第36話 大事な人を見捨てたくないなら、人格を変えればいいじゃない
「お母さんおかえり!」
「ただいま〜〜我が子よ〜〜!」
母は豪快に私を抱き上げた。
その瞬間、古いアパートの床板が重々しく軋む音を立てる。
日に焼けた母の腕は、一日の労働の疲れを纏いながらも、確かな温もりで私を包み込んだ。
この軋みも、母の抱擁も、既に私達の日常の一部となっていた。
「双葉! 今週末、どこか出かけよっか?」
「え!? いいの? でもお母さん忙しくないの?」
「大丈夫! お母さん今週お休み取れたから!」
「ほんとに! やったーー!」
母の顔に浮かんだ笑顔は、まるで太陽のように部屋全体を明るく照らした。
狭い六畳一間のアパートが、その瞬間だけは広い世界のように感じられる。
私がまだ物心もつかない幼い頃、両親は離婚した。
それ以来、母が女手一つで私を育ててくれていた。
朝は家事をやり、昼は一日中働き、夜は私の面倒を見てくれる。
そんな忙しい日々を、母は一度として嫌な顔を見せることなく過ごしていた。
「お母さん……これからも頑張るからね! そしたら、双葉ともっと遊べるようになるから!」
「うん!」
なんて事のない二人暮らし。
世間一般から見れば決して裕福ではない生活だということは、幼いながらにも理解していた。
それでも、母と過ごす日々は確かに幸せで満ち足りていた。
小さな部屋に響く二人の笑い声が、私にとっての全てだった。
あいつが来るまでは————
「おらぁ! いるんだろう!!」
私が七歳になった頃から、元父親が家に押しかけてくるようになった。
玄関を乱暴に叩く音が響くたび、母の表情は一瞬で青ざめ、私の心臓は激しく跳ね上がった。
「————ごめんね……押入れに入っててね」
「う、うん……」
母に促されるまま、私は押入れの奥へと身を潜めた。
古い畳の匂いと埃っぽい空気に包まれた暗闇は、まるで世界から切り離された孤独な空間だった。
そんな漆黒の闇の中で、母の悲鳴だけが鮮明に聞こえてくる。
壁越しに響く怒声と、何かが倒れる音。
私は小さく震えながら、なんとか耳を塞いで、できるだけ聞こえないようにしていた。
あの真っ暗で身動きの取れない空間が、私は心の底から嫌いだった。
無力感と恐怖が混じり合った、息苦しい牢獄のような場所だった。
「お母さん……顔……」
「心配いらないって! これはね、勲章なの! 今日も双葉を守れたっていうね!」
翌朝、頬に青あざを作った母は、それでも満面の笑みを浮かべていた。
母は頑張っていた。
以前にも増して懸命に働くようになった。
早朝から深夜まで、複数の仕事を掛け持ちして、家では家事をこなす。
懸命に努力しているのが、子供ながらに伝わった。
だが————その稼ぎも元父親に奪われていたようだった。
母が隠そうとしても、軽い財布や、電気を止められそうになる督促状から、状況は容易に察することができた。
それでも母は決して諦めず、私と二人で幸せに暮らすために、歯を食いしばって頑張り続けていた。
夜中にこっそりと泣いている母の姿を見つけても、私は声をかける勇気を持てなかった。
だが、ある日————
「おいガキ〜〜! 今日はてめえに用があんだ! 早く出てこい!」
「双葉、逃げなさい! 早く!」
金に困り果てた元父親が、ついに私を売り飛ばそうと考えたのだ。
母は血を流しながらも、その巨体に立ち向かい、必死に私を守ろうとしていた。
「早く逃げて!!」
母の絞り出すような叫び声に背中を押され、私は家を飛び出した。
大好きだった小さな家から、世界で一番大切な母の元から、自分だけが逃げ出したのだ。
振り返ることもできずに、ただひたすら走り続けた。
ただ————自分だけ助かろうと、お母さんを見捨てたのだった。
全てが終わって家に戻った時、母は既に救急車で病院へ搬送された後だった。
頭部を激しく打撲し、重篤な障害を負ってしまったと医師から告げられた時、私の世界は音を立てて崩れ落ちた。
元々の心因的なストレスも影響したのかもしれない。
全身麻痺、ロックトイン症候群————
大好きなお母さんは、感情のない、物言わぬ人形のようになってしまった。
私が話しかけても、好きだった笑顔は、見せてくれなくなってしまったのだった————
私が逃げたことの代償は、あまりにも重く、取り返しのつかないものだった。
母の笑顔も、温かい抱擁も、もう二度と戻ってはこない。
でも————だったらどうすればよかったのだというのだ。
あの時、お母さんに逆らって、元父親と一緒に戦えばよかったのだろうか。
「違う……あれは……私のせいじゃない……」
『お前の母親がああなったのは、お前が弱かったからだ。弱かったから、逃げるという選択しか取れなかった』
「そんな……」
そんなこと言ったって……
あの時の私には他に選択肢などなかったじゃないか。
弱い私に何ができるというのだ。
大の男に立ち向かえるはずもない。
『そうやって逃げて、また大切なものを手放すのか?』
「そうじゃない……そんなこと、したくない……」
クロを見捨てたくない。
せっかく私を助けに来てくれたあの子を、また一人で置き去りにするなんて。
そのせいで、もう二度と会えないかもしれないのだ。
でも、今の私じゃ————
『————俺がお手本を見せてやる』
別の誰かがそう語りかけた時、記憶の深層から新たな光景が浮かび上がろうとした。
輪郭はぼんやりとしているが、確かに希望に満ちた温かな記憶だった。
とても力強い————戦士の手が、私に差し伸べられたような————
そんなイメージが、私の中に浮かび上がった。
『俺に任せろ』
「分かったよ……」
私にはこの絶望的な状況を打開する力はまだない。
しかし、この声の主に全てを委ねれば、きっと道は開けるはずだ。
それが本能的に分かっている。
理屈ではなく、魂の奥底からそう確信できた。
「助けて……おにいちゃん……!」
その瞬間、マリーの意識は途絶えた。
読んでくださりありがとうございます。
主人公がこの先どうなっていくのか、ぜひこれからも見守ってあげてください。
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