が響いた。地鳴りとなってこの町まで届き、人々の足元を震わせる。
アランは、咆哮を聞いても眉一つ動かさず、ただ煙草を深く吸い込んだ。そして、ゆっくりと一歩前へと踏み出す。
崩れかけた石段を、重い体躯でしっかりと踏みしめる。彼はそのまま、再び空を見上げた。くすんだ空は、先ほどよりもさらに暗さを増しているように見えた。
「……一本分くらいは、稼がねえとな」
呟きは、あまりにも日常的で、目の前の危機とは不釣り合いだった。しかし、それは彼にとっての、戦いへの号令であり、覚悟の言葉だった。
戦う準備は――煙草一本分でいい。
それが、彼、アラン・マクガバンの流儀だった。
町の門は開いていた。それは、門番の油断からではなく、町の住民たちがこの危機から逃げ出すための、わずかな逃げ場を残すための判断だった。
この町の者たちは、戦いを知らない。組織的な魔法の訓練もなく、魔獣との本格的な交戦経験も乏しい。最後は決死の覚悟で門の先へと走り出さなければいけない。
そして、開かれた門の先――
深い霧に覆われた谷の斜面を、まるで這い上がるようにして、一頭の“それ”が姿を現した。
それは、熊にも似た、醜悪な巨躯だった。全身を覆う毛は、灰と泥にまみれ、無数の生き物の骨を歪な鎧のように纏っていた。その骨は、犠牲者のものか、あるいは魔獣自身が変質したものか。
目は完全に潰れているのか、白濁した眼球が虚空を見据えているだけだった。だが、その動きに迷いはなく、獲物の発する臭いと、地を這うような振動だけを頼りに、この町へ向かってくるようだった。
「……呪縛獣か。腐り果てた神の、見るに堪えねぇ落とし子め」
アランは咥えた煙草から、ひとつ、長いため息と共に煙を吐き出した。
ゆらりと立ちのぼる煙の形が、風もないのに歪む。それを見た呪縛獣が、何かを感じ取ったかのように、低く唸り声を上げた。
周囲の町の兵士たちは、その異様な姿と気迫に圧倒され、文字通り金縛りにあったように動けなかった。腰の剣を抜こうとして手が止まる者。ただ呆然と立ち尽くす者。逃げ出したい衝動に駆られながらも、足がすくんで動けない者。
逃げ出す者は……まだ、一人もいなかった。それだけが、この町の者たちが、この絶望的な状況下で保っている、わずかな誇りだった。
「アランさん、引いてください!前線は俺たちが――」
再び、先ほどの若い兵士が、震える声で叫んだ。勇敢な言葉だが、声には明確な恐怖が混じっていた。
けれどその声が最後まで言い切られるよりも早く、アランは動いていた。
静かに、しかし澱みなく、腰の剣を抜く。
剣速を誇るような素早いものではなかった。
むしろ、ゆるやかで、どこか優雅とさえ言えるものだった。それは、まるで礼拝堂で、聖なる火を灯すときに見せるような、深い慎みと、揺るぎない覚悟がそこに込められているかのようだった。鞘から抜かれた剣身は、くすんで光沢を失っていたが、その刃には、研ぎ澄まされたような鋭さが宿っていた。
そして次の瞬間、アランが踏み出した地面が、メキメキと音を立てて裂けた。
呪縛獣が、その巨大な口を開いて咆哮を上げるより早く、アランはたった一歩、前へ踏み込んだ。
踏み出した左足が、古びた石畳を深く抉り、地を揺るがすほどの重い音を鳴らした。その衝撃の余波が、町の門扉を大きくきしませた。
アランは剣を斜めに構え、そして、まっすぐ、寸分の迷いもなく振り抜いた。
一閃――
光速の閃光でもなければ、派手にすべてを焼き尽くす炎でもなかった。
ただ、空間が歪み、そして「斬られた」という“結果”だけが、圧倒的な事実として刻まれた。
呪縛獣の巨大な体躯が、まるで疾風に裂かれる紙のように、呆気なく崩れた。
体に刻まれた傷口は、たったひとつ。喉元から胸骨にかけて、浅く、しかし魔獣の生命の核を正確に断ち切った、致命的な一撃だった。咆哮は音になる前に潰え、巨体はそのまま、ゆっくりと、音もなく地面に沈んだ。
町の者たちは、その光景を目の当たりにして、誰一人として声を上げなかった。上げられなかった。
静けさこそが、いま自分たちが目にしたものの“正体”を、何よりも雄弁に物語っていた。こんなもの、ただの人が起こせる現象ではない。
「……煙草一本分。ちょうど、だな」
アランは、咥えた煙草の火が、まさに尽きかけようとしているのを見て、小さく呟いた。そして、燃え残りを、ぽとりと地面に落とした。
彼は静かに剣を鞘に戻す。カシャン、と乾いた音が静寂に響いた。
誰もが呆然と立ち尽くし、その場から一歩も動けない中、彼はただ、いつも通りの、重い足取りで歩き出した。
「まだ来る。煙草……もう一本、巻かねえと」
その背中には、英雄のような輝きも、勝利を告げる炎も、未来を照らす光もなかった。
けれど、それでも町の誰もが、彼のその背中から目を離すことができなかった。
煙の向こう側――
そこに、“何かを燃やし続けている男”の姿があった。
呪縛獣が絶命したことで、町に一瞬の静寂が訪れた。しかし、それは嵐の前の静けさに過ぎなかった。
門の向こう、濃い霧に覆われた谷の奥。
炎に揺れる陽炎のように何かがゆらめいている。先ほどの呪縛獣のような、単なる獣の気配ではない。あの獣はこの気配に追い立てられてきたのだろう。呼吸をするたびに、血と鉄の臭いが濃くなった。
アランが煙草を指先でもてあそんでいると、それまで止まっていた風向きが、ふいに変わった。
谷底から吹き上がってきた風とともに現れたのは、見慣れない若い男だった。
透き通るような、白銀の髪。
鮮血のような、真紅の外套。
白馬のような、だが、捻れた長い角を持つ獣にまたがっている。
背に携える大振りの魔剣は実戦よりも、儀式やパレードに使われるような、派手で華美な意匠が凝らされていた。
だが、それがこの男が戦いを軽んじているわけではないと、その鋭い眼差しと、隙のない佇まいが雄弁に物語っていた。
「……“焔の英傑”リース・クローディア」
町の兵士たちの間で、誰かが息を呑むようにその名を呟いた。
リース・クローディア。近年、にわかにその名を馳せている若き魔剣士。
大陸東域で、旧体制の三つの巨大な城砦を一月もかけずに落とし、新しい秩序と力こそが正義だと掲げた“英雄”。しかし、そのやり方は苛烈を極め、抵抗する者や彼の思想に賛同しない者には容赦なく、何よりも“旧き力”を徹底的に否定し、排除すると公言していた。
ここは、旧き力が眠る街。
そして、旧体制から逃げ出した者たちの街。
リースは、新たな生き方を見つけた者たちすら、逃がす気はないのだろう。
「なるほどな」
アランは、新しい煙草を巻きながら、どこか他人事のように言った。彼の視線は手元に落ちているが、意識は谷の向こうの男を捉えている。
リースは、町の兵士たちの群衆ではなく、最初からアランだけを見ていた。その目は、獲物を見つけた鷹のように鋭かった。
「グロースベルクは……旧き火を抱えた町だ」
リースの声は若々しく、凛として、よく通った。
「ここに燻ぶる火種は、もう必要ない。旧態依然とした力など、新しい時代には相応しくない。俺たちの火は、もっと大きく、もっと速く燃え広がる」
「それで、焼け跡しか残らなかったら笑えねぇな」
アランは、巻き終えた煙草に火を点けると、深く、肺の底まで煙を吸い込んだ。
周囲の兵士たちはリースの言葉に身構え、剣に手をかけた。アランはただ、いつも通りに、ゆっくりと煙を吐き出すだけだった。
彼の吐き出した煙は、奇妙なことに、風もないのにゆらりと大きく揺れている。
「旧い火は、ただ消えるだけじゃねぇ。燻っていても火種になる。燃え残った灰の底にこそ、次を灯す種があるんだ」
その言葉に、リースは鼻で笑った。嘲るような、明確な侮蔑を含んだ笑いだった。
「譫言だ。……お前の吐き出す煙など、時代を腐らせるだけだ。新しい火に、古い煙など不要。俺が――」
そう言い放った彼の手に、背負っていた魔剣が握られる。柄に埋め込まれた、人の握りこぶしほどもある巨大な宝石が、周囲の魔力を喰らい始める。ギィ、という奇妙な音と共に、刃がうっすらと赤熱しはじめた。
リースの周囲には、いつの間にか獣たちが現れていた。先ほどの呪縛獣のような、自然発生的な存在ではない。明確な形状を持ち、リースの一挙手一投足に神経を集中させている。制御された軍勢――完全な意志に従う“召喚獣”たちだった。グリフォンに似た鳥、影を纏った狼、岩のような甲殻を持つ獣。それらはリースを護衛するように、あるいはアランを威嚇するように、低く唸り声を上げ始めた。
「煙草、一本分。……こいつは、もたねぇかもな」
アランは、咥えた煙草から煙をくゆらせながら、ゆるやかに立ち上がった。
それは、老いた者が骨を軋ませながら立ち上がるような動きではなかった。
戦場に立つ者が、すべての雑念を払い、来るべき闘いに向けて重心を定めるような、重く、静かな、そして圧倒的な覚悟の姿だった。彼の纏う外套が、わずかに風に揺れた。
「なあ、坊主――」
剣の柄に、右手が触れる。すぐに握り込まれることはなく、ただそこに置かれただけだった。
アランは、谷の向こうに立つリースの目を真っ直ぐに見つめながら問うた。
「お前のその“新しい火”ってやつは、自分の身体ごと知人や友人、家族を……燃やし尽くすかもしれないと考えたことがあるか?」
リースの目が、挑戦的な光を宿して細くなる。アランの言葉の真意を図りかねているようだった。
「……黙れ」
そして――戦いの幕が、音もなく、しかし決定的に開かれた。
斬撃の音は、空気そのものを裂いた。リースが握る魔剣が描いた一閃は、赤熱を帯び、触れた地を焼き焦がすほどの強大な魔力の痕を残しながら、一直線にアランを捉えた――はずだった。
だが、その剣は、何も斬らなかった。
アランは動いていなかった。リースの剣が喉元を掠めるほどの距離まで迫った瞬間も、彼はそこに立っていた。
ただ、咥えた煙草の煙を深く吸い込み、ゆっくりと、まるで時間そのものを操るかのように、それを吐き出しただけだった。
「……なんだ、今のは?」
リースの声が、信じられないものを見たかのように低くなる。顔には明確な困惑が浮かんでいる。
魔力の奔流は確かに感じられた。放った斬撃も、剣の加速も、すべてが完璧だった。訓練で何千回、何万回と繰り返した、間違いのない一撃だった。
「一本じゃ、足りなかったか」
アランはそう言って、咥えた煙草の火が尽きかけているのを確認し、ぽとりと地面に落とした。
彼の手は、すでに次の煙草を巻き始めている。外套のポケットから紙と草を取り出し、慣れた指先でくるくると巻いていく。
焦る様子は微塵もない。これから起こる激しい戦闘とは無関係な、静かな手仕事をしているかのようだ。
リースが痺れを切らした。理解できない状況と、アランの悠然とした態度が、彼の誇りを傷つけた。
「貴様……ッ!」
怒りに顔を歪めながら、再び魔剣を大きく振りかぶる。柄の宝石がさらに強い光を放ち、刃がより鮮やかな赤に染まる。
同時に、リースの召喚獣たちが動く。
影を纏った黒狼が四方から低く唸り声を上げながら突進し、グリフォンに似た鳥が風を巻き起こしながら鋭い風刃を突き上げる。
次の瞬間、それらは映像が乱れたかのように、“消えた”。
煙がゆらりと立ちのぼった場所から、真っ二つに斬られた召喚獣が、形を保てずに崩れ落ちる。影狼はそのまま影に還り、風刃は霧散する。
誰もアランが剣を抜いた瞬間を、その刃が召喚獣を斬り裂いた瞬間を見ていない。ただ、煙が立ち上り、獣が消滅した、という結果だけが目の前にあった。
「何を……した……」
リースが、絞り出すような声で呟いた。
目の前の男がなぜ、ただ煙草を吸いながら、自分の放つ最強の攻撃をいなし、そして召喚獣を、剣を抜いたことさえ見せずに斬り伏せられるのか。そのカラクリが、全く見えない。
アランの目は細く、感情の読み取れない、淡々とした光を宿していた。まるで、目の前の出来事を、遠い岸辺から眺めているかのようだ。
「……火を、絶やさねえようにしてるだけだよ」
彼はそう言って、再び新しい一本に火を点ける。火打石がカチリと鳴り、煙が静かに立ち上る。
アランの全身が、一瞬だけ、薄く、しかし確かに光を帯びたように見えた。それは、まるで消えかけの炎が、最後に強く燃え上がる瞬間のようだった。
リースが小さく息を呑んだ。
紛れもない、強大な魔力の“反応”だった。
何かが決定的に、おかしい。
「お前何を……!」
リースが、叫びかけたその瞬間、アランが一歩、踏み出す。
踏み込みは、音もなく。まるで幽霊のように、その場にいたはずの存在が、次の瞬間には目の前に移動したかのようだ。
だが、剣が鞘から抜かれたとき、その場の空気がすべて――絶対零度になったかのように、凍った。時間も、音も、すべてが止まったかのような錯覚に陥る。
「そろそろ一本分、溜まったみてぇだ」
その声が、凍りついた空気を破るように響いた。まるで、長い眠りから覚めた古代の戦士の言葉のように、重く、そして静かだった。
アランの剣が、文字通り空を割った。
リースは咄嗟に防御を試みた。
全身に展開される、最高硬度の魔力障壁。皮膚を鋼鉄に変える硬化魔法。足元には、召喚陣を重ねて作り上げた魔力を中和する結界。彼は持てるすべての防御手段を、瞬時に展開した。
だが、そのすべてが――意味をなさなかった。
アランの剣が振るわれたという“現実”だけが、そこに、絶対的な法則として刻まれた。防御など、最初から存在しなかったかのように。
次の瞬間、リースの足元、彼が立っていた場所に、斜めに、あまりにも鋭利な裂け目が走った。それは、単なる傷ではなく、空間そのものが断ち切られたかのような断絶だった。
そして遅れて、リースの体の肩口から、胸の中央にかけて赤く滲んだ線が、まるでペンでなぞったのように浮かび上がった。痛みはまだ来ていない。しかし、その線が何を意味するか、リースは瞬時に理解した。
戦いの終わりは、いつだって静かだ。
力の大小ではない。技の優劣でもない。
ただ、火が尽きる瞬間の、あの、鈍く、そしてやわらかな沈黙。
アランは静かに剣を鞘に戻した。カシャン、と再び乾いた音が響く。
そして、咥えた煙草から、ゆっくりと煙を吐き出した。
彼は、地に伏したリースにも、呆然とする町の兵士たちにも、その言葉を向けることなく、ただ静かに言った。
「俺の火は、長く燃えねぇ。擦り切れて、いつ消えてもおかしくねぇ。ただ……完全に灰になる前に、ひとつだけ、この世に、燃やし残してたもんがあってな」
空に、細く長い煙が残っていた。
地に伏したリースは、かすかに息をしていた。意識は朦朧としているが、まだ生きている。
その男がどこまで計算していたのか、それともただの気まぐれだったのか、倒れたリースにも、その場にいた誰にも分からない。彼の纏う煙のように掴みどころのないものだった。
「……なんで……こんな、やり方を……」
リースが、掠れた声で問いかけた。
アランはリースの問いに答えなかった。ただ、火の落ちた煙草の吸殻を指先でつまみ、石畳にぽとりと弾いた。
くすぶる火種が、コロリと音を立てて転がった。それはすぐに、灰となって静かになった。
「それ、何なんだ……」
リースの目が、灰になった吸殻を見つめていた。その目には、まだかすかに知性の光が宿っていた。
アランは一拍、間を置いてから、当たり前のことを言うかのように言った。
「だよ」
リースの目が、驚愕に見開かれた。そして、場の空気が一瞬、凍りついたかのように張り詰めた。魔力草。強力な魔力を持つが故に、直接摂取すれば体を焼き、扱いは非常に困難だとされる禁忌に近い植物だった。
「……お前、それを……ずっと……!」
アランは、ゆっくりと頷いた。
「昔の戦でな、喰らった傷が深くてよ。体の魔力の循環の道が潰れちまった。吸っても、溜めても、すぐに体の外に流れちまう。穴の空いたバケツみてぇにな。だから、こうやって……魔力草を細かく刻んで煙草にして、少しずつ吸い込んでんだ。燃える速度を調整して、一気にじゃなく、ちょうどよく、弱い火を焚くみてぇに、体に魔力を送り込む。そうしなきゃ、魔力を使うどころか、生きてることも難しかった」
リースは言葉を失った。目の前の男が、どれほどの絶望的な状況で、どれほどの期間「煙草」という奇妙な方法で、自らの命と力を繋ぎ止めてきたのか。
煙草――それはただの嗜好品などではなかった。彼にとっての、唯一の、そして絶対的な補魔手段だった。戦うために、剣を振るうために、この荒廃した世界で、かろうじて人間として、戦士として、命を維持するために、彼は吸い続けていたのだ。
「魔力の道は折れてるが、根っこはまだある。燃え尽きちゃいねぇ。あとは……どこまで吸って、どこで燃やすかだけの話だ」
アランはそう言って、外套の内ポケットから、最後の一本を取り出した。それは、先ほど巻いていたものだ。
指先で、煙草を丁寧に、慈しむように撫でながら、遠い空を見上げる。
「一本吸いきるまでに、カタをつけりゃ、俺の勝ち。吸いきれずに死んだら、まあ、負けだな。それだけの話だ」
彼の指先が、かすかに震えていた。それは弱さではない。限界に挑む者の、あるいは、その限界が近いことを知っている者の震えだ。
火を点けるとき、火打石の音が一度、失敗した。カチリ、と空振りの音が響く。
二度目の火花は静かに灯り、紙の端がじわりと赤く染まった。淡い煙が再び立ち上る。
「なあ、坊主」
アランは、倒れているリースに向かって、静かに、力強く言った。
「新しい火も、悪かねぇ。お前の炎は、眩しくて、強い。でもな――煙の下から生まれる火もある。灰の中で、燻り続ける火種もあるんだ。それを忘れねぇでくれや」
言葉はそれだけだった。それ以上、多くを語らない。自らの苦労を訴えない。誰かに何かを託すことも、期待することもない。
ただ、一本の煙草の火が、彼の指先で静かに揺れていた。
誰も止めることはできない。止めようとも思わない。
それが、アラン・マクガバンという男の、戦い方であり、生き方であり、そして、最期の火の燃やし方だった。
煙草の火が尽きるとき、男は静かに背を向けた。
腰に剣を穿き、歩き出す。足取りは、重いが、揺るぎない。
道の先には何もない。かつての仲間も、故郷も、安息の場所もない。
だが、それでも彼は歩いた。
彼の吐き出した煙の奥に、まだ残っている、ほんのかすかな火を――灰の下に隠された、次代を灯すかもしれない火種を――誰かに託すために。あるいは、それが本当に存在するのか、自らの足で確かめるために。
彼の姿は、やがて町を覆う夕闇の中に、ゆっくりと溶け込んでいった。
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