第98話 夢が覚めたら、また一緒に行けばいいじゃない
透明感のある澄んだ夜空の下、僕とマリーは肩を並べて王都の街並みを見下ろしていた。
眼下に広がる王都は、幾重にも重なる屋根瓦が月光を受けて銀色に輝き、石畳の道には街灯の暖かな橙色の光が規則正しく連なる。
商店街の看板や教会の尖塔、噴水を中心とした広場まで、すべてが調和を保ちながら夜の静寂に包まれていた。
そして視線の先、遥か彼方には雄大な山脈が黒いシルエットを描く。
顔を出した月明かりに照らされた峰々は神秘的で、その険しい輪郭が夜空に浮かび上がっていた。
あの山脈の向こうで、僕達はエンシェントドラゴンを倒したんだ。
「私達、数日前はあそこにいたんだね」
マリーは山脈の方角を指差す。
まだ一週間も経っていないというのに、あの冒険の日々が懐かしい。
遠い過去の出来事のような気がしていた。
「なんだか、夢みたいなのよ。現実感がないの」
マリーの瞳が星明りと街の灯火を映し込んで、宝石のようにきらめいている。
「私はずっとこの景色を、ここで見ているだけだった。それが街に降りて、冒険者になって、あの山の向こうで、ドラゴンと戦ったなんて————普通、信じられないわよね」
あはは、と笑うマリー。
ここから眺められる範囲だけが、これまでの彼女の世界のすべてだった。
王宮の高い塔から見下ろす美しい景色こそが、彼女にとっての王国の全貌だったのだ。
山の向こう側に広がる未知の大地も、洞窟の奥深くに潜む秘密も、そこで懸命に生きている名もなき人々の営みも————
何一つ知る由もなかった。
それが、実際にその足で歩き、五感で感じ、心で受け止めた今————マリーの目に映る世界は、根本から変わったのだ。
「夢のような時間が終わって、こうして王女に戻ったけど、思い出はちゃんと胸に残ってる」
大切な物を抱きしめるかのように、マリーは両手で胸元を押さえる。
「これも全部、クロのおかげ。私に大切な宝物をくれて、ありがとうね」
彼女の心からの感謝の言葉が、夜風に乗って僕の耳に届く。
その温かい想いは確実に胸の奥まで浸透し、幸福感で満たしてくれた。
だが同時に、どこか引っかかるものを感じずにはいられない。
どうして、そんな言い方をするんだ。
まるで、永遠のお別れのような、すべてが過去の思い出として片付けられてしまったかのような、そんな響きがあった。
「じゃあ、戻ろう? 私の立場的に、あんまり席を外すと怒られちゃうから————」
「待って!」
咄嗟に、僕は彼女の腕を掴んでいた。
ここで引き止めなきゃ、もう二度と話せなくなると、そう思ってしまった。
一瞬の静寂で、緊張感が跳ね上がる。
彼女の上目遣いが、勢いで喋りかけた僕の口を詰まらせた。
でも————ここで伝えなきゃ。
僕の思いを。
僕の願いを。
「————僕もこの数ヶ月間で、たくさんのものをもらいました」
何を話すかを考える暇はなかった。
ただ心が思うがままに、口が動き出す。
「冒険者の可能性に気づかせてくれたのは、マリーでした」
僕はずっと勇者の戦い方に固執していた。
これこそが、僕の目指すべき場所なんだって。
でも、違う道があると教えてくれた。
僕にしかできないことがあるということを、教えてくれた。
「冒険で見たさまざまな光景————いや、それだけじゃない。日常のちょっとしたこととか、人の温かさとか、世界がこんなに綺麗なことを教えてくれたのも、マリーでした」
君が全てのものに興味を持つから、冒険の中であらゆる景色が見えるようになった。
高い山頂から望む雲海の壮大さ、深いダンジョンの奥に隠されたオアシスの神秘的な輝き、地上では決して出会えない珍しい生物————
こんなにも綺麗なものがあるなんて、今まで気づかなかった。
街の人達もそうだ。
宿の老夫婦、同業の冒険者達、シアターの劇団員————
君がどんな人達にも、リスペクトを持って接するから。
街を行き交う人々みんなが親切で素晴らしい人間に見えるようになった。
君を通して見るだけで、世界が変わって見えた。
こんな経験をしてしまったら、もう元に戻れないよ。
「でも僕は—————君となら、もっと色んなものを見られると思うんです」
僕は前に進み出て、目の前の彼女に訴える。
僕の願いは、ただ一つだった。
もっと君と一緒にいたい。
君の隣に立っていたい。
君と————————
「マリー。僕と————僕達と一緒に、旅を続けてくれませんか?」
僕はそう言って、マリーに手を差し出した。
世界が静止したかのように、時間の流れが止まる。
さわやかな夜風の音も、草むらで鳴く虫たちの声も、すべてが遠ざかっていく。
まるで僕たち二人だけが取り残されたような、不思議な静寂に包まれた。
ありったけの思いだ。
僕の中にある感情全てを、そこに吐き出した。
体が熱い。
一度は落ち着いたと思っていた心臓が、再び早鐘を打つように激しく鼓動し始めた。
もはやこの動悸を————ダンスの疲労のせいにすることはできない。
マリーは、どう思うだろうか。
僕の手を、取ってくれるだろうか。
覚悟を決めて、僕は固く閉じていた瞼をゆっくりと開く。
そこには————————
「————ごめんね」
そこには、寂しい表情を浮かべる、王女マリーの姿があった。
読んでくださりありがとうございます。
主人公がこの先どうなっていくのか、ぜひこれからも見守ってあげてください。
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