第90話 帰ってきたなら、ただいまって言えばいいじゃない
深い眠りの淵で、私は夢を見ていた。
輪郭の曖昧な、まるで霧に包まれたような幻想的な夢。
場所も時も定かではない空間で、私と名も知らぬ誰かが静かに向き合っている。
その人の顔は靄がかかったように見えなかった。
「だぁれ……?」
突然、優しい手のひらが私の頭に触れた。
その感触は不思議なほど懐かしい。
まるで幼い頃に感じた安らぎが、時を超えて蘇ってくるような気がした。
「あなたは誰なの……?」
私の問いかけに答えることなく、その人影はゆっくりと遠ざかっていく。
まるで朝靄が日の光に溶けていくように、その姿は次第に薄れ、やがて完全に見えなくなってしまった。
待って。
待ってよ。
お兄ちゃん————————
*
私は静かに目を開けた。
瞼を持ち上げると、見慣れた王宮の天井が視界に飛び込んできた。
精巧な装飾が施された白い天蓋が、柔らかな朝の光を受けて優雅に輝いている。
いつもの落ち着く匂いだ。
まるで、あの命がけの冒険が全て夢の出来事だったかのように、この空間だけは何一つ変わることなく、存在した。
「おはようございます。マリナス様」
その時、部屋の隅から馴染み深い声が響いてくる。
この声もまた、私の変わらぬ日常の一部だった。
振り向くとそこには————私の専属メイド、テレシーが立っていた。
「気分はいかがですか? お帰りになってから二日間寝込んでおられました」
テレシーは相変わらず、一糸乱れぬ清潔な制服に身を包んでいる。
髪は丁寧に結い上げられ、立ち居振る舞いの一つ一つに品格が宿っている。
いつも通り丁寧だけど、無愛想な所作。
でも、どこか温かみを感じる仕草だった。
ああ、やっぱり————
私は帰ってきたのだ————
心の底から湧き上がる喜びが、胸いっぱいに広がっていく。
「食欲はありますか? どこか痛いところは————」
テレシーの丁寧な問いかけは、そこで不意に途切れた。
私がベッドの上で彼女の方を向き直り、両腕を大きく広げていたからだ。
「ん」
「マリナス様……私は使用人の身でして、このようなことは————」
「いいから!」
私は頬を膨らませ、子供のようにテレシーにねだった。
この瞬間だけは、王女でも、冒険者でもない。
テレシーの前では、私はただの一人の女の子になることができる。
それが何より嬉しくて、何より大切なのだ。
しばらく手を広げて待っていると、テレシーは観念したようで————いや、我慢をしなくなったみたいで、私の方に駆け寄る。
そして、私の事を抱きしめてくれた。
「おかえりなさい……マリナス様……!」
「ただいま! テレシー!」
私はテレシーの細い体を力いっぱい抱きしめ返し、彼女の温もりを全身で受け止めた。
生きて帰ることができた喜び。
再び大切な人に会えた安堵。
そして何より、自分には帰るべき場所があるのだという幸福感が、胸の奥深くにじんわり広がっていた。
こうして、私は伝説の勇者と共にグランドクエストを達成した。
そして————お父様との約束を果たしたのである。
読んでくださりありがとうございます。
主人公がこの先どうなっていくのか、ぜひこれからも見守ってあげてください。
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