第56話 馬鹿にされたら、キレればいいじゃない
西の空に沈みゆく太陽が、王都の赤煉瓦と白亜の屋根を黄金に変えていく。
石畳の街路には濃い影が織物のように交差し、建物が一つまた一つと灯り始める。
風景の移り変わりが、今日一日の終わりを告げていた。
「今日は付き合ってくれてありがとね」
私はクロの顔をちらりと見上げながら、自然な声で言った。
はしゃぎすぎで、私が途中で寝てしまい、クロとお母様の一対一にしてしまったわけで。
他人の母親の二人の空間というのは、かなり気まずかったのではないだろうか。
だが、そんな心配も必要ないほど、クロは清々しい表情をしていた。
「別にいいですよ。僕も……楽しかったです」
マリーのお母さん————クセル様と話せて、よかった。
彼は照れたような笑みを浮かべ、片手で首筋を掻きながら肩をすくめる。
黒髪が夕風に軽やかに揺れていた。
そんなに話が弾んだのだろうか。
予想してなかったクロの反応に、私は少し怪訝な表情を浮かべる。
「私が寝ちゃった後、お母様と何話してたの?」
「え? あ、いやぁ……何も?」
クロの目が明らかに泳ぎ、頬に薄っすらと赤みが差した。
その慌てぶりが余計に怪しく見える。
「何もって何よ。ちょっとぉ、何隠してるのよーー!」
なんか変なこと話してないでしょうね……?
私の恥ずかしい……その、なんかとか……?
少し気になり、根掘り葉掘り問い詰めたくなるところだが、このくらいでやめておいた。
焦って口ごもる彼の表情が、少し可愛かったから。
クロのことだから、変なことは言っていないと信じられる。
夕暮れの街を並んで歩きながら、私は胸の奥に小さな温もりが灯るのを感じている。
こうして何気ない会話を交わし、同じ歩調で石畳を踏みしめていることが、とても自然で、とても嬉しい。
そんな風に思うようになっていた。
だが————そんなひとときは、唐突に壊される。
「————あら……まあ。マリナス王女様ですわ」
いやらしく、ねじれた声が背後から降ってきた。
振り返ると、豪奢なドレスをまとった令嬢が、私たちをまるで見下すような目で眺めていた。
扇を片手に持った優雅な立ち姿、その美しい顔に浮かんだ表情は冷笑に満ちており、明らかな敵意が宿っている。
彼女の左右には、やはり華麗な装いの令嬢が二人控えており、主人に倣うように猫のような意地悪な笑みを湛えていた。
確かこの人達は王国東側の貴族。
レーヴァンシュタイン公爵家の派閥に属する令嬢達で、反王妃派だ。
私に対しても、会う度に嫌味を言ってくる人だった。
「マリナス様、冒険者のままごとは順調かしら?」
その一言で、場の空気がピシリと凍った。
そうだ————ここはもう王宮の領域内。
一挙手一投足が、権力争いに使われる政治の舞台なのだ。
私は瞬時に気持ちを切り替え、王女としての仮面を顔に貼り付けると、背筋を伸ばして一歩前に出た。
「ええ、おかげさまで。充実した日々を過ごしておりますわ」
微塵の動揺も感じさせないように、私は平坦な口調で答える。
しかし、令嬢の目がにたりと弧を描き、小馬鹿にするように口元に手を持っていった。
「冒険者業が充実してるですって。やはり平民の娘は、心まで平民ね」
「田舎の豚小屋の匂いがしますわ〜」
取り巻きの一人が甲高い声で言い放つ。
その瞬間————私の横でクロの肩がぴくりと震えるのが見えた。
「ちょっと————」
彼の拳がきつく握られているのに気づいた私は、そっと手を伸ばし、彼の腕に触れて静止させた。
「やめときなよ……こんな所で突っ掛かったら、きっと面倒なことになるわよ」
小声でクロのことを落ち着かせる。
クロは多少苦い表情のままだったが、黙って引き下がってくれた。
だが、その様子が面白く映ったのか————令嬢達の声が大きくなった。
「まあ、こんな野良犬みたいな冒険者を王宮内に入れるなんて、穢らわしいわね」
調子に乗った令嬢達が、ねちねちとした言葉を次々に投げかける。
彼女達の声は次第に大きくなり、やがて、周囲の注目を集め始めていた。
「身の程知らずよね。きっと、なんの取り柄もない、雑魚の冒険者が」
「どうせ思いつきで冒険者を始めたに違いないわ。だって全然強そうに見えないもの」
クロの表情から感情が消失していく。
まるで灯火が吹き消されたように、彼の顔は無表情の仮面と化した。
だが、こんな場所で大声で嫌味を言われて、何も思わないはずがない。
「きっとあれだわ。マリナス様に取り入って、あわよくばって所かしら。下賤な平民の考えることだわ————でも……だとしたらお似合いよね」
————そこまで聞いて、私の心は決まった。
はぁと、深く息を吐いて視線を少し下に落とす。
そして、私は再びクロの肩をトントンと叩いた。
「————安心して。ちょっと行ってくるから」
「マリー……?」
クロの困惑した声を背に、私は笑顔の仮面を完璧に保ったまま、令嬢達に向かって歩みを進めた。
カツカツとヒールの音を鳴らしながら、令嬢達の手前で止まる。
そして、張り付いたような満面の笑みを浮かべて————
「んふふふ————歯を食いしばれぇ!!!」
「ちょちょちょちょ! マリー!」
私は大きく手を振りかぶった。
嫌な予感を瞬間的に察知したクロが、慌てて私の腕を掴む。
「ちょ、マリー! 落ち着いて! 殴っちゃ駄目です————」
「何にも知らないくせに!!」
私はクロの制止の声を振り切り、口調を強くして声をあげる。
「何にもしらないくせに、勝手なことばかり言って!! クロはそんな人じゃない!!」
私の声は王宮の回廊に響き渡った。
もはや王女の品格などどうでもいい。
ただ、何にも知らないこの人達が、クロのことを罵倒するのが許せなかったのだ。
気づけば、周囲には数人の侍女や衛士達が立ち止まり、こちらを見ており、廊下はちょっとした騒ぎになってしまっていた。
「もういいですって!」
クロは私の肩を強く引き寄せ、令嬢たちから引き離す。
その隙に、令嬢たちは慌てたように踵を返し、取り巻きと共に足早に立ち去っていった。
彼女達のドレスの裾が石畳を掃きながら遠ざかっていく。
廊下には、ひそひそと陰口が飛ぶ嫌な空気だけが残った。
「————マリーが、そんなに怒らないでください」
「でも……」
反論しようとした時、クロと目が合う。
心配するような、泣きそうな顔がそこにあった。
これ以上、私に怒ってほしくないと————
「————ごめんね」
彼のその表情を見た瞬間、肩の力が抜けてしまった。
周りを囲んでいた侍女や衛士達がやがていなくなり、廊下に私とクロだけが取り残される。
楽しかったはずの休日が、苦いものになった。
読んでくださりありがとうございます。
主人公がこの先どうなっていくのか、ぜひこれからも見守ってあげてください。
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